お世話になった先生へ宛てた母の手紙より。
拝啓
季節は秋から初冬へと移って行きます。
私の大好きなコスモスが盛りの10月9日に健吾は旅立ちました。コスモスが風に揺れると癒された気がしました。そしてコスモスの優しさ・強さが健吾と重なります。
一見すると弱々しいイメージの花ですが、台風のような強風に細い幹をしならせて、倒れそうなのに持ち堪えてしまう、そんな雰囲気が似通っていました。
H19年8月4日 静岡市の健康講座にお越しの際に、健吾の事を相談に乗っていただきありがとうございました。H19年8月15日に経過をお便りさせていただいたと記憶しています。
その後、先生から直筆のおはがきをいただき感激しました。
『・・・すごい子です。 サッカーと仲間は宝ものですね・・・』
そのはがきは棺に入れました。健吾にとって、サッカーと仲間は、本当にかけがえのない宝物でした。そして無形であるそれらは、あちらの世界にも持参できたと思います。
病とわかってから、旅立つまでに何度かピンチがありました。その度に乗り越え命を繋いできました。
健吾は自分の生き方に誇りを持っていました。
そして治ったら本にする気持ちでいました。映画やドラマになったら主人公は自分が演ずる、冗句とも本気とも受け取れることを言いました。ですから一層、最期の時まで、燃え尽きるように生きたのかもしれません。
ご多忙な先生宛に、大変恐縮しますが、その後の出来事をお伝えしたいとペンを執りました。
H19年8月15日 彼は私に、どうしても言っておきたい事があると言います。
『母さん、今迄サッカーをやらせてくれて、ありがとう。ホント母さんには感謝しているよ。』
『こんな事は言いたくないけど』と前置きをして、・・・『もしもオレが死んだら、母さんは病気の事を自分のせいだと自分を責めると思う。だけど、絶対オレの後をついてきちゃダメだ。約束してほしい。』と、指きりさせられました。
《 Jリーガーが、お見舞い 》
8月17日にJリーガーが健吾の個室を見舞ってくれました。Jリーグチームでは、一番近いジュビロ磐田の鈴木秀人選手<ゼッケン2>でした。
8月15日試合中に右目を負傷して、健吾と同じ総合病院に入院してきました。サッカー好きな学生がいると言う事を、耳鼻科の先生やスタッフが伝えてくださり、ご好意により実現したものです。
健吾はかなり驚きそして喜びました。
痛みを忘れ頭がボーッとなり、到底立ち上がれるような状態ではなかったにもかかわらず、
立ってしかも笑顔で写真撮影しました。
本当に心の力は常識をはるかに超えます。
現役のJリーガーが自分を見舞ってくれ言葉を交わすなどは、夢の夢・・・まぼろしです。
いきなり現実に起きたとはあの子にとって、一番ステキな夢を見た心地でしょう。
秀人さんは実に優しい人柄で、心から健吾を心配してくれました。その後も何度か足を運んでくださいました。
《 9月8日〜10月7日 自宅にて 》
9月になると、自宅に帰りたくなる。しかし、痛みや体調の加減で、なかなか外泊許可も下りません。9月8日にやっと許可が出て自宅で眠る。「もう、病院に戻りたくない。」と語る。
9月10日 病院での診察時に、本人の希望により、退院させてほしい旨を伝えて実現する。
9月16日(日)高校選手権の応援に、静岡市清水区三保へ。 南校対清水東戦観戦。
南校が破れ、残っていた3年生4人も引退。
行きはマイカーでやっと行きました。帰りには南校から3年生バスが出ていた事を知り、そのバスに乗りたがり実現しました。3年生の部活仲間と共に居ることが、最高の幸せ。
【自分は、何も語らなくても、そばにいて皆がワイワイしゃべっているのを聞いている、ただそれだけでいい。】が生前の口癖でした。
入院中、健吾が「仲間全員にあげたいから」とお願いした30人分の秀人選手のサインをバスから降りて手渡しをする。この時、自分の役目を果たしたような満足感があふれていました。
秀人さんに訪ねていただいた時不在で、健吾が残念がったと伝えると、ジュビロのクラブハウスに、招待していただいた事がありました。
9月18日 午前 健吾の大好きな中山雅史選手や、川口能活選手、また日本代表の前田遼一選手等、たくさんの選手が一人一人握手をしてくださり、ボールに全員がサインをくださいました。チームの仲間に頭を下げて話をしてくれたのは、秀人さんです。
こんな事は、長く人生を歩んでもそうそう起きうる事ではありません。
たくさんの方々の温かいご好意に本当に感謝しています。
また、同日9月18日 午後 精神的・肉体的苦痛の中、ご祈祷したお水をいただくと和らぐようなのでご祈祷を受ける。
そこで、自分の命に繋がる先祖供養の重要性を聞きました。彼一人で階段を下りる事がなんとか可能だった間は、毎朝お務めとして真剣に手を合わせ、お線香をあげていました。また姉弟にも先導して教えていました。お線香の煙は供養になると聞いています。
亡くなる2日前に、自ら来店し購入したジーンズが、自分の旅立ちの服装となりました。
他に、秋葉原のお土産ピンクの萌えTシャツ・オランダに着たパーカーと、本人が揃えて動物園にも着て行きました。
秀人さんが試合に使用していたロゴ入りのユニホーム < 健吾くんへ >と書かれたサイン入りのものを棺に入れました
自らも男児の父である秀人さんも、さぞ心を痛めたことと思われます。
シーズン中のご多忙の中、健吾に夢をあたえてくださりありがとう。
健吾に成り代りお礼を言わせていただきます。
《 10月8日 亡くなる前日 》
朝は、バケツをひっくり返したような大雨でした。
午後になり雨が上がり、大観覧車の最上で写真撮影したいと、かねてよりのリクエスト。
豊橋市の二川動物園に、父母と彼の3人で出かける。最後の小さな旅でした。
動物園からの帰路、体がしんどそうに見えました。
帰宅すると、「母さん、着替えて、トイレ行った方がいいよね。」と確認し済ませて、ベッドに横になる。
救急外来に行くことも、勧めましたが痛いわけではないからと、はっきり言いました。
真夜中 10月9日に日付が変わり、ベッド両側に両親が床をしき見守っていたが、急に心拍数が減り、心臓停止。すぐに、救急車を呼ぶ。・・・・・・昇天。
結局、健吾は全ての事を、自分で片付けていきました。
私たちに、世話をかけない形でした。
また、死の直前までその気配を感じさせませんでした。
きっと彼には、旅立ちがわかっていたと思います。
何も語らず眠るように旅立ったのは、私たちに対する深い思いやりだったと思います。
彼が望んでいたように、自分のベッドから旅立ちました。
健吾が苦しい時、私は彼に言いました。
「健吾は、母さんの大事・宝物・ありがとう」と・・・。
彼自身が、この言葉を繰り返すことにより、不思議と事態は改善されました。
入院中は、何度も遭遇しました。
彼の精神的、肉体的苦痛を目の当たりにして『母さんは、あなたと別れるのは、本当はイヤだよ。でも、自分の人生なのだから、好きな方を選べばいいのだよ。逝きたくなったら、母さんは止めないからそうすればいいよ』と、彼に伝えました。親が子供に執着する気持ちを解き放そう。それで健吾が抱えている物が少しでも軽くなるならと考えました。
私たちは、知った情報や限りある財源の中で、思考を重ね思い付く範囲の事は、真剣にかつ前向きに取り組んできました。それについては悔いのないつもりでも、至らなかった事を点検したりします。
全てと思われる事をして、結果健吾は旅立った。
ですから彼は本来宇宙の中に、かぐや姫の如く召される人だったと感じます。
そして、私という不出来な母を選んで生まれてきたのだと思います。
人は生まれる前に、自分の人生のシナリオを書いて、それを消してから生まれてくる。
だから内容は忘れてしまうのだそうです。
彼は劇的な人生のシナリオを書いて生まれてきたのかと思います。
先生に、お礼を言わせていただきたい事があります。
先生の本に出会って”魂のケア・心の喜び・看護の姿勢”について、学ぶ事がたくさんありま
した。
また、日本の現代医学の医師の方で、温かいハートのある思想の持ち主が、いらした事が
私には大きな励ましとなりました。
【がんばらない】・・・できそうで、その実 難しい言葉です。
本当にありがとうございました。
通夜・告別式には、大勢の人が健吾の所にお別れに来てくれ、長蛇の列となりました。
私たち夫婦は、人の多さにただ驚くばかりでした。
健吾の気持ちになって考えた時、彼の大切にしていた部活仲間に彼の骨を拾ってもらう事を思いつきました。最期まで自分の事を認めてもらっていた仲間に、見送ってもらえました。
病にこそなりましたが、いろいろな意味で恵まれていたことも事実です。
彼の周りには、現代の住みにくい世相とは裏腹に、常にステキな友達がいました。
途中から授業に出ても、その回りを友達が囲んでくれた事を伝え聞いています。
休んでばかりいた彼がたまに登校した時、またいつ来るかわからないのに、大切なノートを貸してくれたこと涙が出ました。ありがとう。
納骨が済んだ今も友人達が、彼が亡き自宅を訪ねてくれ線香をあげてくれます。
親にも口が重たい年頃の彼等が、学校から我が家が近いとは言え、なかなか勇気の要ることです。
高校生である彼等が、精一杯考えて個人や仲間で、健吾と言葉を交わします。
【自分は、ただ話しを聞いていて、その中にいるだけで満足】と生前言っていた事を伝えて、お線香が消える位まで、それぞれの形で過ごしていってくれます。
私は、本当に頭が下がります。私たちができない供養をこの子達がしてくれている。
私たちの哀しみを、この子達が分かちあってくれていると感じています。
訪ねてくださる全ての方に、幸いあれと願わずにはいられません。
あ り が と う
短い一生の健吾でしたが、濃縮された時間を過ごしたとも思います。
私たちは、健吾を育てたことに誇りを持っています。
彼の闘病を通して多くの事を学びました。また苦しい中にも、通常到底味わえないような感動を与えてくれました。
私たちの所に生まれてくれてありがとう。
彼の病を通じて、人々に出会いその心に触れて感じたのは、この世の中はまだ多くの心ある人が存在するという事でした。
健吾の事を知った多くの人が我が事のように真剣にとらえ支えてくれました。
事情を知った人の苦しみは、決して楽ではなかったと思います。
自宅より近距離に学校が存在した事もあり、17年間過ごしたのは小さな円の中でした。
遠出したのは、高校2年・部活遠征で行ったオランダでした。
当時の楽しさ・喜びが、最後まで彼の支えとなりました。
4年後に部活仲間と行く約束のオランダの事を夢見て旅立ちました。
常に陰で支えてくださった方々の配慮のおかげで、最後まで彼の意志に近い形で病の事が拡がらずに、また友人の励ましを受けながら、前向きに生きることができました。
感謝しています。
亡くなる数日前に、「卒業式を見てみたい。仲間が卒業して行くところを、ただ見守りたい」
と言い遺しました。
また、「今迄生きてきて、出会った全ての人にもう一度会いたい。そして“ありがとう”が言いたい。」とも言いました。
私たち親子に関わった全ての方に“感謝の気持ち”をお伝えしたいと願っています。
長い手紙に、目を通してくださり感謝しています。
最後になりましたが、先生のご多幸をお祈りしています。
敬具。