御床山南西防空砲台跡(厳島聴測照射所跡)


 宮島の南西端にある御床山から連なる尾根筋を下っていくと標高230mの山頂に至る。この尾根筋には本土空襲に備えて防空砲台が設けられており、今回の探査で砲座跡、指揮所跡、兵舎跡、水槽などを確認した。時間的な制約で探査範囲が限られたが、雑木や腐植土の下にはまだ多くの遺構が残されているものと思われる。
 現地に行くには多々良林道から先峠、岩船岳、御床山と尾根道を延々と歩き、御床山からは膝から腰下まであるシダ・イバラの繁茂している雑木林の中を藪こぎしながら探査をするというかなり超ハードなコースである。探査を終えてシダ・イバラの藪こぎを脱してからも帰路の尾根道は長く、奥の院南の標高502m峰がはるか彼方に見えて足取りは重く、やっとのことで多々良林道に到達し往復8時間を要した辛苦の探訪であった。(桟橋からだと往復2時間30分プラス必要である)(H18.3.11探訪)

 先に確認した砲台遺構周辺部の探査と兵舎跡にある数棟の基礎位置を計測するために再度探訪してみた。今回は遺構の位置も確認するためにGPSを持参して計測・探査しながら砲座跡到着で疲労困憊。帰路のことが気になり最大の目的であった兵舎跡の計測は、倒木、雑木と厚い腐植土で意欲喪失し目的完遂に至らず撤退する。今回も往復8時間を要した辛苦の探訪であった。(H18.4.18探訪) 
 
 周南市戸田にある昇仙峰の山頂にある防空砲台(戸田聴測照射所跡)を探訪したところ指揮所跡、砲座跡、水槽跡などは御床山南西のものと形状・寸法などほぼ同じであり、標準設計図があって地形に合わせて設置していったものと思われる。昇仙峰には石積みの探照灯台があることから御床山南西の230峰付近に探照灯台があるものと思われるが確認できていない。 


 厳島聴測照射所(厳島聴音照射所・厳島特設見張所・厳島見張所・厳島照聴所)              平成22年12月21日記

 
昭和16年(1941)12月8日未明に真珠湾在泊中の米国艦隊を攻撃して太平洋戦争の火ぶたが切って落とされた。同日の機密呉鎮守府作戦命令作第75号により兵力部署等の発令で厳島・甲島聴測照射所などが呉陸上防備部隊に編入され、第4砲台群に所属して大須山・鹿ノ川防空砲台の一翼を担い呉軍港などの軍事重要施設の防衛援護をしていた。(別図参照)これより先の11月20日海軍警備隊令が制定施行し呉海軍警備隊が開隊して呉陸上防備部隊の第4砲台群に大須山・鹿ノ川防空砲台が配備されたが厳島・甲島聴測照射所は配備予定とされていた。

 呉陸上防備部隊の任務は「軍事行動重要施設等ヲ掩護シ対謀防備ニ努メ軍機ヲ保護シ治安ヲ維持スルト共ニ対空防備警戒ヲ厳ニシ軍港及要港ノ防空ニ任ズ」とされていた。

 厳島聴測照射所は昭和17年(1942)2月から3月にかけて工事が行われたものとみられ、4月には指揮官として兵曹長山本吟市、下士官兵−臨時勤務員19名(兵科15名、機関科3名、主計科1名)が配員された。装備は4月25日に96式150mm探照灯(陸上用)1基、96式管制器(陸上用)1基が完備したが、聴音機は未完成であった。

 6月から7月にかけて桟橋が築造中とあるが12月10日の官房機密第15229号で桟橋新設工事の要領変更がされているので完成時期は不明である。7月には指揮官として兵曹長山本吟市、下士官−定員2名(兵科1名、機関科1名)、臨時勤務員4名(兵科4名)、兵−定員3名(兵科1名、機関科2名)、臨時勤務員11名(兵科10名、主計科1名)が配員された。装備は前述の探照灯、管制器のほか仮称エ式空中聴測装置1基、山岡式40Kwデーゼル発電機1基が完備した。

 8月には前述のほか12mm望遠鏡1基、7倍稜鏡4基が完備し、海軍電話が呉鎮指揮所と直通となった。昭和18年(1943)6月9日以後厳島特設見張所に警戒隊6名(准士官1名、下士官5名)を派遣して附近沿岸の見張、警戒、防諜の任に就いた。厳島見張所長(厳島照聴所長)として名が見られるものは昭和17年10月から翌18年12月まで太田寛、昭和19年1月から9月まで水口重太郎、同年10月から12月まで高島安正、昭和20年2月に石川侃二郎の名がみられる。

 厳島聴測照射所の実稼働は昭和20年(1945)7月1日にB29の約100機来襲に際して、(別図参照)当日の天候は小雨模様の曇天であり爆音のみの聴取で、00:02爆音1機北西進、00:25爆音北進、00:44爆音1機西進のみの記録でありほとんど役に立たない施設であったようである。しかし、当日の来襲に際しての所見には「敵ハ我ガ照射機関ノ有無ニ関ラズ「レーダー」装置ニヨリ相当ノ精度ヲ以テ爆撃シ得ルヲ以テ我ガ照射機関ノ暴露ニ依リ敵ニ利スル所ハ殆ンドナカルベシト認ラルヽヲ以テ今後ハ積局的ニ照射機関ヲ使用シ之ガ捕捉ニ努ムルヲ要ス」とある。

 同年8月15日太平洋戦争の終結に伴って武装解除されイギリス連邦占領軍(BCOF)に提出したとみられる9月1日付けの兵器軍需品施設等引渡目録によると96式150mm探照灯(附属品補用品共)1基、同管制器1基、電動直流発電機1基、仮称エ式空中聴測装置(附属品補用品共)1基、ヂーゼル交流発電機陸上用40KVA220V三相60KVA配付1基、石油空気圧縮筒2馬力1基、兵舎1棟、其の他附属施設4棟がみられるのである。

 探査した当時砲座と円形遺構としていた遺構は、向道村聴測照射所、戸田聴測照射所の円形遺構配置とアンカーボルト本数やアンカーボルト群直径などからみていくと、230m峰の円形遺構は空中聴測装置の基礎で234m峰のものは探照灯の基礎とみられるのである。いずれの聴測照射所も空中聴測装置は雑音の生じる施設群より離れた位置に設けられているのである。



                    

                    

出典 アジア歴史資料センター・呉鎮守府戦時日誌・呉海軍警備隊戦時日誌・呉海軍警備隊戦時日誌戦闘詳報・兵器軍需品施設等目録−呉海軍警備隊−引渡目録

※ 遺構を探査した当時は資料閲覧の困難さがあって調査が進んでおらず防空砲台とみていたが、資料閲覧が容易になってこれらを見る限り探照灯、空中聴測装置、望遠鏡などを装備した聴測照射所であったようである。当遺構の紹介、調査、研究の変遷を知るためにサイト記述は修正せずにそのままとする。

 御床山より少し下った展望岩(標高345m)より標高230m峰方面の砲台跡を遠望する。展望岩から標高230m峰までの直線距離は約520mであるが、藪こぎ距離は倍以上あるだろう。標高230m峰ピークに砲座があり手前の標高234m峰との鞍部に指揮所跡の建造物がある。御床山から連なる尾根筋と標高234m峰の鞍部を掘削した平地に兵舎跡がある。その手前の尾根筋に水槽2基が点在している。註−標高234mはGPS計測値であり樹木の繁茂で誤差があるので正確ではない。
 御床山南西防空砲台跡の概略配置図である。GPS計測値は樹木の繁茂で誤差があるので配置図は正確ではないが、あまり大きくはかけ離れてはいないと思う。第一水槽から砲座位置まで直線距離約200mであり、その間に遺構が散在している。

 遺構部分をクリックしてください。
 標高230mヶ所に高射機関砲が設けられたものとみられ、砲座が残っている。砲座は円錐台形で下部の直径105cm、上部直径88cmで9本のアンカーボルトで高射機関砲を固定していた。コンクリート砲床の一部が見られるが厚い腐植土に覆われて詳細は不明である。
 砲座があるところの周囲は土塁状に高くなっているが、雑木や厚い腐植土で詳細は不明である。
 指揮所跡建造物の西壁面で、窓には今でも木製の窓枠が残っているところがあった。壁体は煉瓦積でモルタル仕上げとしてある。
 建物の周囲には3ヶ所の雨水水槽が設けてある。
 指揮所跡建造物の東壁面で、屋根や出入り口の庇は劣化して剥落している。
 屋根上は擬装のために土が載せて雑草が茂っている。屋根上には望遠鏡が設置されていたようで現在アンカーボルトが残っている。天井の開口部からと橋を渡って監視していた。
 北室の内部で腰壁はモルタル仕上げ、上部は漆喰仕上げで天井が張られていたものと思われる。窓下部には換気口と上部にはストーブの煙突穴がみられる。
 天井には穴が開いており、壁面に垂直梯子が取り付けてあったものとみられ、屋根上には望遠鏡が設置してあった。
 北室の北面で間仕切り跡がみられ天井も低く、小部屋を二つに区切られてカウンター状の跡がみられる。
 指揮所跡建造物の現状平面図である。痕跡があるので間仕切りは推定出来るのであるが表示は略す。北室には小部屋の痕跡があり、南室にも間仕切りの痕跡と機器を据付けていたような基礎が三基見られる。周辺には大理石の破片も見られるので、比較的程度の良い仕上げがしてあったものと思われる。
 昇仙峰防空砲台跡(戸田聴測照射所跡)のものと形状・寸法などほぼ同じである。
 指揮所跡建造物の南側に隣接して便所(2.26m×1.24m)があった。
 指揮所跡建造物の北東側約5mの位置に巾約1.8mの石積みがありここから指揮所屋上に橋が架けられていた。
 指揮所跡建造物と兵舎跡の中ほど標高234m峰のピークに円形状の不明遺構がみられる。内直径210cmで周囲を50cmの厚さの壁があり一箇所口が開けられている。周辺には不自然な凹部が数ヶ所あるが厚い腐植土に覆われており何の施設か不明である。
 兵舎跡は尾根筋を掘削して平地(約40m×長辺約30m・短辺20mの台形状)を造っており、炊事棟などのほか数棟の建物があったものとみられる。雑木、倒木と厚い腐植土で詳細は不明である。北側斜面には2か所の防空壕が残っている。
 炊事棟とみられる建物は9m四方とみられ、一角には流し台やカマド跡がみられる。
 右手に流し台があり正面にカマドが2基並んで残っている。建物の外側に煙道があって煙突が立っていたのであろう。
 炊事棟の隅には大きな便槽が残っており、かなりの人数がいたものと思われる。
 兵舎跡の敷地には多くの礎石や築造物がみられるが、どのようなものがあったのか不明である。
 兵舎跡の敷地には多くの礎石や築造物がみられるが、どのようなものがあったのか不明である。
 二番目の水槽で3つの槽(大3.30m×?、深さ2.70m、小1.50m×2.10m、深さ0.70m−2か所)に分けられている。尾根筋にある水槽でありどのようにして集水していたのであろうか。壁上にはアンカーボルトが見られるので木造の屋根があったものと思われる。
 昇仙峰防空砲台跡(戸田聴測照射所跡)のものと形状・寸法などほぼ同じである。
 御床山から下っていくと最初に見られる水槽で内寸法2.46m×3.46m、深さ1.80mである。壁上にはアンカーボルトが見られるので木造の屋根があったものと思われる。
 昇仙峰防空砲台跡(戸田聴測照射所跡)のものと形状・寸法などほぼ同じである。
みやじま地区点描