タイトル | : 感想>「乱視読者の帰還」 |
記事No | : 1073 |
投稿日 | : 2006/05/22(Mon) 12:30 |
投稿者 | : くれい爺 <
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「乱視読者の帰還」 若島 正
帯に「B級ミステリからナボコフ、ジョイスまで、若島正はあらゆる小説を貪り食う。その味わい方は知的でありながら官能的、論理的に精緻であるとともにすこぶる人間臭い。この本を読んだら、あなたの小説の読み方はーそして世界の見え方はーもう二度と元には戻らない。」と柴田元幸の書評が書いてある。 小生はちょっと斜め読みしただけなので、感想というのもおこがましいのだが、読もうという気力が失せたので、ここでちょっと一言。 読書の仕方は人それぞれなのだが、こういう読み方って楽しいのかなという気がした。 ナボコフでいえば、小生は作品を読んでいないので何とも言えないが、読むとすれば自慰小説としてであろうか。 それでよいとも思うし、また、それだから読まないとも思うのだ。 クリスティーの「そして誰もいなくなった」が検証されているが、こちらももういいかなっていう感じだ。 若い頃は小生も本格推理小説をこんなふうに読みたいと思っていたのだが、歳を経るにしたがってこういう読み方が無為に思えてきた。 それにしたがって、ミステリを読むのも、ハードボイルドや警察小説などの比重が大きくなってきていると思う。 本格推理も含めて、ミステリ、いや小説や本というものを感性、あるいは感覚で読んでしまってよいのではないかと思うようになってきた。 「そして誰もいなくなった」でいえば、犯人探しの論理よりも、作者の設定した全体、マザーグースの歌にしたがって連続殺人が起こるという設定そのものに魅力を感じる。 つまり、論理の緻密さというのには、それほど魅力を感じなくなってきている。 ゆえに、たぶん好きな作品の中に有栖川有栖の「双頭の悪魔」やほとんど触れられることない森真沙子の「放課後の記憶」や本岡類の「鎖された旅券」、綾辻行人でいえばみなさんに散々だった「霧越邸殺人事件」などが入ってくるのだろう。 論理も含めて、作品全体に感じるものがあるかどうか。 論理の正確さも感覚の域での正確さでよいのではないかとも思う。 林真理子などに指摘された「半落ち」の欠点も、作品全体の構成から考えれば、そう大きなものと思えなかったのも、そんなところからなのだ。 そして若島正には若島正の読み方、楽しみ方があるのだ。 が、小生の読み方も変わらぬであろう。
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