人工内耳友の会−東海−
装用記

人工内耳友の会[ACITA]会報 36号(1997年2月発行)より
不満足?でも役に立つ!
    塩田 辰樹(正会員:神奈川)

 私が失聴したのは、約四年前の平成四年十一月です。薬の副作用によるものでした。その一年前の平成三年の十月に、左足の膝の近くの骨にできた腫瘍の切除手術を受けました。経過は非常に順調だったのですが、手術の一年後に再発を防ぐために入院して点滴した抗腫瘍剤の副作用が強く出てしまったのです。肝臓、腎臓などの各種の機能障害とともに内耳にも障害を受け、その薬を点適した直後から徐々に聴力が低下し、三日間位でまったく聞こえなくなってしまいました。そのときには全身状態も非常に悪く、聴力を回復させるための治療は受けることができず、身体の機能が回復に向かい始めた一カ月後くらいにようやく、薬による治療を受けました。その後、肝臓、腎臓などの機能はほぼ回復し、元気になることができたのですが、聴力はまったく回復してくれませんでした。三カ月後に退院することができましたが、担当の耳鼻科の先生の話では聴力は今後回復する可能性はないだろうとのことでした。
 ちょうどその入院していた病院が人工内耳の手術を日本で最初に始めた東京医科大学病院だったこともあり、人工内耳の手術を受けるのが一番良いのではないかと言われたことで、人工内耳というものがあることを知りました。しかし、治らないだろうと言われても「そうですか」と簡単にあきらめられるはずもなく、いくつかの大学病院などを受診して相談しましたが、どこも答えは同じで、少しでも聞こえるようにするためには人工内耳しかないだろうとのことでした。その問に、[ACITA]の会報や、体験談をまとめた「よみがえった音の世界」、開発の経緯などが解説されている「人工内耳のはなし」などを読むことにより、人工内耳について自分でも勉強し、自分は人工内耳の手術を受けるべきかどうかを考えました。現在の人工内耳は完全に聞こえをとりもどすことはできない不完全なものであり、それを付けるためには片側だけであるにしろ、耳の組織を切開しなけらばならないことも知りました。そのように不完全なものを埋め込むために耳を切開することに対して批判的な医者がいることも知りました。
 人工内耳手術を受けることを決める前に考えたことは、金銭的な問題、副作用の問題、耳を切開してしまうと元には戻せないこと、どの程度役に立つのかということでした。金銭的な問題は大きく、今では健康保健が適用され患者の負担はほとんどなくなっていますが、当時は高度先進医療に認定されているのみで、三百万円以上の費用が必要でした。副作用は確率は低いものの、おこる可能性はあり、自分は運悪く失聴してしまったから今度もまた…と考えてしまいました。耳を切開することは、片耳だけにしろ、回復する可能性を自ら完全に断つことになります。また、今の人工内耳は完全なものではなく、手術をしても難聴者であり健聴者のようには決してなれない程度のものです。このような諸問題があったにもかかわらず、私が手術を受けることを決めたのは、やはり、少しでも聞こえるようになりたい、聞こえるようになる必要があると思ったからです。
 失聴後、私のコミュニケーション手段は筆談でした。筆談でも相手の好意により、結構コミュニケーションできるのですが、やはり、言うより書くほうが遅いので相手からこちらへ伝わる情報量は減ってしまいます。また、歩いているときや手を離せないときのように、場所や状況によっては筆談は非常に難しい場合があります。このようなことから、少しでも、コミュニケーションが楽になるのなら、完全なものでなくても役に立つと考えるようになりました。妻とのコミュニケーションも彼女は少しも面倒がらずに筆談をしてくれていたので、問題ない程度にコミュニケーションはできていると思ってはいましたが、少しでも普通の会話ができるようにしてあげたい、という気持ちがありました。
 もう一つ私に手術を受けることを決めさせたことは、仕事の問題です。私の仕事は製薬関係の研究職です。失聴後、職場復帰は果たしていたものの、物音が聞こえないと危険だということで実験はできず、デスクワークをしていました。実験ができなくては研究者としてやっていくことはできず、そのままでは別の部門に移らざるを得ない状況でした。しかし、耳は聞こえないとはいえ、人間が変わってしまったわけではなく、以前と同じように研究を続けられる自信はありました。そこで、音を取り戻すことができる人工内耳は私には是が非でも必要であったわけです。
 以上のような理由で失聴後半年という短い期間で人工内耳の手術を受けることを決め、適応を判断するための検査を受けました。主には、聴神経が生きているかどうかを調べる電気刺激検査と、人工内耳を埋め込むために構造的に問題がないかどうかを調べる、X線写真、CT、MRIの検査ですが、どちらも問題なく、構造的により手術がやりやすそうだということで左耳に手術をうけることが決まりました。私の場合、腎機能が完全に正常な状態までには回復しておらず、全身麻酔に耐えられるかという問題がありましたが、それも大丈夫だということでした。また、そのような身体的な適応に加えて、精神的な面も重要で、人工内耳では完全に健聴者にはなれないので過度に期待しすぎないこと、手術後のリハビリ訓練が非常に重要であることなどを正しく理解するようにとの説明もありました。
 そして私は平成五年七月十二日に手術を受けました。頭の手術であり、頭蓋骨も少し削るということで、怖い気がしましたが、痛みを感じることもなく、翌日にはもう歩くことができました。心配した副作用も幸いになく、手術後二週間で退院をしましたが、この時にはまだ外部装置を付けていないので音は聞こえません。退院後、一週間で「音入れ」と言って、外部装置、すなわち、このヘッドセットとスピーチプロッセッサを初めて付けて調整をします。その音入れまでの期間は「本当に音が聞こえるのだろうか」、「聞こえなかったらどうしよう」ということを考えてしまい、「だめでもともとじゃないか」と自分に言い聞かせてはみるものの非常に不安な気持ちでした。八月二日「音入れ」、調整のための最初の信号音が″ピー″とはっきり音として聞こえたときには涙が出た、というほどではなかったですが、とても安心しました。そして調整後、先生の声や紙をくしゃくしゃにする音などを聴きました。この音が予想していたこととは言え、変な音で、ロボットがしゃべるように電気的で、スピーカーが壊れかけたラジオを聴いているような、そんな音でした。それでも、先生や妻の言葉はほぼ理 解でき、真の声は以前に聴いていたのとほぼ同じ様にきこえました。すべての音が最初は変な感じがするのですが、だんだん自然な感じになってきました。もの音も靴音や、水の音、車のウインカーの音などそれらしく聞こえるのは不思議なものです。紙がこすれる音がほかの音より大きく感じ不快なのですが、先生の説明では、紙の音はそれだけ大きなエネルギーを持っているからなのだとのことでした。
 その後、半年は、一週間か二週間に一回位のペースで病院で聞き取りの訓練、家では先生にいただいた宿題を妻に読んでもらっての聞き取りの訓練、というリハビリが続きました。慣れるとともにだんだん聞き取りやすくなってくるようで、先輩方の助言では、二年くらい経つと大分よくなるとのことでした。
 さて、私も音入れ後三年半になりますが、どの程度役に立っているか、どの程度しか役に立たないのかをお話ししたいと思います。人工内耳による言葉の聞き取りはまわりの環境に大きく左右されてしまいます。家の中のように静かな環境では、多少聞き返したりはする必要はあるもののほぼ普通に会話をすることができます。従って家庭内での妻との会話はかなり、失聴前に近い状態になっています。しかし、電車の中、デパートの中、車の中など、まわりがうるさい場合には極端に聞き取りにくくなります。これは、人工内耳では普通の耳のように音の区別がつかないためです。しかし、まったく会話ができなくなるわけではなく、スピーチプロセッサを調節して、音量を小さくし、耳のマイクの近くでしやべってもらったり、外部マイクを接続して、マイクを持ってしやべってもらうことによって静かな場所と同じようにとまではいかないもののある程度会話することが可能です。私は宴会の時などこの外部マイクをよく使っています。最新型のスピーチプロセッサ「スペクトラ」では、以前のものより騒音下での聞き取りが多少改善されました。また、話す人の声の質、話し方、イントネーションなど によっても聞き取り具合が左右されてしまいます。概して話し慣れた人のほうが聞き取りやすいのですが、話し慣れても聞き取りにくい人や、初めてでもよく聞き取れる人がいます。こればかりはどうしようもありません。
 人工内耳による言葉の聞き取りは頭で聴くという感じが強いと思います。人工内耳による音は残念ながら似通った音をはっきり区別することはできません。たとえば、「咲く」と「掃く」などのように似ている言葉はそれだけを聴いたのでは区別しにくいのです。しかし、話し手の唇を見て読話と併用したり、文の中での前後の意味から頭で判断することにより理解することができます。「桜が」とくれば「咲いた」ですし、「ほうきで」とくれば「掃いた」というようにです。
 テレビは普通に聴いていたのではほとんどわかりませんが、イヤホンジャックなどからテープに録音するときのように直接スピーチプロセッサに導くことによりニュースなどはっきりとしゃべられている言葉は理解することができます。しかし、お笑い番組などはまわりが騒がしい場合が多いのであまりわかりません。ドラマはその場面の環境により、わかったり、わからなかったりします。電話はよく知っている人となら、簡単な会話はできますが、普通に話すことは難しいです。これは、相手の声がはっきり伝わらないこと、読話が使えないことが原因です。こういう状況なので、私の耳の状況をよく知らない人に電話をかけることはしていません。音楽は残念ながらドレミファソラシドが全くわからないのでメロディーを楽しむことはできませんが、リズムはわかります。カラオケは全く聞こえないよりも歌いやすくなるのでは、と期待しましたが、人工内耳をつけると変な音が聞こえるのでかえって歌いにくくなりました。車の免許はクラクションが聞こえるので、更新することができました。
 会社では、周りの音が聞こえるようになったので実験もできるようになり、失聴前と同じように什事ができるようになりました。しかし、難聴者であるハンディは残ります。一対一でのディスカッションはあまり不自由なくできるのですが、多人数の会議の内容はある程度はわかるものの完全に理解することはできず、学会、講演会などの言葉も少しわかれば良いほうという程度です。しかし、少しでも改善するために、外部マイクや、ワイヤレスのマイクを使うなどの工夫をしていますし、これからも努力していきたいと考えています。
 以上のように、私の場合、人工内耳は静かなところでの一対一の会話では非常に有効ですが、環境が悪くなるに従って、言葉はわかりにくくなります。しかし、悪条件下でも全くゼロに等しくなるわけではなく、言葉は理解できなくても音は聞こえるなど、利点もあります。音が聞こえることにより、車の運転も可能になるわけです。また筆談は全く使わなくなりました。体への影響に関しては特に問題はないのですが、人工内耳の手術の半年後に激しいめまいに襲われたことがありましたし、肩から首にかけてがこりやすく頭痛がしやすくなったように感じています。これらと、人工内耳との因果関係は不明です。頭痛に関してはもともと頭痛持ちでしたし、肩こりも年のせいかもしれません。手術で切った周囲は初めはしびれた感じがありましたが、半年位で徐々にとれていきました。
 人工内耳はまだまだ開発途上で、満足できるレベルにはないのです。不満がいっぱいです。それでもこれを使っている場合と、使っていない場合では、雲泥の差があると思います。現在の人工内耳を役に立つと思うか役に立たないと思うかは、その人の考え方、生活環境などにより大きく左右されると思いますし、副作用の可能性など、マイナス面もあります。したがって、私は、すべての方に「人工内耳は良いものだから手術をするべきですよ」とは決して言えません。
 しかし、私にとっての人工内耳は今の生活を非常に豊かにしてくれています。

(本稿は聴障者の集いで発表した体験談を一部改変したものです。)



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