人工内耳友の会−東海−
装用記

『人工内耳の講演と相談の会』体験発表
日時:平成10年11月3日 会場:仙台市 福祉プラザ

『聞こえる・聞こえるよお母さん』 仙台市・村上とし子

「お母さん、今聞こえたよ。パチンという音、ほら、また聞こえたよ。」
「えっ、スナップのパチンという音聞こえたの。すごーい。」
 私のパジャマのスナップをはめる音が奈津美に聞こえたのです。人工内耳を装用して半年、この小さな音まで聞こえるようになったかと、驚きそして小躍りしたいくらい嬉しくなりました。
 私の娘は現在宮城県立聾学校の小学部の一年生です。今年の三月に東北労災病院で人工内耳の手術をして頂きました。東北労災病院の言語療法士の先生や聾学校でのリハビリの成果があって、少しづつお友達の名前・挨拶・生活音等が聞き分けられるようになりました。これから、もっともっとお友達と自由に会話が出来るようになり、コンサートやミュージカル、映画等どんどん音を楽しめるようになって欲しいと願っております。
 奈津美は、一才三カ月の時髄膜炎を煩い生死を彷徨いました。突然高熱が出て近くの病院に行きました。風邪か突発性発疹だろうと診断され点滴を受けながら様子を診るようにと言われました。ところが、一向に快復せず別の病院を紹介されました。紹介された病院の先生は、ぐったりして意識のない奈津美を診て、「お母さん、大変です。髄膜炎です。今日が峠です。」と言われました。先生の言葉に、事の重大性を認識するものの、どうして良いか解らず唯おろおろするばかりでした。
 一カ月の入院後全身の筋力が快復しないまま、「これ以上の治療は不可能です。」と言われました。首のすわらない、手足のグニャグニャした我が子に必死のリハビリを続けました。一カ月後やっとつかまり立ちが出来るようになり、心が少しづつ落ち着いて来ました。検診に行った時先生から「聴力は大丈夫ですか?」と聞かれた時とても不思議に思いました。帰宅してなんとなく不安になり、奈津美・奈津美と何度呼んでも振り向かないのです。私は、恐ろしくなり病院へ飛んで行きました。先生は、「命が助かったのだから耳に後遺症が残っても仕方ない。」と言うような言い方をされ、今後の事についての助言は一切ありませんでした。此の言葉に、私は言い知れぬ不安と病院への不信感を募らせられました。
 私はすぐかかりつけの耳鼻科へ行きました。事情を話しますと、「それは大変だ」すぐ先生がヒァリングセンターに電話をして、聴力検査の予約をとって下さいました。いくら急いでも一カ月後しか予約が取れないと言うことでした。私はそんなに待っていられず、T病院に予約の電話を入れました。またここでも同じ返事でした。本当に急を要する時に、検査をしてくれる医療機関がないのです。一カ月・二カ月待たなければならないのです。そして、悶々とした日々を過ごしT病院に行きました。検査の結果は、「感音性難聴です。残念ですが直りません。ヒァリングセンターに行ってみて下さい。」と言って医師はカルテに何かを記し、「はいーつぎの方」ほんの三十秒位の診察で終わりました。私はその言葉に、目の前が真っ暗になるような感じを全身で感じました。
 髄膜炎の後、一カ月位の間に奈津美は聴力を徐々に失って言ったものと思われます。この間に、早く検査ができ何らかの処置をしていれば、少しは聴力が残っていたかも知れないと思うと、悔しくてなりませんでした。どうして病院側では「命を取り留めたのだから」とか「聴こえません」「直りません」と病気の現状や告知だけに終わるのでしょうか。親とすれば、それなら今後この娘にどういう治療・リハビリがあるとか指針を示してくれないのでしょうか。これでは、告知された私達はこれから先どうすれば良いのでしょうか。絶望感のあまり、この娘を連れて死のうかと頭をかすめたりしました。でも、その時四歳になったばかりの長男が・・・・
 「なちーちゃん、おみみきこえないの。ぼくね、おかあさんとなちーちゃんを、まもってあげるから。」と泣きじゃくっていました。この言葉を、これからの私の支えにしょうと思いました。何か聴覚障害に関する情報を得ようと行動に移しました。そして、ヒァリングセンターから聾学校の乳幼児教室を紹介され、ここで初めてこれからどうすればよいのかを教わりとても温かいお話に涙したものでした。ここにたどり着くまで、数カ所の医療機関、三カ月もの月日がかかりました。
 皆様の中には、もっともっと長い間地獄のような苦しい日々を過ごした方もいらっしゃると思います。一番最初の病院で何らかのアドバイス・情報・教育機関を教えて頂いていたらあんなに死ぬほど苦しむ事はなかったのに・・・・・医者は、患者をこなすだけではなく、一人一人しっかり向き合った心の「ケア」をして欲しいと思います。
 奈津美の聴力は130dBスケールアウトの状態で補聴効果は得られませんでした。何とか、言葉を獲得したい思いで私と奈津美の勉強が始まりました。聴こえない分視覚から物事を教えて行こうと思い、動物園・遊園地・科学舘・映画館・人形劇・キャンプ・海・山・川と数々の実体験を積み沢山の言葉を覚えました。五歳頃「〜がしたいなー」「〜へ行きたいなー」「〜が食べたいなー」と自分の気持ちを言葉で表現するようになった時、今まで聾学校の先生が、いつもおっしゃってた『継続は力なり』の意味が初めてわかりました。
 その頃、人工内耳はテレビ等で放映されており一般化しつつありました。手術の費用は350万円かかるという時代でしたが、音を聞かせてやりたい一心で今は亡き父が手術の費用を出して上げると言ってくれました。聾学校の先生に何度か相談しましたら、「えっー、人工内耳?こんな小さい子にかわいそうでしょ。タバコ大のプロセッサを付けて、100万円もする機械だよ。壊れたらどうするの?滑り台・ブランコだって遊ぶだろうしお母さん見てられますか?しかも頭を切って機械を埋め込むんだよ。こんな小さい子に・・・・・・」と言われ二の足を踏んでしまいました。
 その後、数年がたち平成六年人工内耳は保険適用となり子供の手術症例もあちこちで聞かれるようになりました。
 奈津美は六歳五カ月になっていました。突然、「お母さん。お母さんはお耳が聞こえる?私ね、お母さんの声聞こえないもん。お兄ちゃんは、お耳聞こえるの?」「そうか、困ったね。奈津美も自分の声が聞こえるようになるといいね。あのね奈津美の声とっても可愛い声だよ。」と言うのが私の精一杯の返事でした。人工内耳の手術をさせてやろうと決意させられたのもこの時だったと思います。
 平成九年十一月テレビで人工内耳子供の症例を放映しておりました。それを見ていた兄の進めもあり東京のI大学病院に奈津美を連れて受診しました。医師は「もっと早く手術を決意すれば、良い効果が得られたのに」と言われましたが、手術をする方向で話が進みましたが、やはり東京は遠く私の体力的な問題もあり、地元の東北労災病院を紹介して頂きました。
 奈津美の心の準備のため同じ年頃の人工内耳を装用した子に会わせたいと東京に行きました。その子はKちゃんと言い手術してから半年になります。「新しい補聴器ってね、こういうのよ」とKちゃんのを外して見せてもらいました。「これを頭にペッタンって付けると奈津美の声が聞こえるんだって。」「Kちゃんって呼んで見ようか。」後ろから「Kちゃん」と呼んだ私の声にKちゃんは、振り向いたのです。私は、非常に感激しました。
 「聞こえる・聞こえている。奈津美もこれを付ければ聞こえる様になるんだ」そのことは奈津美にも解ったようでした。それから奈津美は「聞こえる様になりたいなー」「お母さんの声が聞きたいなー」「新しい補聴器をつけたいなー」と口にするようになりました。お蔭様で入院に対する不安はなかったようです。
 入院して手術前までの一週間は言語療法士の先生とのコミュニケーションを図るために、先生は暇を見つけては、奈津美の様子を見に来て遊んで下さいました。そのお陰で先生にすっかりなついて先生が来るのを待っているほどでした。それからマッピングに備えてどのように聞こえるか練習をしました。「聞こえない」「かすかに聞こえる」「ちいさく聞こえる」「大きく聞こえる」「うるさい」の五段階に分かれており今まで聞こえない世界にいた奈津美にとって難しい表現でした。
 手術の前日髪を剃らなければなりませんでした。毎朝鏡に向かって長い髪を何回となくとかす奈津美でしたが、この子なりに決心がついたようでした。表に解らないように内側だけを剃りました。
 手術も無事終わり次の日からは一人でトイレに行けるようになり、なんでも自分でしていました。一カ月の入院の内私が泊まったのは二週間だけで淋しがりもせずあとは一人て頑張っていました。
 手術してから二週間後にいよいよ音入れです。人工内耳から初めて聞こえる音に吃驚して大泣きしてしまいました。でも、私はこれで聞こえたんだと思い感無量でした。
 さあーこれからがリハビリの開始です。まず病院ではマッピングを調整を行います。これはとても集中力が要します。子供であり、すぐあきらめてしまうのでけっこう時間がかかります。そこで学校の先生をお呼びしてリハビリの様子などを参観して頂きました。すると背筋がピーンと伸びていつもの奈津美と思えぬほどお利口でマッビングははかどりました。それを今度は人工内耳装用下で聴力検査を聾学校でします。次回それを見ながら病院でまたマッピングに調整をし全部の電極を流すことになります。それが終わると音の存在に気づかせるため楽器音つまり太鼓・カスタネット・鈴・タンプリン等を使って音遊びをするのです。そして病院に行ったことを聾学校担任の先生に報告します。同じことを朝の会を中心にクラスのお友達も含めて音遊び的な事をして頂きました。またその様子を私が参観して言語療法士の先生に報告するという、病院・聾学校・家庭との連携を取りながら奈津美の指導をして頂いております。
 そうしてリハビリにより音の存在に気づくようになりました。音の違いも解って来ました。例えば「あー」「あ」の違い楽器音の聞き分けなど。それから聞こえた通りに繰り返し発声するようになりました。家族の名前・クラスメートの名前・動物・果物等の聞き取りを絵カード等を使って教えております。
 すると、音節数の同じ単語の聞き分けも出来るようになって来ました。「いか・たこ」「あか・あめ」「あし・うし・いし」等です。それから、音節数の違う単語の聞き分けも出来るようになって来ました。「ぞう・じてんしゃ・ねずみ」「めがね・おにぎり・なわとび」等です。
 生活音ですが、手術してから四カ月過ぎた頃から「聞こえるよー」と訴えて来るようになりました。台所で野菜をトントントントンと切っておりますと、隣の部屋にいた奈津美が「聞こえるよー、お母さん聞こえるよー」とニコニコ顔です。先日は、玉葱を炒めている音に、天麩羅を掲げている音に反応して「お母さんうるさいよー、何してるの?」とのぞきに来ました。「そう聞こえたの、聞こえたの、奈津美よかったね」私は奈津美をしっかり抱きめていました。
 手術して半年が過ぎた現在では平均45dBまで聞こえるようになりました。奈津美は音を楽しみながらリハビリに励んでおります。
 先日、補聴器を付けた女の子が遊びに来ました。その子は、祭津美の首の所に見える黒いケーブルを指さし「これ、な〜に?」と聞いていました「あのね、これね、あたらしいほちょうきなの。これつけるときこえるよー。ろーさいびょういんにずーと、ずーとにゅういんしてたの。ここね、きったのいたくないよ。だって、一年生だもん。Aちゃんもつけたらきこえるよー。」とAちゃんに人工内耳の事を奈津美なりに話しておりました。
 奈津美に、「スピーチプロセッサーを付けて良かった?」と聞くと「う〜ん、よかったよ。だってきこえるんだもん」親にとってこれ程嬉しいことはありません。私の選択が間違っていなかったと確信できました。ここに至るまでは、多くの方々の助言や励ましのお言葉を頂戴し、また沢山の先生に支えられ 今日まで来ることが出来ました。本当にありがとうございました。
 人工内耳を有効に活用できるよう奈津美と共に一歩、一歩、歩んで行きたいと思います。
 (ご清聴ありがとうございました。)



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