人工内耳友の会−東海−
装用記

「人工内耳シンポジウムin岐阜」体験発表
人工内耳の手術を受けてみて

岐阜県岐阜市(正会員)
水 口  元 一
(この体験発表はACITA会報37号の「装用記」を元に、シンポジウム用に書き換えたものです。)

 ただいまご紹介頂きました、岐阜市の水口元一(みずぐちもとかず)です。私は45年前、6歳の時、小児結核になりそのとき治療に使用したストレプトマイシンという抗生物質の薬の副作用で耳が聞こえなくなりました。「ストマイ難聴」と一般に言われている重度難聴者のひとりです。
 わたしは6才で失聴するまでは普通に聞こえていて、歌も普通に歌え、文字も覚えていて、本を読むことも出来ましたので、年令は幼くても、日本語の言語は一応獲得できてからの中途失聴者であると思います。

 小学校に入るときに、私の両親はろう学校でなく、近くの普通の小学校にいれました。これは、私が一応本も読めるのでなんとか付いていけるだろうと期待していたのだと思います。しかし、補聴器をつけても聞こえる音はぼんやり、ぼわーとした不明瞭な音で、とても声としては分からず、人の話などとうてい聞き取ることは出来ませんでした。きこえなくなった最初のそのころは90−100デシベルの難聴だったと思います。
 私の両親は、私が聞こえなくなったことをあきらめきれずに、必死で治療法を探しました。「アリナミンが難聴によく効く」というので長い間ずっと服用を続けたり、「XXという新しい薬が効果がある」という話を聞くと遠くにまで行って注射してもらったり、「中国のハリが効果がある」と聞くと東京の有名な漢方医に行ってハリをしてもらったり、果ては知人が「この宗教を信じれば治りますよ」といったことまで、どんなことでも一筋の望みを持って、藁をもすがる思いでやったものでした。

 その間、大阪や東京の有名な大学病院の耳鼻科のお医者さんにお会いして、診察していただきましたが、どの先生も「お子さんの耳の神経はダメになっていますので、現在は治療は不可能です」といわれるばかりでした。そして、年を取ると共に、わずかに残っていた聴力もだんだんと落ちていき、40年が経過したころには、どんなに高性能な補聴器をつけても全く音が聞こえなくなっていました。私の周囲の人は健聴の普通の人ばかりで、私は手話もほとんど分からず、全て筆談で仕事も生活もしている状態でした。そして、「もう私はこのまま一生音のない世界で過ごさねばならないのだ」というあきらめの気持ちでいました。

 そんなとき、忘れもしない平成7年の夏に、いつもお世話になっている近くの耳鼻科のお医者さんの中山先生が、私の妻に「この間、学会で人工内耳の講演を聞いたが、あなたのご主人ならやったほうがよいと思うがいかがですか?」とすすめてくださったのです。
 今までにも、新聞や雑誌などで「人工内耳」の記事を読んだことはありましたが、「自分のような神経が駄目になっているものには効果がないだろう」と思い、自分には関係のないものとして、手術を受けようなどとは考えもしませんでした。いままで、いろいろな治療を受けて何の役にも立たなかったので、「どうせ期待しても無駄だ」というすてばちな気持ちもあったと思います。しかし、信頼している中山先生がわざわざ奨めてくださることに心を動かされ、「どうせダメでももともとだから」という妻の言葉に励まされて、話だけでも伺いに行こうと思いました。そして、9月になって中山先生の紹介状を持って大津赤十字病院へ耳鼻科部長の伊藤壽一(いとうじゅいち)先生を妻と共に訪れました。

 伊藤先生に今までのいきさつを説明し、聴力検査をして頂きましたが、その結果はスケールアウト(全く聞こえない状態)でした。そのあとで、「人工内耳手術に適していると思いますが、もう一度来院されてきちんと検査を受けてみる必要があります」といわれたときは、びっくりして思わず「本当ですか?」と胸がどきどきして興奮しました。「水口さんのようなストマイによる感音性の難聴は、かなりの手術例があり、良い結果がたくさんあります。」といわれました。また、健康保険が効くようになってほとんど自己負担がなくなったことなどを説明していただきました。そして、「この本を読んでおいてください」と『音のない世界から音のある世界へ』という小冊子を渡されたころにはほとんど夢心地になっていました。帰りの列車のなかで小冊子を読んで人工内耳のだいたいのことが理解でき、伊藤先生の優しい人柄に安心して、手術を受けようと決心したのでした。

 平成7年10月に血液検査、心電図、プロモントリーテストなど各種の検査を受けに再度大津へいきました。12月20日前後に手術をすることになり、1ヶ月間の入院の手続きをしました。12月15日に入院し、12月21日に全身麻酔で左耳に手術を行いました。そしていよいよ平成8年1月5日に音入れをしていただきました。
 「プロモントリーテストでチクチクとしかわからなかったので、音を入れてもチクチクとしかわからないんじゃないか」ととても心配でした。しかし別に案じるほどのこともなく、22の電極毎に一応音が分かりました。特に低い音と高い音の区別が明瞭に分かるのが新鮮な感じでした。ただ、なんとも鈍くて変な音で、低い方の音はブ、ブッ、ブォ、ブォッと「聞こえる」というより「響いて感じる」し、高い方の音はビ、ビッ、ビョ、ビョッのようでした。
 しかし、初めての時は音がビンビン響いてとても聞きづらい感じでした。もうすこし柔らかい音にできないかとスピーチセラピストの中竹先生にマップを調整していただきましたが、ほとんど変わりません。小さい頃聞いた覚えのある音とは全く違う音で、音というよりは、金属的な不快な刺激でした。しばらくつけているうちに頭痛がしてきて、軽い吐き気まで催してきました。小さな音がギンギン、ジャッジャッという感じで響き、うるさいというより不快でたまりません。テレビを見てみましたが、声が聞こえるという以前の問題でとてもまともな音とは思えませんでした。45年間聞こえなかったので、神経がびっくりしているのだろうと思いましたが、とにかく音が入っていることにほっとした気持ちと、想像していた音とは大変な違いがあることにがっかりする気持ちが入り交じった複雑な思いでした。
 しかし、1週間もすると、きんきんとはするもののだんだんそれらしい音になり、人の話し声もそれらしく聞こえるようになってきました。1ヶ月もたつとすこし単語が聞き分けられ、妻との会話がすこしづつできるようになってきました。

 こうして、「音のない世界」の住人だった私が「音のある世界」に復帰する日がようやくめぐってきました。私の父は80歳を越え、母も年を取りましたが、今まであきらめていた息子の私の耳がこのように回復したことを泣いて喜んでくれました。両親が元気なうちに再びこのように会話ができるようになった姿をみせることができるのが、なによりの親孝行になっています。
 手術してから2年10ヶ月経過した現在の状況としては、聞こえなかった頃と比べると夢のような幸せな気持ちです。2年間毎月1回、大津赤十字病院へリハビリに通い、そのたびにすこしづつマップを調整してもらいました。そしてだんだんなれて来るにつれて、音が柔らかく聞こえるようになってきました。風の音、雨の音、鳥の声、虫の音、川の流れなど周囲の環境音が大変はっきり聞こえるので、そのたびに感動を覚え、生きていることに感謝せずにはいられませんでした。自動車の音はとてもうるさいですし、ポリ袋、紙袋がガサガサいううるささには、いまだ慣れることができませんが、世の中がこんなにうるさかったのかということは、むしろ楽しい再発見でした。

 さて、肝心の「声がどの程度聞こえるか」という点については、いまだ道遠しというところです。妻との会話はだいたいできるのですが、やはり意識してゆっくりはっきりと分かるように話してくれないと聞き取れません。しかも完全に分かるわけではなくて、ときどき聞き返さないと間違って受け取ってしまうことがあります。妻は私に「私がしゃべったことは、オウムがえしに言ってください」ときついことをいいますが、これがとてもよい聞き取りの訓練になっているようです。テレビは10%も聞き取れればましな感じです。アナウンサーの声などは「こんばんは、、、今日のニュースです」のような定型的な文句や、出だしや語尾の部分がわかることが多いですが、肝心の中身の単語がよく聞き取れないことがほとんどです。「○○が××で△△しました」という感じでまるで判じ物です。ましてや普通一般の会話にはまだとてもついていけません。
しかし、2年を経過するころになって、それまでと比べて急に聞こえがよくなってきました。現在は「静かな場所で」「1対1で」「ゆっくりはっきり」話して貰えれば、ときどき聞き返すことはあるものの、なんとか会話ができるようになっています。
 このように45年間の空白の期間を経て私に音が戻ってきましたが、私の場合中途失聴といっても失聴期間が長いので聞こえに関しては生まれつきの聾者に近く、かといって耳の聞こえない人たちとあまりおつきあいがなかったので手話も口話もたいしてわからず、中途半端な存在でした。しかし、「話ができるようになりたい」といつも心の底で願い、聞こえないながら普通の人間として生きていけるように人一倍新聞や雑誌や本などを読んで言葉(日本語)に対する感覚を失わずにいたことが、結果として人工内耳によく適応できているようです。

 人工内耳手術を受けてから2年10ヶ月経過しましたが、以前の私には考えられないくらい積極的に外へ出ていき、人と話をするようになりました。もちろん全部わかるわけではなくて、分からないときの方が多いのですが、例えば市役所の窓口などでは聴覚障害者であることを伝えれば、ゆっくりとわかりやすく話していただけるのでほとんど聞き取れるのです。こういうことが重なっていくと不思議なことにだんだんと自信がついてきて、「分からなくてももともとだ」という気持ちで人と話ができるようになってきました。
 そして私はひとりでなく、日本全国では現在1200人の同じ様な人工内耳の手術を受けた方がいて、「人工内耳友の会」という会があることを知りました。現在私はこの「人工内耳友の会」の「東海支部」の事務局をさせていただいており、愛知、岐阜、三重の東海3県の会員約50人の方達と人工内耳の正しい知識の普及と情報交換、会員の親睦を目的として活動しております。

 また、この「人工内耳シンポジウムin岐阜」の主催者である岐阜県中途失聴・難聴者協会の亀山会長は、じつは10年前一緒に仲良く仕事をしたことがあり、その当時の筆談しかできなかった私のことをよく知っています。私が人工内耳の手術を受けたことを聞いて、10年ぶりに私の家を訪ねてきて、私が不十分ながら会話ができるまでに回復したことに驚き、喜んでくれました。そして、私の姿を見て人工内耳の威力や限界をよく理解して頂いたことと思います。

 人工内耳は「音のない世界」に住んでいた私のようなものにとっては、まるで神の奇跡のような福音です。しかし、人工内耳はまぎれもなくコンピュータなどの現代の最新の科学と医学が融合した成功例であり、この実現のために20年以上も前から日本や世界中の大勢のお医者様、技術者などの関係者の方々が研究し、開発に適用に努力されてきたことに感謝を忘れてはならないと思います。

 人工内耳は魔法の器械ではありませんし、誰にでも適用できるというものでもないし、聞こえには限界があります。また、はじめからよく聞こえるというものではなく、執念深いリハビリが必要です。しかし、そうした限界をよく理解して活用できれば、補聴器でも全く聞こえない者にとっては、かけがえのない素晴らしいものです。
 そして、私のように情報に疎かったために、せっかくの人工内耳があっても適用できることがわからず「音のない世界」で日を過ごしている方に、人工内耳の正しい知識を伝え理解を深めて頂きたいと願っています。どうか、補聴器でも聞こえない方は、勇気を出して人工内耳の専門のお医者さんに相談を受けにいって下さい。私どももいつでもご相談に応じますので、FAXなどでご連絡をしてくださいますようお願いいたします。

 皆様、ご静聴有り難うございました。



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