人工内耳友の会−東海−
装用記

「人工内耳シンポジウムin岐阜」体験発表

我が子の難聴、補聴器から人工内耳へ

岐阜県各務原市(正会員平上隼矢君の母)
平 上  淑 子
 私は只今ご紹介いただきました平上淑子(ひらかみよしこ)と申します。

 我が家の長男・隼矢(じゅんや)は平成4年4月12日に、私の実家のあります北九州市の厚生年金病院で生まれました。予定日よりも3週間早い出産で、2,424gと小さめだったので、初産のわりにお産自身は軽くて済みました。その時は羊水が濁っていたことが早産の原因だろうと聞きました。
ともかく、未熟児であるということで、保育器に入ることになりましたが、体調など特に心配することはありませんでした。

 ところが、12時間後の真夜中に、強度の黄疸が出て、基準値よりもはるかに超えてしまったため、NICUに入院することになり、彼の最初の試練が始まりました。それから1週間後には私ひとりで退院することになり、以後毎日母乳を冷凍して運びました。そのかいあってか、隼矢は3週間のつらい治療を乗り越え、ちょうど予定日だった5月1日に退院することができました。黄疸の原因は、色々な検査の結果、先天性サイトメガロウイルス感染症と診断されました。出産前の定期検診では分からなかったことであり、大変ショックを受けました。入院中も視力や聴力その他の検査を受けましたが、まだ小さくてすぐには判断できないこともあったため、引き続き月1回検診を受けるように指示されました。

 退院の1ヶ月後から、当時住まいのあった名古屋で親子3人の生活が始まり、近くの総合病院の小児科で毎月1回発達検診を受けることになりました。体重は退院してからも順調に増えていましたが、首のすわりは遅く、生後6ヶ月になってからでした。ちょうどその頃、聴力の再検査を受け、ABRの結果から「高度難聴です。ことばが聞こえないから、補聴器をつけて早期教育をしないと、学校へいくのも、ことばを覚えるのも大変になりますよ」と告げられました。その瞬間『目の前が真っ暗』になり、どうやって家まで帰ったか覚えていない程、気が動転してしまいました。

 少しして、主人の転勤で岐阜の各務原に移り住み、県立岐阜病院からみやこ園を紹介して頂きました。翌年の1月に受けたみやこ園の検査でも、同じく高度難聴と診断を下されました。みやこ園の指導は補聴器合わせに始まり、4月より0才児クラスからの入園となりました。音による情報獲得の便利さ重要さを考えると、補聴器を通して少しでも音に気づき、それを理解し、さらに楽しんでくれるようになれたらいいなと願っていました。訓練の結果、言葉もジェスチャーや手話が伴えば、少しづつ分かるようになってきました。

 しかし、4才近くになっても、限定された単語ですら、音声だけで聴き取れるものは一つもありませんでした。それどころか、読話だけに頼ってしまっていたために、口パクになっても、音声のない事には全く気がつかない有様でした。聴こえに対する様々な想いはありましたが、日本語はどんな形であれ獲得していかなければ、文字情報さえも得られなくなるので、積極的に文字や絵本に触れさせるよう心がけました。幸い、口まねのおかげで、わずかながらも口が動き声も出ていましたので、体全体から一つでも多くの手掛かりをとらえて言葉を覚えられるよう発音の練習を続けていきました。しかし、こうして得られた発声も、ごく聞き慣れた家族やみやこ園の先生にしか理解できないものでした。そして、5才になった頃から、少しづつ就学の事を考え始め、普通学校へのインテグレーションを希望していましたが、相手の口が見えないと話をしている事すら分からず、手話なしではコミュニケーションが成立しない事から、よほど理想的な条件がそろわなければインテグレーションは難しいだろうとあきらめかけておりました。

 そんな昨年の10月に、みやこ園に帝京大学の田中美郷先生が招かれ、講演を聞く機会を得ました。それは「医学的側面からみた難聴とその教育」という題目で、難聴児の音の聞こえ方や、その教育に加え、人工内耳の事をお話し下さるものでした。私は人工内耳とは中途失聴の大人がつけるものであり、手術と器械で大変費用がかかることから、とても縁遠いものだと思っていました。そのために、講演を聞きながら、隼矢のように、重度難聴の子にも適用するのだということは理解しましたが、その効果を想像することは出来ず、自分達に直接関係のあることとはとらえられませんでした。何よりも頭の手術が必須なので、産後の事や、ここまで育ててきた事を考えると、とても恐ろしい事に感じたのが、その理由かもしれません。そのため、講演終了後、みやこ園の園長より「平上さん、お父さんと相談してみて...」と言われた時は、人工内耳のことだとは思いつかず、退園勧告をされたのかと、青ざめてしまった程でした。

 しかし、人工内耳が急に現実味をおびてきたのは事実で、落ち着いてみるとプラス面の大きさにも目をむけられるようになったため、その日から、人工内耳に関する資料を集め始めました。そして、人工内耳装用者の「ACITAの会」を通して、装用児のお母様方から直接お話を伺うこともでき、装用前の様子が我が子と共通する点が多いことに大変驚くとともに勇気づけられました。お陰様で、数日のうちには、いくら費用がかかっても、家族が大変な思いをしても、人工内耳の手術を受け、隼矢の将来を切り開いていこう、という結論に達しました。頭の手術とはいえ、命や聴力を含めて機能への心配がない事が判り、また、幼いながらも本人も「聞こえるようになりたい」と言ってくれたことが、結論を導く大きな要因となりました。費用の方も保険が適用されるということで迷うことはなくなりました。

 いよいよ、本格的な病院選びです。残念なことに県内では、まだ手術、リハビリを行っている病院・施設がありません。そこで、県外の病院について、装用児のお母様方から、様々な情報を教えて頂き、「小児の手術経験が豊富であることと、子供の場合は"聴くこと"だけでなく、様々な成長段階であるので、言語発達、社会性など色々な面でのフォローが親身であること」及び「リハビリに日帰りで通えること」に重点をおいて判断し、大阪大学医学部附属病院の久保教授にお願いすることにしました。

 初診は昨年の12月1日でした。みやこ園からの紹介状で現状までの教育の経緯を即座に理解頂けたことと、又、幼すぎると思っていた隼矢の5才8ヶ月という年齢がもう遅すぎる部類であると言われたことから、出来る限り早く装用可能にするため、わずか2ヶ月後の2月10日に手術することに決まりました。入院までの通院も、検査を含めて3回だけで済んだのは、遠方であることを配慮して頂いたおかげだと思います。

 入院後、リハビリを担当される井脇先生から、手術前後の経緯を描き、「じゅんちゃん」という名前まで入ったぬり絵を頂きました。1日ずつ体験にそってこれに色を塗り、話し合いをすることが、本人の理解を深めていくのに大いに役立ったと思います。又、私自身も、成長してから、手術をした事やその時の様子を話してやれるようにと、隼矢自身の毎日の絵日記とともに、家を出てからの様子を撮った写真を日記風にまとめるようにしました。

 手術前日から、親の方は緊張が急に高まってきたのですが、隼矢自身はいたってリラックスしており、手術の為の剃髪も怖がることなく「ウルトラマンみたいにしたいな」と無理な注文までつける有様でした。手術は電極は22極全てを挿入することができ、無事成功しました。抜糸をせずに済むようにと2度縫合して頂いたため、予定より少しだけ時間がかかりました。いくら、心配はない、と思っても、廊下からベットで運ばれてくる姿を見た時は、安堵と、これまでの想いがどっと押し寄せ、涙がこぼれおちました。本人もさすがに手術前のはしゃぎ様とはうって変わって、2日程は点滴をつけていたこともあり、ベッドの上でおとなしくしていました。手術が済んで、初めて頭に巻かれた包帯や傷の様子で事の重大さを感じとったのかもしれません。そして傷や体調は順調に回復し、予定通り10日後の2月20日に「音入れ」に臨みました。その日はみやこ園の先生も来て下さり、本人も大変な喜びようでした。もともと表現の幅も狭い子供が、「音」というものを初めて感じ、周囲に知らせることが必要な閾値(いきち)のマップ合わせは非常に困難なことと思いますが、おもちゃやパズルを使っ て、井脇先生のノウハウを生かして、約3時間でやりとげることができました。その後1週間程、聴こえの検査等を行い、「大丈夫」との診断の下で退院することになりました。退院後最初のうちは、週に1度リハビリに通うことになりました。

 最初の1ヶ月は自発的な反応は少なく、こちらが「これは聞こえる?」と尋ねた音には返事をしていましたが、隼矢の出す声も以前とあまり変わらず、音に慣れない様子でした。話に聞いていた、音を怖がってスピーチプロセッサをつけるのを嫌がるような事はなく、この点では幸いでした。私は今こそみやこ園での教えが実を結ぶのではないかとの思いで、以前とは比較にならない程、心楽しく、新鮮な気持ちで、音がする度に「あの音だよ」「この音だよ」と伝えました。2ヶ月を過ぎた頃より、電池が切れた事に気づくようになり、音の存在を確実に意識している事が判るようになりました。補聴器の時は、スイッチを入れるのも忘れていた事を思うと、これは夢のようなことでした。そして「マーマーンー」などという喃語を発したり、お腹から大きな声を出したりして、様々な声を自分で聞いて、確かめている様なことも多くなりました。又、よく耳にする鳩時計や電話の音に自分で気づくようになりました。人工内耳のおかげで、見えない「音」に対して、共に反応できるということが、私の中で否定しきれなかった隼矢との分厚い壁を少し薄くしてくれたように感じ、とても有り難くうれしく思 いました。

 3ヶ月も過ぎると、隼矢が2階で何かをしていても、階下から数回呼べば返事をして降りてくるようにもなりました。さらに、隣の部屋でテレビを見ている時に鳩時計がなり、「何時になったかな?」と部屋の時計を見上げた事には驚かされました。そして、聞こえた時には隼矢の方から「バターンで聞こえたよ」と教え、「これは何て聞こえるの?」と尋ねてくるようになり、文字やことばを以前から知っていたので、自分自身もそれを音と結びつけているのが分かりました。私はこのような場合には、的確なことばを見つけて答えるように心がけてきました。その結果、最近では、簡単な絵本なら、読話を伴えば7割程度まで模倣をすることができるようになってきました。それに、テレビの主題歌を聞いて、多少ズレてはいますが、歌ったり、踊ってみたりして楽しんでいます。よく聞く歌をテープで聞いて、途中からでも合わせて歌い始めたのにはびっくりさせられました。

 少し離れた部屋で電話の音をききつけて、取りに走ると、横から妹に「お兄ちゃんはお話は分からないでしょう」と言われ、くやしい思いもしています。その際には「ぼくも妹たちのようによく聞こえる耳が欲しい」と言うことがあり、親としても「でも隼矢はとってもやさしい気持ちを沢山もっているんだから、がんばるんだよ」と励ますことしかできません。このように、全聾が難聴になったということで、新たに生じる悩みや課題も沢山あると思います。それでも、本人がだんだん親の手から離れていくことを考えると、人工内耳が大きな手助けになってくれることは間違いないと思います。そのためにも手話ブームといわれるご時世に、あえて口話で聴くことに意識が集中できるよう努力しています。決して厳しさだけを押しつけているつもりはなく、聴き取りが無理なら、手話や指文字で補い、理解度の深さを大切にしています。人工内耳にまで踏み切ったのだから、たとえ少々遅かったとはいえ、少しでも大きな効果が得られるよう、2〜3年はこの方法で頑張っていきたいと思います。手術後、半年が過ぎた今、「聴こえ」の発達は順調なので、リハビリへの通院も2週間に1度で良いようにな りました。

 今年の夏に、阪大病院で、熊本の3才の子が手術を受けました。やはり九州でも子供を扱える病院がないのだそうです。低年齢からの装用ということで大きな効果が期待されていますが、2週間に1度飛行機でリハビリに通うことを思うと、本人とご家族の負担は大変なものだと思います。色々な話をきくにつけ、より近隣で手術やリハビリを受けられるようにならなければと感じます。

 隼矢は、岐阜県で人工内耳を初めて装用した幼児ということで、その効果を示す役割を担っており、このための努力を続けてゆく所存ですが、通院の手間については、皆様の協力が必要です。
そして、私達と同じ様な思いをしている難聴児の親子さんたちに、まず人工内耳について正しく理解して頂き、新しい道が開かれてゆくことをお祈り致します。

 ご静聴、有り難うございました。




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