人工内耳友の会−東海−
小児のインテグレーション

平成15年8月24日
人工内耳友の会−東海−第2回勉強会 小児分科会講演
(ウィルあいち1階セミナールーム1、2)

小児のインテグレーション

東海大学健康科学部社会福祉学科 教授
北 野 庸 子

東海大学の北野です。

6月に一度こちらに参りまして、1時間で話すようにといわれ、原稿2時間分を1時間で話したものですから、大変話が速くて申し訳ありませんでした。今日は、そのことも含めて2時間ということと、もう一つ今回は、前回のテーマはインテグレーションとリハビリテーションでしたが、今回はインテグレーションに焦点をあててお話しします。

皆さんにお配りした資料は、前回6月のACITA全国大会の(東海会報15号報告集)と、それから、私ども社会福祉学科の難聴の学生が書いたインテグレーションに関する原稿です。それからアンケート用紙があり、3つがお手元に行っていると思います。

今日、このメンバーの中で、6月24日の会にいらした方、お手をお上げ下さい。内容が前回とオーバーラップするかもしれません。どうぞ、お許し下さい。もう一つ。人工内耳の装用を今、考えている方、挙手願います。お子様が3歳の方、お手をあげて下さい。4歳、5歳、小学校、そうですか。そうすると、(今日の参加者の)中心は4歳、5歳で、聾学校で言えば幼稚部の年中・年長のかたが多いのですね。先々のインテグレーションをどう考えるかと言うことですね。今回は言語をどう育てるかに関してはあまりお話しできませんが、その点も含めて話したいと思います。



前回はビデオを見せましたが、今日はパワーポイントをスピーチバナナまでとばして下さい。前回もお話しましたが、これはスピーチバナナです。日本語はわりと母音が低いところにあり、子音は、2000Hzから4000Hzの高い音が多いです。この下の閾値は、重度の難聴児が補聴器を装用したときによくみられるもので、2000Hz位からスピーチバナナをはずれていきます。しかし低音部の500Hz〜1000Hzに残存聴力が残っている子は、このくらい閾値が出ますが、2000Hzくらいから落ちるわけです。ところが、人工内耳を入れるとこれが、ぐっと上がります。だいたい皆さんのお子さんは30dBから40dBくらいの間でフラットに閾値がでますので、子音のス、シュツ、ク、という音が補聴器とは比べものにならないほどよく聞こえます。

昔は補聴器ですとママママ、ババババ、という音から、タ、タ、タという中の音、そしてカ、ス、シュというのは最後に扱うの音でした。我々聾教育の人にとって「さ行」を指導することは大変なことでした。高い音が聞こえないと「さ」は「あ」に近く聞こえます。「し」は「い」と。なかなか聞こえなかったので、「さ」「し」は冷たい息だよ、「は」は暖かい息だよと、皆さん苦労して教えました。ところが、人工内耳では全部だいたい聞こえる。みなさんのお子さんは「静かに、しー」と言うとだいたい入る方と思います。これが一つ、人工内耳の聞こえの大きなメリットと思います。ですから補聴器で苦労して指導してきた人間にとって、こういう風に聞こえることは素晴らしいことだったのです。その意味で人工内耳は聞こえの楽さがあります。
我々のところに難聴のお子さんを2人もった親御さんがいます。一人のお兄ちゃんは、重度の難聴で、小学校まで補聴器でした。お母さんは大変がんばって、入れて入れてと伝統的な聾教育をやりました。でも、お母さんは、弟さんにはお兄ちゃんみたいにやりたくない。言葉を教えるために多くのことを犠牲にして、聾学校から帰ったらすぐ絵日記、どこかに行くときは事前に勉強し、経験をして、また事後に復習する。言葉のことばかり考える、そういうことはやりたくないと思いました。お父さんは最初、人工内耳には反対でしたが説得して、弟さんには3歳前に人工内耳を入れました。でも、お母さんが、補聴器でのやり方を人工内耳の弟さんにたいしてするのです。「あなたの言い方は、金槌で言葉をとめるみたいな言い方に聞こえる。人工内耳は聞こえるからもっとふわりと言葉をかけてほしい」とお願いしました。

もう一つは、補聴器のお子さんは、聞こえが不十分ですから、発語にすごい努力をしたり、言わせることを求めます。ですのでこの母さんは、「兄ちゃんはもっと早くしゃべりだしたのに、弟はまだしゃべらないんです」というのです。ちょっと待て。健聴の子どもは、しゃべり出すのに1年間以上聴いているでしょう。0歳のお子さんは、1年たってようやく「まんま」とか言うでしょう。人工内耳のお子さんも同じだから、言わせようとしないで聴かせるようにと、お母さんに話しました。

人工内耳は、補聴器よりもっといい聞こえがありますから、その意味では健聴的に聴かせていくことがたまっていけば、健聴の子が1歳くらいになって話し出すように人工内耳の子は必ず言い出します。音をいろいろ弁別するのに時間がかかるので、健聴の子が言うまでに1年かかる・・というのは理屈があるなと思います。人工内耳の子も同じです。入れたらすぐ話させようと思わないで、聴かせて聴かせて、それも金槌で打ち込むような聴かせ方でなく、できれば自然に楽しく聴かせる努力。そういう中で、子供が聞きたい、そして話したいということになると思います。

このお母さんが自然な話かけ方に変わるのには少し時間がかかりましたが、お子さん
が話し始めるようになって安心されたことから、前のような話かけ方はみられなくなりました。このお母さんに、「補聴器でお兄ちゃんの言語を育てたときの努力を10としたら、弟さんのは?」と聞きました。そしたら、「2です。」と言われるのです。つまり5分の1。「こんなでいいのでしょうか?もっとやるべきじゃないか」と言われるので「やらないで、この聞こえを生かして、できるだけ自然に」と話しました。

皆さんの多くは、補聴器で育てる苦労を経験していないと思いますが、この苦労は並大抵でない。スピーチバナナが充分に聞こえることがなくて複雑な音声言語を育てるのはとても大変です。そのため専門家のなかには、人工内耳をつける親は楽をしたいからだと言う方もいますが、私はそう思いません。本来言語は、そんなに苦労して獲得すべきものなのか・・とまず考えないといけません。子どもができるだけ苦労しないで、少しでも楽に自然に出来ればその方がいい。このお母さんも言われることですが、お兄ちゃんの時はとにかく毎日「言葉」だったけれど、弟の時はプール行ったりいろいろなことができますと。親が努力をしないということではなく、やはりで切れば少しでも楽に、自然に言語獲得出来るのは大変いいことだと思います。

しかし問題は、人工内耳をつけても小さな音は聞こえませから、健聴にならない。さらに人工内耳の聞こえは、頑丈ではないのです。すこし雑音があると聞こえが急速に悪くなります。教室で椅子ががたがた動いたり、人ががさっと動いただけで聞こえなくなります。あるいはちょっと疲れているとまた聞こえが悪くなります。そういうことで、補聴器と比べればより良い聞こえを提供しても、健聴ではないし、条件が悪くなると聞こえが急速に落ちるということをしっかり認識しておく必要があると思います。そしてこの点は今日のテーマであるインテグレーションの問題と深く関わります。



その意味で、人工内耳をつけても聴覚障害児であり、困難性を持っているということを認識して頂きたいと思います。上記の図は、皆さんがお子さんの問題を捉えるときに使える枠組みです。この図では、障害は4つの面を持っていることがわかります。その一つは、機能形態の障害。つまり、皆さんのお子さんの蝸牛の有毛細胞に問題があることで聞こえが悪くなったという機能形態障害です。そのことによって言葉が聞こえない。聞こえないから言葉が獲得できないという能力の障害が生じます。そして、そのことによっていろいろな社会的な不利益がでてきます。そしてそのことによって、子どもの心が痛んだり、いろいろな困難に直面します。すなわち、はじめは蝸牛の有毛細胞の機能障害が能力の障害を生み、社会的な不都合、不利益を生み、そしてそのことによって、子どもの心が困難なことに直面する。障害をとらえて言うときには、このようにいろいろな面から考えていくことはとても大切です。先ほどいったように、人工内耳が提供する閾値は、補聴器と比べては優れていますが、あの閾値しか得られないとすると、このような障害の持つ困難性に出会う可能性もあると知っておく必要があります。
まず、機能形態障害ですが、これに対応するのはお医者さんです。ただ、私たちのリハビリテーションに関係してよく聞かれることは、人工内耳つけて、運動はいいのでしょうか?あるいは静電気の問題。ぶつけたときどうか?という機械の問題があります。われわれのところで2つほど、子どもがぶつけて機械が壊れたケースがあります。両方とも蝸牛が奇形のお子さん、そのことが事故に関係しているのかどうか分かりません。蝸牛が奇形の場合、このようなお子さんは平衡機能が悪いことがおおく、平均台が得意でなかったり、自転車の補助輪をとって乗るのに1年もかかったとそういう例があります。
一人のお子さんは、モンディーニ型の奇形で、はじめて補助輪をはずしたときに、お姉ちゃんがみていて自転車に乗ったのです。それで壁にぶつかったのですが、不運なことに壁が、平らではなく、岩が出ているような壁で、そこにがんとぶつけてしまったのです。機械がどこかで断線して、再手術になりました。
もう一人のお子さんもバランスが悪いお子さんで、再手術になりました。もしお子さんにふらつきがあったり、体のバランスが悪いときには、特に小さな頃は、ぶつけることに気をつける必要があると思います。あまり注意しすぎて子どもの活動を規制することは問題ですが。それから以前、親の会の中で、雷がなったらスイッチをオフにしようという話があったのですが、それは必要ありません。
もう一つ、何回かありましたが、プラスチックの滑り台の話。最近多くなりましたけど、あれを滑るとマップが壊れるという話があちこちで飛びまして、ある聾学校はプラスチックの滑り台を全部片づけたというところがありました。コクレア社のお話では、湿度が大変低いアメリカで起こったとのことで、そのときは、滑ることで体内器が壊れたようです。日本は湿度が極端に低くなることはありませんので、そのような体内機が壊れるという心配は必要ないと思います。ただ、わたしたちも何回かありますが、どうも静電気でマップが飛んで聞こえなくなったお子さんがいます。これは大きな問題でなく、すぐ病院にきてマップを入れ替えれば問題ありません。私たちが心配することは、人工内耳をつけているからといって、あれもダメ、これもダメと、子どもの行動を制限することです。ただ、親御さんは、そのような可能性もあると注意深くはしている必要はありますが、子どもの気持ちも大切にしてあげてください。「みんなが滑っているのに、ぼくは人工内耳つけているから滑れない」というのはちょっとかわいそうです。マップは飛べば入れ替えればいい訳で、問題はありません。機能形態的問題については、お医者さんにご相談ください。



第二に、能力障害についてですが、みなさんのお子さんは聞こえが悪いですから、言葉がよく聞こえないので言語の獲得が遅くなる。現在、マッピングの段階にいるお子さんがいると思います。マッピングに関して、スムーズにいけば問題はないのですが、始め、子供がつけたがらないとか、順調に進まないことがあります。お子さんによっては、新しい刺激に対して敏感で、スムーズに受け入れられない子もあります。私どものところは、60症例くらいありますけど、受け入れが悪いお子さんも場合には、少しずつ時間をかけて根気よく取り組みます。とにかく人工内耳を装用することを目的として、小さい音から慣れていくことです。人間ってすごいと思うのですが、Cレベルを最初上げると子どもは丸い送信機を取ったりするんですよ。でも1週間後、病院に来るときには、そのCレベルで何の問題もなく装用している。また少し上げて、また慣れてもらう。焦らず、あきらめないで根気よく受け入れるように務めていくしかないと思います。



ここに皆さんの会報にも書いていますが、音の聞こえのおおまかな発達段階があります。皆さんのお子さんが今どの段階にあるのか・・一段階は音に気づいて呼びかけるとハッとするとか音のオン・オフです。この段階は、マップピングを始めて速い子どもさんは1ヶ月くらいで分かってきます。私がお話しする例は、人工内耳で始めて音を聞いたお子さんの例ですが、人工内耳の前に少しでも補聴器を使っていると反応はもちろん速いです。これが第一段階です。

第2段階。いろいろな環境音に気がつく。この中には今その段階のお子さんがいると思います。4ヶ月から6ヶ月くらいになって電話や玄関ピンポンに気づいたり、カーテンのシュッと言う音に気づく。このようになりましたら、この環境音は何かということを子どもと一緒に探求してあげて下さい。その音の意味をわからせる。私たちは環境音を使って状況判断をしている。例えば、コツコツの足音で誰かが来る、その前に自動車の止まる音がすると宅配便だとか・・。いろいろ意味がわかって判断していることは生活上重要なことです。あまり意味がわからないで環境音だけガサガサ入っていると、次第に無視するようになります。するとせっかくの聞こえが本人の行動調整に入り込んでこない。ですからこの環境音はこうだよと楽しく発見し、分からせてあげるのが初期には非常に重要です。そして、このあたりからだんだん生活の中で日常的に使われる言い回し、例えば、お風呂に入ろうとか、ご飯食べようとか、学校に行くよということがその場面での状況判断に支えながらなんとなく分かり出します。第二段階ですね。

第3段階になると母音、あいうえお・・というのが、母音の聞き取りがかなりよくなります。日本語は母音と母音・子音によって構成されています。あ、い、う、え、お、か、き、というように母音、母音・コンビネーションですから母音がしっかり分かり発音できることは重要です。予測性の高い言葉の聞き取り、さっき言ったようにお風呂に入ろう・・とかが非常によくわかる。そういうのがわかっているのが8ヶ月くらい。お子さんによっては1年くらいかかることもあります。日常生活の言っている事がなんとなくわかるようになりますが、これは補聴器を装用した重度の難聴児の変化と違うことの一つです。補聴器では聞こえが十分でなかったので、なかなか聞いてわかるという変化がみられなかった。

第4段階では子音の聞き取りが上手になり、言葉や文章の聞き取りが非常によくなります。そして最後の5段階としては、自由な会話の中で、1対1で会話をすればかなり自由に会話が出来る。面と向かって話さなくても、日常会話はだいたいスムーズにお話しできるくらいの聞き取りになるという、一応の目安は知っておいていいかもしれません。聞こえは、他の発達と同じように、段階を追って発達していくということを改めて人工内耳のお子さんを見て感じます。皆さんのお子さんは今どの段階にあるのでしょうか。

それからお子さんの聞こえがどうも悪いと感じたり、あるいは聴力検査で悪くなったと分かったら、病院の先生に「どうも聞こえが悪い」「聞き返しが多い」と相談してください。また時々子どもがいやがる音があります。そのときは、我々は病院に持ってきてもらえる音であれば、もってきていただきます。そして電極のどこを刺激しているのか調べられますので、その電極のレベルを調整します。また、どうも高音が入りにくいとか急に母音の弁別が悪くなったようなときはマップに問題があることも多いので、お子さんの聞こえ方は日常的によくみておく必要があると思います。訓練だけではないです。機械が悪ければ効果が半減しますので、先週まで聞こえていたのに今週悪いよというときは、何かあります。それを訓練だけで聞け聞けというのは子供がかわいそうですので、そういうときはマップについてご相談ください。

そういうことで、聞こえがよくなれば、皆さんが子どもさんとのやり取りの仲で自然に聞かせながら言葉を育てていくと言うことです。ちょうど今、年中、年長のお母さんはそれをやってらっしゃる頃だと思います。

この中で、お子さんがインテをしている方?あとは聾学校ですね?聾学校の幼稚部でご指導受けているので、ここは私の専門なのですが、始められた方もいるので、言葉を育てるのはどういうことかということは皆さんご存じですが、ちょっとこういうお話をします。

うちの娘が1歳半で、言葉がぽろぽろでてきた頃です。「クッキー」という言葉を言い始めましたが、それがどう獲得されたかについて話しましょう。そのころ私は子育て専門だったので、アメリカからもらった美味しいクッキーがあって、一緒に食べようと思って、お座敷のところに座布団をひいてピクニックみたいにして、二人で座布団に座ってそのクッキーを食べたのです。「クッキーおしいね、ピクニックみたい」って食べたのです。それで娘は「クッキー」という言葉を獲得しました。その後、娘はそのクッキーを見るたびに、まず座布団を敷くんです。で、わたしにも座れといってピクニックのようにクッキーを食べるのです。毎回、毎回、座布団を敷くのは私も大変ですが・・おいしいおいしいとクッキーを食べました。これはどのくらい続くのだろう?と思ったら、4ヶ月ぐらい続きました。クッキーといったら、必ずその場面を作ってクッキーを食べる。これが子供の初期の言語獲得なのです。

こういう3層の絵を描きます。これは子どもの言葉発達の本によくありますが、子どもの言葉は、そこに全体的な「育ち」がある。どういう事かというと・・今の例は、娘がクッキーという言葉を獲得した例ですが、母親と一緒に座って楽しいなという情動がそこにあります。お母さんと楽しいピクニックごっこ・・という情動があります。そして、座布団を敷いて、ピクニックのようにクッキーを食べる。ピクニックごっこという行動のやりとりの理解があった。そしてその中でいろいろな状況判断、ピクニック場面の理解とか甘いクッキーとかの理解、認知といわれますが、そういう育ちもある。娘はこれが全部あって「クッキー」という言葉がここにはまった訳です。クッキーというたびに、娘はこれを全部思い浮かべ、実際に再現しているのです。そこにわたしたちがよくいう体験に基づく言語化があります。その体験は気持ちの情動的な面もあるし、行動的な面もありますし、認知的な面もある。体験というのはこれをすべて含んだもの。そういう体験の上に子どもの言葉はのっていくと思います。
その意味で年中・年長でお子さんの言葉を一生懸命育てていらっしゃる方はお子さんとこういった体験をする。いろんな体験をしてお子さんの気持ちの動き、体験、発見の上に言語をのせていくということはとても重要だと思います。子どもの言語獲得の基本はこれだと思います。
これを実現するためには、もちろんここにも書いたように、聾学校の先生のご協力もたくさんあります。医療機関、聾学校、親御さんの協力で、先生にはお願いしないといけないことはたくさんありますが、わたしは同時に子どもの言葉は最終的には親が育てていくもののように思います。我々も親の言葉で育ってきたわけですから。これは「母親法」といいます。やはりそういった子どもと母親のいろいろな経験、楽しい、あるいは苦しい経験を共有しながら、そこに言語をのせていく。そこに子どもの言葉を育てる喜びがあるかなと思います。皆さん方もそれをやってらっしゃると思います。ただ、言葉だけ教えようと思っても入らない。行動体験、情動体験、いろいろを通して、それが最終的な言語として結実していく。大人の言語指導などは、すでに大人は体験があるので、カードなどで扱えることも多いのですが・・・。子どもの言語は違います。ST養成の学校でも、カードで言葉を教えないで、情動と経験の中で本人が捉えていくことを言語化していかないと、非常に薄っぺらな言語指導になるよと言うのですが、病院ではやはりいろいろな限界があります。ろう学校の指導や親御さんは、豊かな経験を共有しながら言語化へと結び付けていくことができます。そして聾学校の先生には先生の役割があります。ただ聾学校で全てができるわけではありません。できないことは、家庭でやるのです。聾学校を上手に使うという言い方は適切ではありませんが、ろう学校や医療機関と上手にチームを組まれて、その上で、ご家庭の役割、すなわち、お子さんの言葉を、ご自分が育ったように育てるということのように思います。そして補聴器を装用した重度の難聴児の閾値でなく、人工内耳は言語音を獲得するための最低限の聞こえを提供しているわけですから、出来るだけ自然にそれができるようになったと思います。



しかし、やはりさっき申し上げたように人工内耳は限界がある。社会生活ではいろいろな不利益と出会います。限界のある耳ですから、ちょっと雑音があるとすぐ聞こえなくなる。成人の患者さんも、1対1ではわかるが、グループになったらわからなくなる。老人会などで、あっちこっちでいろいろな人が話をすると分からないと、よく言われます。これは0dBではない40dBの閾値の少し悲しい現状です。特に、なぜグループでわからないかというと、人工内耳の患者さんは、最初ある人の話が分からなくてもだんだんその人の話し方に聞こえを調整、チューンナップして、次第にわかるようになる。ところがグループはいろいろな話し方、声のトーンをもった人々が入れ替わり話すわけです。その人の話し方に慣れたとたんに話し手が変わる。そういう切り替えが難しいのです。これが人工内耳の閾値40dBの限界です。そしてさらに問題を難しくするものは、この聞こえ方のギャップがなかなか健聴者に理解されないということです。

後からビデオ見せますが、わたしの学部に、今3人の難聴の学生がいます。皆さんに3人が書いたのをお渡ししていますが、彼らと1対1で話すとまったく問題ない。補聴器が見えなければ健聴みたいです。二人は発音も素晴らしいです。ところが、ちょっと騒音があるとすぐ聞こえが落ちます。彼らに「授業ではどれくらいわかるの?」と聞きました。私の声ははっきりしていて、彼らが慣れているので、かなり授業でも分かるようですが、下を向いてモクモクと話したり、ぺらぺらとあちこち話題を変えて話す先生の講義では、「約3割です」と学生がいいました。これを聞いて、「うーん」と言葉がありませんでした。

私は子どもの難聴をやっていましたので、聞こえないなら聴かせてみせよう、そういう態度が根底にあるのです。ちょっとでも補聴器や傾聴態度を育てることを仕事にしてきましたから、口話もすばらしく育った学生たちに「授業で3割」と言われて何か地獄に突き落とされた思いでした。難聴の領域に長く身をおいていたにもかかわらず、今頃気づいたこと自体恥ずかしいことですが、まして健聴の人は全くそういうことがわからない。
昨年、学科にノートテークボランティアを授業に入れるために福祉の先生に難聴の学生がどのように聞こえているのかという話をしました。この学生たちには、先生方の講義はこれしか聞こえてない。1対1では、話がわかる学生たちのこの聞こえ方のギャップを知って、多くの先生達は発見だったと言われていました。福祉の関係者でもなかなか理解が難しい訳ですから、普通学校の担任の先生や一般の社会の人たちは、知らせなければ本当にわからない。例えば、インテをした難聴児が健聴のお友達に「ノート貸して」と頼むと、「なんで、あなたにノート貸さないといけないの?」となります。「だって、こうやってしゃべっているのに何で聞こえないの?」と。しゃべっているのは見えるけれど、聞こえは見えません。だから、どうしてしゃべれるのに聞こえないかわからない。また、後ろから声をかけたら反応しなかったから「あいつはシカトした」となる。

それで、皆さんの手元にある配布資料のHさんという女の子ですが、中学時代はいろいろ大変だったと本人から聞きました。聞こえ方のギャップが非常に大きいことで健聴の人たちの理解が難しいということなのです。私も最終的に理解していないこの聞こえの難しさ。親御さんの中にも、もしかしたらまだ理解してい方がいるかもしれません。そして子どもは、「こんなときには聞こえづらい」とか言いません。ところが成人の難聴者、あるいは人工内耳装用者と話すと、このことがとってもよくわかります。「体の具合が悪いときは聞こえも悪い」、「そういうときは人工内耳をつけたくないんですよ」と。ああ、子どもも調子の悪いときは聞こえも悪いし、つけたくないんだと理解します。ですから、わたしたちの親の会のお母さん達は時々成人の装用者と話す機会をもちます。毎年、バーベキューや新年会をしますが、そのときに成人の装用者とよく話す機会があります。そして成人の装用者はいろいろ教えてくれます。例えば、部屋がコンクリート壁だと反響するので、木の壁のほうが聞きやすい。成人の方は聞こえ方を評価して言葉で説明してくれるので、私たちにも大変参考になります。それから最近は、人工内耳の聞こえがよくなったことでまた別の問題がでてくる。ある装用者は、人工内耳は聞こえるので、聞こえる人として扱われることで、今度はかえって孤立を深めることがあると言われていました。親御さんたちは、そういう話を成人の方に聞かれるとことで、これからお子さん達が直面する問題の理解に役立ちますし、また健聴者である親の家庭の中で、どのよう聞こえが充分でないお子さんと関わっていくかということに参考になると思います。



「インテグレーションのために」ということで皆さんが先々インテを考えてらっしゃる方には、そのノウハウが10P、11Pにあります。10Pのはじめにありますが、インテグレーションの中で難聴児が問題を持つことは決して少なくない。では、どんな問題がというとですが、先日、ろう学校の通級担当の先生にお聞きしたことを紹介します。まず、クラスの中で仲間ができない。担任の先生や友達から理解されない。それから情報保障がないことから学力不振に陥る。あるいはいじめ、不登校、アイデンティティー・・自分は何者か、誰なのかというアイデンティティーの問題が起こる。このような問題があります。こんなこと聞くと何か心が痛くなるかもしれません。では、どうしたらいいか。

インテグレーションの準備があります。特に担任の先生との関係は時には難しくなることがあります。素晴らしい先生にぶつかるとラッキー。そうでないときは、アンラッキー。だいたい小学校は6年間ですから、1、2年はラッキー、3、4年がアンラッキー、5、6年はラッキーなどと表現したお母様がいました。学校は選べても担任は選べない・・どこでもそうですけどね。その意味で、ここにも書いたように担任の先生には聞こえのギャップは、始めは理解していただけないことが多いのです。難聴児を持った先生は「多少わかりますが、みんなと一緒にやっていますよ」っていいます。「殆ど聞こえない」と言っても理解できない。見れば一緒にやっていますのでね。そういう意味で担任の先生に最初から沢山申し上げるとパニックになったりします。であれば、徐々に担任を育ててほしいと思います。「聞こえているように見え、あんなに話していても、聞こえていないことが多い」ということを伝えていくことかなと思います。これがよくわかっていないと、どうしてノートテークを含めて、さまざまな情報保障が必要かということがわかってきませんから。このことがわかると、子どもと話すときは、面と向かって話す。大切なことは、要点を黒板に書く。FMの重要性。騒音対策。装用児と健聴児とのインターアクションの組み方など。いろいろなことをすることの必要性が明らかになってきて、実現しやすくなります。

インテの場合は皆さん、通級に通うと思います。この3番ですが、関東では難聴学級と聞こえと言葉の教室・・と二つあります。名古屋圏はわからないのですが。それから最近聾学校に通級指導教室というのができました。聾学校が、インテをしている子どもに対応しましょう・・というシステムができています。この通級指導教室は聾学校が申請しないとできない。今まで聾学校は子どもがインテしたらバイバイで、少し冷たかったことがあったのですが、このようなシステムができることはとてもよいことと思います。

ですから関東は三つの可能性があります。地域によっては言葉の教室か、難聴学級か、そしてろう学校の通級指導教室です。私は、インテをしてこのような通級教室に通うことはとても有効と考えています。「うちの子は言葉にあまり問題がないのに、時間を割いて通級に行く必要があるのですか?」と言われる母さんもいますが、今までの通級学級は、発音指導、言語指導を主とするところが多かったのですが、このごろは言語指導だけでなく、もっと子どもの心に対応しようと言う通級学級が増えてきています。そのためインテをしている難聴児を集めて、グループ活動をしたり話し合いをもったりする通級教室が増えてきています。

昔の話ですが、15年、20年前は、インテしたからには、難聴児は一学級に一人でよく、複数の難聴児を入れるとダンゴになってよくないと考えられていました。ところがそうすると子どもがクラスの中に自分のなじみがいない。ちょうど、皆さんが外国に行って、全部英語で自分一人が言葉が充分わからない、あっちみたりこっちみたりという状況に陥る。それにもめげずがんばれ・・といったわけです。そしてインテをしたたくさんの難聴児たちがこのような環境で頑張ってきたことも事実です。でも、子どもによっては、自分らしさが発揮できなかったり、友達から孤立して、心を痛めることもあるのです。そのためにこの頃は、であれば、1週間に1回でもいいから難聴のお友達が集まって、楽しく交わって、自分の話をしたり、友達の話を聴くことで、自分のことを再発見したり、自信につながるのではと考えるようになっています。自分と同じ補聴器、人工内耳つけている子があそこにもいるよ・・と子どもたちが生き生きしていくのはとても重要と考えている訳です。

私が最初に出会ったお子さんは26歳になりましたが、彼らはみんな1クラスに1人の難聴児でやってきました。画家、歯医者、レストラン経営、アパレルの会社の社員など、みなさん素敵な社会人になっています。ですからその意味でどちらがいいという問題ではないですが、最近の傾向としては、子どもの心に注目する傾向がでてきています。いつもいつも緊張していたら、子供も大変でしょう。同じ障害を持つ仲間がいたら救われる。仲間が集うことで問題解決の力を得て、またインテの中に戻っていけると、そう考える人も多くなっている。わたしの学生達も同障のお友達はとても重要だったと言います。通級学級だけでなく、ろう学校幼稚部のお友達関係は、これからも大切にしてあげたいのです。インテしてばらばらになっても、時々出会ったり、関係が切れないで続くということは、自分の心の成長にとって大切だったと難聴学生はいっています。

時代の流れというものがありますが、親御さんがお子さんの状態をみながら、選ばれることです。インテの中で一人でやれるすごい子もいます。ところがそうでないお子さんの場合、そういった同障のお友達と出会うことで、子どもの心の成長、自分の障害認識など成長過程で大きな役割をとるように思います。しかしこの点は議論の分かれることですし、どちらがいいとはいえません。

もう一つ、駒沢中学のことをご存知ですか?NHK教育で放映した難聴学級です。この前、神奈川親の会で駒沢中学の先生をお呼びしてお話を聞き、大変参考になりました。駒沢は難聴学級のある中学校で、難聴児が1学年5名くらいいるそうです。今まではそれを2、2、1と分けた。なるべく団子にならないようにと。でも、分けるより一緒にした方がいいのじゃないかと、1クラス5人、まとめて入れたそうです。そうしたときに、担任の先生がどう難聴児たちに対応したらよいかということで情報保障(ノートテーク)が始まったそうです。難聴学級があって、そこに難聴児をサポートする専門の先生がいますので、あのようなことができたとも言えますが、これからの一つのやり方かなと思います。是非お話を聞かれるといいと思います。

そういう意味で、通級学級というのはただ、発音だ、言語だ考えるより、インテしている難聴児たちのトータルなサポート機関と考えてもいいと思います。それに1週間に1度発音、言語をやってもあまり意味がないです。特に小学生は、発音はお母さんの担当じゃないでしょうか。発音を矯正されるのはとても嫌なことで、プライドが傷つきます。子どもたちの自尊心を傷つけず発音が直せるのはお母さんだからと言います。もし発音が気になるなら・・ですけれども。
昔の聾教育は発音を重視した。それがいろいろ問題を生んだというのはわかっています。あの人は発音がいいね〜。健聴みたいと。でも難聴児をこのようにみる見方は、やはり間違っていたと思います。ただ、発音があまり悪いとコミュニケーション障害になります。とってもいいこと言っても相手に伝わらない。それは残念です。ですからお母さん方に、相手に伝わるくらいの発音の明瞭度は獲得しておいたほうがいいですよと言います。そしてあまり健聴みたいに話すと、健聴者からの配慮が少なくなるので、ちょっと難聴らしいところも残した方がいいよとこの頃いいます。特に人工内耳の子さんの中には発音が明瞭な子どもが増えてきました。健聴みたいなのです。そうすると相手が本当に健聴と思いますので、ちょっと難聴らしさを残した方がもうかるかな・・と変な言い方ですが、思うくらいです。

人工内耳の発音指導は、補聴器のお子さんと比べてやはりとても楽です。装用2年でだいたい50音が発音できるお子さんが多いです。補聴器では大変な努力をしたハ行もサ行も5分の1くらいの努力で発音できるようになりますから、ちょっと手をかけてあげられることかなと思います。実生活のコミュニケーションでは、発音はやはり重要かなと思いますので。ただ発音がいいから・・ということではありませんが。

あと4番の「クラスの健聴児とイントロダクション」ではPTAに入るとか、役員をやれとかいろいろあります。そのあたりは読んでください。それから5番の情報保障としての要約筆記、12ページです。皆さんはノートテークとか要約筆記とか、宮下さんからこれからお話があると思いますが、だんだん社会的に少し頭を出してきました。20年前には、インテするお子さんにお母さんと一緒に予習復習を頑張らないと追いつけないよと送り出しました。要約筆記とか情報保障は考えても見なかったし、社会の風潮の中でそういうのは得られないという前提でした。しかし、それはやはり我々専門家の障害に対する認識が適切でなかったように今は考えます。ただ最近心配していることは、ノートテークが社会的に認知されたことで小学校入学時にお願いした方がいいでしょうか?など相談を受けます。あるいは学校が入れなければ、わたしが横で書きましょうか?と言われる母さんもいました。これは大変難しい問題です。

後から大学生の話をしますけど、大学に来て「要約筆記があるよ」っていっても、始めは受けたがらない大学生もいます。援助を受けるということは、自分の障害を認識することであり、自分はここがわからないから、だから援助が欲しということでしょう。でも小さな子は、発達段階的にもみんなと一緒がいいんです。全部わからないけど、わかるところからやりたいというのがあるし、周りはそれをサポートしたい。それなのに「これもあれも聞こえていない」「だからノートテークをつけなさい」と言うと、子どもの「全部じゃないけどわかるよ」という気持ちを潰してしまうこともあるのではないかと考えます。



最近、補助者をつける・・これもあります。お母さんに「補助者は何やっているの?」と聞くのですが、あまり明確は返事がありません。この補助者の動き方も難しい。難聴児にくっつき、その子とインテしている大集団の間に入ると、その子を集団からひきはなしてしまうこともあります。そのために目的のひとつである他の子どもたちとの関係がうまくいかない。それにいつも横について「あーだ、こーだ」といわれたら、子どももやっぱりいやですよね。その辺、自分がどれくらい聞こえないかがだんだんわかっていって、聞こえない情報をこうしたら保障できる、拾えるとういことが子ども自身がわかっていく時を待ってやらないといけないと思います。これはとっても大事なことです。援助を受けるのは障害を持っている人には簡単ではないということを皆さは理解していただきたいと思います。本人が本当に必要と思ったときに援助は役に立つ。ですので、情報保障、ノートテーク、いろんなことは頭に置きながらいつ頃になったらそれが必要か、子どもによって違います。子どもの心をききながら考えてあげてください。

私の学科の情報保障ボランティアをしている学生は、小学生の難聴児の情報保障を始めましたが、まだ授業には入りません。でもお芝居とか影絵など・・イベントの時は学生が横に行って台本を打ち込んだものを見せたり、パソコンノートテークをしています。子どもは舞台を見ながら、コンピューターの画面を見る。学生たちは、大学内だけでなく地域でもがんばろうということでやっています。イベント自体が特別ですから、抵抗が少ないようですが、その当たりで大変難しい問題ですので子どもの心に即しながらデリケートに扱って下さい。

写真はミシガン大学における難聴の学生と私の学科の難聴学生です。ミシガン大学の情報保障のお話しがお手元の資料に書いてありますが、こういう事が将来出来るといいなと思います。



もう一つの情報保障。手話通訳というのがあります。みなさんのお子さんがこれから先々手話が必要になるかどうかは子どもによって違います。聞こえがよくても手話が好きという子もいます。手話通訳士の派遣がありますが、これは聴覚障害者の特別なニード(医者にいくとか)の時に来てくれるもので、授業のように、毎週月曜日、9時から10時といっても来ません。さらに日本では、授業で手話通訳をやるだけの人材がそろっていません。将来、授業で手話通訳ができる人材をどうやって育てていくかということはとても大きな問題です。それから情報保障は、お金がかかるということは知っておいていただきたいと思いますし、このうような金の問題を解決するときに親の会のバックアップが必要になります。将来、「車いすにはスロープを、聴覚障害には情報保障を・・」という社会的認識を広めたいと思いますが、スロープは一度造ると眼に見えますし、後はお金がいらない。ところが情報保障はその現場にいかなくては見えませんし毎回です。春の学期には13回の授業がありますから、13回必要です。



これはアメリカで話を聞いたのですが、聴覚障害者への援助が一番お金がかかる。講義が通訳できる手話通訳者を見つけるのも大変です。情報保障の要約筆記者を育てるのも難しい。その意味で、簡単なことではありませんが難聴者の必要性を明らかにして頑張ることです。

皆さんにお渡ししたハンドアウト(配布資料)は、3人の難聴大学生の書いたものです。大変すばらしいので是非読んで頂きたい。まだお読みになってないかも知れませんが。彼らに「これを今日の会で渡していいか」と言ったら「いいよ」って言うので、それならメッセージもとたのみました。これからお見せします。

最初、Hさんというのがでます。補聴閾値は人工内耳の装用児ぐらいでフラットで40dBくらい。2番目にOくん。2000Hzから落ちています。3番目のTくんも高音が聞こえません。いわゆる重度難聴の典型的な装用閾値です。

(編注:前日に北野先生がデジタルビデオで学生たちを撮影された映像をテレビに映しています。)



O君/こんにちは。小学校から高校までずっとインテグレートしてきましたが、やっぱインテグレーションやって一番よかったのは中学校で部活動をして、共通のスポーツができたということです。これからの夢としては、とりあえず、大学を卒業します。がんばって。

T君/わたしの名前はTです。インテグレートしてやってこられたのは、大切なことは自分で調べる。わからないことがあったら、親がすぐ教えるのじゃなくて、自分で調べるように援助するのが大切だと思います。それがわたしのいいたいことです。とにかくあんまり悩まないでやりたいことをやって楽しい事が大事です。

Hさん/わたしはHです。私は小さい頃から親にやりたいことをやらせてもらって、それがいろんな人と関われていい経験になったので、皆さんも友だちと関わってみて下さい。あと、私は今まで聴覚障害の人と関わったことがないんで、これからは聴覚障害の人とかかわりたいと思います。ありがとうございました。

この3人です。T君の場合4歳まで聞こえていたそうです。それで、突然聞こえなくなって、ろう学校の幼稚部以降はインテできました。高音部がほとんど聞こえないのでT君はサ行が落ち、それが明瞭度の悪い一つの理由ですが、私は彼の言っていることが分かります。そしてその内容はとてもすばらしいものです。O君の方は、ほとんど同じ補聴閾値ですが、「ぼくはサ行を言うときは意識しています」と言っています。本人も聞こえないのですが、訓練しているので、発音はきれいです。

ここに丸が二つかさなった図があります。聞こえの世界と聾の世界があります。帯のようなものがありまして、聞こえの世界で使われているのが音声言語ですよね。そして聾の世界で一番聾に近いのが日本手話で、聾者同士が使っている手話です。これは音声言語とは異なる文法をもっています。この二つが合わさったところに、ピジン、日本語対応手話があります。日本語対応手話。これは手話サークルでつかう手話と考えてもいいと思います。この枠組みで3人の学生の動き方を見ると、Hさんはとっても健聴的な動き方をします。こっちの左の方にいます。実は皆さんにお渡ししたHさんの手記、自分の育ちについて書いたものですが、「私ははじめてこういうことを書きました」と。大学3年です。Hさんは大学でO君やT君と出会ったことで自分自身や難聴という障害をもつ自分がみえてきたのではないかと思います。

それからO君。補聴器に気がつかないと健聴のようです。発音も補聴閾値からみると大変明瞭です。彼はどちらかというと真ん中あたり。健聴とも関わり、手話も使えますし、聴覚障害者の友達もたくさんいます。「貴方は手話と口話とどっちが心地よいの?」と聞きましたら「どちらかというと手話」と言っていました。

T君は健聴ともばりばり関わっていますし、聾的要素も持っています。面白いのは、T君が多くの健聴の学生を引き付けていることです。私が3人の学生をみていて一番いいと思うことは、どの学生も生き生きして、その場その場でコミュニケーション方法を使い分けながら自分の動き方を確立しているということです。



私が突然手話の話を始めたので、皆さんのなかにはえっ!て感じられる方もいるかもしれません。私も聴覚活用に関して長い間仕事をしてきましたから手話に対してハードルが今でもあります。きっと健聴の親御さんの中にもそのように感じる方もいると思います。難聴児教育に手話を使うか否かということは歴史的な議論で、ここではふれません。ただ、人工内耳である程度の言葉を得られたのですから、自分の言葉で育てていかれたらいいのではないかと思います。「子供の言葉は基本的に親が育てるのがいいよ」ということです。そして健聴の子どもも15、16歳になるとアイデンティティーの問題に出会う。親のいうとおりには決して育たない。青年期になると「自分は何者か」ということで悩む。難聴児も同じと思います。悩みながら、ある子は健聴の世界に自分の場所をみつけ、またある子はろうの世界に近づく。また両方を、この学生みたいに両刀遣いになることもある。それは子どもさんが決定することだと思います。ですから親御さんは、手話を排除することもないし、手話だ手話だということでもない。それは子供が成長に即していろいろ悩み、「自分は何者だ?」と考えながら、自分の道、軸のどの当たりに自分の居場所を見つけるかということかもしれません。それを決めるのは、子どもさんの聞こえや言語特性、また社会性や性格特性、さらにご家庭の文化的、社会的要素とか、社会環境などいろいろあると思います。

そして健聴の親御さんや私ども健聴で難聴児に関わる者ができることは、聞こえと聞こえないところが交わるこの領域のなかで彼らの居場所を一緒に創ることかもしれません。それには、ノートテークや手話による情報保障ももちろん大切ですが、聞こえない、聞こえにくい人と聞こえる人が一緒に活動するためにはいろいろ繊細な配慮がいります。その全てが広い意味で情報保障であり、ノートテークや要約筆記だけが情報保障ではありません。

この資料にも書いてあるのですが、私のクラスでさっきのO君、よく居眠りをするのです。賢明に聴こうとするので疲れるのです。例えば、太田君ととんかつを食べていて、そこに芥子があって、「辛子とって」というと分かります。でも高音部が聞こえないO君の耳には「あらい」に近く聞こえます。しかし状況判断でわかってとってくれる。O君は「僕たちは、聞こえないところは目で補っているのですよ」というのです。つまり、充分でない聞こえを状況判断や予測を使いながら補っているので疲れるのでしょう。皆さんが外国に行って、1日中、その言語を一生懸命聴いたらどのくらい疲れるか、おやりになったらいいと思います。ですから、人工内耳のお子さんも一生懸命聴いています。常に聴こうとすることはとても疲れます。この疲労のことは周りの人が知っていなければならないと思います。

それから、難聴の学生がゼミにいますが、話し合いには1.5倍くらい時間がかかります。わっとみんなで話すと分からないので、一人一人。難聴学生と話すときは顔を向ける。そういう手続きをすると1.5倍の時間がかかります。時々すれ違いで誤解したりする。いろいろあります。そういう事に対して細かく言いませんが、細かい優しさと配慮ということはとても必要かなと思います。

ご家庭でも人工内耳のお子さんがいたら食事の時にみんなでわーわーいったら、子どもは孤立します。みんなで話さないで一人づつ話す。話す前に子供の注意を引く。そういう配慮をしないと、家族の団欒のなかで装用児は孤立します。

私どもの病院で3歳少し前に人工内耳の装用を始めて、今、小学校2年のU君というお子さんがいます。聞こえもよく、楽しいおしゃべりをします。そのU君の健聴の弟がお母さんと話をしていた。で、U君が弟に「今なに話していたの?」。弟は「お兄ちゃんには関係ないよ」。U君は「僕に関係なくても知りたいのだよ」と言った。これが聞こえ方のギャップです。

そういう意味で、この3人の学生も1対1で「聴く気」になるとよくよく聞こえます。ここれを英語では「listen to」と前置詞の「to」
が入ります。ところがもう一つの聴くは「hear」・・英語でも使い分けています。そして英語では「overhear」という言葉があります。それは自分に向かって言われなくて、この辺にいて聞こえてしまうことです。日本語には「小耳に挟む」といういい表現があります。ところがU君が弟とお母さんの話が聞こえないように、装用児にはこの小耳がない。これアメリカで以前聞いたのですが、人が受ける言語情報の40%は面と向かって言われるもので、あとの60%は小耳に挟む情報。この数字はもちろん状況によって違いますが、小耳に挟む情報は、われわれの状況判断や対人関係に非常に重要な情報であることが多いのです。ところが人工内耳の子どもはこれが聞こえないし、また他者にも聞こえていないことが分からない。その結果、情報から孤立し子どもの状況判断を狂わせることになる。

例えば、我が家で夫婦が言い争っている。健聴の娘は、2階でもちゃんと聴いていているので、そのときは「お小遣いくれ」なんて絶対いいません。小耳に挟んだ情報で自分の行動を変えていく。ところが難聴児にはできない。で、「お小遣いちょうだい」となります。「なんでこんなとき」と思うかもしれませんが、それは子どもの配慮がないのでなく、入るべき情報が入ってないことで微妙な行動調整ができづらいということです。よく聴覚障害者は人の気持ちがわからないと言われますが、それよりも状況判断するための充分な情報が入ってこない、その結果と思っています。繰り返しますが情報保障というのは、聞こえない、聞こえにくい人と聞こえる人が一緒に活動するためのいろいろ繊細な配慮だと考えます。

最後に、5、6年前には、「人工内耳ってこんなに聞こえる」という話を沢山しました。確かに補聴器と比べて、すばらしいものです。しかし数年後の今、「人工内耳を装用しても充分聞こえない」という話をしています。「人工内耳には限界がある。その限界を超えるのは本人の努力と周りの人々の優しい配慮」であると。人工内耳の聞こえがよいほど、さらにもっと細かい配慮をしないといけないと考えています。






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