ももちゃんワールド2

ももにゃんのダイエット日記
(栄養失調食日記)(^_^;)      バックナンバーはこちら


8月29日(日)

名古屋市中途失聴・難聴者福祉連合会(名難聴)のTさんから、メールがあって、人工内耳相談会を開催するが体験談発表をする人が都合が悪くなったので、代わりに話してほしいとのことだった。いつもお世話になっているので、引き受けることにして、当日15分くらいお話した内容を日記の代わりに掲載することにした。(久しぶりで済みません。)(^_^;)

人工内耳の手術後9年

 私が人工内耳手術をしたのは今から9年も前のことです。技術の進歩は早いので、現在は大変よい人工内耳機器が開発されており、聞こえも向上していると思います。また、私は5歳の時に失聴して、ほとんど聞こえないまま、43年という長い期間を経過してから手術しました。参考になるかどうか心配ですが、体験談をお話しさせて頂きますのでよろしくお願いいたします。

 私は5歳の時、小児結核になりそのとき治療に使用したストレプトマイシンという抗生物質の薬の副作用で耳が聞こえなくなりました。「ストマイ難聴」と一般に言われている重度難聴者のひとりです。私は失聴するまでは普通に聞こえていて、歌も普通に歌え、文字も覚えていて、本を読むことも出来ましたので、年令は幼くても、日本語の言語は一応獲得できてからの中途失聴者であると思います。聞こえなくなった当初は100デシベル前後の重度難聴でした。

 大阪や東京の有名な大学病院の耳鼻科のお医者さんにお会いして、診察していただきましたが、どの先生も「お子さんの耳の神経はダメになっていますので、現在は治療は不可能です」といわれるばかりでした。そして、年を取ると共に、わずかに残っていた聴力もだんだんと落ちていき、40年が経過したころには、どんなに高性能な補聴器をつけても全く音が聞こえなくなっていました。私の周囲の人は健聴の普通の人ばかりで、私は手話も読話もほとんど分からず、全て筆談で仕事も生活もしている状態でした。そして、「もう私はこのまま一生音のない世界で過ごさねばならないのだ」というあきらめの気持ちでいました。

 そんなとき、今から9年前の平成7年の夏に、いつもお世話になっている岐阜市の耳鼻科医の中山先生が、私の妻に「この間、学会で人工内耳の講演を聞いたが、あなたのご主人ならやったほうがよいと思うがいかがですか?」とすすめてくださったのです。これが人工内耳を知ったきっかけでした。

 今までにも、新聞や雑誌などで「人工内耳」の記事を読んだことはありましたが、「自分のような神経が駄目になっているものには効果がないだろう」と思い、自分には関係のないものとして、手術を受けようなどとは考えもしませんでした。いままで、いろいろな治療を受けて何の役にも立たなかったので、「どうせ期待しても無駄だ」というすてばちな気持ちもあったと思います。しかし、信頼している中山先生がわざわざ奨めてくださることに心を動かされ、「どうせダメでももともとだから」という妻の言葉に励まされて、話だけでも伺いに行こうと思いました。そして、中山先生の紹介状を持って大津赤十字病院へ耳鼻科部長の伊藤壽一(いとうじゅいち)先生を妻と共に訪れました。

 伊藤先生に今までのいきさつを説明し、聴力検査をして頂きましたが、その結果はスケールアウト(全く聞こえない状態)でした。そのあとで、「人工内耳手術に適していると思いますが、もう一度来院されてきちんと検査を受けてみる必要があります」といわれたときは、びっくりして思わず「本当ですか?」と胸がどきどきして興奮しました。「水口さんのようなストマイによる感音性の難聴は、かなりの手術例があり、良い結果がたくさんあります。」といわれました。また、健康保険が効くようになってほとんど費用の自己負担がなくなったことなどを説明していただきました。そして、「この本を読んでおいてください」と『音のない世界から音のある世界へ』という小冊子を渡されたころにはほとんど夢心地になっていました。帰りの列車のなかで小冊子を読んで人工内耳のだいたいのことが理解でき、伊藤先生の優しい人柄に安心して、手術を受けようと決心したのでした。(伊藤先生は現在京都大学医学部の教授として国際的に活躍しておられます。)

 平成7年10月に血液検査、心電図、プロモントリーテストなど各種の検査を受けに再度大津へいきました。12月20日前後に手術をすることになり、1ヶ月間の入院の手続きをしました。12月15日に入院し、12月21日に全身麻酔で左耳に手術を行いました。そしていよいよ平成8年1月5日に音入れをしていただきました。

 初めての音入れは音がビンビン響いてとても聞きづらい感じでした。小さい頃聞いた覚えのある音とは全く違う音で、音というよりは、金属的な不快な刺激でした。しばらくつけているうちに頭痛がしてきて、軽い吐き気まで催してきました。テレビを見てみましたが、声が聞こえるという以前の問題でとてもまともな音とは思えませんでした。43年間聞こえなかったので、神経がびっくりしているのだろうと思いましたが、とにかく音が入っていることにほっとした気持ちと、想像していた音とは大変な違いがあることにがっかりする気持ちが入り交じった複雑な思いでした。しかし1週間もすると、きんきんとはするもののだんだんそれらしい音になり、人の話し声もそれらしく聞こえるようになってきました。1ヶ月もたつとすこし単語が聞き分けられ、妻との会話がすこしづつできるようになってきました。

 こうして、「音のない世界」の住人だった私が「音のある世界」に復帰する日がようやくめぐってきました。私の父は80歳を越え、母も年を取りましたが、今まであきらめていた息子の私の耳がこのように回復したことを泣いて喜んでくれました。両親が元気なうちに再びこのように会話ができるようになった姿をみせることができるのが、なによりの親孝行になっています。

 さて、9年経過した現在、肝心の「声がどの程度聞こえるか」という点については、私としてはある程度満足しています。妻や家族との会話はほとんどできるようになりました。ただ、やはり意識してゆっくりはっきりと分かるように話してくれないと聞き取れません。しかも完全に分かるわけではなくて、ときどき聞き返さないと間違って受け取ってしまうことがあります。妻は私に「私がしゃべったことは、オウムがえしに言ってください」ときついことをいいますが、これがとてもよい聞き取りの訓練になっているようです。以前は筆談でばかり話をしていたのですが、まがりなりにも会話ができるようになったことで、妻の負担は精神的にも肉体的にも非常に軽くなったと思います。

 テレビやラジオは、はじめは10%も聞き取れればましな感じでしたが、9年もたつとだんだんと分かる部分が増えてきました。定型的なニュースはほとんど聞き取れるようになりました。現在は「静かな場所で」「1対1で」「ゆっくりはっきり」話して貰えれば、ときどき聞き返すことはあるものの、なんとか会話ができるようになっています。これは人工内耳装用者の平均的な聞こえであるということです。

 一番、嬉しかったことは、携帯電話が使えるようになったことです。私は幼児期に失聴したので、それまで電話がまったくできず、非常に悔しい思いをしていました。電話恐怖症とでもいうか、受話器が怖くてさわれなかったのです。5年前に思い切って携帯電話を購入しましたが、そのころはまだ性能がよくなく、雑音がひどくて使い物になりませんでした。それで、3年前に最新の携帯電話に買い換えたところ、これが非常によく適合したのか、殆ど雑音もしなくて明瞭に聞こえるものでした。これを利用してまず妻と練習をはじめ、いまでは、家族や親しい友人とならだいたいの会話が電話で出来るようになりました。もちろん、通常の込み入った話をしたり仕事に利用したりするのは無理ですが、今では連絡に無くてはならないツールになっています。

 このように43年間の空白の期間を経て私に音が戻ってきましたが、私の場合中途失聴といっても失聴期間が長いので聞こえに関しては生まれつきの聾者に近く、かといって耳の聞こえない人たちとあまりおつきあいがなかったので手話も口話もたいしてわからず、中途半端な存在でした。しかし、「話ができるようになりたい」といつも心の底で願い、聞こえないながら普通の人間として生きていけるように人一倍新聞や雑誌や本などを読んで言葉(日本語)に対する感覚を失わずにいたことが、結果として人工内耳によく適応できているようです。

 人工内耳手術を受けてから9年経過しましたが、以前の私には考えられないくらい積極的に外へ出ていき、人と話をするようになりました。もちろん全部わかるわけではなくて、分からないときの方が多いのですが、例えば市役所の窓口などでは聴覚障害者であることを伝えれば、ゆっくりとわかりやすく話していただけるのでほとんど聞き取れるのです。こういうことが重なっていくと不思議なことにだんだんと自信がついてきて、「分からなくてももともとだ」という気持ちで人と話ができるようになってきました。

 日本全国では現在3000人の同じ様な人工内耳の手術を受けた方がいて、「人工内耳友の会」という会があります。現在私はこの「人工内耳友の会」の「東海支部」の事務局をさせていただいており、東海3県の会員約300人の方達と人工内耳の正しい知識の普及と情報交換、会員の親睦を目的として活動しています。最近では、生まれつきの重度難聴児が早くから人工内耳を適用して言語訓練を受けた結果、普通の小学校へ入学して立派に勉学していけるというめざましい事例も増えてきており、私は未来を担う子どもたちのために少しでも頑張りたいと思っています。

 人工内耳は「音のない世界」に住んでいた私のようなものにとっては、まるで神の奇跡のような福音です。しかし、人工内耳はまぎれもなくコンピュータなどの現代の最新の科学と医学が融合した成功例であり、この実現のために20年以上も前から日本や世界中の大勢の医者や、技術者などの関係者の方々が研究し、開発に適用に努力されてきたことに感謝を忘れてはならないと思います。

 人工内耳は魔法の器械ではありませんし、誰にでも適用できるというものでもないし、聞こえには限界があります。また、はじめからよく聞こえるというものではなく、執念深いリハビリが必要です。しかし、そうした限界をよく理解して活用できれば、補聴器でも全く聞こえない者にとっては、かけがえのない素晴らしいものです。

 そして、私のように情報に疎かったために、せっかくの人工内耳があっても適用できることがわからず「音のない世界」で日を過ごしている方に、人工内耳の正しい知識を伝え理解を深めて頂きたいと願っています。どうか、補聴器でも聞こえない方は、勇気を出して人工内耳の専門のお医者さんに相談を受けにいって下さい。私どももいつでもご相談に応じますので、FAXなどでご連絡をしてくださいますようお願いいたします。

 皆様、ご静聴有り難うございました。


8月6日(木)

「こどものころの夏の思い出」その3


母の姉、つまりももちゃんの叔母さんは、命の恩人であるが、そのご主人は岐阜の紡績で成功した立志伝中の人物である。アイデアと工夫と発明と努力で、一代で紡績会社を築き上げた人で、ももちゃんはこういう話もなかなか好きなのである。

このおじさんのアイデアというのがちょっと面白くて、戦時中の衣服が極端に不足していた時代に、野生の植物、つまり雑草から繊維を採取してそれで布を作ったということだ。イラクサやアカソやチョマという、そこらへんに生えている雑草を大量に採取して、糸にして布を作り、それで衣服を作ったところ、物資不足の折、大ヒットをしたのだそうだ。

もちろん、そうした雑草は普通の繊維とはちょっと違うので、糸にするには工夫がいる。また、服といっても荒っぽいジーンズ(というか、ずた袋)のような粗末な衣服しか作れない。しかし、そういう粗末な衣料品でも当時は貴重品だったのである。

叔父さんは、独特の鉄の水車のような格好をした開繊機という、脱穀機のような道具をこしらえて、それで雑草から繊維をとったのだそうだ。ちなみに、その開繊機に雑草を入れて、繊維をとる作業をしている古い写真があり、意外と鮮明なのだが、それに写っているのが若き日のももちゃんの母なのである。もちろんこのときはまだ独身で、戦前の質素で素朴な装いだけど、我が母ながら、なかなかチャーミングな女性に写っている。

また、叔父さんは、大きな紡績会社からごみとして捨てられるような糸くずに目をつけて、これをちゃんとした繊維にして、それから布を作る機械も作り上げた。こういうのは、いわば現代のリサイクルのはしりのようなものであろう。(ちょっと田舎者の貧乏くささがするけどね。)

叔父さんのユニークなところは、アイデアだけなら誰でも考えつくだろうが、普通は実現不可能だとすぐあきらめてしまうところを、自分で機械をこしらえて実現してしまったというところにある。自分のアイデアを形にするために、岐阜工業高校繊維工学科の優秀な卒業生を採用して、部下として鍛えたのだそうだ。

終戦後、焼け野原になって、叔父さんのそれまでの会社も工場も空襲にあって、無一文になってしまった。しかし、三菱レイヨン岐阜工場の焼け跡から焼け焦げた紡績の機械を大量にもらってきて、部下たちと一緒に修理してして使えるようにしてしまったというのだから、リサイクルもここまですれば、ど根性がすわっている。

ただでもらって修理した機械で糸を作ったというわけだったが、これが戦後の衣料品不足の時代だったので、羽がはえたように売れた。叔父さんは本格的な紡績工場を建てて、いろいろな新しい糸を作り出して、大もうけをして戦後の成金になった。これが叔父さんの立志伝のあらましである。

さて、叔父さんは金持ちになったので、長良川畔の料亭の跡地を買って、瀟洒な自宅を建てた。大変由緒ある料亭だったらしく、その玄関には「このあたり目にみゆるものみな涼し」という芭蕉の句碑が立っていた。その家の目の前の庭続きに長良川の河原があるので、夏になると、そこにやぐらをかけて座敷を作り、取引先や親戚や外人を招いて、花火大会の見物を行った。

ももちゃんも子供のころに、この長良川の花火大会見物に呼んでもらったことがあり、貴重な夏の思い出となっている。なにせ叔父さんは金持ちなので、けちなことはせず、客だけでなく、子供たちにも豪勢な食事やお菓子や果物がでて、ご馳走が食べ放題で、ももちゃんにとっては夢のようなひとときであった。

ワイフにいわせると、そういう贅沢な遊びはよほどのお大尽でないとできないし、莫大な散財をするから、一般庶民には無縁のもので、ももちゃんは実に稀な幸運な経験をしたのだそうだ。シンデレラみたい。(^_^;)

もちろん、ももちゃんも普通一般の庶民の家庭であるから、通常は花火大会といっても、ごく普通のささやかな見物をするだけである。家から歩いて10分くらいのところに長良川の堤防があり、夕方になると、近所の人たちが浴衣を着てうちわをもって、堤防を歩いて花火大会の会場に向かう。堤防の上からは、遠くの花火が小さく見えるが、歩いていくにつれてだんだん大きく見えてくる。

会場の近くに来ると人がいっぱい集まっていて、河原敷に敷物を敷いて座っている。ホットドッグ、お好み焼き、イカ焼き、、、、といった屋台が並んで、ソースやしょうゆの匂いが流れてくる。こういうのが通常の花火大会の楽しみ方だ。

ところで、叔父さんは功成り名遂げて、地元の名士となって亡くなったが、その後叔父さんの作った紡績会社もバブル景気がはじけるのと時を同じくして衰退してしまった。あの粋な料亭風の自宅も人手に渡り、今は整地されてしまって、芭蕉の句碑だけが残っている。

華やかに夜空を彩る花火は、華やかであればあるほど終わったあとの寂寥感を強く感じる。人生もそれと同じで、素晴らしいものをみたという満足感とともに、一瞬にして終わった夏の夜の夢のようにはかないのである。


朝飯:ご飯1ぱい、納豆、味噌汁。
昼飯:食パン1枚、ハムエッグ、牛乳。
夕飯:ご飯1ぱい、チキンの照り焼き、きうりのサラダ、味噌汁。


8月5日(木)

「こどものころの夏の思い出」その2


軽い夏風邪をひいて、体調が不良なので、ここ数日、日記をお休みさせて頂いた。健康でおいしくご飯が食べられるということが一番の幸せであるかもしれない。

人生、楽あれば苦ありという。ももちゃんの幼年時代は5歳のころまでは普通の幼児と同じものだった。しかし、もうすぐ小学校へ入学するというある冬の日、突然の不幸に襲われた。今まで元気だったのが、急に原因不明の高熱を出して寝込んだのだ。高熱の中で意識は急速に薄れていき、砂漠のような世界をさまよっている幻覚にうなされた。体が重くて動けず、そのくぜ周りの幾何学的な模様が渦巻いた。そして砂漠の底へ吸い込まれるような苦しい足掻きのなかで、ふとやわらかいものに触れて、夢中でしがみついた。それは、母が瀕死の我が子のそばで自分の乳房を与えようとしていたのだった。そしてその母の乳房の感触によって、かろうじて死の淵から引き戻されたのだった。

大学病院に緊急に入院して、検査の結果、ももちゃんは急性小児結核に犯されていることがわかった。結核は当時は国民病の不治の病であった。周囲にはだれも結核の人はなく、なぜ小児結核にかかったのか、今に至るも原因不明である。ももちゃんの命もあとわずかという瀬戸際であった。母の姉、つまりももちゃんの叔母さんは、岐阜の紡績会社の社長の奥さんだったので、当時のアメリカ進駐軍に衣料品を収めている関係で、進駐軍に知り合いがあった。そして、つてを頼って、当時貴重品だった抗生物質のストレプトマイシンを進駐軍から入手してもらい、治療に使用することができた。その特効薬のおかげで命だけは助かった。

ももちゃんは、そのまま大学病院の一室に入院して7ヶ月近くをベッドに伏して闘病生活を送った。母は姉をおばさんにあずけて、ずっと病室に看病につききりであった。春が過ぎ、夏が来て、ようやく体調が回復し始めた。毎週のように、背骨から髄液を抜き取って検査をするため、太い針を腰骨に打たれるのは子供にとって死ぬような痛さだったが、よく我慢して泣くのをこらえていた。そういうももちゃんを病院の医者や看護婦は可愛がってくれたものだ。

回復しだしたももちゃんのために、母はいろいろな絵本や童話を読んでくれた。もうすでにひらがなやカタカナを覚えていたので、簡単な絵本は自分で読むことができた。巌谷小波の「こがね丸」という童話がお気にいりだった。犬の格好をした若侍があだ討ちをするという話だったと思う。母が読んでくれる童話はももちゃんを空想の世界へ誘った。また母は知っている限りの童謡や歌を歌ってくれた。夏の日の爽やかな朝に、病院の庭に咲き誇るひまわりを見ながら、もうすぐ退院できる日を指折り数えて楽しみにしていたのである。

退院しても、しばらくは起き上がれず自宅で療養生活を送った。はじめは歩くことも出来なかったが、こどもの体力というのは不思議なもので、いつの間にか起き上がれるようになり、歩けるようになって回復していった。小学校入学は1年遅れたが、今度の4月には無事小学校へ入れるはずだった。

ある日、ももちゃんが家の廊下でひとり遊んでいると、母が手招きしているのがわかった。母はいくら名を呼んでも反応がないので、非常に不安を抱いたのである。そして、急いで病院へ行って診察した結果、ももちゃんの耳が聞こえなくなっていることがわかった。補聴器をかけてもほとんど分からない重度の難聴だった。その当時は、薬物による難聴は治す手立てがなく、どうしようもなかったのだ。ストレプトマイシンやカナマイシンといった抗生物質は劇的な特効薬ではあったが、強い副作用があり、体質によっては聴力を失うことがまれではなかった。一般にストマイ難聴と言われている。

唯一の救いは、本が好きで読書が趣味だったことだ。ももちゃんは普通の小学校へ入学し、中学校、高校、大学と進学していったが、おそらく読書の習慣がなければ、とてもついていけなかっただろうと思う。そして、音のない世界に暮らすこと43年間にして、やっとももちゃんは人工内耳にめぐり合った。手術の結果、不完全ながらも会話が出来るようにまで回復した。父や母はもう年老いていたが、息子が音をとり戻したことを泣いて喜んでくれたものである。

ももちゃんはよく、運転しながら車の中で大きな声で一人で陽気に童謡を歌う。人工内耳の声の聞こえ方をそうやって調整しているのだが、あの病室の夏の日に母に歌ってもらった童謡だけしか歌を知らないのである。他人が聞いたらとんでもない調子はずれの歌であろう。しかしももちゃんにとっては、母の歌ってくれた童謡の記憶は、おそらく聞こえていた幼いころの最後の言葉の記憶であり、大切な、そして懐かしい歌なのだ。


わがきみに捧げるオード(イエィツ)

耳に聞くメロディーは 妙なれど
聞こえざるは さらによし
さればやさしき野笛よ
官能の耳にはあらで 魂のため
音なき音を かなで続けよ
さらにいとしきその歌を。


朝飯:ご飯1ぱい、のり、焼きジャケ。
昼飯:てんぷらうどん。
夕飯:ご飯1ぱい、冷シャブ、レタスのサラダ。


8月1日(日)

「こどものころの夏の思い出」その1


ももちゃんの両親は2人とも岐阜県郡上郡美並村の出身である。美並村は岐阜県の中心部にあって、日本全体からみても中心にあたり、東海北陸自動車道の美並ICの近くに「日本まんまんなかの塔」というセンターが建てられている。

ももちゃんの小さいころは、毎年夏の盂蘭盆、つまり8月15日近くになると、一家でお墓参りに郡上へいくのが行事であった。戦後間もないころだったから、いまのように交通が発達しているわけではなく、道路はせまくて舗装もされていない長良川沿いの郡上街道しかなかった。自動車など普及していなかったころである。

ももちゃんは両親と姉と4人で朝早く家を出て、まず岐阜から名鉄のちんちん電車に乗って美濃までいった。当時の市電は小さな木製の車体で非常に遅い速度で走り、網棚のところにひもがとおしてあり、片方に鈴がついていた。後部の車掌は発車するときにこの紐を引く。すると鈴が「チンチン」と鳴って運転手に出発の合図が分かる。これが「ちんちん電車」の名前の由来である。

1時間くらいかかって美濃へつくとそこから30分くらい歩いて「美濃太田」(訂正→美濃)駅にいき、国鉄(JR)越美南線に乗り換える。本当は岐阜県と富山県を結ぶはずだったが、中央の白川郷あたりが難工事のため手付かずのまま、富山からは越美北線、岐阜からは越美南線となったといういわく付きの単線のローカル線である。今は「長良川鉄道」という第3セクターの経営になってほそぼそと存続している。

ディーゼルカーはいくつもの無人駅をのんびりと経過していき、こどもにとってはとほうもない長い時間の末に、ようやく深戸という駅に昼ごろにつく。まわりは田んぼばかりで雑草が生い茂っている草深い田舎の駅である。駅からまたしばらく歩くと、長良川のほとりに出る。そのころの長良川には橋らしい橋は少なく、向こう岸へ渡るにはたいてい渡し舟を利用したのである。父が岸辺から大きな声で「おーい」と呼ぶと、向こう岸の船頭が小船を出してくれる。川が急流のため、太いロープが張られていて、船頭はそのロープを手繰って船を向こう岸に渡すのである。

向こう岸につくと、またそこから草ぼうぼうの道をしばらく歩いて、ようやく目当ての叔父さんのわらぶき屋根の家にたどり着いたときには、ももちゃんはすっかり疲れ果てて世界一周のような大旅行をした気分であった。叔父さんの家は、かなり大きくて、昔は庄屋をしていたような家柄で、土蔵があり、見たことがないようなふるい道具がたくさんおいてあった。ここは母の生まれたところで、母は7人兄弟の末っ子だったので、一番上の姉さんとは親子以上の年の開きがあった。お盆には親戚縁者が一同に集まって法要とお墓参りを盛大に行うのが慣わしだったのである。

ももちゃんのいとこは、いずれもみな年上で、いとこ会を結成していた。いとこが集まったところでマージャンをしたり、川へ鮎釣りやうなぎ取りにいったり、郡上八幡へ盆踊りに繰り出したり、いろいろな遊びに忙しく、ちいさいももちゃんは仲間に入れてもらえなかったが、なにかと可愛がってもらったことを覚えている。おじさんの家は当時の典型的なわらぶき屋根の農家で、牛や馬が家の中で大事に飼われていた。にわとりや七面鳥ややぎなどもいて、動物園のようであった。(「となりのトトロ」を見たときにはあんまり風景がそっくりなのでびっくりしたものだ。)

お盆の当日の朝、一族でそろって山の中腹にあるお墓へ歩いていき、先祖代々の苔むした墓にひとつづつ線香や花をそえて、水を注いでお経をあげるのである。郡上郡からは大勢の若者が、日清・日露戦争や太平洋戦争で戦死していった。そういう血縁の若者たちの墓も並んでいたのである。そして、墓参りから帰ると、ご馳走がまっていて、当地でとれた鮎の塩焼きは言うに及ばず、野菜の料理やとうもろこしやスイカや瓜がふんだんに並んで食べ放題であって、ももちゃんの楽しみだった。農薬などを使わずに自然に作った作物はいずれも味が濃厚でおいしかったものである。

昼になると、大勢で長良川に遊びにいき、青年たちは鮎を釣り、子供たちは浅瀬で水遊びをした。そのまま飲めるほど清く透き通った川は、緑の森と青い空を映して例えようもなく美しく、ときおりかわせみなどの鳥が、小魚をくわえて飛び去っていった。こうして夢のような幼年時代の至福の時がながれていったのである。

半世紀後の現在、美並村は郡上市となり、道路網も発達し、長良川にはいたるところに立派な橋がかけられ、東海北陸自動車道で岐阜から40分あまりでいけるようになった。山の中の草生したお墓も整地されて立派な墓地に生まれ変わった。もも家の先祖代々のお墓も分家をして、岐阜市内のお寺に置かれ、夏に郡上へ墓参りにいくという行事はいつの間にか消えてしまった。もう、当時のおじさんたちも親戚の人たちもほとんどは他界されて、あの美しい郡上の風景の中で眠っている。

ももちゃんは夏がくるとあの幼いこどものころのお墓参りを懐かしく思い出す。あの長良川の清らかな源流の思い出や、日本の失われてしまった山村の原風景の記憶がかすかにまだももちゃんの中に残っている。そして、室生犀星の詩のフレーズが心に湧き起こるのである。

いろあおき魚はなにを哀しみ
ひねもす空をあおぐや
空は水の上に輝きわたりて
魚ののぞみ届かず
あわれ空と水とは遠く隔たり
魚はかたみに空をうかがう


朝飯:おにぎり2個。
昼飯:フィッシュサンド、オレンジ100%。
夕飯:ご飯1ぱい、アマゴの塩焼き、かぼちゃの煮物、サラダスパゲッティ。



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