タイトル 登録日 改稿日
コラム005 PCの自由 01/08/30



 RPGの導入としては些かステロタイプだが、「PCが通りを歩いていると、1人の少女が、複数の男に追われている所に出くわす」というシチュエーションが提示された場合、あなたならばどのような反応を返すだろうか?
 人によっては迷わず「少女を助ける」という行動を取るだろう。
 この手の導入が嫌いで、敢えて「関わり合いにならない」というプレイヤーもいるだろう。
 だが、最も多いのは「時と場合による」という人ではなかろうか。

 私がプレイヤーならば、

「何故、少女は追われているのか? 非はどちらにあるのか?」

という事を第一に考える。背景世界設定やキャラクター知識から見当がつかないかマスターに尋ねたり、可能ならば両者の間に割って入って双方の言い分を聞こうとする。
 その結果、「追う側の男たち=悪漢」「追われる少女=純粋な被害者」と判明して初めて、少女を助けようとする行動に出る。

 状況が不明瞭で、どちらに理があるか分からないまま介入して状況を“決定的な展開”に導く行動……例えば、「男たちを足止めして、少女を独りで逃がす」など……をとる事は無い。

 ゲームマスターが「とにかく少女を助けてくれ」と言うならば従うが、そうなるとそのシーンは“強制イベント”となる訳で、通常のシーンとは意味合いが異なる。どのように展開しても、強制イベントの続きのシーンの説明として聞くだけである。



 自分がマスター/シナリオ作成を行うときは、上記のような事を念頭に置いてマスタリング/シナリオ作成にあたる。

 大概は、「追う側の男たち=悪漢」「追われる少女=純粋な被害者」とすぐに分かる構造にしてしまう。
 「追う側の男たち」の戦闘力や背後関係をプレイヤーが恐れ過ぎるようならば、その恐れを薄めるような描写を加える。
 プレイヤーがこの手の導入が嫌いな場合は、「騒ぎが大きくなったので男たちは引いた」「その後、少女はPCを護衛として雇いたい旨を告げる。報酬は、母の形見だと言う指輪を渡す」などとする。

 「一見被害者のようで、実は少女の方が悪者だった」というシナリオの場合は、PCを誤解させるに至る筋の通った説明/説得力のあるシチュエーションに十二分に留意する。

 どうしても必要ならば“強制イベント”という構造も使う。だが、“強制イベント”は気を付けないと「マスターの独り善がり」となってしまいかねないので注意を心掛けている。



 『ギア・アンティーク〜ルネッサンス〜』のサプリメント『エンドレス・エナジー』に掲載されているシナリオ『紅玉の少女』の導入は、「困っている少女がいたら、何があっても助けるのが当然」という姿勢で作ってあった。

 以下に、導入に於いてPCまたはプレイヤーが知っている背景事情を説明する。

●少女が魔法使いだとPCには分かっている。この世界では魔法は禁じられていて、人々は魔法使いをモンスターの一種と考えている。

●少女は、蒸気自動車を持つPCにナイフを突きつけて「ある町まで乗せてくれ」と脅す。

●プレイヤーがセッション前に聞かされるCDドラマによると、少女はヴァルモン帝国(ナチスドイツをモチーフにしたような国)という強国の兵士に追われている。ヴァルモン帝国を、気安く敵に回す事はできない。

●さらに、同CDドラマを聞くと、ヴァルモン帝国側にもやむにやまれぬ事情がありそうだと分かる。少女は過激な言動を吐くので全面的な善とは信じきれないし、一方、ヴァルモン帝国の士官が最後に格好の良いセリフを吐くので、相対的に両者間の善悪の別がつかない。

 こんな状況では、PCが少女を助けようというモチベーションを持てなくても責められないと思う。ちょっとシナリオ作成時に気を遣えば自然と「助ける」と展開させる事もできようものの、その努力を放棄している。さらにこのシナリオの欄外で自分の怠慢を弁護する詭弁まで書いてあって、如何な事かなと思った。

 「少女を助けないとRPGにならない」から仕方無く助ける……というふうになると、その後の展開がわざとらしい、強要されたかのようなノリになってしまう。その点、『紅玉の少女』はのっけから「迷わず少女を助けるという行動を取るプレイヤー」以外を排除するシナリオだった。



 RPGは“極めて広義なゲーム性”を持っていて、その広義さを支える要素の1つが“PCの行動の自由”である。
 “PCの行動の自由”は、必ずしも保障できるとは限らないのが実情だが、それでも保障された状態が理想なのだという事を忘れないようにしたい。




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