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コラム001 |
RPGとは何か?
| 01/07/08 |
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RPGとは何だろうか?
世界最初のRPGは、1974年にアメリカで発売された『D&D』である。
その『D&D』の前身は、1971年に発表された『チェインメイル』という名の2人用のファンタジー・シミュレーション・ゲームだった。『チェインメイル』は、『指輪物語』の“モリア鉱山越え”に題材を取り、ガンダルフたち光の勢力を担当するプレイヤーと、バルログなどのモンスターを担当するプレイヤーに分かれ、「どちらのプレイヤーが勝つか?」を競うゲームだったそうである。
どこでどのような発想の転換があって、『チェインメイル』というシミュレーション・ゲームが、“RPG”という新しいジャンルのゲームを産み出すに至ったのか寡聞にして知らない。想像するに、
「もっと駒(ユニット)に感情移入したい」
とか
「ガンダルフ側は全滅の危険に脅かされながらも、原則的に少数の犠牲で地下道を突破できるゲーム・バランスでなければ、物語に沿っていると言えない。でも、そうなるようにデータや勝利条件を設定すると、ゲームが楽しめない」
などといった要望が元になったのではないだろうか。
ともかく、そうしてRPGというジャンルのゲームが生まれた。しかし初期の『D&D』は、実は現在の日本で主流的に遊ばれているRPGとは、趣を異にしていた。
初期の『D&D』は、コンピュータRPGその物のようなゲームだったそうである。セッションの流れは「『酒場でお使い系の依頼を受ける』といった程度の導入でダンジョンに潜り、モンスターと戦って、宝を得て生還する」といったものに過ぎず、ゲームマスター(ダンジョンマスター)の仕事は正に「コンピュータでもできる」という“労働”に過ぎなかった。
プレイヤーからすれば、ダンジョン潜りは習慣性のある不可思議な新しい遊びだったので『D&D』は一部で熱狂的な人気を博したが、ゲームマスターを楽しいと感じる人はほとんどいなかったらしい。そんな訳で、当時、世に出回ったばかりのパソコンを使用したコンピュータRPGが発売され、大人気となった。
当時にしても人と人が膝をつき合わせてゲームをする事にも一定の価値は見出していただろう。しかしそれでも“ダンジョン潜り”の楽しさは『ウィザードリィ』などのコンピュータRPGでも十分に代用が効いた訳である。
しかしRPGは“初期の『D&D』”から、コンピュータでは代用できないゲームに“進歩”して行く。
私が言うところの“現在の日本で主流的に遊ばれているRPG”が持っていて、“初期の『D&D』”が持っていないモノ。それは、“極めて広義なゲーム性”と“物語性”の2つである。
“極めて広義なゲーム性”とは、以下のような意味である。
どんなゲームでもルールを持っている。ルール解釈で揉めるといった事があるとしても、行動選択はルールの範囲内に限定される。例えば将棋をやっているならば、できる事は自分の駒を動かして相手の駒を取る事だけで、「交渉する」とか「探索する」などの行動は取れない。勝ち負けもハッキリと定義されている。つまり、“狭義のゲーム性”しか持ち合わせていない訳である。
しかしRPGは、最初に「仮想世界におけるリアリティ」があり、ルールがそれを補完する形を取る。ルールが無い状況でもゲームマスターは判断を下すし、ルールに従うと不合理な状況では「現実に即した結果(例えば、「ルールではナイフで人を殺すには20回はダメージを与えないといけないけれど、このキャラクターは縛られて身動きできなくて首にナイフを突きつけられているので、1回でも刺されたら死ぬとしよう」などという結果)」を出力する。
“物語性”とは言葉通りの意味である。小説、コミック、映画、演劇といったジャンルの作品が持っている“物語”を、RPGもまた持っている訳である。
想像だが、“初期の『D&D』”を遊んだ人々は、ゴッコ遊びとかリレー小説とか即興劇とかを連想して、それらの要素をRPGに取り入れていったのではないかと思う。
そうして“極めて広義なゲーム性”と“物語性”を手に入れたRPGは、当初は仮想世界における物理法則(剣と鎧で武装した兵士が戦うとどうなるかとか、火事になったらどうなるかとか)と背景世界設定を充実させる方向に進む。
さらに『007』のヒーローポイントのような、「物理法則では無く、ドラマ法則(ヒーローには弾丸が当たらない理由付け)を設定する」という発想が生まれ、“現在の日本で主流的に遊ばれているRPG”に至った訳である。
ここに至って、ようやく本当の意味でのRPG(TRPG)が誕生したとも言える。
RPGは、物語(ストーリー)を紡ぎ語るゲームである。
「ゴブリンを退治するだけ」「ダンジョンに潜って宝を見付けるだけ」というゲームも面白いが、それは厳密な意味ではRPG(TRPG)では無い。
異論のある人もおられようが、私はそう定義している。
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