[月の無い空の下で]

男は、今日も一人山門に佇んでいた。
「ふん、ここ最近はどの連中もおとなしいものよな」
 男の名は佐々木小次郎。仮初の身体に仮初の命を与えられた、その存在そもそもが
仮初の、人斬り。彼をここに呼び出し、縛り付けたのもまた、仮初の存在であった。
「あの女狐とマスターの子守もいいが、しかしこれではいささか退屈だな」
 呼び出されてしばらくの内は息をつく間とあらば、他のマスターとサーヴァント―
自分と同じ仮初の存在―がこの山門の向こうに陣取るキャスターとそのマスターを撃
破せんと必殺の殺意を持ってこの山門に押し寄せてきた。そのことごとくを、小次郎
は撃退してきたのである。己の業を極限で試したい。遠い昔に人々の噂話としてのみ
存在した、人の身にて修羅に堕ちし武士の、当人にとっては至極ささやかな願いは、
遥かな時を経て結実した。しかし、一通り全てのサーヴァントと切り結んだ後、この
柳洞寺にやってくる者は鳴りを潜めたかのようにいなくなった。
「もう少し骨のある連中と思っていたのだがな……」
 その言葉は必ずしも本心からの言葉ではない。彼は、今回のこの戦いの意味を十分
に理解している。己のように、刹那に身を置くことはこの戦いにおいては何ら意味を
持たぬ。この戦いは聖杯を手に入れることこそに至上の価値があるのだから。
「まぁ、楽しみは後から来る方が良いからな」
 故に。この次にこの石段を登ってくるモノがいるならば。それは必ずやこちらを必
殺する手段を講じてきているはず。それこそが自分が求めて止まぬ絶対の一。
「はてさて、誰が一番にここを駆け上がってくるものか」
 出来うるならば、全てのサーヴァント―それにはあのキャスターとて例外で無く―
と戦い勝利する。そんな取るに足らない願望を今の小次郎は持っている。しかし、そ
れが叶わぬものであることは承知していた。
「ふむ。どうやら今日はもう何も起こるまい」
 御山は常と変わらず静かであった。周囲にめぐらされた結界には何も反応が無い。
少し休もうと、小次郎がその身体を幽体へと変えようとしたその時。
「? キャスター、か?」
 山門の背後に気配があった。これが寺の者であるはずが無い。何故なら彼らはキャ
スターによって軽い催眠をかけられている。夜中に出歩く者はいまい。あるとすれば
それはキャスターのマスターか、キャスター自身しかあり得ない。小次郎は以前にキ
ャスターのマスターを何度か見かけたことがあるのでその気配を知っている。その時
はもちろん幽体としてだったが。キャスターが言うには自分の存在がマスターに露見
するのはまずいらしい。詳しい理由こそ語らなかったが、小次郎にはおおよその理由
は察せられた。
「もう少し素直になればよいものをな、あの姫君も」
 キャスターの様子を何とはなしに観察して、小次郎はそんなことを思ったものだっ
た。
 マスターの後ろにそっとつき従うようにいたキャスターの姿を思い浮かべる。女狐、
という評価自体は小次郎の中で変わることは無い。だがそれは小次郎に対するキャス
ターの評価であって、マスターに対するそれではない。小次郎のことをマスターに隠
しているのは、マスターに対して策を講じているのでも何でもない。
 単に、後ろめたいだけなのだ。小さな子供がいたずらがばれて怒られたくないよう
に。
「あのマスターであればこれ位何とも思わぬであろうに。ある程度見切ったつもりで
はあったが、やはり女心というものはいささか読みづらい」
 だから、さすがの小次郎もこのキャスターの行為はとっさに理解しづらかった。
 振り向いた先にすでにキャスターの姿は無い。が、気配が完全に消えたわけではな
いので、寺の中に戻っていったという訳でもないらしい。
「さて、これは一体全体どういう……」
 ことか、と小次郎がキャスターに問いただそうとした矢先。小次郎は己の足元に何
やら竹皮で包まれたものがあることに気がついた。麻紐でくくられたそれは、少々歪
に歪んでいた。
「……まさか、な」
 そう思いながらも包みを手に取り、紐を解く。そこにあったモノを見て、小次郎の
美麗な顔が心底驚いた表情をかたちどった。
「いや、なんとも、これは」
 どうやら作りたてのようで、それはほくほくと白い湯気を出していた。握りが甘かっ
たのか、三角というよりは四角に近い。だが、見間違えようはずも無い。それは、何
処からどう見ても、ただの握り飯だった。
「………………」
 沈黙が流れる。小次郎は握り飯を見つめたまま動かない。キャスターの気配も動か
ない。今日は風も吹いていない。空には雲も浮かんでない。月は見えない。動くもの
が何も無い。時が本当に止まったかのように錯覚する程の沈黙が山門に漂う。
 実際は一分にも満たない時間であったのだろう。ふと小次郎が笑みをこぼした。
「ふっ、まさかこのような駄賃がもらえる仕事だったとはな」
 そう言うと、石段に座り込み、持っていた包みから握り飯を一つ掴みあげる。キャ
スターが一瞬息を呑む気配が伝わってきたが、構わず口にした。握り飯の常道として
軽く塩が振ってあり、ほんのりとした塩気が米の旨みを引き立てている。一部塩がか
かり過ぎているような所もあったが、気にせず小次郎はそのまま握り飯をほおばる。
気がつけば、二つあったそれは全て小次郎の胃の腑に収まっていた。
「いや、馳走になった。もう少し精進は必要だがな」
「……あなた、馬鹿?」
 満足げに頷く小次郎になぜか呆れたようなキャスターの声がした。
「馬鹿とはどういうことかな、キャスター。折角の持て成しを足蹴にすることもある
まいよ」
「そんな、あからさまな失敗作をよくも馳走などと言ってくれましたね。あれは犬の
餌にでもと思って捨てたのです。それを何のためらいも無く口にするなど。英霊でな
いとはいえ貴方だってその見に覚えのある人間だったはず。誇りというものを持って
ないのですか?」
 どこか苛立ってキャスターは声を荒げた。本人は気づいていないかもしれないが、
そこには別の感情も含まれていた。それを知ってか知らずか、
「なに、所詮拙者は剣の道から外れた外道。邪剣使いに誇りも何も在りはすまいよ。
敵を切り伏せ、自分が生き残るためだけの剣だ。高楊枝なぞ、性分ではない」
 それに、と小次郎は小さく続けた。
「こんなに何も無い夜なのだ。この程度の風流を嗜んだ所で罰も当たるまい。違うか
ね?」
「……全く、貴方という人は本当に分からない」
「それはお互い様だ。どういうつもりか知らんが、こういう事は私ではなく、お前の
マスターにでもすればいいことではないか」
 その言葉に、キャスターはひどく動揺した様子を見せた。先ほどの怒った様子はど
こかへと消え、急にしどろもどろになる。
「そ、そんなこと……っ! あのお方にこんな失敗作を口にさせるなんて事、出来る
はずが無いでしょう!! な、何を考えているのですか貴方は!」
「何、もう少しお主のマスターを信じてみたらどうかという話だよ。あの男ならばお
前が思っているようなことにはなるまい」
 それ以降はキャスターは何も言ってこなかった。その沈黙の理由はさすがに小次郎
にも分からない。やがて、キャスターの気配が薄れてきた。どうやら話はもう終わり
らしい。
 小次郎は、石段に座ったまま空を眺めていた。月は出ていないが、星はある。その
瞬きは小さいながらも、美しかった。
「……に」
 消え行くキャスターが何やら喋っている。小次郎はあえて聞こえないふりをしてい
た。
「ご機嫌取りだけは達者なのね、アサシン。まぁ、そうでなければ犬の資格は無いけ
れども」
 その言葉を最後にキャスターの気配は完全に消え去った。一人、石段に座ったまま
の小次郎は口元に笑みを浮かべていた。
「全く、本当に素直ではないのだな」
 空を見上げながら思う。願いの大きさは人それぞれ。同じ願いであれ、願う人間が
違うならばその大きさも違ってこよう。
「あの姫君の願い、すでに叶っているやも知れんな」
 それが、例えこの空の星の瞬きのように小さく儚い物だとしても。
「しかし、これで私の願いは全て叶える、という訳にいかなくなってしまったか」
 まぁそれも良い、と小次郎は一人笑う。元より大それた願いなのだ。
「さて、分不相応な駄賃もいただいてしまったしな。犬は犬らしく」
 小次郎の姿も、いつしか闇に解けて消えていた。そして柳洞寺に完全なる静寂が訪
れる。手を伸ばせば届きそうな星の下。また一つ夜が更けていく。
 そして、彼はまたこの山門に立っている。それが彼の役目。
「あの女狐は怒らせると怖いのでな。ここは通させんよ」
 物干し竿を抜き、不敵に笑う。例え、一時の戯れ。路傍の名も無き華を愛でる様な
行為であったとしても。
「なに、ささやかな願い事だよ。それを」
 守るのも、叶えるのも悪くは無い。
 そして、彼は今宵も剣を振るう。
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