[ゲッカノモノノフ]
急に、視界が開けた。同時に曖昧模糊とした自意識も鮮明になった。
まずは、自分の姿を確認する。細かい所で自分自身との認識の間にズレが生じている
ようだ。しかし、動かす分には何も支障はない。腰には愛用の獲物がこれはかつてと
寸分違わぬ姿でそこにあった。
「ふむ」
一人満足して、そこで初めて男は目の前の人物を見た。何やら面妖な外套に身を纏
った女がそこに立っている。顔はその外套に包まれて良くは見えないが、まだ若い。
しかし、彼女から発せられるのは年頃の娘の愛嬌などではなく、この世の全てに対し
ての深い憎しみだった。
「調子はどうかしら、アサシンのサーヴァント?」
「悪くはない。お主が拙者を呼んだ呪い師か?」
「ええ、そう。さて、せっかくで悪いけど、貴方の真名を教えなさい」
女の口調は無機的で、およそそこに感情の揺らぎは取れなかった。男も、別段気に
した風でもなかったが女の質問に少し、その柳眉な眉根を寄せる。
「……佐々木小次郎、というらしいな。この身は」
名を告げた瞬間、彼の中にさまざまな記憶、知識が入り込んでくる。稀代の剣豪、
常人には到底扱えぬ長尺の刀「物干し竿」を使いこなす当代きっての武芸者。しかし、
それは。
「小次郎、貴方にはこの山門の守護を任せます。寝込みを襲ってくる愚か者を全て排除
なさい」
「よかろう。お主が主というのであれば、それには従おう。だが」
「?」
「見たところ、お主も拙者と同じ身分のはず。その身が拙者を呼び寄せるのはいささか
法度に触れているのでは」
ないか、と言う前に小次郎の体は吹き飛んでいた。寺の石段を20段ほど後ずさる。聖
杯戦争とやらに担ぎ出されたということは呼び出された瞬間に脳裏に刻み込まれたが、
どうやら自分は他とは少々勝手が違ったらしい。
「くだらない詮索はおよしなさい。別に、この場で貴方への魔力供給を止めてもかまわ
ないのですから」
小次郎に向けた手を下げながら女が言う。本心から言えば、そんなことはどうでも良
かったが、
「それは困るな。では、せいぜいご機嫌を伺うとしようか」
言葉だけはとりあえず恭順の意を示した。
「そうしなさい。で、もう一度聞くけど、貴方はどのような英霊なのかしら?」
その言葉に、小次郎は笑いをこらえるのに苦労した。そもそも自分は英霊にすらなっ
てはいない。あるのはただ、
「さて、庶民の口の端に乗ってきただけのこの身なれば」
「……分からないというの?」
「いや、とりあえず剣にはそれなりの覚えがある。お主にとってはそれで十分ではない
のか?」
その言葉に女はやや不満げな表情を浮かべた。だがそれも瞬間のこと。
「そうね。私が貴方に期待するのはそれ以上でもそれ以下でもない」
そう言い捨てて、女は忽然と小次郎の前から姿を消した。
「やれやれ、とんだ貧乏くじを引かされたものだ」
ゆっくりと石段を登りながら、小次郎は一人ごちた。
「佐々木小次郎、か」
誰ももはやいなくなった寺の山門で小次郎は一人笑う。コレが笑わずにいられようか。
名前など持たぬはずの人間が何やら自分の知らぬ間に人々の間で「佐々木小次郎」とい
うモノに成り果てている。己が身につけた修羅の業は己のものではなく「佐々木小次郎」
のものだ。よもや自分の存在がこのような形で語り継がれていようとは思いもしなかった。
「しかし、そのおかげでこうしてまた剣を振るえるのだから、皮肉なものよ」
腰の鞘から物干し竿を引き抜く。愛用の刀は埃ひとつなく、わずかな星明りでもその
刀身を輝かせる。
「鞘は、要らぬか」
腰から鞘を抜き、中空へと放り投げる。次の瞬間には、その鞘は綺麗に三等分されて
地面へと落下し、そのまま霧が晴れるように消えていった。
「 、敗れたり――か」
真実この身が佐々木小次郎であったならば、今の行為は自ら命を絶つに等しい行為だ
った。武士にとって、刀を収めるべき鞘を捨てるということは刀を抜き、切り結んだ後
が無いということ。即ち、死。
「笑止。この身はすでに終わっている」
そう、終わっているのだ。終わっているなら先も後も無い。自分にはもう目指す果て
もないのだ。あるのは一振りの愛刀と、とるに足らぬ執着だけ。
「どら、せいぜいあの女狐が不満を持たぬようにしてやるとするか」
女人の願いは無碍には出来ぬしな、と彼は薄く笑って山門の前に立つ。山の麓からは
濃密な殺気がこちらに向かって放たれていた。
「早速のご来客か。上手くもてなせるといいのだが」
今一度その手の獲物を確かめる。宝具などという上等な代物は要らぬ。一振りの刀と、
修羅に堕ちた己の業こそ我が全て。
今の今まで空を覆っていた夜の雲がどこからともなく吹いた風によって、潮が引くよ
うに流されていく。見上げればそこには薄紅に染まった月が。
「では」
そうして、彼は。
「巌流、佐々木小次郎……参る」
山界の鬼人となった。
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