うたわれるもの[月の子守唄]

 雲一つない、円く満ちた月の下。
 青白く染まる世界は風もなくただ静かであった。それはこのトゥスクルの
皇城とて例外ではない。物見の兵は息を潜め、所々で篝火が揺れているだけ
である。
「綺麗な、満月ですこと」
 城の櫓の縁に腰掛けながらカルラはそう小さく呟いた。側には干し肉の置
かれた皿と、なみなみと酒の入った壷が置いてある。手に持った椀に酒を注
ぎながらカルラは遥か遠くにある月を眺めた。
「たまには一人でこうやって宵の酌も、いいものですわね」
 椀の中身に口をつける。澄んだ酒精が喉を通り体の奥に沁みていく。彼女
にしては珍しいことなのだが、最近のカルラは酒を控えていた。別段禁酒し
ていた、という訳ではない。飲む気になれなかったのだ。
 その原因自体はカルラ自身分かっている。こんなにも綺麗な月夜の晩。彼
女は決まってこの櫓で酌を酌み交わしていた。そろそろ寝つこうかという時
にカルラが押しかけてきても嫌な顔をせずに付き合ってくれた。ちょっとし
た冗談でカルラがからかうと、普段は落ち着き払った顔がとたんに慌てふた
めく。仮面の奥から見えるその表情が、カルラは好きだった。
 彼は今、安らかに眠っているはずだった。おそらくもう目覚めることはな
いのだと思う。それは、彼が望んだことだから。
「思い出しますわね。こうしてあるじ様と二人、肴をつまみながら」
 干し肉に手を伸ばし、軽くちぎって口に運ぶ。
「そういえば、エルルゥが捨てようとしてた物を持ってきたこともありまし
たっけ」
 そのときを思い出しカルラは微笑んだ。あの時のあるじ様の様子を思い出
す。
『せっかくあるじ様のためにお作りしましたのに、口に入れてはいただけま
せんの?』
 というカルラの目と、目の前の少しすえた匂いのする肴を見比べながら冷
や汗をだらだら流していた。次の日、カルラがベナウィとすれ違った時に「今
日は聖上の具合が宜しくないようで政務が滞ってしまって……」という言葉を
聞いたときにはさすがに少し後ろめたかったが。
「せっかくこんなおいしい肴も用意しましたのに、いらっしゃらないんです
もの、あるじ様ったら」
 またちびりと椀の中の酒を啜る。風もなく、ただ静かに流れる時の中でカ
ルラはこの大地の下で眠っている己の主に想いを馳せた。この世でただ一人、
カルラがその全てを心から捧げた男。
「ただ待つのって、案外退屈なんですのね。初めて知りましたわ」
 叶うならば今すぐにでも起こしに行きたかった。けれども、それは叶わぬ
願い。
「静かですわね……。貴方が、あるじ様のために子守唄を歌ってくれているか
らかしら?」
 呟いたカルラの視線の先には、蒼い真円が彼女の言葉を裏付けるように全
てのものを寝かしつけるかのような優しい、優しい、哀しい光を放っていた。
「……そんなところに立ってないで、貴方も一緒にいかが?」
 月を見上げていたカルラが急に振り向いた。物闇に隠れていた陰が光の元
に足を運ぶ。
「あ、い、や。済まぬ……。なんと声をかけていいか分からなくてな」
「ふふっ、そういう時は言葉なんかいりませんわ。丁度お月見も飽きてきた
ことだし、一杯付き合っていただけませんこと、トウカさん?」
 月明かりに出てきた人影、トウカは足音もなくカルラの側に歩み寄る。カ
ルラみたいに縁に腰掛けることはせず、床に直に座り込む。
「珍しいですわね。貴方がこんなところに来るなんて」
 初めから二つ用意してあった椀に酒を注ぎながらカルラが尋ねる。トウカ
はそれを受け取りながら、
「いや、なんというか、眠れなくてな」
 少ししどろになりながらそう答えた。
「そうですわね。夜が、長くなりましたものね」
「ああ、そうだな」
「あるじ様のこと、考えてたんじゃなくて?」
 そのカルラの問いかけに思わずトウカは口にしていた酒を吹き出してしま
っていた。むせてしまったのか、軽く咳き込む。
「な、っ。何をいきなり……!」
「あら、違いますの? 私はあるじ様のこと考えていましてよ」
 何か言いかけようとしていたトウカはその言葉を飲み込んだ。カルラが今
までしていたように、月を眺めながら酒を啜る。しばらくは、無言の時間が
続いた。
「ねえトウカさん?」
「ん? なんだ?」
「明日、少し私に付き合っていただけませんこと?」
 そう言うとカルラはトウカに向かって微笑んだ。
「それは構わぬが……」
「じゃあ決まりですわね。詳しいお話はまた明日にして、今日のところはお
開きにいたしましょうか」
 そう言ってカルラは立ち上がった。それを見たトウカも腰を上げる。
軽く挨拶を交わした後、二人はそれぞれの寝所へと戻っていった。
(やっぱり、待つのは性に合いませんわね。少しトウカさんで退屈しのぎで
もさせていただきましょう)
 毛皮を敷いただけの布団に転がる。明日にはトウカを適当に言いくるめて
城を出よう。漠然とカルラは思っていた。
 かつてのトウカがそうしていたように、傭兵の真似事でもしながらこの国
を、あるじと共に駆け抜けたこの国を見て回ろう。しかし一人だとやはり味
気ない。その点ではトウカは格好の獲物だ。彼女と一緒ならば、退屈という
言葉とは無縁で過ごせそうだった。
「一人だと……思い出していけませんわ」
 そっと自分の首にある鉄の首輪に手を触れる。かつて剣奴の頃につけられ
た隷属の証だが、今やそれはカルラにとって絶対の思慕の証だった。
「契約は今だ有効ですわよ、あるじ様」
 目を閉じて、少しづつやってくる睡魔にその身を委ねながらカルラは主の
ことを想う。
「だから早く戻ってきて、また私をあるじ様の物にしてくださいな……」
 閉じられた目からつ、と雫が流れ落ちる。
 月は、まだ空にあって世界を青白く照らしている。
 母が子供に聞かせる子守唄のように。

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