[月が消える前に]

　こんなに丸い満月の夜は月見酒が良く似合う。幻想郷のどこかにある竹林にひっそり
佇む屋敷の中で、少しおぼつかなげに徳利と杯を載せた膳を運ぶ兎が一匹。名を鈴仙と
いう。今彼女は、自分の主の部屋へと月見酒を運んでいるところだった。
　彼女の主は普段からあまり表へ出ることがない。今宵の月見にしても、たまには縁側
にでも出たらどうか、という鈴仙の提案をあっさりと却下して自分の部屋の窓から覗く
月を眺める、と言い出した。鈴仙としてはそれでも特に異存があるわけではなかったが、
自分がこの屋敷で使われるようになって数十年。この姫が部屋から出たことを見たこと
など1回あるかないか、というほどの希少さであった。
（この間のこともあるのかしら……）
　それを思うと鈴仙自体も平静を保っていることは難しい。そんな僅かな心の動きが身
体に伝わったのか、手にした盆がかすかに揺れた。
「ふぅ」
　ため息を一つついて、鈴仙は彼女の主である姫の待つ部屋の元へとたどり着いた。
「輝夜さま、御酒をお持ちしました」
　部屋の中にいる主に向かい、断りを入れてから鈴仙は襖に手をかけた。
「あ、あれ？」
　だが、襖はぴくりとも動かない。さては引く方向が間違っているかと逆側に引いてみ
てもやはり襖は動かない。
「輝夜様！　大変です、屋敷の立て付けが悪くなってしまいました！」
「……そんなわけないでしょ」
　慌てる鈴仙に向かって、涼やかな声がかかる。
「永淋の鍵よ。私から声をかけないとこの部屋に入ることは出来ない」
「私は吸血鬼ですか？」
「兎でしょ。何を言っているのよ。良いから入りなさい」
　言われて、鈴仙は再度襖に手をかける。今度はなんだかあっさりする位に開いた。
「はぁ、師匠の術も便利なのかそうでないのか」
「まぁ、そこが永淋なんじゃない？　ご苦労様、イナバ」
　窓べりに座りながら、鈴仙の主である輝夜は静かに月を眺めていた。今日の月には薄い
雲が一筋かかっていて、これはこれで風流なものに見えた。
「満月なんてもううんざりする位見てきたけど」
「私はまだそれ程でもないですけどね。月が欠けるのを知った時は驚きました」
　輝夜の側に盆を置きながら鈴仙が言う。
「あの時の貴方、大変だったわよね。『月が壊れた！』とか言い出して」
　くすくすと、輝夜は思い出したように笑う。それを見た鈴仙はやや頬を膨らませて、
「しょうがないじゃないですか。私もずっと月に住んでたんですから」
「全く、貴方はもうあの時既にこの穢い地上の住人だったのよ？　それを分かってるの？」
「そりゃ、分かってますけど……しょうがないじゃないですか」
　反論する鈴仙だがその声はなんとなく弱い。
「はぁ、そんなんで良く永淋のあの術使ってもらう気になったわね。今からでも月に帰る？」
「そんな！」
「冗談よ」
そう言って輝夜は笑った。
「例え貴方が月への帰還を求めたとしても」
　音も無く輝夜は立ち上がり、先ほどから座ってこちらを見つめていた鈴仙に手を伸ばす。
地上の兎と違い、やや歪な月兎の耳をそっと撫でるように触れていく。その主の仕草が心
地よいのか、鈴仙は僅かにその赤眼を細めた。
「私がそれを許さない。いい、イナバ。貴方も、もちろん永淋もだけど私の前から消える
ことは許さない」
　口調は先ほどと変わって厳しい。しかし、その口元には穏やかな笑みが。
「だから、貴方は安心してここにいなさい、イナバ。この永遠亭で私と、共に」
「はい、輝夜様……」
　うっとりと輝夜の指にわが身を預け鈴仙は目を閉じる。そして鈴仙は思う。自分よりも
遥か昔に穢い地上に堕とされた月の人。それを迎える役目を放棄してまで彼女に仕える薬
師。そして月から逃げてきた自分。理由は三者三様に異なっている。ならば、自分が今ま
で見上げてきた月と、この人たちが見ている月は違う月なのだろうか。
　言葉にして聞いてみたいと思った。でも、その言葉を鈴仙が口にすることは無かった。
それはきっと無意味なことだと。なんとなく分かっていたからかもしれない。
　輝夜は鈴仙の耳をいじるのが気に入ったのか、彼女の耳に手を置いたままだ。鈴仙にも
それを拒む理由などあるはずも無い。
　月は、なお中天にある。だが、その姿は次第に変わりつつある。彼女たちが望んだまま
に、古の記憶を揺り起こしながら。
　それは、永い夜が始まる少し前の話。月に照らされた竹林は沈黙を保っていた。
　かくして、短く永い月夜の物語が紡がれる。

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