[カガミノナカノセカイ]
肉と肉が、粘着質な音を立てて擦れ合う。部屋は狭く、明かりも無い。骨董の部類に
入るであろう簡素なベッドが、その上で荒く動く男に合わせて軋んだ音を立てる。後も
う少しで壊れてしまいそうな、ベッドの上にいる男を象徴するような脆い音だった。
男に組み敷かれ、腰を動かしている女は、無言だった。何度荒々しく突かれようと、
その薄い唇から快感に潤んだ喘ぎは一言も漏らさない。呼吸をしているのかどうかすら
定かでない程に、無言だった。それでも、その女の中心は熱く滑り、男を包み込んでい
る。
それはまるで獲物を捕らえて離さない蜘蛛と同じで。じわり、じわりと男の中に毒が
入り込む。その毒は男の熱を上げ、そしてその動きを早める。毒から逃れたい一心で、
けれどあまりにも甘美なその毒は、動けば動くほど男の中に入り込む。
そして、男は短い呻きを一つ上げ動きを止めた。女は動かない。女は、男から何か言
われない限り自ら動くことは無い。この行為にしてもそうだ。
全身に汗をかいた男の体が女の上に倒れ掛かってくる。手を差し伸べるでもなく、女
はそのまま男の身体を迎え入れる。
「……くそっ」
掠れた声。男はここ最近いつもいらついている。その原因を、女は知っている。だが、
女は何もしない。ただ、男に言われたことを実行するだけだった。
結論から言ってしまえば、男には素養が無かった。これは努力でどうにかできる類の
ものではない。その素養の無さを補う為の行為がこれだった。女一人ろくに動かす事が
出来ぬ。動かすために身体を重ねても、女にとっての男のそれは、広大な砂漠に水滴が
一滴、染み込んで行くような物。
「何でお前なんだ……」
男の声。それはまるで自分以外の全てを呪詛するかのようで。だがその声は何者かを
真に呪う事など出来はしない。男には素養が無いのだから。
届かぬ呪詛の言葉は、いつしか低い呻きに変わり、女の胸には汗とはまた違う水滴が
ぽとり、ぽとりと落ちていく。
女の手が、少しだけ、動くそぶりを見せた。だが、その動きもほんの僅か。女は、言
われたことのみ実行する。それは契約であり制約であった。
だから、女は動かない。その目は男を見ているが男はそれに気づかない。共に世界を
拒絶した身で在りながら、むしろそれゆえに気づけない。
女は漠然と感じていた。自分たちは袋小路に入り込んでいると。自分と、そしてこの
男の迎える結末はもうどうしようもない位に決まりきっていて、覆し様が無い。そして
男はそれを知らない。もはや自分たちは全てにおいて見放されているのだと。
契約だから。制約だから。だから女はここにいる。けれどそれはたった一つの約束。
女にとってはそれで十分だった。先の閉じた未来になど用は無い。
気まぐれに吹いた風が窓の硝子を叩いていく。男も、そして女もそのまま動かなかっ
た。
これは、ただそれだけの話。身の程を知らぬ愚者が、身分相応の報いを受けるだけの
話。
ただ、それだけ。
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