[reason for life-complex-]
ヒトを知りたかった。もうずっとずっと昔に聞いた答え。この世界で生きていくの
にはとてもとても弱く脆く短き生命。知を求める一族としてはその欲求はごく自然な
ことだし、納得も出来る。この幻想郷では、あまりに彼らの存在は奇異なものとして
見えたらしい。
だから知りたかったんだよ、そう聞かされて私は育った。何度も何度も。繰り返し
繰り返し聞かされるそれは、ひょっとしたら彼の懺悔の言葉だったのかもしれない。
その一族が所有する余りにも膨大な知。それはつまるところ、この幻想郷の歴史と同
義だ。私たちの生は即ち歴史の流れ。止まることなく私たちは続いていく。
ヒトを知りたかったんだよ。
まるで鏡に向かって呟く独白のように。その言葉は私にとって至上の呪いだった。
何で私にそんなことを言うのか。私は、貴方が求めているヒトなどではないという
のに。貴方はヒトを求め、人に出会い、そして知ったのではなかったのか。だから私
がここにいるのではないのか。何度そう返したか知らない。彼は、知っていたはずな
のだ。ヒトがいかなるものか、何故この幻想郷にヒトがいるのか。受け継いできた歴
史から知っていたはずなのに。
ヒトを知りたかったんだよ。
そう私に言い聞かせる彼の声におよそ何の感情も感傷も観照も見られなかった。
よくよく思えば。
彼は、結局のところ自分のことが分からなくなっていたのだと。それを私が知った
のは何時ごろのことだったか。私の母が人間だということを知った時だったろうか。
私は母の顔を知らない。歴史を紐解けばすぐにその顔くらい分かってもいいはずな
のに、である。歴史の欠落。それはあってはならないことなのではないか。私たちの
一族は歴史を受け継ぐことで生きている。そんな私たちに欠落があってはならない。
ならばその欠落を如何にして埋めるか。問題はそこだった。
結論から言って。私は人里に下りることになった。私の母が人間であるならばその
歴史が埋もれているのは人里の中。考えてみれば当たり前のことだが、私は中々その
気になれなかった。
それは、まるで彼の言葉に自分が縛られているように思えてならなかったから。
ヒトを知りたかったんだよ。
私には関係ない。私は、この歴史の欠落を埋めるためだけに里に下りるのだ。何度
も何度も。月の満ち欠けを数えながら私は自分に言い聞かせた。そして、ある満月の
晩に私は里に下りる決心をつけた。
里での私は、ヒトと変わらないように極力努めた。満月の晩だけはどうしようもで
きなかったので一人山に入って過ごした。流れていく歴史の中で多くのヒトと出会い、
別れてきた。里の住人がそっくり入れ替わるくらいの年月をヒトと過ごして、結局母
の歴史は見つからなかった。
何故歴史は埋まらないのか。ずっとずっと考えた。けれども、私の持つ歴史の中に
答えは見つからなかった。そもそも、初めから無いものを探したところで見つかるは
ずも無い。里の暮らしも徒労に終わるかと、そう思っていた。
けれども、私の中で多少の変化が生じていた。相変わらず私はヒトの群れの中で過
ごしている。彼の言葉ではないが少しずつヒトを知るにつれて、私の中に奇妙な感情
が生まれていたのだ。
一生も短く、私たちと比べれば圧倒的なまでに弱いその存在。その歴史は私たちに
とっては取るに足りないもののはずだった。なのに。
私は今、このヒトが見せる歴史を護りたい。そう思うようになっていた。ヒトの歴
史は短いが、その彩りは私たちの歴史よりも遥かに華やかだった。長い間ヒトと接し
てきたからか、私はそれを美しいと思うようになっていた。その短さゆえの華やかさ
なのか、そうでないのか。少し、情が移ってしまったらしい。
だから、私は今もここにいる。この里で、きっと私はこれからも歴史を見守り続け
るのだろう。この儚く脆く弱く短く美しい歴史を護るために。
ヒトを知りたかったんだよ。
思い出される彼の言葉。その言葉はやはり私を縛っていた。でも、その言葉のおか
げで私はこうしてここにいる。あの言葉は、きっと呪いではなく彼が残した希望であ
るかもしれない。いつかこの歴史の欠落が埋まりますようにと。そのためにも。
私は、人を知りたい。
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