七条大橋

七条大橋

HITIJYO-BRIGE

明治以前の七条通が鴨川を渡るところに橋を架ける積極的な理由はあまりなかった。このため本格的な橋は架けられていない。ここに本格的な橋が必要になったのは京都駅ができ、駅前の東西通を整備する必要が生じてからのことである。現在の七条大橋は大正2年、市電事業によって架けられたものである。明治末に始められた市電事業は道路を拡幅し、市内に大量輪送機関を導入するという、京都が近代都市へ脱皮するための大規模な都市改造事業であった。
 七条大橋は、四条大橋とほぽ同じデザインの鉄筋コンクリートのアーチ橋として架けられた。橋長は疏水上も入れて112m、幅員は18mで、鴨川を5連のアーチが越えている。設計は当時東京大学教授であった柴田畦作で、デザインにはセセッション(分離派)風意匠が採用された。下部工からアーチ部、高欄まで御影石が張られた一体感のあるデザインで、安定感のある風景を作り出している。四条大橋は昭和10年の洪水以降、架け直されてしまい、明治期の欧風様式を今に伝える七条大橋は貴重な都市遺産でもある。
 建設当初に付けられた鋳鉄製の高欄は、戦時に供出され、木製やコンクリート製になっていたが、昭和61年に、円の中に10本の矢を並べた形のものに取り換えられた。これは七条道に面した三十三間堂で行われた「通し矢」にちなんだデザインである。

 

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