『翔』四号より 
    熱烈猿之助
   ファンの妻を持って
              北前 俊治



 私は時折、猿之助歌舞伎とは一体何なのかと考え込んでしまう。
私や子供たちは猿之助歌舞伎に、“その時”まで全く無縁だった。
妻からも歌舞伎関係の話など、ついぞ聞いたことがなく、いま振り返ると我が家は実に静かで平和そのものだった。


・・それがだ、三年前の九月。猿之助歌舞伎を知った妻は突如その時を境に狂ってしまった。我が家は様変わりとなった。室内装飾はもとより、日常の生活リズム、家族団欒の話題、果てはテレビ番組に至るまで、もう猿之助一色に塗りつぶされてしまったのだ。
 子供たちも心得たもの。当時は四才と九才だったが、悪行で叱られそうになると、チャッカリ猿之助の話題や真似事をして歓心を買う始末。決まって妻はニッと笑った。

 そんなある日のこと。帰宅すると妻は不在で、妻の母親が夕食の世話をしてくれていた。聞けば、今夜は東京行きで帰りは十二時頃だろうと言う。私は「来るものが来た!」と思った。
 そしてこの頃から電話が頻繁にかかって来だした。東京・四国・名古屋・北海道と、それも驚くべき長電話だ。私と子供たちの夕飯の心配をよそに、七時から十二時過ぎまでひっきりなしに掛かってきた時には流石に「みんな狂っている!」と正直感じた。(以後電話は午後九時以降というように決めたようだが…)

 そして某月某日。うら若き乙女たちが寝屋川の我が家へ大挙押し寄せて来て、驚く私の視線をよそに、ペチャクチャキャッキャと喧騒なことこの上ない。その熱気と迫力に半ば呆気にとられて「今の世の中、夢中になれるものを持つことは素晴らしいことです」 などと心にもないことを言ってしまったものだ。 そして遂にだ、猿之助ファン誌、「翔」を発刊するというではないか。私はもう完璧にたまげてしまった。
 本を作ったり、文章を書いたりすることには好意的な私だが、ここまで来れば「役者狂いにも程がある!」と思い始めた。子供の教育、会社での仕事に家庭の雑用と、ただでさえ忙しい妻である。これについては彼女の父、弟も同じ考えで、ある会食の席で話題となった。
 「歌舞伎もほどほどにさせんとアカンよ。俊治さん、注意してるか?」と父が聞き、
 「怒らな、アカンでえ〜」と弟が続けた。
 私は答えに詰まり、「ハア〜、しかし思い込んだら、人に注意されたくらいで引き下がる女やないんですわ」 と苦笑した。
 第一、かく言う父や弟も、同居している母親(妻の影響でファンになってはや三年)の猿之助狂いを押さえることが出来ないのだから、何をかいわんんやである。かくして男三人、顔を見合わしては深い溜息を三つ四つとつくばかりであった。

 その後もやはり妻は、家族の心配を充分承知していながら一向にひかえる気配がない。それどころか、「やり通すぞ!」という気迫に満ちてさえ見える。
 「これはもう、猿之助自身の生きざまが乗り移ったとしか考えられない…」と私は思った。実際に「翔」は発刊された。しかもあれよあれよという間に早や≪四号≫という勢いである。

 最初、「素人に本など出せるものか」と冷ややかであった私の目にも、一号二号三号と、内容の充実ぶり、イラスト、製本技術など、その上達ぶりは明らかだ。いまや「やるじゃないか」というのが本音になりつつある。
 また、本に対する反響の大きさにも驚いた。熱烈さ満載の感想文がドサッと届くかと思えば、電話口で感極まって泣き出す人もいる猿之助の人気の高さと、ファンの渦巻くエネルギーの凄さを見せつけられて、私は、圧倒されてしまった。

 いま、少しずつ着実に感化されつつある自分を感じる。
 「相変わらず猿之助に狂っとるのか?」という先日の父の問いにも、「まあ…、しかし、家のことも仕事もちゃんとやってるようですし…」と、何故か擁護する口調で返答してしまった。また、昨年の秋頃からは、新聞、雑誌等で猿之助に関する記事を見つけるや、私は素早くスクラップブックを取り出すのである。

 当初、何とか深入りするのを食い止めようとした私の気持ちは、何時の間にか自然消滅に近くなってしまった。それどころか妻たちからの受け売りとはいえ、耳にする猿之助像は、男の私の目から見ても魅力的に映る。
 「夢中になれるものを持つことは素晴らしいことです」などと心にもないことを言った私だったが、いまは建前ばかりでなくして言えるまでになってしまった。
 また、猿之助歌舞伎とは、一体何なのか。この上はこの目でその何たるかを確かめぬ訳にはいかないとも思っている。
 しかし、「翔」およびそれを取り巻く多くのファンの狂態を目の当たりにしているだけに、「イヤ、へたに足を踏み入れぬが賢明!」という気もするのだ。
 いま、その入り口でしばし立ち止まっている私である。




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