『翔』八号より
     力と輝き
               高田 智矢


 
 猿之助とは何か、猿之助歌舞伎とは何なのか、そんなことを考えると猿之助が舞台でみせてくれた数々の仕種や表情が頭に浮かんでくる。それは私の想念の中の目に見えない舞台の上に次々にあらわれ、時には静かに時には激しく動いては消えていく。
 その姿は気迫に満ち、内側から光を発しているようだ。芝居の流れや筋の展開とは切り離され、連続した絵のように、あるいはそこだけスポットライトが当たった断片のように記憶の中に浮かんでくる。たぶん私の意識のかなり深い部分に相当強く印象づけられているからに違いない。

 例えば『吉野山』。いわずとしれた狐にぶっ返っての引っ込みだ。人から獣になる瞬間の息づまるような興奮。高い跳躍。歓喜を爆発させるようなめまぐるしい動き。誰もが感銘をうける場面だ。
 それから『黒塚』。月光に戯れる老婆の肩から足元に弧を描いて下りて来る杖。その動きがもたらす線の美しさ。早すぎも遅すぎもしない絶妙な速度の心地よさ。まさに至福の時といえよう。
 そして最も強烈な姿で迫ってくるのが『大物浦』の知盛の最後だ。碇の重さに引き摺られた知盛=猿之助は後ろ向きに頭から宙に浮いて落下する。深海に突き刺さるような壮絶としか言いようのない死に様だ。両足の裏が完全に見える見事なダイビングは私の脳裏に焼きついて離れない。 こうしてあげてみるとキリがないくらい次から次へとヴァラエティーに富んだ姿、形が浮かんでくる。
 しかしこういうもの全てが消え去った後でも執拗に残っている断片がある。それは格別複雑な動きでもなければ、力を要する技でもなく、ただ歩くという極めて単純な仕種なのだ。
 まず『四の切』。狐になってからの場面につい目がいってしまうが、私が最も引きつけられるのは本物の忠信が奥で取調べを受けるために駿河次郎と亀井六郎にはさまれて舞台上手に引っ込むところだ。駿河、亀井には忠信をあやしい奴、逃がすものかという緊迫した思いがあり、忠信にはなぜこんな目にあわなくてはいけないのかという怒りがある。この目に見えない突っ張りあいの中を忠信=猿之助は長袴をさばきながら静かにしかし油断なく進んでいく。腰の落とし具合、上体の反り加減、足の進め方、目の配り、どれを取っても非の打ち所のない見事な歩きっぷりだ。
 
 私は『四の切』には歌舞伎を見始めた最初の頃に出会っている。芝居については何も知らず、『四の切』がどういう話なのかもよく分からなかった。そのせいもあってか舞台を横切っていゆく忠信=猿之助の歩みを見たとき、「あっ、ここに本物の武士が出現して歩いている…」と思わず錯覚をおこしてしまった。
 忠信に扮した猿之助でもなく、芝居の中の忠信という人物でもなく、昔の武士そのものが甦って歩いているという奇妙な感覚にとらわれたのだ。おかしい、これは芝居のはずだ…、そう思ってみると確かに忠信=猿之助が歩いている。しかしふっと気がゆるむとまた武士になってしまうのだ。
そのあと『四の切』は何度みたか分からないが、さすがにそういう錯覚めいたことはもう起こらなかった。それにしてもこの場面はすばらしい。空気が硬質になり、透明感を増し、心地よい緊迫感で身がひきしまる。そしてただ歩くということだけでこれだけの芸をみせてくれる猿之助という役者を改めて見直してしまうのだ。
考えてみれば歩くということは伝統劇、現代劇を問わずあらゆる演技の元にあるものだろう。歩く姿を見ればその俳優の力が分かろうというものだ。私の経験から推しても猿之助がどれほどの実力を持っているかはもはや明らかであろう。

 その猿之助の歩きでもう一つ忘れられない場面がある。『先代萩』における仁木弾正の引っ込みだ。
周知のようにこれは劇中の見せ場の一つで雲の上を歩くがごとくという設定で悪の権化である弾正が妖気を漂わせながら花道を引っ込むのだ。言葉でいうとこういうふうになるのだが、では実際にはどう演じるのか。
 私が初めてこの引っ込みをみたのは国立劇場で、演じたのはセリフ回しが名優といわれた初代を彷彿とさせるというので人気のある役者だった。 
その二代目役者はおもむろに花道を進むと体を沈みこませ膝をガクガクと上下させる。体を伸ばしまた沈ませる。その度に膝をガクガクと動かす。ガクガク、ガクガ゜ク…。何だかギクシャクして釈然としない思いだった。劇評にもなぜ膝を動かすのかとあった。
 しばらくして歌舞伎座で猿之助が弾正を演じた。私は三階席東側の花道を一望できる席から身を乗り出して注視していた。楽日で大いに盛り上がっていた。
  
 長袴を両手で掴んだ弾正=猿之助が花道の端に立って目をつむり何事か思い入れをする。あたりには何やら殺気が漂い、異様な空気が立ち込めてくる。観客の今か今かという期待を一身に集めながら微動だにしない。随分長い間そうしているように思えた。張り詰めた空気が頂点に達したと思われた頃、弾正がカーッと目を開き悠然と歩き始めた。
 体がゆっくりと沈んでいく。本当に雲の中に足が吸い込まれていくようだ。深深と沈むとまた静かに上がってくる。脚で操作をしているのだがとてもそうとは思えず、スーッと沈んでは下から持ち上げられるように浮いてくる。動きが滑らかで少しも不自然なところがない。花道がまるで雲のようにやわらかく見え、その質感まで伝わってくるようだ。
 私は固唾をのんで見守っていた。「これか ! これが仁木弾正の引っ込みなのか ! こういうふうにやるのか ! 」
 私の気持は驚きから興奮、そして畏敬へと変わっていった。何という芸なのだろうか。静謐そのものなのに激しさに充ち、滑るように進みながら荒々しさがほとばしる。弾正=猿之助の姿が消えたあとも私はしばらくムボンヤリとしていた。次に考えたのは、しまった、こんなことならもっと見ておくべきだったということだった。
  
  弾正の引っ込みというと私たち猿之助ファンは伊達の十役における宙乗りを思い浮かべる。あれはあれで面白いが、何のケレンもない、ただ歩くだけという引っ込みの方が私にははるかにインパクトがあり、強く印象づけられた。
 これが本当の芸の力というものだと思う。単純で動きの少ない芸にこそ逆に猿之助の資質、修練、熱情というものがはっきりとあらわれる。

  以上、上総英郎が猿翁による弾正の引っ込みを見て、こういう芸をみせてくれた猿翁に私は終生感謝しているという意味のことを書いていた。同じことを私は猿之助にもいいたい。
 ケレンや激しい動きは猿之助のほんの一面でしかない。歩くという最も基本的な動きにおいて猿之助の芸はその力と輝きの頂点に達するのだ。




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