東京新聞・中日新聞のコラムより 
    金曜日の使者
           毎週金曜日掲載分を東京のファンが
           要約して送ってくださったものです。





12月24日/NO26 『雪・美しく輝いて』

皆様こんばんは。いま(24日の真夜中)、今年最後のお稽古から帰ってきました。
今日はイブ。本当は夜中のミサにと思っていたのですが、明日暁(AM5:00)のミサに、
仕事前に出かけることにしました。いま部屋に一人座って、クリスマスケーキをお供えし、
ボーッとしています。気をとりなおして本日最終回となったコラムをお送りしましょう。管理人の
北前様には半年間の管理、有難うございました。また全国のコラムを愛読して下さった皆様
には、ながのお付き合い、本当に感謝しています。ではお届けします。(金曜日の使者)



昔は六十歳というと随分年寄りのように思えて、自分が還暦を迎える頃にも、
体力的に演じ切れなくなる役々があろうと予想していたが、いざ迎えてみると、
当然ながら急に変わるようなことは何もない。前にも書いたように、精神的に
悲壮感を卒業して舞台を楽しみたいというだけである。
今月、歌舞伎座の舞台稽古の最中、鼻血が出たため稽古がストツプした。私が
鼻中隔湾曲症であるせいもあってか、毛細血管が粘膜から飛び出していたの
が原因で、さっそく簡単な手術で焼き切ってもらった。ところが巷では「猿之助
が血を吐いて倒れた」というニュースになって飛んだというからおもしろい。お
かげで劇評にも「気のせいか疲れを感じた」と書かれたが、ニュースによる先
入観の後遺症ではあるまいか。
体力には特に不安はないが、ただし今月も『袖萩祭文』と『酔奴』で、舞台で
沢山の雪を浴びている。客席から見る紙の雪は美しいが、役者にとっては半分
は埃を浴びているようなものだ。私は煙草は全く吸わないが、肺をレントゲンで
見ると白くくもっているそうである。
『新・三国志』でも二幕目の幕切れと大詰で、桃の花びらが盛大に降り注い
でくる。夢のように美しい場面だが、もともと埃の山のような舞台にさらに塵埃
が巻き起こり、役者の健康を大いに損なうのである。これが昼夜二回で五ヶ
月と、来年もまた四ヶ月続く。お客様を夢の陶酔に誘い、大入りで劇場を潤し
ながら、身を削り命を縮めるのが役者の宿命であろうか。
せめて休演日を外国並みに、とまでは望まないが、商業演劇のスケジュール
も考え直す必要があるのではと思いつつ、今年も雪のないクリスマス・イブ
に、舞台で美しく雪を浴びて輝きつづけている――。
半年間のご愛読、ありがとうございました。(市川猿之助)







12月17日/NO25 『ミレニアム』


今年も残り二週間となった。私の子供の頃に「早く来い来いお正月」という
歌詞の唱歌があったが、最近の私には「早く来る来るお正月」というのが
正直な感想である。ついこの間、1999年のお正月を迎えたと思ったのに、
一年はアッという間に過ぎて、もう2000年が目の前に迫っている…。
何かにつけて盛り上がる世間では、ミレニアム(千年紀)と呼んで騒いでいる
ようだが、二十世紀最後の年になる2000年は、私にとっても節目の年と
言える。1971年からスタートした毎年七月の歌舞伎座奮闘公演が、来年で
三十回目を迎えるのだ。三十一歳の時から三十年、お客様の支持があった
ればこそだが、恒例の公演を続けてこられたことには、感慨深いものがある。
先週書いたことだが、来年二月の「春秋会」最終公演演目として、当初は
『太平記忠臣講釈』を考えていた。なぜならば私が初めて“演出”と名のった
作品だからである。昭和六十三年に私が制定した「猿之助十八番」は、復活
通し狂言が殆どであり、『義経千本桜・忠信編』と『ヤマトタケル』が色合いを
異にしている。そこで、この二本を抜いて、代わりに『忠臣講釈』と『四天王楓
江戸粧』を加えたいと思い、その改訂を発表するに当たって『忠臣講釈』
上演を考えたのだ。
また、現在七作のスーパー歌舞伎は「猿之助十種」、さらに古典の新演出
作品から『猿之助十二曲』を新たに選び、来年中に発表したいと思っている。
「猿之助十八番」が制定されて程なく、“昭和”は終わった。“二十世紀”が
終わり、奮闘公演が三十周年を迎える2000年に、私の演劇活動のひとまず
の総決算を行うのも意味のあることではないだろうかと考えているのである。







12月10日/NO24 『来年の春秋会』

雅子さまの嬉しい兆しのニュースが駆け巡りましたが、おもだか屋ファンとしては、
もう一つ嬉しいことがわかりました。雅子さまは十二月九日、猿之助さんと同じ
お誕生日でいらっしゃったのですね。畏れ多いけれど、雅子さまをこれまで以上に
身近に感じてしまいました。 では今日も、そろそろ連載終了にむけてカウントダウンに
入った猿之助さんのコラムをお届けします。お楽しみください。(金曜日の使者より)



宣伝のようで恐縮だが、先週から私の自主公演「春秋会」の前売りが
始まっている。来年の二月十三日から二十日まで国立大劇場において
黙阿弥の『水天宮利生深川』(すいてんぐうめぐみのふかがわ)の約八十年ぶり
の通しと、近松門左衛門原作から舞踊劇化した『日本振袖始』(にほん
ふりそではじめ
)を上演する。
この「春秋会」第一回公演は、昭和四十一年七月のことだった。当時
の私は、猿之助を襲名した昭和三十八年に祖父猿翁と父三代目段四
郎を続けて亡くし後ろ盾を失ったため、毎月の公演にもこれといった役
付かなくなっていた。こうした場合、力のある幹部俳優を頼ってその傘
下に入る例が多いのだが、“寄らば大樹の蔭”的な身の処し方を好ま
ない私は、生意気にも己一人の力で、己の思うような芝居の世界を創
ろうと考えた。それでこの「春秋会」を始めたのである。
その第一回の演目は『俊寛』と今月の歌舞伎座で踊っている『酔奴』
よいやっこ)、そして『太平記忠臣講釈』(たいへいきちゅうしんこうしゃく)で初めて
演出を手がけた。来年の第十二回公演で「春秋会」にピリオドを打つに
当たり、私の演出家としてのスタートとなった『忠臣講釈』を再び全通し
で取り上げようかとも思ったが、平成八年から「春秋会」を再開した趣旨
は不得意な初役への挑戦だから、やはりその線で前期の二作に決め
たのである。
昨日の十二月九日で私は満六十歳となった。本卦がえりで初心に戻り
新世紀を迎えたいと、“世紀末の狂い咲き五ヵ年計画” と名付けた
第二次「春秋会」だったが、振り返ってみると、いつもは出ない場面を
復活して通し上演することで“古典の新演出”というテーマが明確にな
ってきたようだ。
うれしいことに坂東玉三郎さんが特別出演を申し出て下さったので、
最終回として有終の美を飾りたいと思っている。







12月3日/NO23 『楽しみな十二月・その二』

昨日から歌舞伎座公演が始まった。七月の『伊達の十役』も大入り
だったが、今月も大変好調な前売り状況だそうである。『新・三国志』
の五ヶ月ロング・ヒットを含め、年間七ヶ月の大入り続きとなりそうな
のは、この不景気の折から誠に有り難いことと言わねばならない。 
以前にこのコラムで「新世紀は使命感を終え、“楽しみ”の世紀にし
たい」と書いたが、今月はその“楽しみの世紀”の始まりのような形
になった。『袖萩祭文』も『酔奴』も、自分で演じていてもつくづく「いい
芝居、いい踊りだなあ」と楽しめる名作である。楽しみながら演じ、
また『袖萩祭文』では梅玉さん、『大杯』では団十郎さん、『釣女』では
勘九郎さん玉三郎さんとの共演を楽しむという風に、ゆとりのある
舞台を勤めることができるのはうれしいことである。
このように書くと、私が来週には本卦がえりを迎えることと結び付け
て、猿之助も年齢に応じて方針変更かと思われるかもしれないが、
“楽しむ”とは精神の在り様のことである。今月は四つの演目で五役
を勤めているが、『寿曽我』の演出も加え、出勤俳優中で一番働い
ていると言わせて頂いてよいだろう。挑戦を忘れて守りの姿勢に入る
ことはあり得ない。
『袖萩祭文』は地芝居の松本団升さんの型を取り入れ、段切れを
割り台詞でなく竹本に乗った派手な動きで盛り上げるなど、最近、
『合邦』や『国性爺』で試みている新演出の先駆とも言える作品だが
更に完成度を高めたいと思っている。また、『寿曽我』も、江戸時代の
毎年初春に曽我狂言を新作上演したという例こそが、歌舞伎が現代
劇であった象徴だと思うので、そのエネルギーを現代によみがえら
せたいというのが演出意図である。江戸歌舞伎のバイタリティーを
目標とする私の方針に、変わりはないのである。








11月26日/NO22 『楽しみな十二月』

あれよあれよという間にまた一週間が経ちました。24日に地方巡演を打上げたと
思ったら、なんともう今日・26日からは十二月歌舞伎座公演のお稽古が始まった
というではありませんか。「役者は一に体力」だとはいいますが、実際のところ人間
ワザとは思えません。 化け物か、不死身のグルか…というくらいのものですね。


一昨日で無事に地方公演を終え、昨日九州から戻ってきた。今回、九州は
一日だけだったが、来年は博多座の十一月公演で一ヶ月滞在することにな
っている。今年六月にオープンした博多座でスーパー歌舞伎を九州初上演
するに当たっては、第一作の『ヤマトタケル』を考えていたが、『新・三国志』
の大評判で是非にとの声が強く、ご要望に応えることとなった。
博多座でのスーパー歌舞伎上演は開場の準備段階からリクエストされており、
そのためには東京の新橋演舞場と同等の機能をと、私もいろいろと機構的
条件の完備をお願いしておいたので、初出演を楽しみにしている。
それはまだ一年先のことだが、今日からは旅の疲れを休める間もなく、十二
月歌舞伎座公演の稽古が始まった。私は『袖萩祭文』と踊りの『酔奴』の他に
『釣女』の大名と『大杯』の井伊直孝が初役、それに新作同様の『寿曽我』の
演出をしなければならないが、稽古は来月二日の初日まで六日間しかない。
だが、今回は団十郎さんの酷女、勘九郎さんの太郎冠者、玉三郎さんの
上臈という配役の『釣女』をはじめ、珍しい顔合わせの演目が並ぶので、お客
様はむろんだろうが、演者にとっても楽しみである。ことに団十郎さんとは、
以前『加賀鳶』の勢揃いと『乗合船』で一つ舞台に立ったとはいえ、実質的
には今度の『大杯』が初顔合わせに等しいのだ。
私の場合、一座のアンサンブルに拠らねば成立しない公演もあるが、演目
に応じてこれまでも競演を希望してきた。自分から言うのはおこがましいが、
人気のある役者が顔を揃えるような時には、できるだけ競演の演目を工夫
すべきであろう。ここ数年、師走の歌舞伎座に出演する時は、そうした企画
の大切さを常に考えているのである。






11 月19日/NO21 『地方公演・その二』

全国公演も明日の神戸で近畿圏を終え、残るは山陽道の福山・倉敷・
広島と、北九州の宗像市の四ヶ所である。この全国公演は私が1年
おきに、私が出演する公演と、一門の若手たちによる『二十一世紀歌
舞伎組』公演とを交互に行っているが、今年はスケジュールの都合で、
一月に若手、そして今月と、年二回の巡業になった。同様に次回も、
来年はなしで、2001年には二度の全国公演が行われる予定である。
新世紀の歌舞伎興行を考えると、地方公演はまだまだ開拓の余地が
大いにある市場だと思われる。安ければ見たいという潜在的歌舞伎
人口はかなり多いようだが、大劇場での公演はどうしても料金が高く
なってしまう。その点、公共施設と共同する制作形態などによって、例
えば、現在私が巡演中の『伽羅先代萩』は大体その三分の一見当で
S席が買えるのだ。
だがいくら安くてもお座なりな演目では失望を与え、二度と足を運んで
はくれないだろう。 私が困難を承知で通し狂言を持ってまわるように
しているのも、いわゆる“通”ではない地方のお客先には、ストーリーに
対する興味も大きいだろうと考えるからだ。2001年の『歌舞伎組』公演
では『彦山』の半通しを企画している。国際化時代の日本の政治家や
ビジネスマンが、歌舞伎について外国人に質問され、見たことがない
ので返答に窮するという例があるらしい。自国の文化に無知な者は海外
では尊敬されない。地方公演で歌舞伎人口を開拓・啓蒙することは、今や
歌舞伎を外国へ紹介する以上に意義があるのではあるまいか。
ただ、地方の会場が多目的ホールであるため、歌舞伎の上演に幾分
効果を減じるのだけは、なんとも残り多いことである。







11 月12日/NO20 『たんからの効能』

今日は『伽羅先代萩』の休演日。このスケジュールに合わせて、私の
公演会である「おもだか会」の旅行会を組んだので、今夜は下呂温泉
にて会員御一行様接待の大宴会となる訳だ。
以前は旅行会の度に余興として「たんから舞踊」や「たんから芝居」を
上演していた。舞台では見られないヒット演歌に乗せた舞踊や、歌舞伎
や大衆演劇をどぎつく、ど派手にパロディー化した抱腹絶倒のお芝居は
旅行会の名物になっていたのである。
さらに遡れば、それ以前から折あるごとに「天地会」を催しており、京都
の南座で「風とともに去りぬ」の宝塚版を本格的になぞった宝塚過激
(たんからづか)『風渡艫荷去離奴』(かぜもろともになさけのさりじょう)
などは、もはや伝説化しているといっていいだろう。
お遊びであろうと、やるからにはとことんやるのが私の凝り性だが、こう
したたんからをクサく演じる経験は、若い弟子たちの勉強にもなったと
思う。かつては小芝居で主役級だった役者が大歌舞伎の脇にまわる例
も多く、芝居全体に突っ込みが利いていたが、いつからか突っ込んだ
演技はクサいと斥けられる風潮になり、舞台の燃焼度が低下してきた。
だが抑えた演技というのは、十分、十二分に出来る役者が余裕を残して
こそ真の八分目の芸になるのであって、そこまでの力のない者がただ
抑制して演じても、客席には何も届かないだろう。だから、突っ込んでたっ
ぷり演じる修行は是非とも必要なのである。
私自身は熱演・奮闘の段階から、次第に八分目の芸へと試みている
つもりだが、熱烈な後援会員の中には、それではもの足りないとご不満
の向きもあるようだ。旅行会も含め、サービス満点だった今までのツケ
が廻ってきたというか、今後の難題ではある。







11 月5日/NO19 『梅原先生の文化勲章』

『伽羅先代萩』は昨日から首都圏の会場移動して公演中だが、一昨日
の文化の日には嬉しいニュースが報道されていた。梅原猛先生が文化
勲章をお受けになり、皇居で親授式が行われたのである。
発表された折の略歴紹介にも、日本文化研究のほか「劇作など幅広い
分野で活躍」「『ヤマトタケル』などの戯曲も手掛けた」とあるように、もは
や梅原先生の劇作は哲学者の余技ではなく、広く認知されている。タケル
なりオオクニヌシなりの長い生涯の、どの場面をピックアップして芝居の
場面に仕立てるかという構成の巧みさなど、プロの劇作家でも及びもつか
ないものがある。先生の作品は、溢れんばかりの内なる思いが、旺盛な
表現欲でセリフとして湧いてくるといった感じなので、とても長くなる。
 スタッフやキャストはあ然として、電話帳だの百科辞典だのと形容したが、
その構成が骨太で堅牢なため、どれほどカットしてもびくともしない。作者
の作品世界を見据える眼が、揺るぎなく確かだからであろう。その意味
で、梅原先生は立派な劇作家である。
もう二十年以上も前から、先生とは京都の祇園のお茶屋や北白川の
先生のお宅、また東京のネオン街などで交歓し、よもやま話に興じて
きた。そんな長い友情の中から『ヤマトタケル』が生まれ『オグリ』が
生まれ、『ギルガメシュ(未上演)』『オオクニヌシ』と続いてきたのだ。
タケルの純粋な精神を表す“天翔ける心”とは、先生が私のことを書
 いて下さったのだと思ったが、先生ご自身のことでもあるのだそうだ。
私と梅原先生と伝説のタケル像が三分の一ずつというところらしい。
兄弟のような先生の受賞に、私も心からお祝いを申しあげたい。 


 





10月29日/NO18 『地方公演』

ついに大阪の『新三国志』が終わりましたね。観客の心はまだ『新三国志』の
世界をさまよっているというのに、猿之助さんたちは休む間もなく、もう頭と
身体を切り替えて、巡業の強行スケジュールを歩み出していらっしゃるのですね。
本当にみなさん「よくぞこなして行かれるなァ…」と驚嘆してしまいます。
とにかくお身体にだけは気をつけて大事にして欲しい!と祈るような気持です。


「二十六日で大阪・松竹座の『新・三国志』が終わって、三十一日からは
地方公演が始まる。そのスタートである横須賀市のよこすか芸術劇場で、
明日三十日は舞台稽古だ。
演目は『伽羅先代萩』の発端「花水橋」から、「御殿」を短縮版にして、
「床下」「対決」「刃傷」と通し上演する。たまたま十一月は歌舞伎座でも
『先代萩』が「床下」まで上演されるが、歌舞伎をご覧になる機会の少な
い地方のお客様には、物語の全貌をお目にかけたいと思い、いろいろ
な面で困難は多いが、敢えて“通し狂言”としたのである。
大道具や出演人数の制約などから、地方公演ではどうしても限られた
演目しか上演しにくくなる。だが、歌舞伎になじみの少ないお客様にこそ、
絶対の自信作をお見せしたい。そう思ってこれまでも『義経千本桜・忠信
編』や『獨道中五十三驛』『仮名手本忠臣蔵』などを、難しい条件の中で
通し上演してきた。
条件を克服するには、地方の会場に合わせた演出上の工夫が必要になる。
『先代萩』でも“スッポン”などの“セリ”の機構は使えないので、鼠から
仁木弾正へ煙の中で替わる大道具を新しく考案した。また、歌舞伎専門劇
場のような本格的な花道がない以上、引っ込みが効果的に見えないので、
なるべく本舞台を利用するといった変更も生じる。
今回は幕切れも「先ず今日はこれぎり」という“切り口上”で終えるつもりだ。
地方で『お目見得口上』が喜ばれるのは、役を離れた“素”の役者に接する
ことができるからだろうが、そういう客席との交流のある終わり方こそ地方
公演にふさわしいであろう。
横須賀に続いての伊勢崎、長野へは、軽井沢の山荘から通勤する予定で、
秋の自然に触れるのもまた巡業の楽しみの一つである。


                                                           




10月22日/NO17 『来年も《新・三国志》

コラムの連載が続いて早4ケ月。もう予定の2/3が過ぎてしまいました。
七月奮闘公演の最中から始まったコラム執筆ですが、あのいつも過酷な
公演中のいつ、どこで猿之助さんは執筆なさっているのでしょう。いまもお風邪
をこじらせて体調はかんばしくないらしいのに、こうして休むことなく私たちに
届けてくださる・・。何だか私は読んでいて胸がいた〜くなってしまいました。


「 大阪・松竹座での『新・三国志』も、あと四日を残すところとなった。
東京、名古屋、大阪と続いて、二十六日の千秋楽で202回の上演を、
ひとまず終えることになる。ひとまずと言うのは、大入り大当たりとなった
この作品が、来年も再演されることになったからだ。
来年は今世紀の決算として、スーパー歌舞伎第一作の『ヤマトタケル』
決定版を上演したいと考えていた。ところが第七作の『新・三国志』が
大ヒットでアンコールの声高く、東京、大阪、そして福岡・博多座で、合計
四ヶ月の上演が決まったのである。
これほど短期間に回数多く上演されると、改善に改善を重ねることができる。
昨年再演した『オグリ』は初演から七年、大阪での『ヤマトタケル』は十二年
の歳月をかけて、決定版と言えるまでに磨き上げてきたが、『新・三国志』は
今年の五ヶ月でかなりのレベルにまでし上がった。それでもさらに検討を加
え、来年はモア・ベターを目ざしたい。すでに宙乗りの方式などには、改良
のプランを考えてある。
宙乗りというものは段取りがスムーズに運ばなければ興ざめである。だから
考えられる限りの工夫を尽くして、完璧を期さねばならない。だが仕掛け物
だから、あってはならないトラブルが生じることもある。先月の歌舞伎座『石
川五右衛門』で宙乗り初挑戦の中村吉右衛門さんが「死ぬかと思った」と
いう事故の記事を読んだが、私にもミスの起きたことはあった。
だが、宙乗りが芝居全体の必然として構成されてさえいれば、失敗があっ
てもお客様を失望させはしないだろう。あとは機転を利かせて対処すること
だが、そのためには経験が必要だ。思えば私の宙乗りも二十六日で
四千九百七十六回、今度翔ぶ時(来年の再演)には五千回になる――。」








10月15日/NO16 『 大切なのは逆算

今日は、いつもお尻に火がついてからしか動き出せない性分の
私にとっては、と〜っても耳の痛いお話ですねェ〜。


「大阪・松竹座での『新・三国志』公演は、九月と十月の二ヶ月にわたる
ロングランなので、折り返し点の十一月一日は休演日だった。長丁場
で疲労のたまる時期だから、スタッフ・キャストにとって有り難い休日だ
が、この日を私がどう使ったか。自慢して言うにも当たらないが、来月
の公文協(全国公立文化施設協会)共同企画の地方公演『伽羅先代
萩』の台本を開き、その準備を始めたのだ。              
『先代萩』のような古典の演目の場合、稽古の回数は多くない。今回は
地方公演の限られた条件の中で通し狂言として上演するため、従来と
異なる新演出も試みるし、政岡や八汐といった大役に若手が初役で挑
戦するが、それでも二、三回の稽古で総ざらい(最終稽古)となる。それ
だけに個々の俳優が十分に準備しておかなくてはならないのだ。  
私の役は細川勝元で動きは多くはないし、セリフに関しても七月の歌
舞伎座『伊達の十役』で同じ勝元を演じているから、覚えるのに楽だろう
と思われるかもしれないが、なかなか油断は出来ない。なまじ似ていな
がら違ったところもあるセリフなので気をつけねばならないし、雄弁術
を聞かせるのが眼目だけに、ただ覚えたというだけでは不十分だ。ど
こを押してもスラスラ出てくるほど完全に覚えこまなれれば勤まる役で
はない。(何の役であろうと実はそうあるべきだろう) それゆえ一日以
来、暇を見つけては覚えている。                      
私は芝居作りにおいて常にブロデューサー的役割も果たしてきたせい
で、「今、何をしておかなければ間に合わないか」という“逆算”の思考が
身についたのだろう。だが逆算が働かないため、せっかくの企画が準備
不足のまま幕をあけるという例もあるようだ。観客に対する責任からも、
役者は逆算が不得手ではなるまい。」                   







10月8日/NO15 『 歌舞伎鑑賞入門

9日から再放送開始の猿之助さんの『優しい歌舞伎鑑賞入門』(土曜午後
零時半より一時まで。四回連続)についてのコラムです。来年の二月にも
また再放送されるそうで、歌舞伎の楽しさが伝わる、歌舞伎が見たくなっち
ゃうという、これまでになかった入門講座。きっと新たな歌舞伎ファンを沢山
作ることでしょう。

「――この教育テレビの歌舞伎講座シリーズは、毎年恒例、今年で
もう十年目になるそうだ。例年は学者や評論家が講師で、歌舞伎
俳優は随時ゲストとして加わる構成だった。私も何度かインタビュー
の形で出演したことがある。今年は記念すべき十周年を迎えて、初
めて実際家の私が講師を務めることになった。            
お引き受けはしたものの、三十分の四回で歌舞伎を言い尽くすなど
到底できるものではない。そのためか、これまでは個々の作品論が
多かったが、歌舞伎鑑賞には演出こそが主眼なのだ。そこで私は
歌舞伎劇を、その三要素と言える「歌」(音楽性)、「舞」(舞踊性)、
「伎」(技=演技、演出)という切り口でとらえ、この三つを三回に分け
て解説することにした。そして最終回では、それらが新作(スーパー
歌舞伎)にどのように応用されているかを具体的に紹介したのであ
る。それによって何よりも、歌舞伎が現代にも瑞々しく息づいている
演劇であることを、あまり歌舞伎を知らない“入門”の視聴者に感じ
ていただきたかったのだ。                       
幸いスタッフも私の意を汲んで、収録・編集ともに手間をかけ、最新
の「新・三国志」の映像さへ挿入して下さったので、歌舞伎の魅力の
伝わる番組になったと自画自賛している。さらに付言するなら、京都
造形芸大での授業や昨年八月のワークショップ(大阪中座)での経験
があったればこそ、納得のいく内容になったとも言えよう。仕事の積
み重ねの大切さである。」                        







10月1日/NO14 『 春秋会のこと

今日はなんと、もう来年の春秋会の話題です。28日(火)は、昼の部の一回公演
だったので、終演後、春秋会の宣伝用に扮装スチール撮影をされたとありました。
そういうのを読むと心は一足先に春秋会まで飛んでいきそうですが、でもその頃
にはもうこのコラムは終わってしまっているんですね。淋しいです。楽しみが一つ
減るんですから…


「――先週も触れたように、この第二次「春秋会」は、世紀末五ヵ年計画
として平成八年から再開した。毎年二月に国立劇場をお借りして今年ま
で四回続け、いよいよ二千年二月が五回、つまり最終回となるわけだ。
よくインタビューなどで演じたい役を質問されることがあるが、幸い私は
これまでにやりたいことをやり尽くしてきた。                 
折しもこの世紀末に、ちょうど本卦がえりと言われる年齢を迎えるにあた
り、むしろ“嫌いな役”“不得手な役”に挑戦することが己の傲慢を戒めて
初心に返ることになるであろう。そう考えて、「春秋会」という自主公演の
場を再開したのである。                             
まずは最も苦手で嫌いな踊りの『娘道成寺』と、やはり不得意な粋な江戸
前の味を必要とする『髪結新三』からスタートしたが、その時点では二千
年のラストには『妹背山』の大判事でもやってみようかと思っていた。  
だが、回を重ねるうちに、これまで嫌いであった役というものが、むしろ現
行の上演形式のせいで尻切れとんぼであったり、意味不明であつたりす
ることの不愉快さから来ていることに気付いたので、常に通し上演を試み
ることになっていった。その結果、初役への挑戦という趣旨に加えて、い
つもは上演されない場を復活して通すことによる従来演出の再検討が、
会の理念となってきたようだ。                          
この“古典の新演出”は、私にとって新世紀の重要な仕事になりそうで
ある」   
                                      







9月24日/NO13 『 楽しみの世紀に

少々取りこんでいて、お届けするのが遅くなってしまいました。ごめんなさい。
それにしても半年連載のうちの半分がもう過ぎてしまったのですね。本当に
月日のたつのは速いものです・・・。さて今回は、N011で「猿之助も変わり
始めているのです」と書いたことに対して、「どう変わるのか」といった質問が
あったらしく、それへの回答をかねたようなコラムとなっています。



「――私にとって、芝居を創造する演出家としての仕事は、どれだけきつくとも
”楽しみ”である。それに対し、その芝居を毎日同じクオリティーで観客に提供し
なければならない役者の仕事は、いわば”行”のようなものであり、七月に演じ
た『伊達の十役』などは、とりわけ肉体的にも過酷な荒行なのである。    
この『十役』も初演のころは、早替わり自体にやりがいがあった。江戸歌舞伎
のエネノギーを取り戻したいという使命感に燃えていたからである。私のそう
した”気”が客席に通じてか、「猿之助歌舞伎」は好評を得て定着した。今年の
『十役』も客席の熱狂的喝采に支えられたればこそ、荒行を乗りきれたのだと
言えよう。だが、正直なところ演者としては、政岡の苦衷、宙乗りの仁木の凄み
勝元の雄弁術といった、いわゆるお芝居の部分に”楽しみ”が感じられるように
なってきた。                                        
これは、世紀末五ヵ年計画として平成八年から再開した第二次「春秋会」にも
かかわりがあるかもしれない。好きでない役、不得手な役に挑戦する鍛錬のた
めのこの会で、髪結新三や『引窓』の与兵衛、『合邦』の玉手や『加賀鳶』の道
玄などが、思いのほか演じがいのある役で、食わず嫌いを改め好きな役になっ
たのである。                                       
私は、新世紀は使命感を終え、”楽しみ”の世紀にしたいと思っている。とは言え
「春秋会」でも常に新演出を試みてきたし、次なるスーパー歌舞伎の構想も進ん
でいる。いきなり保守的に古典回帰するわけではないのでご安心を」     








9月17日/NO12 『 スーパー歌舞伎

今週のコラムは猿之助さんが分析する「新三国志」ヒットの秘密です。
「そうそう、確かに…」といちいち頷きながら読んでしまいました。



先週のこの欄で少し触れたが、近代のいわゆる「新歌舞伎」と呼ばれる
作品には”歌”と”舞”の要素が乏しい。”歌”とは音楽性であり、”舞”とは
舞踊ないし舞踊的所作の視覚性である。”歌舞伎”とは文字通り”歌”と
”舞”と”伎”の三要素から成るものなのに、明治以降は合理主義による
リアリズムの影響で、”伎(=技)”つまり地芸中心で、音楽性や視覚性の
面では楽しくないものに傾いていったように思われる。        
 私は、新作の中に”歌”と”舞”の要素をふんだんに採り入れたいと考えた。
舞踊、立廻り、ツケ入りの見得、単なるBGMでなく合方(セリフの伴奏)と
しての音楽使用、そして隈取りの化粧等々。それら古典歌舞伎の美意識
、発想・演出法、演技術を活かしつつ、なおかつ現代人にも感動を与え得る
物語(脚本)の新作を、と始めたのが「スーパー歌舞伎」だったのだ。  
昭和61年の『ヤマトタケル』から13年、現在大阪松竹座で上演中の『新
三国志』が七作目になる。ラッキーセブンということか、この作品は東京
(新橋演舞場)、名古屋(中日劇場)で大入り大評判となり、その勢いは
大阪でも衰えていない。ヒットの要因はいろいろとあると思うが、内容的に
は初心にかえりセリフ劇的要素を減らしたことにあろう。        
前述のごとく現代人に感動を与えたいという意図から、スーパー歌舞伎
は常にテーマ性を重視してきた。そのため時として理屈っぽさが表面に
出てしまい、新歌舞伎同様、セリフ劇に感じられがちだったのである。
『新三国志』ではそれを極力排除した。今回のテーマは「夢見る力」がキー
ワードだが、終曲の夢を追う人々の行進に顕著なように、セリフに頼らず
ともそれは十分に浮かび上がったと思われるのである。   
     







9月10日/NO11 『 宙乗り・けれん


――今月の歌舞伎座では中村吉右衛門さんが、石川五右衛門のつづら
抜けで”宙乗り”を初体験しておられる。その話題を紹介する新聞記事の 
表現を借りると、「正統派の歌舞伎を得意とする」吉右衛門さんが”けれん”
に初挑戦するのは、「吉右衛門が変わり始めている」ということらしい。    
吉右衛門の名を襲った以上、初代の残したものを受け継ぐ義務を重んじてき
たが、「より幅広い人に満足していただこうと思って宙乗りに挑まれるようだ。
 この記事を読んで私にも感慨深いものがあった。私がはじめて宙乗りに挑
んだのは三十一年前の昭和四十三年、国立劇場の『義経千本桜・四の切』
の狐忠信役である。これが大変な評判となり、以来「猿之助歌舞伎」と呼ば
れるようになる私の舞台つくりには”宙乗り”や”早替わり”といった”けれん” 
の演出が大きな要素となったといえる。                        
  明治以降の歌舞伎は、一面で西洋の近代合理主義の影響を受け、「新歌
舞伎」といっても”歌”と”舞”の要素の少ない「新劇」的なものに傾き、また
一面で古典化が進み、殊に戦後は、”型破り”な新演出が試みられる機会
が少なくなっていた。                                   
そうした状況の中で私は、合理主義に毒されない「江戸歌舞伎」のエネルギ
ーを取り戻したいという使命感から、高尚化した歌舞伎が排斥してきた”け
れん”演出も積極的に取り入れたのだ。                      
 私のこの活動は幸い観客の支持を得て、今では”宙乗り”も歌舞伎演出
の一つとして定着したようである。ただ、これまで私を突き動かしてきた使  
命感は、ある意味では悲壮感を伴うものだったかもしれない。これからは  
そうしたものから開放され、楽しく舞台を勤めたいと思っている。「猿之助も 
変わり始めている」のである。 
                             

                        





9月3日/NO10
明日のエネルギー』

『新・三国志』開幕を二日後にひかえた今日のコラムは、数年前に夫を亡くした
私には、つい我が身に当てはめて
しまうような、心に染み入る言葉の連続です。
トルコ地震から入って阪神大震災の話に進み…

 「――あの時はちょうど翌二月に大阪の新歌舞伎座での公演があった。
これほど大惨事の折に、はたして観劇の余裕などあるだろうかと懸念
されたが、私は「被災された方々の活力となるような舞台を」と念じ、
『千本桜・四の切』の忠信などをいつにも増して熱演した。その舞台を
ご覧になった被災者からのお手紙に、「猿之助さんの気迫に感動して
、落ち込んでいては駄目だと気を取り直しました。忠信が力を下さいま
した」と書かれてあったのは本当に嬉しかった。             
演出家のピータール・ブルツク氏は、「劇場は一見、ベッドルームとは
対極的な場所のようだが、人が睡眠によって活力を得ると同等に、楽し
みながら明日の活力を与えられる場所が劇場なのだ」という意味の
ことを言っておられるが、まさにその通りであろう。そうした明日のエネ
ルギーを与え続けるのが、芸術の指名なのだ。              
   今年の春の『新・三国志』公演中にも、次のようなお手紙を頂戴した。
19年前にご主人を突然亡くされ、以来なれぬ自営業を女手でこなして
こられた69歳の女性からである。                      
  「人間、逆境にあればあるほど力が出てくるものだと知りました。最後
に猿之助さんの関羽の霊が臨終の劉備(玉蘭)を迎えに来て、良くやっ
たとねぎらう場面では涙が出て困りました。私も主人がよくやったねと
迎えてくれると思うと、死が少しも怖くはなくなります」           
その『新・三国志』の大阪松竹座公演は、明後五日が初日である。今回
も大勢の観客の皆様に、明日の活力をお届けしたいものだ」      







8月27日/NO9進化中の作品』

いよいよ大阪の『新・三国志』も間近となりましたね。今日は、28日まで軽井沢で
夏休みを過ごし、29日には大阪入りをされるという猿之助さんからの、創造者の
姿勢についてのべられたコラムをお届けします。東京、名古屋の上演成果を踏ま
えて台本や音楽など演出面にも手を加えられたと書かれていますが、そこが猿之
助さんのスゴイところだと思います。あんなに大成功した舞台でも、常に冷静な  
”離見の見”の目で見つめ、検討を加え続けられる…。 
             

「――この『新・三国志』に限らず、私は上演のたびに新たな検討を加え、また
劇場という容れ物にふさわしい演出を工夫するよう努力してきた。商業演劇の
世界では時として無反省で安易な再演か罷り通り、そのためかマスコミでは再
演物を新作物より注目しない傾向があるようだ。だが、新しく創り出された芝
居が、『決定版』といえる程に完成するまでには長い時間がかかる。それまでは
絶えず改良の可能性に賭けて、あらゆる試みに挑んでみなければなるまい。そ
のようにして再演に取り組むことが、使い捨て状態の新作で氾濫する劇界を淘
汰することにもなると思うのである。                            
スーパー歌舞伎第四作の『八犬伝』で舞台美術を担当して下さったハンス・シャ
ーヴァノッホ氏は、ヨーロッパのオペラ界では大変多忙な舞台装置家なのだが、
平成六年の再演時にも「どうしても立ち会いたい」と言うので舞台稽古にお招き
したほど、作品には徹底的にこだわる方だった。                  
シャーヴァノッホ氏は『八犬伝』を「完成品とみなしてはならない」「ただ再演する
という、瞬間の淵へ見捨てたくはない」と言い、「進化中」の作品として工夫を凝
らされた。それは私とまったく同じ考え方だったのである」 
            
      

 


 

8月20日/NO8自然の恩恵 』

  めっきり秋の風と変わりましたが、日中はやっぱりまだまだ暑い!ですね。
   ではコラムNO8のお届です。八月はお弟子さんたちの会が目白押しで、その
   お稽古や何やかやとみなさん大忙しの毎日を送られるそうですが、その間も猿
   之助さんは東京に滞在することをせず、いちいち日帰りで軽井沢から出ていらっし
   ゃるそうです。「そうまでしても、軽井沢で過ごす時間には替えがたいのだ」と。


    「―― 浅間山の眺めは見飽きるということがない。晴れわたった青空であれ、   
一面の雲であれ、刻々とその趣を変える。この自然に包まれていると、時間とい
うものが鮮やかに意識されるような気がする。毎年八月と正月とにこの地に滞在
するせいか、私の中では夏と冬の軽井沢が、交互にあっという間にやって来ては
また去っていくような、そんな感覚を覚えるのだ。時間はどんどん流れ去る。人間
はそれに流されがちなものだが、それだけに、その流れ行く時間の中で、キラキラ
と輝く充実した一瞬を、いかに作り上げるかが大切なのであろう。          
       このように自然はいろいろなことを人間に教えてくれる。私は少年時代を茅ヶ崎     
で育ったが、当時の茅ヶ崎は『兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川』という唱歌その
ままの地で、庭には梅、木瓜、桜と四季の花が途切れなく咲いていた。二百十日頃
に台風が来ると、畦に水があふれて小川になる。そんな毎日が楽しく、いま思えば
あの時代に感受性を養ってもらったという思いがするのだ。               
      芸術とは人に感動を与えることが目的である。それに携わる者は瑞々しい感受性    
を持ち、キラキラと輝いていなければならない。そのための栄養源が、私にとっては
軽井沢の自然なのだ」                                      

                          





8月13日/NO7若者たちの夏 』

修羅のごとく、若き日々を送られた猿之助さんの目から見れば、たぶん”まだまだ”
に見えるのでしょうが、どうしてどうして、若者たちは頑張っていましたよ。三公演のうち
の二公演を拝見。 残るは『右近の会』のみとなり、今年の夏もあと少しで終わります。



「―― 例年、休演月の八月には一門の若手の会が開かれる。(『笑三郎
の会』『翔の会』『右近の会』) 暑い夏に若手役者が勉強芝居で汗をかくの
は、江戸時代からの習慣のようだが、毎年七月公演で盛大に汗をかいてい
る私から見ると、今の若手はまだまだ汗のかきようが不足に思えてならない。
これは私の一門に限らず、世の中世の中全般の若者がぬるま湯的という
か、積極的に物事に取り組んで行く”欲”が足りないような気がしてならない
のだ。だから、前々回に書いた京都造形芸術大学の授業にも、私は常に
歌舞伎という「瑞々しいエネルギーの燃焼に」打ち込む自らの姿勢を示す
ことで、学生諸君に「感動する心」を学んでほしいと念じて臨んできた。
私は教授としても師匠としても、決して教え上手ではないと思うが、自分
の生き方を示すことが後進への何よりの指導だと信じてきたのだ。   
その私から見ると、殊に四六時中私に接しているはずの一門の若手には
まだまだ物足りなさを感じる。公演ごとに演技が進歩していることは認め
るが、演技以前の人間的魅力の面で、もっと自分を磨いてほしい。『芸は
人なり』で、祖父猿翁も常々言っていたように、たくさん感動を覚えている
人間こそが、人にも感動を与えることができるのだ。           
若手に対して評価が厳し過ぎるかもしれないが、自分を甘やかさず、厳し
く対決することが、観客に”気”を与える気概を養う一助にもなるのだ。自
主公演はそのチャンスである。猿之助一座で一番若々しいのは猿之助、
などと言われないよう、頑張ってもらいたいものだ」      
        








             8月6日/NO6軽井沢から』            
 

 ちょっとあれこれ多忙続きで ご報告が遅れ気味になってしまいました。
楽しみに来て下さる皆さん、ごめんなさい。それではN06の始まりです。


「―― 一昨年の八月に新しい稽古場が完成し、『ヤマトタケル』のセリフ「天翔
ける心」から「天翔館」と名付け、また昨年の暮れにはその側に新居「おもだか
山荘」も落成した。だが九月以降公演が続くので、ゆっくりと滞在できるのは今
年はもうこの月だけである。                                
芝居のある月は、どうしてもその芝居に集中して勤めねばならないので、他のこ
とを考える時間がない。従って八月は、休暇であると同時に、翌年以降の仕事の
骨組みを作る、いわば仕込みの月になる。この十六年間の猿之助の仕事は、す
べて八月の軽井沢から立ち上がったものといえるのである。毎年四月に初日を
迎えるスーパー歌舞伎の新作も一年前の七月中に第一稿を仕上げてもらい、八
月に軽井沢で打ち合わせを行い、綿密に検討を加えて改稿を注文する。昨年の
今頃は『新・三国志』の土台作りで大わらわだった。                  
今年の八月は、来年のスーパー歌舞伎が再演物になることや、来月からの公演
(大阪松竹座)が四月から六月まで公演したばかりの、その『新・三国志』である
ことなどから、例年よりはゆとりのある休暇と言えるかもしれない。だが、準備す
べきことは限りなくあるし、新居や「天翔館」、また「諸星館」と名付けた旧稽古場
の整備もしなければならない。                               
私は将来ここに「猿之助村」とでもいうような芸術創造の場を夢見ている。浅間山
を正面に、周囲は畑というこの自然環境こそが、集中して物を考え発想する、絶
好の芸術創造工房だと思えるからである」                        


何だか軽井沢の涼しい風を感じるような気がする今日のコラムですね。











7月30日/NO5 『細井平洲の言葉』

千秋楽の余韻いまだ覚めやらぬ、といった私たちですが、猿之助さんはじめ
お弟子さん方はもう大学の歌舞伎講座に取り組んでいらっしゃる!!

先ず31日からはじまる集中授業について、「歌舞伎座公演を終えてゆっくりと
休む間もなく、役者・演出家から大学教授に早替りというわけである」と、ちょっと

笑い(?)をとって、お話は本題に入っていきます。          


「――この授業は、平成四年に始まって今年で八年目になった。正直言って
当初は、歌舞伎の専門家を目指しているわけでもない学生たちに、いったい
どのような授業をすればよいのか、私にもとまどいがあった。そんな時、徳山
詳直理事長から教えられたのが、細井平洲の『泣き申さず候ては化し申さず
候』という言葉である。                                  
『化す』とは『化(バ)ける』であり、役者ても急に進歩した時などに『あいつは
化けた』という言い方をする。つまり『人は涙を流して感動した時、素直になっ
て考える力が生まれ、向上心が生まれる」というような意味の言葉なのである。
常々私は、芸術というものの究極の目的は、人々に感動を与えることだと思っ
ていたのだが、この細井平洲の言葉を知って、自らの演劇活動に一つの答え
を得たような思いがした。そして、この大学で芸術を学ぶ学生諸君に対しても
この『感動する心』を教えることが最も大切だと考えたのである。        
知識を教えるのでなく、歌舞伎そのものを実際に見せ、かつ学生たちにも肌で
感得させる。私が舞台に立つ時と同じ感動を胸に教壇に臨めば、学生たちも
また猛特訓に集中することで、ふだん経験できない感動を知るのだ。彼らの
リポートを読むと、シラケ世代などと言われる若者たちが歌舞伎の授業を通し
て「感動する心」を学んだということがよく分かる。それを活かしてどう『化ける』
か、私はそれを期待している」                             








7月24日/NO4 『行(ギョウ)に入る七月』

まってました、金曜日! 今日のもよいですよォ〜。新聞記事からさえも”気”を
頂いてしまいました。本当にファン冥利につきますよねェ。とにかく 早くお目に
かけたくて、今日の一文をみなさんにお届するべく、金曜日の使者は空を飛びます!
では今日のコラムは、先ずは昨年の七月公演のお話から始まりました。
そして・・・


「――この『千本桜』の三役は、いつの頃からか歌舞伎の立役(男役)の”博士
論文”と言われるようになっており、一興行で三役を完演した役者は江戸時代
から数えても十一人、近年では今は亡き尾上松緑、実川延若のお二人と、
現存者では私だけということになるらしい。それだけに大変な体力・気力・芸力
が必要であり、今年の『伊達の十役』と同様に、二十五日間無事に演じおおす
ことだけを念じて、毎日の舞台を勤めていた。                      
それもあと四日となった日の終演後の夜遅く、テレビのあるドキュメンタリー
番組がふと目にとまった。『行・比叡山千日回峰』と題されたその番組は、
昭和五十四年に初放映された『NHK特集』の秀作アンコールで、京都の比叡
山に伝わる荒行に挑んだ五十二歳の僧侶の記録であった。山中に分け入り、
毎日四十キロ以上を歩いて聖地を礼拝するという荒行中の大荒行である。
「行は自分自身のためにではなく、他人に支えられ、他人のためにするもの」と
語るナレーションを聞いて、私は『千本桜』の舞台もまさしく”行”に等しいと感じた。
お客様を感動させようと”気”を飛ばせば、芝居に熱中した客席から逆に”気”
をいただき、喝采をいただくことで、肉体的にも精神的にも過酷な三役を完演
することができるのだ。                                  
今年もまた過酷な十役に取り組んだのは、二十世紀のフィナーレという思い
からだが、昨年に劣らぬ連日大入りの客席に励まされ、無念無想で勤めて
いるこの”行”もあと三日。 行を終える”出堂の儀”にも等しい千秋楽を  
無事迎えたいものである」                                


いかがでした? なんだかありがたさに思わず合掌してしまいそうな
今日のコラムだったのではないでしょうか。









 7月16日/NO3 『ストレス解消』

  今日はいつもお話しになっているのでファンならよく知っている話題ではありますが…
 先ずは芝居が何より大好き人間なので、自分にとっては毎日芝居をすることが同時に
 ストレス解消にもなっているらしい、ということをお話しになったあと。



   「――だが、歌舞伎役者の家に生まれたからといって、必ずしも私のような人間ば
 かりではないだろう。私の父の先代市川段四郎は、家庭に芝居の話題をあまり持ち
 込みたくない方で、家では好きな野球をテレビで観戦することが多かった。父にとって
 はあれがストレス解消になっていたのであろう。                       
  私は逆にスポーツ音痴だし、映画のビデオを借りて見るのも全て芝居に結びついて
 しまう。キザなようだが「趣味は仕事」なので、ストレス解消の必要がないわけである。
  それでも新しい作品を創り出すときなどは、腑に落ちない部分が気になっているよ
 うな場合、眠りが浅くなって寝言を言うようなこともあるようである。だが、そういう
 納得のいかない点は、すべて解決した上で初日を迎えなければ気が済まないので、
 結局ストレスが長くたまるということがないのだろう。                   
  こう書いてくると、息抜きの必要もない「仕事人間」のようだが、私も人の子である。
 公演中はせめておいしいワインと食事をいただくこと、そして公演の後の短い休暇に
 は、軽井沢の山荘で、美しい浅間山を眺めること、それが何よりのストレス解消になる
 のである」
                                               


 どんなスーパーマンにだってやはりストレス解消法は必要ですものね。
 そして私たちの解消法は、それはもう、いうまでもありません。







   7月9日/NO2 『二十一世紀』

  二十一世紀まであと五百数十日というカウントダウンの時に入ったという書き出し
 から、上演中の恒例七月奮闘公演が二十世紀最後の年である来年、三十回とい
 う節目の年を迎えることを思い、感慨深いものがあると延べられています。そしてお話
 は本題に…


  「――この公演の始まりは1971年、「猿之助百年」と銘打った公演からスタート
 した。猿之助の名が初代以来、一日も途絶えることなく百年続いたのを記念しての
 公演だったのである。                                       
  それから今年で29年。毎年七月の歌舞伎座は猿之助公演が恒例となり、いつ
 のころからか、「七月大歌舞伎」というタイトルに「市川猿之助」の名が冠されるよ
 うになった。襲名や追善といった特別公演を除くと、個人名をタイトルに掲げるのは
 七月公演のみである。お客様の指示を得たればこそ、こうした名よる公演を続けて
 こられたわけで、私はとりわけこの月の公演を大切に思って勤めてきた。その三十
 周年記念の七月公演を含め、私は来年、これまでの仕事を総決算して、新しい世紀
 には新たなる歩みを始めたいと思っている。                         
  しかし、三十年といい一世紀といっても、悠久の時の流れの中ではあっという間の短
 さである。そのわずかな百年である二十世紀に、人間はあまりにも地球の環境を激変
 させ過ぎはしなかったか。                                     
  地球の未来に不安材料が多くあっては、歌舞伎の将来も猿之助の名も何をか言わ
 んやである。この世紀の変わり目に、忙しい歩みを少し止め、地球が誕生して以来の
 長い時間に思いを馳せることも、必要なのではないだろうか」              


 それにしても、猿之助丈は、あのお忙しい公演の最中に、いくら一週間一度とは言え
 このコラムを、いったいいつ、 どこで認めていらっしゃるのでしょうか。


 



 
7月2日/NO1 『賞味期限』


  まずは今日から半年の間、金曜日のコラムを担当することになったので「よろしく」
 といったご挨拶があり、続いて同じく初日をあけた「伊達の十役」について、簡単に
 物語りのご説明。そしてそれに続いて…


  「――食品などに記載されている賞味期限とは「この日を過ぎると食べられません」
 ではなく、「この日まではおいしく食べられます」の意味だそうである。つまり「まだ
 どうにか大丈夫」というマイナーな意味ではなく、「ベストの状態を保っています」とい
 う品質保証の期限ということなのだろう。その意味で、私にとって『伊達の十役」は
 今回が賞味期限ギリギリだと思うので、いわめる「一世一代」的な心づもりで勤めて
 いる。                                               
  歌舞伎では「一世一代」をうたって役を勤めるという例がある。だが、老優が本当に
 これ以上演じるのは無理という時期に、「一世一代」の看板を掲げるのはいかがなも
 のか。まだまだ勤めることが出来る役でも、今がピークで恐らくは今後下降線をたどる
 であろうという時に封印して、「一世一代」の心で演じ納めるのが潔いのではあるまい
 か。つまり、あくまでも賞味期限内のラスト・ステージでなければなるまい。そうでなく
 ては、「一世一代」 という言葉から与えられる輝きにはふさわしくないと、私には思
 われるのである」                                          


  という風に結ばれていました。