エリザベス・A・リン
Elizabeth A. Lynn
冬の狼
訳:野口 幸夫
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- 1980年<世界幻想文学大賞>受賞作品。実際には存在しない「アラン地方」を舞台に繰り広げられる『歴史物』である。シリーズ化されてはいるが、それぞれの話が独立しており、どの巻から読み始めても楽しめる
- 第1巻の本書は、イメージとして絶対王政が確立する以前、城を構える領主が狭い地域で権力を握っていた時代を模している。そのため、台詞の言い廻しが大変古めかしい部分があり、慣れない方には少々読みづらいかもしれない
- この本で注目すべきところは、人々の日常生活にも触れながら、哲学的考察も書かれているところだろう。均衡を表す「チア」と言う言葉は、「すべての事象は均衡を取る、万物はおのがじし円をえがいて動く」という哲学を端的に表している。これから派生する「チアリ」という言葉は、元来世界の均衡を表象する「舞人」を意味するものだという
- 作者が文頭で注釈として述べているように、このチアリ(舞人)の所作は「合気道」の動きにそっくりである。彼らはまた一流の戦士でもあるがその戦い方は、合気道の創始者である植芝盛平氏が「合気道の究極の技とは、戦う相手と友人となること」といわれたように、「殺さぬが故に均衡を破らぬ戦い」であり、それを彼らはその「舞い」によって目指すのである
- シリーズを通して取り上げられているのは、社会的な自己実現を目指すための自己発見の過程である。主人公達は社会的地位を見出せない者か、それを失いながら再び手に入れようとする者かのどちらかで、その探求の過程に「チア」の概念が関わってくるのである
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アランの舞人
訳:野口 幸夫
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- 北方の異民族の侵入も絶えて久しく、北に設けられた山城もその存在意義が徐々に薄れ始めた頃、というのが第2巻の時代設定。だが、南方の異民族との間に続く攻防は未だ解決されていない。南方の人々に対する敵対心は時に根強く、相容れない異文化との溝は深い
- この巻では、まるで北方の山々から涌き出た水が、徐々に川の流れとなって徐々に平地にそそいでゆくように、過去の人々の努力や願いが時を超え、形を変えて現れてくる。舞台もそれに従い、北の郭(山城)から南の平地へと主人公の旅と共に移動する。それはあたかも鮭の稚魚が大海へと泳ぎ出す様に似ている
- 遠い昔に蒔かれた「チア」の概念は人々に深く浸透し、「道化者」として扱われていた「チアリ」はその本来の意味である「舞人」として「紅幇」という集団を形成し、高い社会的地位を獲得する。他方では商人や祐筆達も、固有の色で所属を表わし、一種の職業組合を構成している。そのように社会が集団への帰属意識を要求し始めるなかで、主人公は己が真に属する場所を見出せず苦悩する
- 第1巻で軽くふれられた「心的能力」がこの巻の重要なキーワードである。この特殊能力は「チア」がもたらす物とされ、アラン地方に住む人々の間では広く受け入れられている。が、南方の異民族は同族の能力者を迫害しており、ここに異民族との新たな理解の接点が生まれるのである
- 歴史に明確な終焉がないように、この巻のエンディングも新たな物語の萌芽をはらんでいる。この巻はある意味主人公の成長小説であるが、その背景にちりばめられた設定の一つ一つに別個の「物語性」を感じさせる作品でもあるといえる
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北の娘 上・下
訳:野口 幸夫
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- 3部作の最後であるこの巻は2作目の流れを継ぎ、川が海へと注ぐように河口に位置する街が舞台である。アラン地方を取り巻くように存在し平和を脅かしてきた異民族も、すでにアラン地方との和平を結び、人々は長い平和を享受している。そしてこの長い平和は、施政者の意識を『政治権力』へと集中させて行く
- また長い年月は「チア」の概念を形骸化し、「幇」の政治的影響力をも強化してゆく。特殊能力者たちで構成される「白幇」は新たな「チアの体現者」として、政治的に隠然とした力を振るいはじめていた。それに刺激されるかのように、権力の再分配による利権獲得を目論む者すら出始める
- この巻の通奏低音は「故郷への郷愁」と「故郷(土地)による拘束力」である。主人公は題名の通り、北の地方の血を引く娘(特殊能力者でもある)であり、南の河口の街に居て一度も北で暮らしたことの無い彼女が感じる「北の山々への郷愁」が物語を進めてゆく
- しかしながら政治的争いや何気ない日常の描写にも、登場人物達それぞれが抱く「土地」への思いが垣間見られるのである。『権力』は「(土地を)治める義務」に付随して発生するものであろう。これを忘れて私利私欲で権力を行使する時、多くの人命が失われ社会的混乱が起こるのではないだろうか
- 初めて読んだ時点では、あまりに漠然とした終盤に「消化不良」の感が否めなかった。しかし、このレビューを書くにあたって「歴史に終わりが無いのであれば、この物語に終わりが無くても良いのではないか」と、多少は肯定的に考えている
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