「ひひっ、ひひひひひ……」

 薄暗い部屋の中に、男の薄ら笑いが響く。ぶ厚い本と薬品が散乱したその部屋の床には、「研究室」と書かれた埃だらけのプレートが、皮肉めいて落ちていた。

「やったぞ、ついに完成だ!」

 男は液体の入ったビーカーを右手に持っていた。ビーカーの中の液体は、12色の絵の具をすべて混ぜたような不気味な色をしている。それを見つめる男も、恐ろしく血走った瞳の奥はそんな色をしていた。

「これぞ、透明薬……」

 男が作り上げた薬こそ、透明薬『キエールZ』だった。

 少年の頃、透明人間に憧れた彼は科学者を志し、大学院を卒業すると真っ先にその研究を進めた。

 しかしそんな研究は同じ科学者から夢物語と一笑に付され、彼は人里離れたこの研究所に籠もり、密かに研究を続けていたのである。

 そして今日、ついに動物の透明化に成功したのである。失敗と研究を繰り返して開発した新薬をラットに投与したところ、たちどころに消えてしまったのだ。

 消え失せたラットを見て、彼は喜ぶのも忘れ茫然と立ち尽くした。そして頬を一度つねってい見る。生々しいほど痛かった。だから、夢などではなかった。

「これで長年の願いが叶えられた。これを学会で発表すれば、ノーベル賞間違いなしだ」

 彼の頭の中には、壇上でノーベル賞を受賞する自分の姿が浮かんでいた。だがそんな姿をかき消すように、べつの思いがこみ上げてくる。

「ふふっ、だが透明人間になれたらどうしよう。窃盗、無銭乗車、覗き、何でもやり放題だ。研究の発表はいつでもできる。その前にじっくりと楽しもうじゃないか、ひひひひ……」

 会心の笑みを浮かべると、彼は一気に透明薬を口の中に流し込んだ。口から溢れた薬が、黄ばんだ白衣にシミをつける。

 ビーカーの中の薬をすべて流し込むと、彼は最後にゴクリと飲み込んだ。

「ふふっ、さあ来い」

 彼は己の両腕を見つめる。やがてその手が陽炎のように揺れると、スゥッと音もなく消えていった。

「はははっ、笑いが止まらない! 自分こそ世界一の科学者だ!」

 彼は着ていた物をすべて脱ぎ捨てた。高笑いが響く中、彼の腕が、足が、身体が、そして最後に頭が消えていった。完全な透明人間である。   

 彼は研究所の出口に走った。少年の頃からずっと憧れていた透明人間。透明になったこの姿を、自分を見下した科学者どもに見せてやりたい。

 相手は気付かないだろうが、そのお堅い頭を一発殴ってやれば、少しは気が晴れるというものだ。相手が狼狽える姿が目に浮かぶ。

 研究所の出口が見えてきた。彼の足も一段と速くなる。だが彼は、まるで急に糸が切れた人形のように、崩れるようにして床の上に倒れ込んだ。それから2,3度ヒクヒクと痙攣すると、それから全く動かなくなった。






 ―梅沢 田悟作  享年82歳―
 
 彼の透明人間への執着は、まさに一生を捧げた研究だったのである。世界で初めて透明薬を開発したこの科学者は、透明になったその姿も、そして研究成果も発表することなく、天寿を全うした。

 なぜなら、そこは人里離れた研究所だったのだから……。