映画「スペシャリスト―自覚なき殺戮者―」

〜ナチスの犯罪を個人の罪に帰することができるのか〜


 2月27日、会社の人が東中野の小さな映画館で上映していた映画「スペシャリスト」を観に連れていってくれました。この映画は、第二次世界大戦時にユダヤ人をナチス強制収容所に送る移送の責任者であったアドルフ・アイヒマンの裁判のドキュメンタリーです。実際の裁判の記録フィルムにデジタル処理を行い、更に劇的で強い印象を与える作りになっています。終始法廷の中のみで進行し、モノクロなので寝不足の私にはちょっとツライものがありましたが、いろいろと考えさせられるところがありました。

 アイヒマンは自分が関わったのはユダヤ人の移送のみであって、それも命令に従う義務を果たしただけで罪はないことを主張します。ナチスの行ったユダヤ人大量殺戮の罪は認めながらも、それは自分自身の罪ではないと。
 その主張は到底受け入れられるものではありませんが、一面の真実であるとも言えるのではないのでしょうか。もちろん彼は「有罪」ではありますが、その罪状は何かというと、はっきりとは形にできないものだと思われます。
 この映画の中でアイヒマンは、ひどく典型的な、教養さえ感じさせる、堅苦しいお役人といった印象を与えます。自分の職務に忠実で、熱心な。その職務が大量殺戮につながるものだというのに。彼は、「命令に逆らえば自分の身が危ないので仕方なかった」とは言わず、「命令に従うのは私の当然の義務だった」と言うのです。
 法廷では多くのユダヤ人の証人が出廷し、強制収容所の現実について証言する場面があります。法廷の記録係の腕に強制収容所にいたこと示すナンバーの入れ墨が見えるというショッキングな一場面もあります。
 しかし、彼らの証言も、アイヒマンを告発する検事の熱弁も、何処か噛み合わないものなのです。
 アイヒマンの印象は、残忍な殺人者などというものとはかけ離れているから。

 結局ナチスの犯罪とは、ごく普通の人間に恐ろしい罪を犯させるものなのです。
 自分自身がそんな状態に置かれたとして、絶対に罪を犯さないと断言できる人が果たしているでしょうか?
 そんな犯罪を、何処まで個人の罪として裁くことができるのか――
 もちろん、誰一人として裁かれなくていいとは言いません。何処までが法廷が扱うことができる範囲のものなのか。その判断がとても難しいと感じます。

 私は原爆投下とナチスのユダヤ人大量殺戮は、人類が背負っていかなければならない二つの大きな罪であると考えています。
 「ホロコースト(アウシュヴィッツだったか?)の後に詩を書くことは野蛮だ」と言ったドイツの詩人は誰だったか……
 人間が詩を書くことを許されない存在になってしまったとは思いたくないけれど。
 どうしてこのような罪を人間は犯してしまうのか。個人の枠を遙かに超えるような罪を。それは全ての人間が考えなくてはならない問題であるという気がします。

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