人の一生にとてつもなく大きな影響を与える、そんな権限はいらなかったから”がっこのせんせ”にはならなかった。
学生最後の年に、”がっこのせんせ”にでもなるか!とか、あるいは”がっこのせんせ”にしかなれないし・・・などという考えで、今、”がっこのせんせ”になってるいわゆる”でもしか教師”に人の子の進路をとやかくいう資格などあるのか?
そんな”がっこのせんせ”でも、人の進路を決める権限を持ってて、しかもそれを自分の出世のために行使しまくっているなんて、なんか怖い世の中である。
今日は、ペルーの日本大使館で人質に取られていた人々が、無事に解放された日である。
人を死ぬか生きるかの瀬戸際に立たせて、”強行突入”をやってのけたペルーの大統領・・・・。Mr.フジモリのした決断は、はかりしれないストレスを持っていたであろう。すごい話である。
ところで、MRTAには未成年者もたくさんいたが、その子らもやはり死亡したのだろうか?
人質の人にはその子らが殺されたことがどう映るのだろう。彼らに自分の子の影とかは見なかったのだろうか?
政治的なことは私にはよくわからない。奪われた自由を取り戻せたこと自体、Mr.フジモリの勝利と言えるのだろう。
人質のほとんどは無事に解放され、MRTAのメンバーはみな死んだ。彼らに死をもたらしたのは、だれあろう、Mr.フジモリなのである。MRTAのメンバーの”進路”を”死”と決めたのである。これは彼の権限なのである。
Mr.フジモリのしたことを非難するつもりは毛頭ない。
ただ、ふと考えてしまうのだが、MRTAに属していた未成年者達は、怪しい宗教にはまってしまった日本の未成年者達と同じ精神状態だったのではないか?
オーム真理教にはまってしまった未成年者が、第2の”地下鉄サリン事件”という一大テロ事件を起こす可能性もあるのである。
もし、そうなったとしたら、日本の首相もその未成年者達に、”死”という”進路”を与える権限を行使するのだろうか?