はじめに (このページは、1993年の婦人会での学びをまとめたものです)
 このページは、わたしたちが隣人に、「キリスト教とは何か」ということを、なるべく簡潔に説明してあげるための手引きです。日本ではキリスト者(クリスチャン)は総人口の約1%ですから、隣人のほとんどはキリスト教になじみが薄い方々で、それだけに一層の相互理解を必要としているわけです。

 そういうわけでこの文は、護教的または信仰勧誘的な立場ではなく、なるべく事実を説明するという態度をとりたいのです。しかしそうはいっても、まったく第三者的に坦々と客観的に述べるということも困難で、どうしても自分の依って立つ視点が必要です。それで、ここではわたしたちの属している「日本キリスト改革派教会」というプロテスタントの教会を念頭において説明します。
 キリスト教は大別して、旧教(ローマカトリック教会、ギリシャ正教会など)と、新教(プロテスタントの諸教会)があります。旧・新という言い方はあまり感心しませんが、他に適当な言い方がないので便宜的に使うことにしましょう。歴史的に昔からあった方が旧教で、新教は16世紀に、カトリック教会の偏向を糺すための宗教改革によって起こったキリスト教の流れです。

 これからの説明は、カトリック教会とはかなり違う面があるでしょうが、プロテスタントの教会では、教派が違ってもほとんど共通していますので、プロテスタント一般の説明として通用するものと思います。


1.唯一の神を信じる
  1. キリスト者は、天地の創造主であり、全世界を支配する、唯一の最高の「神」が存在することを信じています。この神の性質やはたらきは「聖書」に記されていますが、キリスト者は、この「神」に最大の敬意を表し、この「神」だけを礼拝するのです。
     実は、日本人が常識的にいう「神様」や「神々」とは全然違う概念なのですが、他に適当な日本語の呼び名がないので、一応「神」という言葉を使います。他の言い方として、「主」という呼び名も使います。これはわたしたちが全面的に忠誠をつくす、ただ一人の「主人」あるいは「王」の意味がこめられています。ともかく、キリスト者は、この「唯一の神」だけを崇拝の対象とするのです。
     次に、この「唯一の神」は、ご自分の存在をあらわす三つの面を持っています。
    第一は、「父である神」として。 
    第二は、「子である神」(イエス・キリスト)として。
    第三は、「聖霊である神」として。 
     この三つは、現れ方は違いますが、本質は同一の「一人の神」であると、キリスト者は認めるのです。 これを「三位一体」(さんみいったい)といいます。
                                    
  2. なぜ、「三位一体」なのかというと、その根拠は、「聖書」に書いてある、「神」に関する出来事を、歴史的な順序に従って認めることに起因します。
     まず、聖書には、世界のすべてを創造し、人間を創造し、すべてのものを支配している「神」が示されています。これが「父である神」です。
     次に、、(聖書の文脈によれば)、この「神」は歴史の中で一度だけ人間として生まれ、人間救済の業を為し遂げました。それが「イエス・キリスト」です。それで、「イエス・キリストは主である」と信じるのです。
     キリストの地上の生涯は歴史の中の一時期だけでしたが、現在も、聖書や教会の働きを通して、人間に影響を与え続けています。このように、今も人の魂に働きかけて、キリストの救いを各個人に適用する無形の(スピリチュアルな)存在者を「聖霊」といい、「聖霊」もまた「主」である「神」そのものであると信じるのです。
    父と子と聖霊については、「使徒信条」という信仰箇条にまとめられています。
※ユダヤ教も、イスラム教も、「唯一の神」を信じますが、イエスを「神」とは認めません。(ユダヤ教では、イエスはただの人間であり、イスラム教では、預言者の一人とみなしています) 「イエス・キリストは『主』である」と信じることが、キリスト教の最大の特徴となっているのです。

◆キリスト者が「神」をあがめる態度◆

「唯一の神」(主)のみを礼拝する。
他のものは、どんなに神々しく、すばらしく見えても、礼拝の対象としない。
偶像礼拝は絶対にしない。(神を形に現さない) 
  キリスト像、マリア像などを拝むこともしない。(プロテスタントの場合)


2.信仰の根拠は −−聖書−−

  1. キリスト教の信仰の根拠となるものが「聖書」です。これは、「旧約聖書」と「新約聖書」の2部からなり、合わせて一つの「聖書」なのです。旧約・新約は、神の古い契約・新しい契約の意味です。旧約は天地創造から救い主(メシア)の預言まで、新約は、救い主(キリスト)の到来から最後の審判までがその内容になっています。(メシア<ヘブライ語>も、キリスト<ギリシャ語>も同じ意味です)
                    
  2. 聖書の各巻記者は約40人で、BC1000年以上の昔からAD100年位の長期に亘って記述された一大収録です。原典は、旧約はヘブライ語、新約はギリシャ語で書かれています。わたしたちが通常用いるのはその日本語訳です。内容は、物語、歴史、律法、詩歌、文学、格言集、手紙など多様ですから、これを理解するには、その表現形式に従って、歴史的文献的に正しく解釈される必要があるのです。

  3. キリスト者は、「聖書は、神が、世界に起きた歴史上の出来事を通して、人間に神のみ旨を告げ知らせて下さった啓示の書である」と信じています。そして、そのみ旨の主なものは、
    @人が、神について信じなければならないこと(神についての知識)
    A神が、人に求められる義務(罪と、救いと、感謝の生活)
    であると受け止めるのです。
    それで、「聖書は神の言葉である」として、尊重するのです。

   旧約 39巻
1.天地創造
2.人間の起源
3.人間の堕落・罪
  (人間の悲惨さの原因)
4.神の裁き
5.神の律法
6.イスラエル民族の歴史を通して
  はたらかれる神
7.救い主の預言

   新約 27巻
1.救い主の誕生と生涯
2.キリストによる救いの完成
  (十字架と復活)
3.キリストの弟子たちのはたらきと
  教会の形成
4.救いについての教理
5.信徒の生活上の注意・訓練・
  将来の約束など
6.最後の審判

読まれざるベストセラー?   --BIBLE--

  • 聖書は世界のベストセラーで、毎年4千万冊以上売られ、キリスト教徒が少ない日本でも毎年600万冊以上売られているそうです。
  • しかし、これがどれだけ読まれているかとなると、ほとんどは「積ん読」の方でしょう。でも、世界の文学や芸術には、聖書の物語や思想が素材になっているものが多いので、「いずれ、取りかかってみたい」と思っている方も多いことでしょう。
  • 現在、日本で一番普及している出版物(聖書)は、日本聖書協会のもので、最新版は、プロテスタントとカトリック教会が共同で翻訳した「新共同訳聖書」です。これから購入される方はこの版がよいでしょう。


3.なんのために?    (信仰の目的)

  1. 宗教を求める動機は?
    一般に、宗教を求める理由はいろいろあると思います。
    ◇病気が治りたい、受験合格、結婚、安産、金もうけ、交通安全、超能力が得たい、などなど。(こういうのを現世利益といいます。)
    ◇心身を清めて、清浄になる。(神社などで)
    ◇死者の供養、慰霊、祖先崇拝など。
    ◇心の平安、悟りを開く、「涅槃」<ネハン>の境地に達する、など。(本来の仏教の目的)

  2. では、キリスト教ではどうなのか?
     キリスト教でも、はじめて教会の門をたたく人は、いろいろな悩みを持っていて、そこからの解放を願うのは事実です。そして、信仰を持つことによって、現世利益はともかくとして、悩みが解決される場合も多いのです。しかし、キリスト教の真の目的は、現世利益でも苦悩からの解放でもありません。

  3. キリスト教の目的は、「唯一の神を『主』と認めて、崇め、仕え、その教え(即ち聖書の教え)に従って人生を歩む」ことにあります。
     そのためには一時的に犠牲や苦しみが伴う場合があるかも知れません。一言で言うと、「主に依り頼む」ということになるのですが、そこに根本的な解放と喜びと平安を見いだすのです。イエスの言葉に、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな与えられる」(マタイ福音書7:33)という箇所があり、結果的に人の望みもかなえられることが約束されています。 また、聖書には、祝福は現世だけにとどまるものではなく、死の時から終末の時にまで及ぶことが記されています。

      ※佛教か? キリスト教か?   
     これは目的が違いますから、優劣の比較はできません。
     「苦」からの解脱という点に限れば、佛教は奥深い哲学と実践の道があり、
     文化遺産としても魅力に富んでいるのは事実です。   
     しかし、聖書を通して、「唯一の神」の存在を知る者にとっては、必然的に、
     キリスト教の道を取り、他を求めないという選択になるのです。
     二重信仰はあり得ません。

4.キリスト教の礼拝

  1. 礼拝とは?
     礼拝とは、常識的に言うと「神を拝む」ということです。拝むというと、神仏に向かって、手を合わせたり、頭をさげたり、という「しぐさ」を連想しますが、キリスト教の礼拝はそういった「しぐさ」のことではありません。十字を切って祈る「しぐさ」があるではないかといわれるかもしれませんが、プロテスタント教会ではそういうこともしません。(カトリック教会などでは、十字を切るなどの独特の表現もありますが----)

  2. 礼拝とは、神を前にして、神を敬うための一連の生活態度のことであって、その内容には次の要素がふくまれます。
    @聖書を読み、その教えを学ぶ。(神の言葉を聞くという行為)
    A神を讃美する。(讃美歌はその目的のもの)
    B神に祈る。(讃美、感謝、告白、願い、などを言い表す)
    C神と隣人のために奉仕をする。(献金、労力、などによって)
     日常の生活の中で、これらの要素を一つでも二つでも行うことが即ち「神を拝む」ということですが、礼拝の典型的なものは何と言っても、日曜に教会で行う「礼拝式」であって、クリスチャンはそれに参加することが義務づけられています。

  3. 日曜に教会で行う礼拝式のプログラムは、大体次のとおりです。なお、これはプロテスタント教会の礼拝であって、カトリック教会ではだいぶ様子が違います。それから、プログラム中の聖餐式に相当するものが、カトリックの「ミサ」ですが、その意味づけが全く違います。プロテスタントでは「ミサ」という言葉は用いません。

礼拝プログラム
  
(一例)
  説明と補足
※礼拝は教会員だけのものではありません。
 一般に門戸が開かれています。 誰でも参加することができます。
※聖書朗読は、神の言葉(教え)を聞くという意味で大切です。
 説教は、その聖書の解説です。
※洗礼式は、新しく教会員となる人に授けられる入信の儀式です。
 わたしたちの教会では、頭に水を滴下します。
 信者の子供に授ける幼児洗礼もあります。
※聖餐式は、キリストの十字架による救いを記念する儀式です。
 パンとぶどう酒を受ける人は洗礼を受た教会員の成人だけです。
※献金は、神に対する感謝と献身のしるしとして、ささげるものです。
 献金の金額は、自発的に、自由に定めます。
 初めての出席者や、趣旨がわからない場合は、
 無理に献金することはありません。

●洗礼と聖餐は、キリストによって定められた大切な儀式です。
 これを「礼典」(サクラメント)といいます。

※カトリック教会では、次の七つを秘跡(サクラメント)としている。
 洗礼、堅信、聖体(聖餐)、告解、終油、叙階、婚姻
1.奏楽
2.礼拝への招き
3.讃美歌
4.祈り
5.聖書朗読
6.説教(牧師による)
7.讃美歌
☆洗礼式 
 (不定期)
☆.聖餐式 
 (定例日)
8.献金(感謝の祈り)
9.祝祷
--報告--

5.クリスチャンとは?   (キリスト者=教会員)

  1. キリスト教の信者のことを、キリスト者またはクリスチャンといいます。これはどういう人のことでしょうか。
     まず外面的にいうと、イエス・キリストを神として信じ、洗礼を受けて正式な教会員として登録され、日曜には教会の礼拝に出席し、教会を維持するために献金や奉仕などの義務を果たしている者をいいます。(教会という共同体に加わっていること)
     以前は教会員だったが今は教会に行かなくなり、会員籍を失っている人や、教会には行かず、書物などを読んでキリスト教に好意を寄せているだけの人などは、キリスト者とはみなしません。

  2. では、どのようにして教会員になるのでしょうか。わたしたちの教会では−−−、
    @聖書の教えに接してそれをよく理解し、自分の立場(罪の状態)を認め、イエス・キリストが救い主であると納得すること。(教会では、試問をして、洗礼の適否をきめます。)
    Aキリストを信じて教会員となることを表明し(これを信仰告白という)、洗礼を受ける。(陪餐会員になる)
    B教会員の子供(幼児)は、まず幼児洗礼を受けて「未陪餐会員」として登録され、成長して分別年齢に達してから、自分の決心で信仰告白をして通常の教会員となる。(欧米のクリスチャンホームはこれが普通です。なお、幼児洗礼を認めない教会もあります。)
    ※「陪餐会員」とは、聖餐を受けることのできる会員です。他教会所属でも聖餐を受けることができます。

  3. クリスチャンになるには−−−
     通常は教会の集会に参加して、礼拝を体験すると同時に、キリスト教の核心である聖書の教えを聞くことから始まります。キリスト教の信仰とは、「聖書の教えが真実であると認識し、『主』である神に心から信頼する」ということです。
     普通は、教会に出席してから、しばらくの教育期間を経て洗礼に導かれるという人が多いのですが、中には、納得し決心するまでに10年〜20年とかかる人もいます。盲目的な信仰や、強制された信仰というものはキリスト教の理念に反するのです。 
    (詳しくは、左の目次の下の具体的準備をクリックして下さい)

  4. クリスチャンのつとめ−−−
    @日曜には、つとめて教会の礼拝に出席すること。
    A教会を維持し、発展させるための献金と奉仕をすること。
     献金は毎月定期的に献げることが義務づけられています。金額はその人の収入や生活状況に応じて自発的に献げます。奉仕もその人の能力・特性により多様な働きがあります。(多額の献金、有能な奉仕の功績によって神より御利益を受けるという思想は、キリスト教にはありません。これらは、神への感謝と献身のしるしとしてなされるものです。)
    B聖書の教えに従って、日常生活を送ること。具体的な生活の指針として、「十戒」があり、また、祈りのお手本として、「主の祈り」がありますが、項を改めて説明します。

6.キリスト教の「救い」とは?

  1. キリスト教では、「罪から救われる」ということを強調しますが、これは何を意味するのでしょうか? また、どうすれば「救われた」という状態になるのでしょうか?

  2. ふつう、わたしたちは、良くも悪くもない[+−]0.の白紙の状態から、罪を犯して悪くなったり、善行によって良くなったりすると考えがちですが、キリスト教の人間観はこれと全然違います。
     聖書の教えによれば、人間は生まれながらに「原罪」というものを持っていて、ここからすべての悪行と悲惨が噴き出してくるのです。この状態では人間は、神の裁きと罰が必然で、罪の払う値は死であり、究極には「最後の審判」が待っているのです。

  3. この「原罪」はあまりにも重すぎて、人間が自力でいくら善行に励んでも、精神修養によって人格を磨いても、何の足しにもなりません。罪を少しも持たない何者かによって代価が支払われないかぎり、わたしたちに「罪からの救い」はないと教えています。

  4. 「神」は信賞必罰の絶対的に正義のお方ですが、一方、愛のお方でもありますので、罪深い人間を憐れんで御自分の側からこの代価を支払って下さいました。それが、イエス・キリストの十字架の犠牲です。一点の罪も汚れもない「神の子」(神御自身)が人としてこの世に生まれ、贖罪をなし遂げて下さったのです。「救い」は、このことを信じ、イエス・キリストを自分の救い主として認めて、受け入れる者にもたらされるのです。

  5. 自分の現実をよく見つめ、聖書の教えに照らして、決して[+−]0.の状態などではなく、「救い」が必要であると認めるところからキリスト教の信仰が始まるのです。
     それから、この「救い」は、神の約束(契約)であって、決して抽象的なものでなく、それに伴う「感謝の生活」が次々と現れてくるのですが、それは項を改めて述べましょう。

       ※比較のために

     キリスト教(プロテスタント)は、「自力救済」ではなく、キリストによる100%の「他力救済」になるのですが、これによく似ているのが佛教の一派、親鸞のとなえた「浄土真宗」です。
     親鸞によれば、今は末法の時代で、人間が修行によって救われることは困難になっており、地獄に堕ちることは避けられなくなっている。しかし、久遠の昔、阿弥陀如来というお方(仏)が衆生済度の願を起こし、すでに「救い」をなし遂げて下さっている。それで、難しい修行をしなくても、ただ「弥陀の本願」を信じて念仏を唱えるだけで「極楽往生」は間違いない、と説いています。これが「他力本願」で、座禅を組んだり難行をしたりする「自力救済」の佛教とは対照的な教えです。
     前に述べたように、佛教とキリスト教とは異なる道ですが、洋の東西を問わず、人間が深く自己を省察するとき、決して満足すべき状態ではなく、根本的な救済を願わずにはいられないところに到達するものであることについては、考えさせられるものがあります。

7.キリスト者の生活 (その1)  ----感謝の生活----  <十戒>

  1. 人間は「神」の前にどのように生きなければならないかという基準(律法という)が、聖書の中に示されています。それを要約したものが下記の「十戒」です。十箇条ですが、その一つ一つがきわめて含蓄に富んでおり、これをただ形式的に守ればよいのではなくて、心の底のあり方までが厳しく問われているのです。

  2. キリスト教でいう「罪」とは、このような律法を守らないだけでなく、少しでもこれに反することをいいます。そうすると、人は皆「罪人」であって、「神」の前に正しい者は一人もいないということになります。律法(十戒)はこのように、人間に罪を気付かせるという厳しい側面を持っています。(十戒の第一の役目)

  3. 救いとは、このような人間を「キリストの十字架」に免じて、「無罪」と見なし、それだけではなく、律法(十戒)の一つ一つを守ることができるように、一歩一歩着実に向上させ、遂には完全に聖く正しい者にまで高めて下さるという約束を含んでいるのです。キリスト者にとって、十戒は厳しい裁きの一面から、「神への感謝」をあらわす道へと変わるのです。(十戒の第二の役目)
 十   戒          (要約)
[序言]わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。




1.あなたはわたしをおいて他に神があっては
 ならない。
2.あなたはいかなる像も造ってはならない。
3.あなたの神、主の名をみだりに唱えては
 ならない。
4.安息日を心に留め、これを聖別せよ。
唯一の神だけを主とする。

正しい礼拝。偶像礼拝禁止。
主の名を尊ぶ。

安息日の礼拝を守る。





5.あなたの父母を敬え。
6.殺してはならない。
7.姦淫してはならない。
8.盗んではならない。
9.隣人に関して偽証してはならない。
10.隣人の家を欲してはならない。
長上の尊敬。人間秩序を守る。
殺人と憎しみの戒め。生命尊重。
淫らな言行の戒め。異性の秩序。
盗みと不正の戒め。正当な働き。
隣人の名誉尊重。真実を語る。
欲、不満の戒め。謙虚と満足。

比較 佛教にも五戒がありますが、
 キリスト教の十戒の1〜4に当たる部分はありません。
 (佛教は一種の無神論ですから当然でしようが----)
 キリスト教では、1〜4戒が土台になって、
 その上に5〜10戒が築かれています。





1.不殺生戒
2.不妄語戒
3.不偸盗戒
4.不邪淫戒
5.不飲酒戒

8.キリスト者の生活 (その2)  ----感謝の生活----   <祈り>

  1. たいていの宗教には「祈り」があると思います。また、ふだんは特定の信仰を持たない者でも、切実な問題に直面しますと、祈りの心が起こり、祈らずにはおられない心境になります。例として----
    新年の新しい決意、 平和のために、 心の平安、 子供の成長、 受験合格、 病気の癒し、 死者の哀悼、 豊かな生活を求めて、 等々。
    「祈り」は人間の、人間らしい生活の一つの特徴ではないでしょうか?

  2. キリスト教の祈りの特徴は何でしょうか?
    @祈りをささげる対象が、「主」である唯一の神であること。
    A祈りは、わたしたちが「主」に感謝をあらわす手段であること。
    B祈りは、「主」が、わたしたち(キリスト者)の願いは何でも聞き届け、御心に沿った最善の配慮をして下さるという、聖書を通しての約束に基づく、「主」への信頼である。
    C祈りには、次の内容が含まれる。
     ●讃美: 「主」をほめたたえる。
     ●感謝: 「主」の恵みに対する感謝の言葉。
     ●告白: 罪の告白と、許しの求め。
     ●願い: 自分の願いと、他の人のための願い(とりなし)。
     ●キリストの名によって祈る。アーメンと唱える。

  3. キリストが弟子たちに教えた「祈りのお手本」ともいうべきものが、聖書に記されています。それをまとめたものが、「主の祈り」です。
    「祈り」は、ともすると自分本位の願いだけに偏ってしまうことになりがちですが、「神」のみ旨を中心にした均整のとれたものとして、「主の祈り」は、すぐれたお手本になっています。
    アーメンは、ヘブライ語で、「真実に」「確かに」などの意味。

    主の祈り    (新約聖書マタイによる福音書6章参照)  
    ◎天にましますわれらの父よ。
    ◎ねがわくは、み名をあがめさせたまえ。
    ◎み国を、きたらせたまえ。
    ◎みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
    ◎われらの日用のかてを、今日もあたえたまえ。
    ◎われらに罪を犯すものを、われらがゆるすごとく、
     われらの罪をもゆるしたまえ。
    ◎われらをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。
    ◎国と力と栄とは、かぎりなくなんじのものなればなり。 アーメン。
    序言
    第一の祈り
    第二の祈り
    第三の祈り
    第四の祈り
    第五の祈り

    第六の祈り
    結び(讃美)

9.キリスト者と国家・社会

  1. 聖書の教えでは、国家的為政者もまた至上の「神」によって立てられた職務であって、人々の秩序を維持し、平和を守り、福祉を図り、悪を抑制するなど、魂の領域(宗教、思想など)以外の世俗の領域を治める目的を持つものとしての権威を認めています。

  2. したがって、キリスト者は無政府主義者や反体制論者ではありません。積極的に法を守り、国民としての義務を果たし、為政者を尊重し、たとえ国家の指導者が無能であっても、非合法な手段でこれを倒すことは許されない行為です。

  3. しかしながら、国家的指導者がその領域を超えて、「神」の律法に反するような命令や規則を強制する場合には、キリスト者は、「人に従うよりは神に従う」という道をとることになり、不服従や抵抗がやむを得ない場合も生じてきます。

  4. 国家権力が介入してはならない問題として、「信教の自由」「政教分離原則」などがあります。国はあらゆる宗教に対して、中立であり、公共の機関が特定の宗教行事を行ったり、保護したり、または妨害したりすることは越権行為と考えられます。
    ※日本国憲法で、「信教の自由」(20条)が定められていますが、人間の持つ基本的な権利として当然なことです。戦時中に、「国家神道」の強制や、神社集団参拝、宮城遙拝、宗教団体の国家統制などがなされた苦い経験の反省に立って、この原則がおろそかにされることを、キリスト者は見過ごしにはできないのです。

  5. 「信教の自由」「政教分離原則」は、公共団体や公立学校でも厳密に守られなければならないと考えています。キリスト者として心を痛めている問題を幾つかあげてみましょう。
    公共の場で、「慰霊碑」を立てたり、「慰霊祭」を行ったりすること。(「慰霊」は「神道」にはあるかもしれませんが、佛教にもキリスト教にも「慰霊」の思想はありません。参加要請は信教の自由の侵害です。)
    市町村の行事で、神道的な「地鎮祭」を行う。
    町内会(公共的な組織)で、神社のお札や祭礼寄付の斡旋をする。
    公立学校で、佛教的な花祭りや、クリスマスのお祝いなどをする。(任意参加の同好会等で行うなら話は別です。なお、私立校なら、その学校の建学の方針によるでしょう。ここでは公立校の場合です。)
    日の丸君が代も、シンボルマークとしての用い方を超えて、それに敬礼したり、尊崇をあらわすような用い方には問題があります。まして全員一律的な強制は、決して望ましいことではありません。

  6. 社会的な生活の場においても、「信教の自由」は認められるべきです。
    キリスト者が、偶像礼拝にならないように神経を使ったり、避けたりする例として、仏壇や神棚、冠婚葬祭の儀式、祖先祭り、七五三、等々があります。
    一般社会で何となく、日本人の習俗や世間的な儀礼と思われているようなことでも、世間並みに合わせるのではなく、それぞれが自分の宗教のやり方で対処するのが、最も誠実な態度であると考えています。

    世間で、「これは日本人として当然なことだ」と思われていることでも、「信教の自由」の侵害になっている場合が多いので気をつけなければなりません。

10.生と死の問題   (キリスト教の死生観)

  1. 「わたしたちの人生の目的は? また死とは何か?」 これは重大な関心事であり、いかなる宗教も思想も、行き着くところは「死生観」の問題であろうと思われます。

  2. キリスト教の言葉で言うと、人の目的は「神の栄光を現し、神を喜ぶ」ことであると、教えられています。この目的のために、<聖書の表現で言えば>「人類の祖先アダムは、『神』によって創造された」のです。

  3. しかし、アダムは、「神」に背き、その罪により人は死ぬ者となり、すべての人々が「原罪」を背負って生まれるようになりました。人間は悲惨な生活を送り、終わりには永遠の滅びに至る定めなのです。

  4. キリストにより、この罪から解放された者は、「主」の導きによる感謝の生活を送り、死の時には全く聖い者とされ、「終末」の時には、復活して、新しいからだと命を与えられ、「神の国」に入れられて、永遠に「主」と共に生きることが約束されています。

  5. キリスト教の世界観は、佛教のような「輪廻」<りんね>の繰り返しではありません。天地創造の「はじめ」と、世界の終わり「終末」があると教えています。人生も「肉体の死」がすべての終わりではなく、死後の状態があります。そして「終末」には、すべての者が「主」による「最後の審判」を経て、「神の国」または「永遠の滅び=地獄」という最終状態に至るということになっています。
    これを図式であらわすと、次のようになるでしょう。
    (なお、カトリック教会では、人の死後に煉獄という状態を置きますが、プロテスタントではそれを認めません。)

 













キリスト教の人生観と世界観 人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである。
ウエストミンスター小教理問答より
天地創造(初め)
人間の創造
堕落(罪が入る)
楽園追放
人間の歴史−−−→ わたしたち(人間)−→ −−→罪の結果
救い主来臨
十字架と復活 キリストの救い
(キリストの救いの成就) (感謝の生活)
  肉体の死(聖化の完成)
  体は塵に帰り、
魂は「主」のもとに憩う。
よみ
  苦悩と暗黒
世界の終わり(終末)
   (キリストの再臨)
   (最後の審判)
復活
(裁き→無罪とされる)
(新しい体と永遠の命)
復活(恥辱)
(裁き→罪の刑罰)
            新しい神の国  ← 永遠の死(地獄)
キリスト者は、人の死を悼み悲しみ、鄭重に葬りますが、死者を、神や仏として礼拝することは、偶像礼拝に当たるので、避けなければなりません。
人の死後は、「神」の直接のご支配の下に入るので、死後の冥福を祈るとか、慰霊するということはできません。
死者の記念や、追悼は、「神」を礼拝することの中に尽くされています。

11.キリスト教の教派

  1. キリスト教の信仰は一つの筈なのに、どうして多くの教派に分かれているのでしょう? 時には、教派間のセクト争いもみられるようで、幻滅を感じるのですが----。

  2. 確かに、初めは一つの群れであった教会が、多くの教派に分かれてしまったことは悲しむべき一面を持っています。先ず、教派に分かれた理由を考えてみましょう。
    @地域、民族、言語、生活等の違いによる、教派としての集団形成。
    A信仰についての理解(教理・信条)の相違による教派形成。
    この二つの複合により、現在多くの教派が存在します。@の壁は相互理解で乗り越えられる要素を持っています。Aの方は、そう簡単に妥協できない難しさがあります。

  3. 前述のように、キリスト教は、「主」イエス・キリストに忠誠を尽くす宗教ですから、聖書の教えに対する忠実さを厳密に追求します。その結果、グループによって理解の相違ができるのは、(望ましくはありませんが)やむを得ない面もあるのです。適当なたとえではありませんが、政治家が政策の違いで党に別れるのと似ています。

  4. それでも、根本は目に見えない一つのキリストの教会に連なっていると信じています。そして、「三位一体」や「キリスト論」など、基本的な信条では一致しているのです。終末においては人間的な誤りが全く克服されて、「神の国」という一つの教会にまとめられる確信を持っているのです。

  5. プロテスタントの諸教派とカトリック教会などでは、別の宗教ではないかと思われるほど教理や礼拝の仕方が違いますが、それでも、最も基本的な信条は一致しますので、「あれはキリスト教ではない」とはいいません。しかし、この基本的信条と全く違う路線をとりながら「キリスト教だ」と称するグループを「異端」といいます。日本でも、冊子販売で個別訪問したり、いわゆる霊感商品を売ったり、マインドコントロールのような方法で布教する団体がありますが、これらは明らかにキリスト教ではありません。


    佛教や神道など、キリスト教とは別の宗教は「異端」とは言いません。「異教」といって区別します。
    最近、「カルト」といわれるグループが問題になりますが、これは宗教とは別の次元で、反社会的行為を規制する視点で対処すべき問題です。(いずれ、別のページで---)

     参考     外見上の違いは?    (教理の違いはここではのべません)
     カトリック  (旧教)  プロテスタント (新教)
    荘厳な感じの会堂、ステンドグラス、十字架、イエス像、マリア像など飾り物がが多い。 どちらかといえば簡素な会堂、画像は飾らない。(厳しい偶像崇拝禁止の立場)
    教会の指導者は一般に「神父さん」と呼ぶ。 神父とは言わない。「牧師」という。
    十字を切る祈り、ロザリオの使用など。 祈りのしぐさは特にない。自由な言葉での祈りが多い。
    礼拝は「ミサ」といわれる儀式が中心。 ミサという言葉は使わない。礼拝は説教を重視する。
    ローマ教皇(法王)が最高の権威者。 権威的指導者はいない。
  • あとがき
  • 1993年の婦人会で、「キリスト教何でもQ&A」という学びをしましたが、これはわたしたちが、教会外の隣人に、「キリスト教とは何か」ということを説明してあげられるように、まず自分自身が信仰の内容をきちんと整理して把握するというねらいで始めたものでした。中身はまだまだ修正の余地がありますが、以上はとりあえずのまとめです。
  • わたしたちの教会「日本キリスト改革派教会」については、「改革派教会」のページをごらん下さい。 
  • 唯一の神 の項に記した「使徒信条」の全文は下のとおりです。    元に戻る

    使 徒 信 条
    我は天地の創り主、全能の父なる神を信ず。 父なる神
    我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
    主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん。
    子なる神
    我は聖霊を信ず。
    聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。アーメン
    聖霊なる神