「しろのコト」

小雨の降る早朝、しろが逝った。

しろを初めて見たとき、なんて痩せた猫だと思った。
“最近、気持ち悪いほど痩せた野良猫がいるよね”と、近所でも噂になっていた。
その余りのガリガリに痩せた姿を何度となく目にして不憫に思った母が、晩御飯の残りを縁の下に置いてみた。
最初は、置いた皿から人が離れたのを見計らい、駆け寄ってきてはどこかへくわえて行っていた。
そのうちに、皿を持って出て行くとすぐに駆け寄ってきて、早く置けと言わんばかりの勢いで皿の上で食べるようになった。
いつの間にか、痩せ猫のご飯当番は母から私になっていた。

ふと気付くと、痩せ猫と一緒に、やや体格のいい白黒のぶち猫がいつも一緒にご飯を食べていた。
何処から来たのか、一緒に来たのかは謎だけど、何故かいつも一緒に食べていた。
白地に茶の痩せ猫を“しろ”、白黒のぶち猫を“ぶち”と呼ぶようになった。
ぶちは、二つに分けてあげたご飯の、しろの分から食べようとするちょっと欲張りな猫だった。
しろは、それをじっと見て途方にくれている、おとなしい性格の猫だった。
それからしばらくして、ぶちの姿を見掛けなくなった。
ご近所さんの話では、それがぶちかどうかは分からないけれど、白黒の猫が通りで轢かれていた、と・・・。
しばらく独りでご飯を食べる日々か続いていたしろ。
ある日、どこからか鬼気迫った鳴き声が聞こえてきた。
家の周りを探しても姿が無く、鳴き声はどうやら上の方から聞こえていた。
まさかと思い2階へ上がってみると、窓の手摺の細い枠の中、今にも落ちそうな体制でしろが鳴いていた。
その時から、しろは同居猫となった。

生まれてからここへ辿り着くまで、どれほど過酷な暮らしをしてきたのか。
同居猫となってからのしろは、家の中にいる時はいつも誰かのそばにいた。
突然何も食べない日々が続き、口の中に腫瘍があることが判明して以来、度々薬と点滴のお世話になった。
また、おそらくは昭和生まれのかなり老猫であることも判明した。
お向かいの耳の遠い独り暮らしのおばあさんの家に迷い込み、3日間行方不明になったこともあった。
テレビを観ながらくつろぐ父を見つけては、必ずそのお腹の上にのぼり一眠りするのがしろの日課だった。
私の布団の中をしろも寝床としており、朝起きるとしろが真ん中に、私が布団からはみ出ていることもあった。
どうやらしろは、ここを“終の棲家”としたようだった。

しろにとっての平穏だったであろう日々も、外猫のクロがはるみちゃんを連れてきてからちょっと変わり始めた。
はるみちゃんが段々と家の中に侵入してくる率が高まり、しろを追い掛け回すこともしばしばあった。
それでもしろは決して反撃しない、とてもやさしい猫だった。
更に、はるみちゃんがマネキを産んで同居猫となり、しろの“終の棲家”はとても騒がしくなった。
丁度時期を同じくして、父が亡くなった。
あの絶対的な安住の場所を失ったことは、しろにとっても決定的なストレスとなったに違いない。
しろは、また何も食べなくなった。

例の腫瘍が原因かと思ったけど、今度は点滴も効かなかった。
かろうじて水だけは少しなめるような生活が続いた。
何も食べようとしなかったしろが唯一食べる気力を見せたのが、好物だったバニラアイス。
急いで薬を仕込んだ。
その薬はもともと大の苦手で、飲ませるのにいつも苦労していた。
しろは直ぐに察知し、食べるのをやめた。
やがてしろは、動けなくなった。
なぜあの時、好物を好きなだけ食べてさせてあげなかったのか。
もしかしたらその一口からまた快復に向かったかもしれないのにと、今でも後悔している。
多分この後悔は一生消えそうもない。

2007年10月27日、土曜日。
早朝にふと目が覚めると、ベットの横にしろがいた。
しろが動けなくなってから、私の部屋からは少し離れた日当たりの良い廊下の隅に寝床をつくってあげていた。
動けるはずがないのに、何日も寝たきりだったのに、歩ける力なんて無いはずなのに。
出会ったときよりもずっと痩せ細った体で、必死に私のベッドにあがろうとしていた。
慌てて抱きかかえたしろは、羽のように軽かった。
そして、いつもそうしていたように、布団の中で一緒に横になった。
なんだかとても穏やかで、幸せな一瞬だった。
それからしろは急に苦しみだし、自ら布団を這い出てベッドからおりた。
今まで聞いたことのない苦しそうな鳴き声とともに、よろよろと廊下を歩き、そしてばったりと倒れた。
抱きかかえると、二、三度手足を痙攣させたあと、大きく一つ呼吸をして、動かなくなった。

猫には九生あるらしい。
ここでの暮らしはしろにとって何回目の生だったのか。
出会ってから5年と少し。
その何回目かの生の、最期の時間を一緒に過ごさせてくれて、ありがとう。

ありがとね。しろちゃん。
だいすき。



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