■ Magical Library ■
【0】
『アルバイト急募』
『貸本屋・Magical Library』
ある朝、通りかかると、そんな張り紙があって。
……むかし、ふつうの本屋だったころはよく来てたけど、
今度は、どんなお店になるんだろう?
【1】
帰り道。
バスを降りて歩き出した平凡な高校生・相良美悠を、見慣れない光景が待っていた。
(……どうしよう)
美悠は足を止めた。歩道が塞がれていて、先に進めない。
例の張り紙があった店の前一面に青いビニールシートが広げられており、その上では、
長めの後ろ髪をゴムで適当にまとめた細身の男の人が、一心に――
絵を、描いていた。
(新しいお店の人……?)
「ん?」
目が合う。
反射的に、口と体が動いた。
「ごめんなさいっ」
ぺこり。
「え?」
「じゃま、ですよね」
「あー、いや、こっちこそ道ふさいじゃって申し訳ない」
いきなり謝ってきた美悠を見上げて、ところどころペンキで汚れた白いTシャツに古い
ジーンズといういでたちのその人物はオーバーアクション気味に謝り返してきた。
「今日中に描き上げないと、看板なしで開店なんてことになっちゃうんで」
のんびりした、人の好さそうな笑い方をする。鼻に乗っかった小さな丸眼鏡のせいか、
年齢がつかみにくいが、二十代半ばから三十手前くらいだろうか。
「看板……」
「のつもりなんだけど、ぶっちゃけどうかな?」
「え、はい、えっと」
問われて、美悠は改めて、そこに寝かされている大きな板をまじまじと見てみた。
森の中。一軒の小屋。泉。動物。草花。――妖精。
派手ではないが、瑞々しい色。
「看板っていうか……」
おそるおそる口にする。
「……絵本みたい?」
「ほー」
眼鏡の青年は、驚きと感心の混ざったような声をもらすと、さらに訊ねてきた。
「君、こういうの興味あるほう?」
「そう、ですね……」
「本は好き?」
「あ、はい」
「じゃあよかったら中も見ていきなよ、モノはもう揃ってるから」
「――えっ」
予想外の展開に、美悠は驚きに戸惑いの混じった声をもらした。
(たしかに、気にはなってたけど……)
「……いいんですか?」
「うん、どうぞごゆっくり」
休めていた手を再び動かし始めながら、青年はこちらを見ずに答える。
一瞬迷ったあと、美悠は言葉に甘えることにした。
「じゃあ、ちょっとだけ、お邪魔します」
軽く頼りないアルミサッシの引き戸を開き、本を守るためか二重になっているカーテン
をかき分け、慎重に店内へ足を踏み入れる。
(あれ)
中は意外にすっきりしていた。左右と奥の壁に埋め込まれた本棚は昔のままだが、壁と
接していない棚はすべて美悠より背が低く、見通しがいい。
見通しがいいゆえに、入ったばかりのその場所からも、奥の棚の中で正面を向いている
形状も大きさもまちまちな『本』たちが目に入る。
(――絵本?)
周りの漫画や小説の類は無視して、美悠は吸い寄せられるようにそちらへ向かった。
どうやら外国の絵本らしい。日本のものにはまず無いセンスの色と、形と、文字。
一冊、手にしてみる。
(英語……じゃ、ない?)
自信はないが、たぶんイタリア語だと思う。
他にも、おそらくひとつの国のものではない、装丁も画風もさまざまな絵本がたくさん
並んでいる。下のほうの棚にもいろいろ詰め込んである。へたな図書館や大型書店よりも
充実しているかもしれない。
(……いいなあ……)
貸本屋なのだから、読みたければ買うより安いとはいえ料金を払わなければいけない。
それはわかっているつもりだが、幸福感で頬が緩む。
「あの、絵本、すごいですね!」
外に顔を出して言うと、青年は嬉しそうに微笑んだ。
「いいとこに目をつけたねー」
「どこで仕入れるんですか?」
「そうだねえ、自分で行って買ってきたのもひとから貰ったのもあるし、もちろん日本の
本屋で普通に買ったのもあるし、あと……」
照れた声音で付け加える。
「自分のも入ってたり」
「自分の?」
それは『私物である』という意味ではないだろう。
「……作家さんなんですか? しかも、外国で?」
「そんな大層なもんじゃないけど」
「探してみます」
絵本の棚に戻った美悠は、ほどなく横文字の群れの中にそれらしい名前を見つけた。
「シュンイチロー・ハタ……って、これですか?」
「んー、そう」
漢字では『羽田俊一郎』と書くようだ。
もっとあるかもしれない。しゃがみ込んで、背表紙の列を追ってみる。
と、その中に、全く読めない、目にしたことすらない文字が刻まれているものがひとつ
あった。
(これって……)
興味の向くまま、手に取ってみる。美麗さに、目を奪われる。
――が、使われている文字はやはり、見覚えのないものだった。
(どこの本だろ?)
そのとき。
店の奥から、風が吹いてきた……ような気がした。
「?」
本を棚に戻し、紺色の暖簾を分けて奥をのぞき込む。
瞬間、美悠は身体が浮き上がるような感覚をおぼえた。
……引き込まれる。
「きゃ!」
戸惑い混じりの悲鳴は小さく、店の外まで届かない――。
「ん?」
一分以上も経って、声が途絶えたことにようやく気づいた青年が店の中をのぞき込んだ
とき、そこには誰もおらず、ただ暖簾が揺れているだけだった。
「……しまった」
青年――羽田俊一郎はひとり、そうつぶやいた。
【2】
ばたん、と、背後で扉が勢いよく閉まった音で我に返る。
「な……っ」
すぐにわかるのは、足が地についていないこと。
落ちてはいかないこと。ただし降下しつつあること。
かなり広い空間であること。
上には天井があること。
(え、えー、えーと……)
見回してみる。現実離れした光景に、目を奪われる。
図書館の書架――というにはあまりに巨大な物体が、見渡す限り建ち並ぶ。
そこは、そんな『世界』だった。
自分が小さくなったのかと思ったけれど、棚のサイズと眼下にぽつぽつ見える人影とを
比べる限り、そうではなさそうだ。
よく見ると、書架の側面や空中回廊の下などあちこちに案内板らしきものが打ち付けて
あったり、ぶら下がっていたり、宙に浮いていたりする。それらに刻まれている文字は、
さっきの絵本のものと似ているように思える。
(どうしよう)
迷っているあいだに、机と椅子の並ぶ閲覧所らしきスペースが足元に近づいてくる。
(どうすれば……)
考えがまとまらないうちに、足が床に着く。
改めて辺りを見回す。林立する高層ビルみたいな書架に押しつぶされそうな気分になり
ながら、考える。
(どうする?)
図書館らしくきわめて静かだが、それなりに人はいる。ただ、その時代がかった服装を
見る限り、日本人どころか同じ時代の住人ですらありそうにない。
(する……?)
自分があの文字を読めない以上、言葉が通じる可能性は低いが、やってみるしかない。
美悠は胸をどきどきさせつつ、思い切って近くにいた背の高い女性に声をかけた。
「あっあのっすいませーんっ!」
「……んん?」
振り返ったその女性が、物珍しそうに美悠を見た。歩み寄ってくる。
だいたい三十歳くらいだと思う。肌が白くて美しい。ゆるくウェーブのかかった栗色の
髪のボリュームのせいか、見ていて羨ましくなる体形のせいか、着ているドレスはかなり
シンプルだけれど、全体ではなぜか派手な印象を受ける。
――耳の先が、尖っている。
「何よ、貴女」
そんな彼女が発したのは、自然な日本語だった。
「此の辺じゃ見ない恰好ね。――入館証は?」
「え!?」
気が緩んだのも束の間、ストレートな問いが美悠の耳に刺さった。
あちらからすれば当たり前の質問だろう、が、もちろんそんなものはない。
「なっ、ない、です、けど」
「なら如何やって此処まで入って来たのよ」
「えと、学校から帰る途中に、家の近所のまだ開いてない貸本屋さんのお店の奥のぞいて
みたらなんか吸い込まれて、そしたらあのへんに浮いてて」
「……其の貸本屋未満は、男の癖に髪が長くて、眼鏡を掛けた頼りなさそうな奴?」
「え」
向こうから唐突に出てきた妙に具体的な表現に、美悠ははっとした。
彼女は、俊一郎のことを知っている?
「頼りないかどうかは、わかんないですけど……」
「まあ、其れはそうか」
深いため息のあと、彼女は軽く肩をすくめてみせた。
「成程、大体理解したわ。あいつ、又扉をきちんと閉めなかったわね。まったく――今度
来たらみっちり再教育して遣らないと」
「あの」
「ん?」
「ここって……わたし、どうやって帰れば……」
「そうねぇ」
当然知ってはいるが、どう説明したものか。腕組みをしてしばしそんな顔をしてから、
彼女は美悠の目をまっすぐに見つめて口を開いた。
「先ず、此処は『あらゆる世界の中で』『最も大きな』『図書館』だと思って」
「あ、はい……」
「特別な場所だから、入館には許可と、然るべき手順が必要。然るに、事故の様な物とは
いえ、貴女はどちらも満たさずに入って来た。其の事実に基づき法に則るなら、厳罰の上
強制送還――が今後辿る道になるわね」
「げんばつ……ですか……?」
「んー、只、中にはそんな血の通わない措置は大嫌いで事情を汲んで柔軟に対応出来る、
優しいお姉さんも居るって噂よ」
「え……?」
不安そうな美悠に、彼女は悪戯っぽく笑ってみせる。
つまり、そういうこと、だ。
「さて――あたしはカレラ、『司書』のカレラ・パレット。貴女は?」
「あ、美悠です、相良美悠……」
「ミュー?」
「みゆ! です」
「みう……みぅ、みゅー?」
「……いいですミューで」
「あらそう? じゃあミュー、此処で働いて頂戴」
「――えっ?」
さらりと言われ、美悠は一拍遅れて声をあげた。
「此れからあたしが貴女の為に割く時間を、貴女の時間で補ってくれって事。――それ、
時計よね、一寸見せて?」
「あ、はい……」
美悠が素直に左の手首を差し出すと、カレラは美悠の小さな腕時計と自分が首にかけて
いるたくさん針のついた大きな懐中時計を見比べて、少し考えてからひとつ頷いた。
「そうね、そっちの短い針二つ分で手を打ったげる」
安いもんでしょ? と言いたげな、なんだか楽しげな目がこちらを見ている。
(二時間……)
本当にそれで済むなら、悪い話ではないと思う。
悪い話ではないと思うけれど、本当にそれで済むのだろうか?
考え出すと止まらない。しかし、今ここで答えを出さなければいけない。
「何を、すればいいんですか?」
「あたしの仕事の内、単純だけど力仕事で面倒臭い奴」
美悠の問いに、カレラは彼女が先ほど立っていた場所にあるものを指し示した。
「要するに、あれ」
「あ……」
それが何なのか、美悠は知っている。
「……わかりました」
不安を振り払って、美悠は決めた。
「します、お仕事」
【3】
「すいませーん、通りまーす!」
さまざまな姿をした、中には人のかたちをしていないものまでいる利用客たちに一様に
好奇の目を向けられながら、美悠は返却本満載のカートを曳いて、立ち並ぶ巨大な書架の
あいだをすうっと上っていく。
胸元には司書であることを示す、ペンと紙を組み合わせた意匠の銀のペンダント。
背中には、淡く光を放つ小さな白い羽。
カレラ曰く、言葉が通じなくてもペンダントの力で最低限の意思疎通はできるとのこと
で、実際周囲の人々は呼びかけに反応してくれているように感じる。カレラと会話できて
いるのはそれとは別で、あくまで本人の技能だそうだ。
「え、っと……」
書架のそこかしこに打ち付けられた金属板と手元の本とを見比べて、刻まれた十数桁の
記号――この世界の数字――が一致する棚の隙間に本を差し入れる。
数字がわかるようになると、雑然として見える書架も実はちゃんと番号順に並んでいる
ことに気づく。それに従ってカート上の本を整理したりもしてみる。
先へ進むにつれて、作業の効率は良くなっていく。
「〜♪」
いつしか自然と鼻歌がこぼれてくる。
「おー」
カウンターに色とりどりの粉末やら植物の葉や根やら何やらをずらりと並べてどうやら
薬を調合しているらしいカレラが、空になったカートとともに戻ってきた美悠を見て目を
細めた。
「中々飲み込み早いわね」
「学校でやってる図書委員の仕事と、あんまり変わらないですから」
話をしながら、美悠はカウンターの裏の置き場に溜まった返却本をてきぱきとカートに
移していく。
「其れだけじゃなくてさ」
「え?」
カレラはきょとんとする美悠を見て、ふふ、と意味ありげに笑った。
「え、なんですか?」
「帰したくなくなってきたな、如何しよう」
「えー、そんなあ」
「冗談よ。其の調子でお願い」
「はい」
余裕さえ見せながら、美悠は手際良く積み込みを終え、再び飛び立つ。
「本当に、簡単にやってのけるわね」
一連の身のこなしを目で追っていたカレラは、くすりとしてひとりごちた。
「……あいつが初めて此処に現れた時とは大違いだわ」
「大変良く出来ました」
きっかり二時間後、さすがに疲れた様子の美悠に、自分もカウンターの上を片付け終え
たカレラはそう言って満足げな表情を見せた。
「これで、帰してもらえます……よね?」
「ええ、此方の準備も終わってるわ」
理科室の棚に置いてある薬品を思わせる、茶色の小瓶がそこにはある。もちろん、それ
をどう使えば元の場所に戻れるのか、美悠には見当がつかない。
「――で、『出て来た』のはどの辺だったか、覚えている?」
「いちおう、だいたいは……」
「大体で結構。じゃ、行きましょ」
「あ、はい」
飛び立って、まずはふたりが出会った閲覧所まで移動する。
為すすべもなく降りてきた広大な吹き抜けを今度はゆっくり昇りつつ、目に映るものを
記憶の中の景色と突き合わせていく。
「えっと、たぶん、このへんだと思いますけど……」
しばらくして、美悠は昇るのをやめ、のんびり追ってきたカレラにそう伝えた。
「判るの?」
「いえ、来た道を戻ってみただけですけど」
「純粋に、記憶力と方向感覚って事ね」
「……ほかに、あるんですか?」
「勿論有るわ」
カレラは軽い口調で言いながら、美悠の隣に並んだ。
「始めるわよ」
宣言して、カレラは左手に持っていた小瓶を軽く振りだした。しゃかしゃかという音が
消えたところで、蓋を取り引っくり返す。
と、粉末が入っていたはずの小瓶の口から白い煙があふれ出し、目の前で渦を巻く。
それが晴れると、そこには重厚な雰囲気の大きな扉がそびえ立っていた。
「わー……」
「問題無さそうね。此れで、元の場所に戻れる筈よ」
「はい、ありがとうございます」
美悠は礼を言うなりすぐにドアノブに手をかけ、かけたところで動きを止めた。
「あ、そうだ、これ……」
思い出す。首にかけたペンダントは借り物だ。
とはいえ宙に浮いたまま外すわけにもいかないので、軽く持ち上げてカレラに示すと、
彼女らしい悪戯っぽい笑顔が返ってきた。
「其の儘、持って行きなさい」
「え、いいんですか?」
「臨時司書として採用した事にしておくから問題は無いわ」
あっさり言ってのける。
(……もしかして、実はえらいひと?)
「だから、又来る時は忘れずにね」
「え……」
「扉を開く方法は奴が知ってるわ。其の時は、御茶位出したげる」
美悠は目を丸くして、それから嬉しさを隠さずに大きく頷いた。
「はい、それじゃ!」
かちゃりと軽い音を立てて、扉が開く。
やがて、心地好い風が美悠を包む――。
【4】
夕陽が微かに差し込む静かな店内。
美悠がそっと暖簾を分けて顔を出したとき、俊一郎はカウンターの代わりらしい古びた
木の机に肘をついて、ぼんやりとノートパソコンに向かっていた。
「あの」
「わ! っと、君か」
控え目に呼びかけると、椅子ごと飛び上がりそうなほど驚いてから、俊一郎は直前まで
何もなかったはずの場所に現れた美悠を見てほっと息をついた。
「あー、今まで、その……『図書館』に行ってた?」
どこに行っていたのかではなく、そう訊いてくる。
「えっと、はい」
「もしかして、『司書』のひとに捕まったり怒られたりしてた?」
「いえ、ちょっと、お仕事のお手伝いしてました」
「……時間を割いてあげるかわりに、って?」
「はい」
美悠がこくりと首を縦に振ると、俊一郎は顔の前で拝むように手を合わせた。
「申し訳ない! いやもうほんっとうに申し訳ない、『扉』がちゃんと閉まってなかった
みたいで……一応、あのひとに教わったとおりやってるつもりなんだけどなあ」
「今度来たら再教育しないと、って」
「そうかー、厳しいなあ……」
カレラの話しぶりからうすうす想像はできていたけれど、やはりふたりは知り合いで、
俊一郎はカレラに頭が上がらないようだ。
話が繋がって、訊いてみたいことがいくつも思い浮かんでくる。しかし、それより先に
見たいもののために、美悠は自分から話題を変えることにした。
「そういえば看板、できました?」
「あ、うん、外で乾かしてるから、思うところがあったらまた――」
俊一郎の返答が終わるか終わらないかのうちに、店内を縦断して表に出る。
歩道いっぱいに広がっていたビニールシートはそこになく、ひさしの下に必要最低限の
大きさに畳んだ状態で敷きなおされていた。そして、その上に、最終的に店名を書き加え
られた細長い絵が寝かせてある。
『Magical Library』
――笑みがこぼれた。
「あのっ」
「ん?」
「これ、わたし、応募していいですか?」
引き戸のガラスにテープで止められた『アルバイト急募』の張り紙を指さして、美悠は
俊一郎にきらきら輝く目を向けた。
「え? あ、ああまあ、条件満たしてるんであれば、特に、問題は……」
「……わたし、高校生に見えないですか?」
「い、いやそういうわけじゃなくて、急な展開に頭がついてこないというか……ん?」
なかなか決断できずにあたふたと時間稼ぎの言い訳を並べた俊一郎は、期待をあらわに
見つめる美悠の胸元のペンダントを見止めて、丸眼鏡の奥で目を見張った。
「それ、あっちで?」
「あっはい、お仕事するときお借りして、持ってていいって」
「そういう展開かあ、こりゃ、じきにあっちから呼び出しかかるかな……うーん、じゃあ
まあ、とりあえず内定ってことで、うん」
「ほんとですか、ありがとうございます!」
「うん、あー、ええと、詳しい話は後日改めて、として――」
声を弾ませる美悠に言い続けながら、俊一郎は机の引き出しを開けて、ごそごそと中を
探る。
間もなくそこから、一冊の厚いメモ帳とボールペンが出てきた。
「――君の名前、教えてもらえるかな?」
(あ)
言われてみれば、彼に対してはまだ名乗っていない。
「もしよければ、君の字で」
「はい、じゃあ……」
机の脇まで寄っていって、俊一郎の手からどこかの景品らしいロゴの付いたボールペン
と、傷みの激しいメモ帳を受け取る。空きを探してぱらぱらとメモ帳のページを繰ると、
そこにはさまざまな言語のさまざまな筆跡がさまざまな向きで刻まれていた。
(わー)
文字だけでなく、絵や図形も多い。絵だけのページが続いているのは、もしかして文字
抜きで『会話』したあとなのだろうか。
(……どんなとこの、どんな人なんだろ)
想像しつつ、美悠は我ながら子供っぽいと思う丸い字で、四文字書いて返した。
「相良美悠、っていいます」
「さがら、み、ゆ……伸ばさずに、『みゆ』でいいのかな?」
「はい」
発音に悪戦苦闘していたカレラの困り顔とは対照的に、俊一郎はごく当たり前のように
何気なく訊いて、美悠の字の上にさらさらとふりがなを書き加える。
「よし、と……じゃあ相良さん、これから、よろしく」
メモ帳を閉じた俊一郎は、立ち上がると、美悠に向かって丁寧に頭を下げてきた。
「はい、こちらこそ――」
きちんと足を揃えて、すっと背筋を伸ばして。
美悠は、ふかぶかと頭を下げ返して、元気いっぱいに応えた。
「よろしくお願いします!」
【はじまり】