SINCE 1997/01/08 UPDATED ON 2000/08/16
今日も非日常的な日常
-Days of Wonder-
Episode 3
「誰もが知っていて、誰も知らないところ」
水曜日、放課後
[15:31]
「……マジで……やるんすか?庄司さん……」
「ったりまえでしょ!」
後込みしているらしいその声に、県立花間高等学校2年a組・庄司ちひろは振り返ると腰に手を当て、今さら何言ってんの?とでも毒づきたそうな目で、正面に立つやや幼い顔立ちの少年をまっすぐに見据えた。
遠目にも判る痩せ型。外巻きにしたボブの髪に上がり眉、それにつり上がった大きな目が活発さと気の強さを主張してはいるが、顎の尖った小さな顔は輪郭に収まっているはずの口を大きく見せてしまいがちだし、短めの制服のスカートはそこからのぞく脚の細さを損になりそうなほど強調してしまっている。誰もが認める美少女――とは言いがたく、好き嫌いがはっきり分かれるタイプだろう。
「じゃあなに、賛成したのはまさか自分が巻き込まれることはないだろとかそういう無責任な、単なるその場のノリだったわけ?」
「いや、そういうわけじゃ……」
棘のある口調と刺すような視線に気圧され、8ミリのビデオカメラを手にした少年はそれしか言えずに口ごもった。もっとも、最後まで口にできたところで彼女を納得させられる自信など彼にはない。俯く額にじわりと汗が滲む。
「……」
上目遣いに睨みつけたままたっぷり間を置いてから、ちひろは真剣に緊張している少年に向けて少し意地の悪い笑顔をにんまりと浮かべてみせた。
「時間切れ」
「へ?」
「でまかせも言えないんじゃ0点ね。現場担当失格、要修行ってとこ?」
「あ、ひでぇ」
少年はそこでようやく試されたのに気付いて顔を上げる。その時にはもう、ちひろの笑顔は愉しげなものに変わっていた。
「いーからつきあってよ。ここネタにするなら、ほんっと今しかないんだから」
胸の前で拝むように両手を合わせ、今度は甘えるように見つめる。
「ね?」
周囲から明らかに浮いているその古びた建物――花間高校旧校舎西館は、図書館のある東館とともに、五年と少し前に完成した五階建ての新校舎を間に挟んで現在もその姿を残している。
しかし、新校舎と接続され働き続ける東館とは違い、こちらは閉ざされたきり使われも取り壊されもせず、ただじっとそこに佇んでいるだけだった。
しかも、その閉ざされ方が尋常ではない。鉄筋コンクリート三階建ての校舎の窓という窓は内側から板で塞がれており、そして二人の目の前にある鉄製の扉は高さ1メートルほどの木製の柵で囲まれ、図太い注連縄が張られ、幾重にも札を貼られ、ここが学校の敷地内であることを疑いたくなるほどの異様な雰囲気を放っている。
この扉がなぜこうなっているのかは、閉ざされた当時の生徒のみならず教師ですら噂と憶測でしか語れないという。が、実は――というのが、ここ最近校内でまことしやかに囁かれる噂だった。
「……やっぱ生徒会に一言入れといたほうがよくないですかね?」
「そんなのムダ」
ちひろは少年の最後の抵抗を一笑に付した。
「あの頭のカタい姫サマが許可なんて出すわけないじゃない。せーぜーきっついヒトコト浴びせられて、すごすご撤退するのが関の山」
「……それで無断決行ですかぁ」
思わず肯きそうになるが、つまりは交渉しても勝てる見込みがないという話である。少年は呆れ顔でつぶやいた。
「いーの!うまくいけば彼女にまつわるウワサの真相にも迫れるんだからっ」
「え?」
「ってゆーか、あたし的に楽しみなのはむしろそっち」
ちひろは意味ありげに鼻で笑うと再び振り返り、一度背にしたそれを見上げる。
「だいたい、使われなくなったのに壊されずに残ってる旧校舎ってのは昔から『いわくつき』に決まってるのよ」
「はぁ……」
「ホントに誰も入れたくないならきっぱり塞いじゃえばいーのにそうしない、そしてコレがこうも簡単に手に入っちゃう……ってことはつまり」
声を弾ませながら、ちひろはどこからともなく細長い鍵を取り出した。
「今のこの学校に、今もここに関わってるヒトがいる――そう思わない?」
[15:33]
「ぃ……ったあぁ〜!」
「ほえ?」
新校舎二階・生徒会室。
突然悲鳴をもらしたかと思うと頭を抱え机に突っ伏してしまった親友の姿を目にして、生徒会の書記を務める2年f組・河野さつきはその隣で思わず間の抜けた声をあげた。おさげにした髪を軽く揺らして首を傾げ、歳のわりにあどけない表情でその背中をまじまじと見つめる。
「どしたの?清華」
「痛すぎ……まあそう何度もあることじゃないだろうけど」
上体を起こし顔をしかめてつぶやくと、ひとつ大きく息をして。
「……旧西館の扉が開いた」
腰まで届く緑の黒髪をえんじ色のリボンで一つに束ねた、凛とした雰囲気の美少女――ここ県立花間高等学校の現生徒会長である2年f組・間宮清華は、まるで壁の向こうにそれが見えるかのように迷いのないその一言を、どこか厳かにさえ聞こえる響きをもって紡ぎ出した。
「……」
さつきは清華の端正な横顔に珍しい物でも見るような視線を向ける。
「そんなことわかるの……?」
「扉の取っ手を縛ってた紐があるんだけど、あれあたしの髪の毛が編み込んであるから、もし切れたりすると我がことのように伝わってくるのよね」
「ふえー」
説得力があるのに現実味が乏しい。簡潔なのに訳が判らない。
清華が真顔でさらりと口にした突飛な返答に、さつきは理解する努力を早々に放棄して曖昧な笑みを浮かべた。
「ふぁんたじぃだねぇ……いつものことだけど」
「それじゃおとぎの城にでも連れてく?」
「え?」
同じ口調で冗談とも本気ともつかない問いを発し、いらえを待たずに清華はすっと立ち上がった。その動きにつられてよく解っていない顔で見上げるさつきの目を、先ほどより引き締まった表情で受け止める。
「行くわよ。でないと――大変なことになるかもしれない」
「うん……」
いつも一緒ですっかり見慣れているはずなのに、こういう時の清華には本当に別の世界からやって来たような神秘的な雰囲気がある。無意識に頬を紅く染め、さつきはぼんやりと頷く。
――が、清華はそれさえも待ってはいなかった。
「……って、あたしも行くの?なんで、ねえ、ちょっと、さやかぁ!」
我に返ったさつきが言い終わるより早く、生徒会室の扉は閉まっていた。
「もお……!」
[15:34]
「うわ、きったないわねー。五年でこんなになるもんなの?」
「……で、どうします?」
「まずは有名どころから。え〜っと、三階のいちばん奥、音楽室に流れる哀しいピアノの旋律と澄んだ歌声。『真田さん』のユーレイってやつね」
[15:35]
「え?」
長い後ろ髪をなびかせて現場に駆けつけ問題の扉に一瞥をくれるなり、清華は切れ長の目を大きく見開いて意外そうな声を発した。
(どういうこと?)
「清華、どうなって……あれ?」
十秒ほど遅れてやっと新校舎から飛び出してきたさつきもまた、清華のそばへ駆け寄りながら不思議そうな声をあげる。
「扉、開いたんじゃないの?」
一見した限りでは目立っていつもと違うところは見つからない。何の躊躇もなく柵の内側へと踏み込んでいく清華に、さつきは素直に問いかけた。
「開けられてるわよ、間違いなく」
これでもかと貼られた札から何か読み取るかのように素早く視線を走らせつつ、清華は低い声で答えた。
「しかも封印が綻んだんでも無理に破られたんでもなくて、外から鍵一本で」
「えええええ!?」
さつきは目を丸くした。
「うそぉ、そんなのあり?」
「開けたい人が鍵持ってれば開けられるでしょ、当然」
清華の反応は冷めていて、それが逆にさつきの不安を増大させる。
「それじゃ、むかし退治しきれなくてここに閉じ込めたっていうユーレイとか妖怪とかを誰かが外に出そうとしてるってこと……!?」
「どこから仕入れて来たのそんな話」
振り返るといつの間にか妙に真剣な顔になっていたさつきに怪訝そうな目を向け、清華は大きく嘆息した。去年の9月からの転入生であるさつきがこの扉の向こうについて何か知っているとすれば、その源は噂話以外にありえない。
「誰かって誰よ。何のために。出してどうするの」
「え?え、え、とね……」
「どうせ聞いた人によって違うんでしょ、現場にいるんだから目の前見て。一度開いたらこの大層な封印はもう無効、もはやこれはただの扉にすぎないわ。なのに――おかしいと思わない?」
清華は噛んで含めるように言うと、軽く握った右の拳で扉をこんこんと叩いた。
なんか先生が教壇で話してるみたい、とさつきは思い、そして黒板にあたる扉の向こうに『何か』が『いる』のだという点についてだけは遠回しであるにせよ他でもない清華が認めていることに、少し遅れて気がついた。
「せっかく開いてるのに出てこないってこと……?」
「少なくとも、出てきたら大騒ぎになるようなのは何も、誰も、ね」
事もなげに言ってのけるのは、彼女にそれに対する力があるからだ。さつきは緊張で体が火照るのを感じながら、清華の次の言葉を待つ。
「――だから今あたしが気にしてるのは――」
「まみやせんぱーい!!」
その時突然、黄色い声が割り込んできた。
「へ?」
さつきが声のした方へ首を巡らせると、新校舎を出てこちらに近寄ってくる少女の姿が目に入った。見るからに活発そうなショートカットに白い道着、黒い袴。裸足に上履きをつっかけ、右手にスポーツドリンクのペットボトルを握りしめている。
「薙刀部の子?」
「ん、後輩」
さつきが訊ねると、清華は平然と肯いた。
「こーのさんも、どうしたんですかぁこんなとこで。あ、ひょっとして点検とか?」
「まあ、そんなところね」
さつきの隣までやってきた少女が人懐こそうにころころと笑う。微笑しつつさらりと受け流した清華は、柔らかい口調で訊ね返した。
「ところで少し前、ここで誰か見なかった?」
「んー、えと、庄司さんが」
「――報道部の?」
その名前を耳にした瞬間、清華の目がわずかに細められた。
「ねえねえそれっていつ?」
「ついさっきです、あとひとり1年の男子の報道部員もいっしょでしたよぅ」
「なるほどね――わかった。ありがと、与野さん」
「そんな、もったいないですー」
清華に名前を呼ばれた少女は頬を赤らめ、心底嬉しそうな表情を見せた。
「じゃ、もし顔出せるようだったら来てくださいね!」
「うん」
少女は手を振りながら体育館の方へと消えていく。その姿をにこやかに見送ってから、残ったふたりは困った顔を見合わせた。
「前言撤回……厄介な話になってきたわね」
「突撃取材好きみたいだもんねぇ……」
報道部の庄司ちひろといえば校内で知らない者はいない。清華もさつきも生徒会絡みで一度ならず取材を受けており、その呆れるほど高いテンションを目の当たりにしている。彼女ならやりかねないと思うし、もし実際に扉を開けたのが彼女であるなら、その目的はどう考えてもひとつしか考えられなかった。
「中にいると思う?」
「……幽霊相手にインタビューしてそ」
清華の問いに、さつきは頭に浮かんできたイメージを正直に口にした。
「成功したら歴史に残るわね」
否定もつっこみもせず、清華は肩をすくめてため息をつく。
「ったく――封印が解けた事実はもう動かせないし、結局この先どう転んでも、このままフタしておしまいってわけにはいかないみたいね……」
そうしてひとりごちながら、頭の中では色々と考えていたらしい。さつきがじっと見ていると、清華はスカートのポケットに手を突っ込んでひとしきりその中の感触を確かめてから、最後に自分を納得させるように頷いた。
「しょーがない、行くわ。持ち駒少ないけど」
「あたしは……?」
さつきはおそるおそるつぶやいた。今の言い方からすると、清華は独りで旧西館に入る気らしい。いつもは嫌がっても引っ張っていくくせに、何か……違う。
(そんなに手強いの……?)
「……多分、見てるだけじゃ済まなくなるわ。それでも来る?」
「――行く」
清華の姿がまたあの雰囲気をまとって見える。まっすぐ見つめてくる目に気後れしそうになりながらも、さつきはきっぱり宣言した。
「それじゃさつき、どこか近くの教室からチョーク何本か借りてきて。赤か黄色の」
「……え?ちょーく?どーするの?」
間を置かずに清華が言ったのは、これからの展開と関係あるとは思われない奇妙な頼み事だった。
「行く前にしとかなきゃいけないことがあるの」
さつきがきょとんとしていると、清華は急かすように少し声を尖らせた。
「いいから早くして、お願い」
[15:38]
「ほえ〜……」
扉を囲む柵を二人がかりで脇にどけてから、清華はさつきが被服室から拝借してきた赤のチョークで、鉄扉の前のコンクリートの床に手際よく直径3メートルほどの半円を描いた。その縁に沿って、文字のようではあるがどう見ても日本語ではなさそうな複雑な文様をびっしりと書き込んでいく。
手伝えることはもう何もないので、さつきは即興芸術よろしく床と格闘している清華の様子を漫然と眺めていた。
(すごいよねぇ……)
清華の動きには無駄がない。考える作業はとっくに終わっていて、頭の中で既に完成している図をひたすら描き写しているかのようだ。
「……ねぇ、きいていい?」
「これは仮の封印。あたしがここを離れる間に何かあったら困るでしょ。とにかく時間が惜しいから、一日もてばいい程度に簡単にしてるわ。他に質問は?」
「……うー」
さつきは顔を上げも手を休めもしない清華に恨めしそうな目を向けた。
とはいえ、問うより先に飛んできたその返答には文句の付けようがない。仕方なく、他に訊くことはないかと懸命に頭を回転させてみる。
「えと、じゃあ、じゃあ、さっき言いかけてたのってなに?」
「んー?」
清華は小指の先ほどになったチョークを脇に放って二本目に持ち替えた。さつきがどきどきしながら見ているのを全く気にせずそのまま作業を再開する――が、一応聞く気はあるらしく、語尾を上げて促す。
「なんか気にしてるって……」
「ああそれ、ひょっとしたら中の連中が何か企んでるんじゃないかと思って」
「た、たくらむー!?」
やはりかなりの早さで戻ってきた答えに混じった不穏な表現に、さつきは声を上ずらせた。
「別に世界征服とか人類滅亡とか目論んでるわけじゃないわよ。大抵がもっと小市民的で人間味のある――って変な言い方かもしれないけど、人をからかったり困らせたりして娯しむタイプだから、このまま何もせずに終わるとは思えないのよね」
「でも、清華がそうやってここ塞いだら外には出てこれないんだよねぇ……」
さつきは難しい顔で考え込むが、いまいち状況を把握できていないせいかどうしても大げさな展開しか浮かんでこない。幾つかの予想を挙げては棄て、ようやくひとつだけ口にする。
「……庄司さん人質になるかもってこと?」
「有り得る話ね。……ん、これで良し、と」
いつの間にか二本目のチョークまでほとんど使い切って、ようやく清華は手を止め顔を上げた。指先についた粉を払いながら立ち上がると、出来を確認するように自分が描いたものを右から左へざっと眺め、納得したように頷く。――そうして全てを終えて初めて、清華はさつきの顔をまっすぐに見て話しかけた。
「じゃあこっち来てさつき。踏んじゃ駄目だからね」
「って、そー簡単に言われても……」
さつきは進みかけて二の足を踏んだ。清華が円周の外側に描き込んだ文様の幅は見た感じ50センチもないとは思うのだが、実のところ自分の運動神経にはあまり信用がおけないさつきである。
仕方ないわねえ、と言いたそうなため息をついて清華が手を差し出す。見た目よりも強い力に引き寄せられ、さつきは何とかそれを飛び越えた。
「あーどきどきしたー……」
「先が思いやられるようなこと言ってないで、ほら、早く」
言うと清華は扉に貼られた札や注連縄に気を配りつつ少しだけ扉を開き、その隙間に滑り込んでいく。さつきも慌てて後に続いたが、中の様子に気付くと閉まりかけた扉を肩で支え、困った顔で訴えかけた。
「ちょっと待って!真っ暗じゃない、どーするのよぉ」
「さつき、右手出して」
「……?」
それが今の話とどう関係があるのか判らず、さつきは首をひねった。が、ともかく言われたままに、右手を掌を上にして差し出す。
清華は何やら早口でつぶやくと、いきなりその手を平手で強く叩いた。
「いったー!なにするのよお……え?」
抗議しかけて、さつきは手元からもれる光の存在に気がついた。思わず握りしめていた右の拳を緩め、ゆっくりと開く。
「なにこれ?」
じっと見ていてもちっとも眩しさを感じない、黄色味を帯びた柔らかい光。特に何かがくっついているような感触はなく、本当にただ掌そのものが光を放っているようにしか見えない。
「悪いけどしばらく持っててくれる?」
清華は問いには答えずに頼んできた。彼女にしてみれば、きっと説明するのも煩わしい程度のことでしかないのだろう。
そういうことにして、さつきは小さく頷いた。
「……ん、りょーかいっ」
[15:41]
「うっわー……」
右手を掲げて廊下を照らしたさつきは、そのあまりの汚さに顔をしかめ、あからさまに嫌そうな声をあげた。
「やだぁ、カラダに悪そ……」
埃は積もり放題、蜘蛛の巣は張り放題。五年もの間一度も掃除されず、窓を塞いであるため光を浴びることさえなかった古い建物からは、どこからともなく妙な臭いまで漂ってきている。
「同感……さっさと済ませてお茶にしたいわね」
清華も不快感を隠そうとせず、正直な感想をもらした。
「ねぇ清華……このへんにはもう、いる、の?」
「当然。ひとつ言っとくけど、封印の内と外は行き来ができないだけで、どちらかにいてどちらかにいないわけじゃないのよ」
不安げに辺りを見回すさつきに軽く釘を刺してから、清華は暗闇に沈む廊下のずっと奥まで見通すかのように目を細め、少し間を置いて答える。
「……名だたる連中はいないようね。他は今のところ遠巻きに見てるだけ――指示が出てるのかまでは判らないけど、あたしたちに手を出すつもりはないみたい」
疑う理由はない。気味の悪さを振り払って、さつきは本来の目的に立ち戻った。
「庄司さんたち、どこ行ったんだろ……」
「まずは上でしょ。ほら」
「え?」
清華が指し示す先には、埃を踏み分けた二組の足跡がくっきり残っている。目で追っていくと足跡は少し進んで右に曲がり、上り階段へと向かっていた。
「……上って何が出るの?」
冷汗をたらしながらさつきが訊くと、清華はすぐに問い返した。
「全部挙げてほしい?」
「う、やめとく……」
[15:42]
「庄司さーん!どうですか様子はー!……庄司さん、聞いてるでしょー!……庄司、さん……?ちょっ、こんな所で悪い冗談はやめてくださいよマジでシャレにならないから……庄司さんってば!いい加減に……おい……マジかよ……嘘だろ……」
[15:47]
「……こんなところにいた」
「え」
突然頭上から声が降ってきて、一階西端にある上り階段の一段目に腰かけていた少年はびくりと体を震わせた。周囲は暗闇――すでに恐怖は頂点まで高まっている。
見上げると、靴音を響かせて下りてくる少女のシルエットがゆらめく光を背にぼんやり浮かび上がっている。我慢が限界を超え、少年の口から悲鳴が上がった。
「う、うわああぁぁ!!」
腰が抜け、尻餅をついて振り返るのが精一杯の少年の目に映ったのは、不機嫌そうに唇をきゅっと引き結んだ大人びた少女と、その後ろから灯りを手についてくる小柄な少女のふたりだった。
「そんなに怖がらなくてもいいでしょ。少しは落ち着きなさい、格好悪いわよ」
「!……あ」
言葉を交わしたことこそないが、聞き覚えのあるクールな声。少年は茫然自失の態で、清華の顔をしばし見つめる。
「生徒……会長……?」
目の前の現実を認識して、少年は息をのみ縮み上がった。彼女がここにいるということはつまり、無断でこの建物に入ったのがバレてしまったということだ。
(って、怖がらせてどーするのよぉ)
その様子に気がついたさつきは、とっさに清華の前に割って入ると、安心させるようににっこり笑ってみせた。
「ね、どうしてこんなとこ座ってたの?ライトくらい持って来たんでしょ?」
「それは、庄司さんが……」
「持ってひとりで行っちゃった?」
さつきの言葉に少年は小さく肯く。ん、と理解を示す相槌を打って、さつきはさらに質問を続けた。
「それで庄司さんどこ行ったの?」
「し……下に……」
「そう……あそこに行ったのね」
唐突に清華がぼそりとつぶやく。
驚いて、さつきは清華の方を振り返った。
「下?」
目の前の下り階段を指差して訊ねると清華は肯く。
「ありがちな怪談話よ。本当はこの下には倉庫があるだけで、最後の階段は十二段しかないんだけど――信じた者が目を閉じて足を踏み出せば十三段目があって、その先には普通じゃ行けない秘密の場所がある、って」
「じゃ、庄司さんはそこに……?」
「すぐ下に行ったってのにそこの彼がそんなになるほど待たされてるなら、まず間違いないでしょうね」
まさか、という顔のさつきに、清華は少年に視線を流しながらきっぱりと、いたって真剣に答える。
「戻って来れるんですか……?」
聞いているうちに取り返しのつかないことになりそうな怖い予想に囚われて、少年は深刻な口調で、清華に思い切って問いかけた。
「彼女が自力で戻って来られるかなんて、あたしの知ったことじゃないわ」
清華は鋭い目を容赦なく少年に向けた。
一度入り口まで戻り、少年を外に出してから、清華とさつきは再び地下へと続く階段まで戻ってきた。踊り場までの十二段を下りたところで、足を止めて向かい合う。
「行くわよ、いーわね」
清華は即座に言い切った。
「だ……」
「大丈夫。あたしが一緒なんだから」
そう先に言われてしまうと返せる言葉はない。大丈夫だよね……の一言を飲み込み、さつきは潤んだ目で清華をただ上目遣いに見つめた。
「ほら、前向いて、目閉じて」
急かすように言うと清華はさつきの右手を取り、エスコートするように軽く掲げて下り階段の方を向かせた。さつきがぎゅっと目を瞑るのを待って、正確なテンポでカウントダウンを始める。
「さん、に、いち……行くよ」
自身も目を閉じて、ゼロを言う代わりに清華は静かに宣言した。さつきは落っこちないかとどきどきしながら、虚空に向けて第一歩を踏み出した。
「いち、に、さん、し、ご、ろく、しち、はち、きゅう、じゅう」
涼やかなアルトの声が乱れのないリズムで数え上げる。
「じゅういち、じゅうに――」
さつきの胸の高鳴りが最高潮に達する。本当なら、ここが一番下のはずだ。
そして。
「――じゅうさん」
もう一歩。
(うそ……)
足がさらに沈み込む確かな感覚に、さつきは鳥肌が立つのを感じていた。
「目、開けても大丈夫よ」
清華がそう言うまでに結局もう一階ぶんほど下った気がする。そこでさつきが目にしたのは、白い、四角い、何もない部屋だった。
明るくも暗くもない、広くも狭くもない、およそ特徴というものの感じられない、そして――生気のない空間。
その中でちひろがただひとり、こちらに背を向けて立っている。
「庄司さ……」
ほっとした顔で歩み寄ろうとしたさつきを清華が手で制した。
「え?」
「駄目。今の彼女は庄司さんじゃない」
「えええ??」
『ひさしぶり』
ゆっくりと振り向いたちひろは、懐かしそうな笑顔を浮かべていた。
『待ってたわ。やっぱり、来たわね』
「やっぱり待ってたのね」
仏頂面の清華の口から意外な言葉が出る。
『――その格好、あなた今ここの生徒なのね。そう、外ではもうそれだけ時が流れたってわけ……』
清華の制服姿をしげしげと眺め、ちひろは目を細めた。さつきにはどう見ても、久方振りの再会を喜んでいるようにしか思えない。
「どういうことなのよぉ……」
袖を引っ張られて、清華は面倒くさそうに答えた。
「要するに取り憑かれてるのよ。悪い奴に」
『ちょっと、それってあんまりじゃない?』
ちひろは腰に手を当て不満そうな顔をしている。
「……知り合い?」
「二回目」
清華はさつきにつっけんどんに言い返すと、改めてちひろに鋭い目を向けた。
「――何が望み?」
『あたしの楽しみを返してほしいだけ。それから……今は今を楽しませてよ、ねっ!』
ちひろは右手を清華に向けた。銃を撃つような仕種に伴って人差し指の先から溢れ出た光が、清華の喉元へ一直線に伸びる。
しかし清華は、飛んできた光の塊をあっさり素手で叩き落とした。
「冗談じゃないわ」
(……うわ〜)
呆気に取られ、さつきはぽかんと口を開けて清華の横顔を見上げた。
『そうこなくっちゃね』
嬉しそうな声。
『じゃ、これならどう?』
今度は両手から連続で二発ずつ。
清華は答えずに、いや、問いが終わるより先に床を蹴っていた。そして直前まで清華が立っていた場所、つまりさつきのすぐ脇を熱風が吹き抜ける。
「きゃ!」
さつきが悲鳴を上げている間に、身を低くして飛ぶように間合いを詰めた清華はちひろに肉迫する。終わった、とさつきは確信した。
「――!」
しかし、清華はちひろが避けようとせずただ無防備に立っているのに気付いて自らの疾走を無理やり止めようとし、勢いを殺しきれずに蹈鞴を踏んだ。結果、ちひろの正面で逆に無防備な姿をさらすことになる。
そしてその瞬間を逃さずに、三度ちひろの手が輝く。目映い光を不自然な姿勢で受けた清華の体が、弾かれるように右へ飛んだ。
「……!」
さつきは一瞬息を飲んだが、清華は鮮やかな着地の後、何事もなかったようにすっと立ち上がった。どうやら今の一撃は大して効いていないようだ――が。
(なに……?)
『やってみなさいよ。あたしはいいのよ?』
ちひろが意地の悪い笑顔を浮かべ、両手を広げてみせる。
対する渋い顔を見て、さつきは気がついた。相手がちひろの体を盾にしているために、清華は直接手を出せずにいるのだ。
「これだから憑き物は面倒なのよ……!」
毒づいて、清華はスカートのポケットから小さな紙束を取り出した。彼女がいつも即席で札を作るのに使う、和綴じにされた短冊である。一緒に持っているはずの筆でその都度書き込んでいくのが常なのだが、今は既に何事か綴られているようだ。
それを束のまま正面に掲げ、清華はほとんど聞き取れない小さな声で早口に何やら唱え始めた。すると短冊が一枚、また一枚と宙に向かって流れ出す。
『あらあら、新しい芸のお披露目?』
ちひろは自分を大きく取り囲むように浮遊する札を余裕の表情で眺めていたが、しばらく待っても進展がないのを見て取ると飽きたようにため息をつき、視線をさつきの方に移した。
『――ね、この子どうして連れてきたの?』
好奇心を露わに訊ねる。清華は答えない。彼女の唇は、ただひたすら別の音を紡ぎ続けている。
『もたもたしてると移っちゃうわよ、この子の方が馴染みやすそうだし――あなたに対する人質としての価値も高そうだし、ねえ?』
「ふえぇ……」
圧倒的な優位を笑顔で誇示しつつ、ちひろはゆっくりとさつきに歩み寄る。さつきはおろおろしながら清華とちひろを交互に見るが、頼みの綱の清華は険悪な目をちひろに向けてはいるものの、まだ次の行動には移れないようだ。
「!」
目が合った。慌てて目を伏せようとしたが、もう遅い。何か仕掛けられたらしく、急に頭がぼんやりとしてくる。
『うん、いい子いい子。じゃそのままおとなしくして、力を抜いて……ほら』
「い……や、ぁ……」
「……そこまで!」
さつきの足がふらりと一歩踏み出されようとした、その瞬間――
ちひろの甘ったるいささやきを、清華の声が遮った。
「八点散開!――あなたはそこに立ってなさいっ!!」
刹那、ちひろの周りを舞っていた八枚の札が部屋の各頂点へ飛んだかと思うと、前後左右上下の六面全てに光り輝く方陣が同時に浮かび上がった。
「……!」
意識にかかった靄が一瞬にして晴れ渡る。目に飛び込んできた幻想的にして荘厳なその光景に圧倒され、さつきは言葉を失う。
(すっ……ごーい、大技……!)
『――な』
ちひろの体がびくりと大きく震えた。
『立方陣……!?あの時と同じ……?嘘、こんな早いわけが……!』
愕然とした顔のちひろはさつきと向き合ったまま、伸ばした手がさつきの頬に触れる寸前という不自然な姿勢で固まっている。
(う……っ)
その爪が尖っているのに気付いてしまったさつきの目尻にじんわり涙が浮かんだ。
「さつき!!」
まだ手が離せないのか、同じ姿勢を保ったまま清華が叫ぶ。
「庄司さんのほっぺた、右手で思いっきり引っぱたいて!」
「えぇ〜!?だめ、やだ、できないよそんなことぉ、なんであたしが……」
突拍子もないリクエストに戸惑いの声をあげたさつきは、思いつく限りの泣き言を並べて後退りしようとした。が、足がすくんで動かない。
(え〜んもうやだよお、やっぱ来るなんて言わなきゃよかった〜)
できるのはただ、受け容れがたい現実を拒絶することのみ。さつきは――
「お願いさつき、今しかないんだってば!」
いつになく、というよりひょっとすると初めて聞くかもしれない清華の切迫した声が、混乱の極みにあるさつきの意識を一気に目の前の現実へと引き戻した。
何者かに体を乗っ取られているちひろ、その支配が清華の渾身の努力によって今揺らぎつつある。あとひと押しで引き離すことができる、そして清華が動けないこの状況では、それができるのは自分しかいない。そう、自分しか。
(……清華のばかぁ)
「あーんごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!」
さつきは平謝りに謝りながら、ついに右手を振りかぶった。
ぱん!
と、存外大きな音が響くと同時に、さつきの右手がほんの一瞬だけ、見ていられないほどの強い光を放つ。
『ぎゃん!』
悲鳴とともにちひろの体が――二つに、分かれた。
そのうちの片方がさつきから見て左へ吹っ飛んでいき、壁に激突してくぐもった声をあげる。そしてもう片方はふらりと上体を揺らしたかと思うと、さつきに向かって倒れ込んできた。
「わ、わっ」
慌てて抱き止めるが、さつきの方が小柄なうえ今は気が動転している。結局さつきはちひろの体を支えきれずに、下敷きになるようにして倒れてしまった。
『っつー……何なの今のはっ』
壁に叩き付けられた方がよろめきながら立ち上がる。気を失っているちひろを抱えて何とか体を起こしたさつきは、目を丸くしてその姿をしばし見つめた。
自分たちと同じセーラー服。痩せ型で髪はボブカット。つり上がった目に尖った顎と、見た目からくる印象には少し似たものがあるが、明らかにちひろとは違う。
だいいち――頭の上には大きな耳が、そしてスカートからはふさふさした尻尾が姿を見せているではないか。それも、二本。
「だれ……?」
さつきの反応は少し的を外していた。
(……猫、じゃないよね)
『――ふーッ……!!』
「吾が言の葉は汝(な)がまことなり、吾が指す『もと』へ直ぐに落ち行け!」
敵を威嚇する猫のような声をあげ、尻尾を立てた少女がものすごい勢いで飛び出す。しかし再び向かい合う格好になった清華は、間合いが半分に詰まるより先に全てを言い終えていた。
『うわ!』
真下へ落ちるように再び背後の壁に叩きつけられ、少女は悲鳴をあげた。その顔の前で一瞬、小さな炎の華が咲く――彼女はそれを吐こうとしていたらしい。
耳をぴんと立てた少女はそれでも戦意を失わずに顔を起こしたが、体を強く押さえつける力に抗えず、悔しそうに唸って清華を睨みつけた。
「名前は桂。戦後生まれの妖狐よ」
怯む様子もなく、清華は視線を少女に向けたままつぶやいた。
「きつね?」
さつきは改めて少女を見つめた。言われてみれば、たしかにそんな感じの顔をしている気がする。
「この校舎が出来た頃ここに住み着いて、生徒を引っ張り込んで化かしてみたり、取り憑いて周囲を混乱させてみたり、しょーもない悪戯で迷惑かけまくってたって話」
「ふえー……」
「しかも尻尾が二本しかないお子様なのに力と悪知恵は一人前でね、あたしも散々苦労させられたわ」
「……え?」
『なによっ、自分だって似たよーなもんでしょ!』
もがきながら桂が唇を尖らせる。その表情は意外に幼い。
「あの頃はいい勝負だったかもしれないけど」
どうも清華はこの校舎が閉ざされる以前に桂と一戦交えているようだ。でも、清華その頃小学生よね?と、さつきは首を傾げた。
「今は桁が違うの――見ての通り、ね」
『……うー』
「あとひとつ、今のあたしはこの学校の生徒だから鍵探しに手間取ることもない」
清華は涼しい顔で言ってから、思い出したように一言付け加えた。
「ありがと、さつき。来てくれて」
「え……それじゃ」
自分の右手を見つめる。今はもう、光を発してはいない。
入る前に清華が言ってた、見てるだけじゃ済まないってこういうことだったんだ――とさつきは悟った。持ち駒が少ないとも言ってたし、使えるものならあたしでも使う、最初からそのつもりだったんだ。
「おかげでかなり楽できたわ。憑き物を落とすときは、ああしてもらうのがいちばん確実なの」
「……びんたするのが?」
「本気で心配してる人の力を借りるのが。あの時はまだそれに頼るしかなくて、でも年上の知らない人ばっかりだったから、彼女を牽制しながら探して説得して信じてもらって方陣の準備して……で結局二日三日かかっちゃったのよね」
「そっかぁ……」
『……』
桂はさつきに目をやった。このあどけない顔の少女が清華に全幅の信頼を寄せているのは、清華に向けるその目を見れば火を見るより明らかだ。
――違う、それだけじゃない。ふたりを繋ぐ何かが見えるような気までしてきて、桂は眩しそうに目をそらした。
「で、どーしてびんたなの?」
「普通の状態じゃない人を正気に戻すときはひっぱたくのが定番でしょ」
「……って、え、なによそれー!」
「何、キスのほうが良かった?それとも熱い抱擁?」
「まさかほんとはなんでもいいんじゃ……」
『……いーわね仲が良くて』
桂はすっかりやる気を殺がれた様子で短くひとりごちると、少しおどけた調子で清華に声をかけた。
『あーもーやめやめ、あたしの負けだわ。認めるから、これ早く何とかして』
「好きにすれば?」
その何でもない一言で束縛が解けたらしく、桂はそのまま壁にもたれ、力なく床にへたり込む。
清華はその正面に歩み寄り、立ったまま桂の目をじっと見つめた。
『ほんとものすごい成長ぶりね。今なら勝てるって自信持って思い込んでたあたしが大甘だったわ――これでも目一杯力を蓄えてたつもりだったんだけど』
「……」
唇を結んだまま、清華の表情は変わらない。
『……どうするつもり?』
すっかり諦めた様子で桂が問う。
「前と同じよ。悪さをしないならここを出ていいし、ここを離れる気がないならまた扉を閉ざすだけ」
『そう……』
桂は淡々と語る清華を見上げて優しく微笑んだ。
『ここはまだなくならないのね?』
「いつまで残ってるかは判らないけど。この先もし取り壊しが決まったら……その時は、きっとまたあたしが来ると思う」
そこで一度言葉を切ると、清華は確認するように問いかけた。
「残るの?」
『前と同じよ』
清華の口調を真似て、桂は悪戯っぽく笑った。
『あたしみたいにまだ希薄な妖怪にとっては、はじめて根を下ろした場所を追われるのは死活問題なの。だから少しでも長くここにいさせて――そしてあたしのこと噂して、語り継いで。あたしがここを去る日が来ても、あたしがあたしでいられるように』
無言で小さく頷く清華。
その頬に、ようやく微かな笑みが浮かんだ。
(……もしかして)
この建物が残されたのって清華が働きかけたからじゃないのかなぁ……。さつきは桂と清華の穏やかな会話に見入りながら、そんな思いにかられていた。
『あ、そうそう、そこのおさげの彼女☆』
「ほぇ?」
桂からいきなり妙に弾んだ声をかけられて、さつきは目をぱちくりさせた。
『痛かったけど怒ってないから安心して。それにしてもうらやましいわあ、この子が決め手託すほど信じてるなんてあなたすっごい幸せよお、しかもかわいいかわいすぎっっ』
「……え??」
『んじゃまたいつか会いましょ、じゃね☆』
茫然とするさつきをよそに、桂は一方的にまくしたててぱたぱたと手を振る。その全身が淡く光ったかと思うと、次の瞬間には桂の姿は忽然と消え失せていた。
――そして、視界の全てが暗転する。
「ったく何がしたかったんだか……」
闇の中、清華の苦笑交じりのつぶやきがさつきの耳に入った。
かちん、という音とともに小さな光が浮かび上がる。さつきはその向こうに清華の姿を見つけてほっと胸をなで下ろした。清華が手にしている光源は小さな懐中電灯――おそらく、ちひろが持ってきたものだろう。
「どうなったの……?」
答える代わりに、清華は目の前にある扉の上の方を照らした。
「……備品倉庫」
書かれている文字を声に出して読んでみる。そういえば清華、下には倉庫があるだけって言ってたっけ。
――ため息ひとつ。
さつきは自分たちが『戻ってきた』ことを知った。
「……さん、庄司さんってばぁ!」
聞こえてくる声、体を揺り動かされる感覚。
「んん……?」
長い眠りから醒めるようにゆっくりと目を開けたちひろは、薄汚れた闇にほんのり灯る光の中、心配そうにこちらをのぞき込んでいるさつきとその向こうに立つ清華の姿に気がついた。
「あーよかったあ、大丈夫?」
差し出された手につかまって立ち上がる。清華の厳しい視線を感じて、ちひろは努めて軽薄な笑顔を浮かべた。
「あは、やっぱバレちゃったか」
「勘違いしないで」
敵意は感じられない。しかし、清華の声には底冷えがする……とでもいうのか、背筋にぞくりと来る静かな迫力があった。
「あたしはやめさせに来たんじゃなくて、助けに来たんだから」
「助けに……」
その言葉を耳にして初めて、ちひろは記憶の欠落を自覚した。助け?何から?
「あたし――確かに、十三段目踏んだ。向こうに行った」
それからどうした?どうなった?
ちひろは懸命に思い出そうとしたが、まるで浮かんでこない。周囲を見回す――地下一階、階段を下りてきたところ、倉庫の扉の前。つまり、十二段目だ。そして、それを信用していいのか判らないが、自分の記憶の最後にある光景はここではない。
「連れ戻してくれたってこと……?」
「さあね」
清華の返事は素っ気なかった。
「今あたしがあなたにひとつだけ言えるとしたら、もう二度とこんな真似はするなって、ただそれだけよ。――責任等々については後で正式に通達するわ」
「……ちぇ」
一方的な科白からして、どうあっても教えないつもりらしい。ちひろは不満をめいっぱい顔に出して清華を睨みつけた。
「その口ぶり、絶対何か隠してる。知らないうちに話が終わってるなんて、あたしきっと一番おいしートコにいながらそれ見逃してるんだ。ねぇ河野さん、そーなんでしょ?」
「え〜と……え、と」
いきなり話を振られたさつきは困りきった笑顔を浮かべて言葉を濁す。ちひろは大げさに大きなため息をついた。
(知らないほうがいいってわけ。まぁいいわ、ビデオ回ってさえいれば後で……)
「探し物はこれ?」
素早く周囲へ視線を巡らせるちひろに向かって、清華は後ろ手に持っていたビデオカメラを顔の前に掲げてみせた。
「これは先に言っとくけど、当然テープは没収ね」
「……うー」
懐中電灯を持った清華を先頭に、三人は黙って階段を上る。一段、二段……十二段。
瞬間、ちひろはくすくすと笑う少女の声を耳にしたような気がして、立ち止まり振り返ると足元の闇に目を凝らした。
「庄司さん?」
隣からさつきが不思議そうに見上げる。
ちひろは慌てて笑みを作り、首を小さく横に振った。
「ううん、何でも。何でもない……」
[16:07]
「足元に描いてある文様を消さないように、気をつけて出てよ」
後ろの二人にそう念を押してから、清華がゆっくり扉を開く。
「やっと明るいとこに戻れるぅ☆」
待ちかねたようにはしゃぎながらさつきが真っ先に顔を出すと、偶然扉の前に立っていた少女と目が合った。
「あ」
「……」
白い道着に黒の袴。裸足に上履きをつっかけ、ちょうど捨てに行く途中だったのか左手に空のペットボトルを握りしめた1年b組・与野量子は、ずっと閉ざされていた、それが当然であるはずの扉からよく見知った顔がのぞいているのを見つめ、呆然とその場に立ちつくした。
「え?えー?……中、入ったんですかあ……?」
ようやくその口が動いたが、今度は問われたさつきが返答に窮して口を開きかけたまま固まった。さつきの肩越しに外の様子をうかがいつつ、清華も少し困ったような顔をしている。
「ちょっと何してんの、後ろ詰まってんだから早く外出てよっ」
苛立ちを露わにしたちひろはふと思いついて、閉め切りになっている方の扉のロックを素早く外し、重い鉄扉を思いきり外側に押し開いた。
「あ、馬鹿!」
清華が珍しくストレートな表現で叫ぶ。
次の瞬間――表の側に吊るされていた注連縄が、大きな音を立てて落下した。
「へ!?」
それと同時に扉に貼られていた札という札が一斉にはがれて飛び、下にいる三人の頭上をひらひらと舞ったのちに床や頭や肩に降り積もっていく。
「あああ……」
もうもうと巻き起こる埃にまみれながら、清華は額に手を当て情けない声をもらす。
その場に居合わせた者たちはみな、空気が凍りついたかのように、しばしの間ただその惨状を見つめるばかりだった。
土曜日、放課後
「――ふぅ」
何百枚、何百種類あるとも知れない札を、おそらく彼女以外に全容を把握することは不可能な配置で延々と鉄扉の表面に貼り続けていた手がようやく止まる。
いつもは涼しげなはずの面に玉のような汗を散らした清華は、らしくもないふらふらとした足取りで柵の外へと戻ってきた。
「終わった……」
「おつかれさま☆」
「……ありがと」
清華は妙に機嫌のいいさつきを怪訝そうに横目で見ながら、その手からタオルと緑茶のペットボトルを受け取った。
「しっかし、地味な仕事なんだねぇ。おかげでビデオ回しててもあんま盛り上がるとこなくてさぁ……ね、なんか決めポーズとかないの?」
「人の仕事を何だと思ってるのよ」
8ミリのビデオカメラを手にしたちひろの能天気な問いに、清華は冷えた緑茶に口をつけつつ眉をひそめる。
「巫女さん、でしょ?見たまんまじゃない、ねえ?」
「ねー、制服も体操服も水着もいーけど清華はやっぱこれだよねえ☆」
白衣に緋袴のいわゆる巫女装束で目の前に立つ清華を幸せそうに見つめ、さつきはちひろに力いっぱい同意した。
(……さつき、それ、なんかずれてる)
神社の娘である清華としては家の手伝いをする時はいつもこうなので何の感慨もないのだが、ちひろもさつきも更衣室から出てきた清華を見てからずっとこの調子である。殊にさつきはうっとりした眼をしたまま、今もちっとも視線を外そうとしない。
「だから、巫女ってものに対する根本的な誤解が……あーもう、付き合ってたらきりがないわね」
清華はすっかり疲れた顔で、頬に落ちてきた汗を拭った。
「最後の仕上げよ、庄司さん」
「え、何?」
ちひろは白々しく首を傾げる。
「鍵。持ってきたら撮らせてあげるって約束でしょ」
清華の声にうんざりした調子が混じった。あの後、本当ならその場で取り上げるところだったのに、ちひろはねばりにねばって今日まで引き延ばしてきたのだ。
「んー。じゃあ、コレと引き換えにひとつだけ教えてよ」
「屁理屈……」
それはつまり、持ってくるのと渡すのとは別ということらしい。清華は何食わぬ顔のちひろを半眼で見つめ、ぼそりとつぶやいた。
「ほんと口が減らないわね」
「大した話じゃないったら。YESかNOか、それだけでいいからさ」
ちひろは制服の胸ポケットから取り出したそれを右手の親指と人差し指でつまんで清華の目前に立てて差し出し、これまで見せたことのない真剣な目で短く問いかけた。
「五年前そこに鍵かけたの間宮さんでしょ」
古びた鍵を挟んで視線が交錯する。
わずかな間の後、清華は小さなため息をもらした。
「……そうよ」
「ほぇ?」
「やっぱり」
ちひろは満足げにつぶやいた。
「やっぱり??」
「つまり、取り壊されるはずだったこの校舎が今こうしてここにあるのは、妖怪退治に呼ばれてやってきた当時12歳の間宮さんが、三日間にわたる大立ち回りの末にこの建物丸ごと使って彼らを封印したからなのよとゆー」
この場で唯一の観客であり、しかもよく解っていないらしいさつきに、ちひろは報道部員らしい淀みない調子で得意そうに語ってみせる――が、さつきの顔からは全く手応えが感じられない。
「……あれ?」
「だいたい合ってるけど、ちょっと違うわ」
清華は何が悪かったのか悩むちひろの手からひょいと鍵を取り上げた。
「あ!」
「あなたがこれをどうやって手に入れたかにはちょっと興味あるけど……」
値踏みするようにしばし見つめた後、腰に提げた巾着に押し込む。
「――ま、いいか」
「……ほんとにいーの?他に合鍵が出回ってたりしても?」
「……」
清華の目がまっすぐちひろの目を捉える。心の奥底を見られているような気がして、ちひろはどきりとした。
「……なによ」
間がもたず、緊張を隠しながら問うと、清華はふと相好を崩した。
「いずれ第二第三の庄司さんが現れるにしても、あたしそういうのいちいち相手するほどサービス精神旺盛じゃないの。今度のは鍵一本で何とかなるほど甘い作りにはしてないから、その手の知り合いがいるなら忠告してあげて――ああ、心配してくれてるんだったらありがとうって言っておくけど」
「可愛くないわねえ」
ちひろはふてくされたように唇を尖らせた。
「……別にしてないわよ、心配なんか」
「庄司さん、なんかさっきから発言が寝返ってきた敵キャラみたい」
「って、こーのさーん……」
「お待たせ」
再び制服に着替えた清華が新校舎と旧西館の狭間に戻ってみると、さつきはグランド寄りに置かれたベンチにちょこんと座って、足をぶらぶらさせながら扉を眺めていた。
「ねぇ清華、あたしあれからずぅっと考えてたんだけどね」
「ん、なに?」
「桂さん、どうして制服着てたのかなぁ……って」
「へぇ?」
その隣に腰かけて、清華は少し愉しそうに微笑んだ。桂の噂を何十年と受け継いできた生徒たちの中で、一度でもそのことに思いを馳せた者がどれだけいただろうか。
「外に出て、あたしたちの中に溶け込みたかったのかな?」
「んー……そういえば前に会ったときもそうだったわね」
清華は懐かしむようにつぶやき、少し間を置いた。
さつきは黙ったまま、じっと清華を見つめている。
「真実は本人しか知らないけど、たぶんそれで正解だと思うわ。実際、文化祭に現れたこともあったって話。――こんなことあたしが言うとさつき笑うだろうけど、みんなが楽しそうに話してるとき、そこに入っていきたくなることってない?気持ちとしてはそれと同じなんだと思う。やり方には問題が多々あるにしても、ね」
「……高校生活したいってこと?」
どうやらさつきの考えとは少しずれがあったらしい。笑いはしないものの、意外そうな顔で首を傾げる。清華はそれを見て、いとおしげな微笑を浮かべた。
「そ、ごく普通のね。ささいなことだと思うでしょ?けど――あ」
「なに?」
言葉を途切れさせた清華の視線は新校舎の出入り口に向けられている。ほどなくそこから一人の少女が姿を現し、そして少女はすぐにこちらに気付いた。
「いたいた、間宮さーん」
柔和な声で呼びかけて歩み寄ってきたのは、清華の前の生徒会長であり薙刀部の先輩でもある、3年i組・長岡依子だった。
「お疲れさま。――って、疲れてるわよね?」
「そうですね、久し振りの大仕事でしたから、さすがに」
清華が苦笑する。依子は笑顔を返すと、手にしていた紙の箱を掲げた。
「これ、遅くなったけど差し入れ。今から生徒会室でお茶にしない?」
「わ、やた☆」
胸の前で手を打ち合わせ、さつきが目を輝かせる。
「さつきは疲れてないでしょ」
「えーずるーいそんなのっ!」
「大丈夫、河野さんのぶんもちゃんとあるから心配しないで」
「ですよねー、さっすが依子さん☆」
「駄目ですよ依子さん、この子甘やかしたら甘えるばっかりだから」
「なによぉその言い方……あ!」
清華と依子の間でくるくると表情を変えていたさつきが突然、頓狂な声をあげた。
「え?」
「そっか――そうだよね、こういうのって他にないよね」
さつきは胸を打たれたようにつぶやいた。
閉ざされた扉を、あるいはその向こうを見つめながら。
「何の話?」
きょとんとして訊く依子に、清華は朗らかな笑顔で答えた。
「ここでこうしてる幸せ、ってとこかな」
今日も非日常的な日常
-Days of Wonder-