今日も日常的な日常 - Days of Wonder -
『空の蜻蛉(せいれい)、地の雛鳥』
●火曜日、放課後
「……あっつ!」
 県立花間(はなま)高等学校・本校舎五階、音楽準備室。
 ボリュームのある髪をポニーテールにした小柄な少女が、一歩中へ入ったとたん全身にまとわりついてきた熱気に負けて、聞く者のない文句をもらした。
『今日の合唱部の練習は5時からになりました (の)』
 右手前方、音楽室側の壁をほぼ占有している五線付き黒板の右隅には、白のチョークで丁寧にそう書き記されている。壁に掛かった時計の針は、四時半を少しまわったあたりでマイペースを貫いている。
「……うぁー」
 うめいた少女は、体当たりするようにしてドアを固定位置まで押し込むと、左手の壁を覆っている教材などを収めたガラス戸棚と、中央に鎮座して狭い部屋をいっそう狭くしているピアノの間を通って奥へ向かった。
 西日の差す窓を開け放し、窓際に立ててあったスチールパイプの折り畳み椅子を広げてすとんと腰を下ろす。短めのスカートの裾を整えて、一息つく。
 ――がちん。
 訪れかけた静寂を、金属的な音が破った。
「ん?」
 ドアがひとりでに閉まっていくのを目にして、それはヒンジの固定が解除された音だと少女は気付いた。
 他の合唱部員が来た気配はない。押し足りなかったかと思って腰を浮かせたところで、今度は背後の窓がからからと音を立てて閉まった。
 ……そんなことが、あるはずがない。
 立ち上がった少女は、窓に手をかける。……動かない。
「ありえないっ!」
 声に出し、背筋を昇る悪寒をこらえて見回して――そして少女は、ピアノの上に立っている、ついさっきまでいなかったはずの『それ』を見つけた。
 草色の服に栗色の髪、白い肌の女の子。
 見た目の年頃は、十歳くらいだろうか。
 ただし、間違いなく人間ではない。身の丈は隣のメトロノームと同じくらいしかなく、その背中からはトンボのような透き通った(はね)が突き出している。
「なっ……」
 絶句した少女の顔を鑑賞して満足げに笑うと、『それ』は手にしていた爪楊枝くらいの短い杖を振り上げ、そして勢いよく振り下ろした。
「っ!」
 杖の先からきらきら輝く砂粒のような何かが吹き出して、少女の眼前に広がる。
「ふぁ……くしっ!」
 鼻を刺激されて出た大きなくしゃみが、光る粒をばらばらに吹き飛ばす。
 そのついでに吹き飛ばされた『それ』は、翅と手足を必死にばたつかせて何とか墜落を免れると、驚いた形相で少女を見た。
(あ……れ?)
 上体がふらついた気がする。まぶたが重く感じる。
 何やら知らない言葉で二言三言口走ったあと、『それ』はもう一度少女に向けて大きく杖を振るう。すると、戸棚と天井の隙間に押し込まれていた、古びた段ボール箱のうちのひとつが、いきなり宙に飛び出した。
(あ!)
 向かってくる、避けられない。少女の直感が冷徹に告げる。
 だんだん近づいてくるのが、はっきりと見える。
 頭の中が真っ白になる。
 身体が、熱くなる――。

          ★

「千里、せんり!」
「ぅ……ん? 美那(みな)……?」
 心配そうに呼ぶ声を正面、すぐそこに感じて、ポニーテールの少女――一年i組・小湊(こみなと)千里(せんり)は深い眠りの海の底から浮上した。
 重いまぶたを上げて、まず自分が音楽準備室の床の上に、壁を背に座っているのを認識する。目の前でやはり床に直接座っているほっそりしたロングヘアの少女は、一年g組・湯沢(ゆさわ)美那。近所に住み、毎朝一緒に登校している幼馴染みだ。
 美那はその右手に、黒光りする高級そうなペンを握っている。しかし、書きつける紙はどこにもない。それどころか、ペンの先端は金色の縁取りとクリップの付いたキャップが被さったままだった。
「……なんで、杖?」
 家族ぐるみで付き合いのあるこの親友は、ドイツ人の母親の家系に代々伝わる力と技を受け継いだ、魔法の杖の代わりにペンを振るう『魔女』である。
 そのこと自体は、千里にとっては今さら確認するまでもない。だが、今ここで一体何をしたというのだろう。
「何があったの? どうして寝てたの? ……あれやったのは、千里なの?」
 ぼんやりした千里の疑問には答えずに、美那は矢継ぎ早に三つ、珍しく強い調子で問いかけると、壁際に寄せて置かれたゴミ袋を指差した。
 相当に強い力で引き裂かれたらしい段ボール箱の残骸が、大雑把に詰め込まれている。その隣には、中に収められていた楽譜などが、まだとにかく集めただけといった雑然さで積み上げられていた。
「知らない……」
 千里は床に視線を落とし、かすれた声でつぶやいた。
「そんなはずない! わたしわかるもの、千里の……」
 美那が頬を紅潮させて詰め寄る。が、はっと何かに気付いた様子で動きを止める。
 そして、美那が振り返るのとほぼ同時に、ドアが外側から開かれた。
「少し、お邪魔するわね」
 姿を現したのは、腰まで届く黒髪を後ろできっちり束ね、なぎなた部の白い道着と黒い袴で身を包んだ、飾り気はないに近いが立ち姿の美しい――見間違えようもない、校内で最も有名だと言っていい人物だった。
 二年f組・間宮(まみや)清華(さやか)
 ここ花間高校の生徒会長を務める彼女は、花間市北部にある旧い神社の娘で、主にその凛とした見た目の似つかわしさによって『巫女』というイメージが定着している。
 そんな中、美那は前々から、見掛けだけではないと語っていた。『ほんもの』だと――憧れのようなものと、警戒をこめて。
「部活の最中に『わかった』から、タイミング見て抜けてきたんだって。先に生徒会室に来てあたしにきーてきて、だからごめんね美那ちゃん、とぼけられなかったよ」
 清華に続いて、三つ編みおさげの似合う制服姿の小柄な少女が顔を出した。
 二年f組・河野(こうの)さつき。顔立ちは幼いが、清華の同級生にして友人であり、清華率いる生徒会で書記や司会進行役などを担っている。
 千里と美那にとっては合唱部の親しい先輩で、今の話しぶりから千里が思うに、状況をある程度把握しているようだ。美那が連絡したのだろう。
「十五分ほど前に、見覚えのない強い力が弾けるのを感じたの。そのとき現場(ここ)にいたのはあなたひとり、だったそうね。――『ちーちゃん』さん?」
 さつきと会っているところを何度も目にしてはいたはずだが、名前は覚えていなかったらしく、清華は千里にそう呼びかけた。
 千里は黙って目をそらし、答えなかった。
「あ、小湊千里です、みんなには『ちー』とか、『ちーちゃん』とか言われてますけど、本当は『ちさと』じゃなくって……」
 慌てて美那がフォローに入ろうとするが、清華は千里を見つめたまま続けた。
「起きたこと、教えてもらえない?」
「って清華、もっとやわらかくできない? キツい! 訊問みたい」
「ええ? 解りにくいとかじゃなくて? ……どうしろっていうのよ」
「そこはほら、依子(よりこ)さんを見習って……」
 清華がさつきを構っているうちに、千里はちらりと美那の表情をうかがおうとしたが、狙われていたかのようにぴったり目が合ってしまった。
 頬に強い緊張をたたえた美那の瞳には、迷いの色はない。
 千里は、しぶしぶ、という気持ちをあらわに口を開いた。
「……ヒマしてたら、いきなり、小人(こびと)出てきて」
「こびと?」
 さつきが目をぱちくりさせてつぶやく。美那は無言で、眉を少し寄せる。
「そいつに光る砂みたいのぶっかけられて、急にすごい眠くなって……だからそのあとのことは、わかんない」
 千里が話をしている間ずっと黙って聞いていた清華は、それが終わるとほんの一瞬だけ目を戸棚の上にぽっかり空いた隙間にやり、すぐに千里へと戻した。
「そう、ありがとう。――でもその話だけでは、全ての説明はつかないわね」
「だからわかんないって、ついさっき起きたばっかだしっ」
「本当です、わたしが、起こしました!」
 噛みつく千里を遮って、美那が再度割り込んだ。清華は、今度は待つ。
 張り上げた声に自分でも驚いたらしく、美那は口を閉じきらないまま恥ずかしげに目を泳がせたが、五秒まではかからずに気を取り直すとさつきに向けて付け加えた。
「……考えた通りの方法で、起こせました」
「んー、ってことはやっぱり、清華よりは美那ちゃんの守備範囲?」
「え」
 報告を受けたさつきの物言いにどきりとして、千里は声をあげ美那を見る。
 問う視線を受け止めた美那は、的確に、簡潔に答えた。
「いいの、おふたりともわたしが魔女だって、もう知ってるから」
「え、なんで? きーてないっ!」
「あ〜……」
 千里と美那の間の空気を察したさつきが、ちょいちょいと清華をつつく。空気読んで、というそのリクエストは、確認なくただちに受け付けられた。
「もうあたしの出る幕はなさそうね。美那ちゃん、後のことお願い」
「あ……っ、はい……」
 美那の返事を聞くと、清華はさっさと立ち去ってしまった。置いていかれたさつきは、自分はどうしようかと決めかねているふうだったが、やがて申し訳なさそうにふにゃっと笑うと、小さく手を振って出ていった。
 残されたふたりは、どちらからともなく立ち上がった。
 窓際に並んで、互いを見ず、無言で外の風景を見下ろす。
 滲み出す汗は暑さのせいなのか、それともそれだけではないのか、今の千里には判断がつかなかった。
「あとで教えてよ。そっちのこと」
「うん」
 千里が美那の横顔を見上げて問いかけるまで、少し間が空いた。
「あのさ、あたしの……会長(かいちょ)に、バレたと思う?」
「……そのつもりでいたほうが、いい……と思う」
 美那は浮かない顔で答え、振り返ると壁際のゴミ袋に目をやった。
「もしかしたら、見なかったことにしてくれたのかもしれないけど……」
●水曜日、朝
「今日、これ、仕掛けてみる」
 小湊家玄関。
 いつも通りの時間にやってきた美那が、身支度を終えて奥から出てきた千里に、決意のこもった声とともに愛用のトートバッグを両手で広げつつ差し出した。
「これって……」
 中をのぞき込んだ千里は、そこにあったものを見て、美那の顔に目を向けた。
「……あたしが見た小人(やつ)、また出ると思ってんの?」
「うん」
 美那はすぐに、はっきりとうなずく。
「でも、どこに出てくるかは予想つかないから」
「だからこの量? どんだけかかるんだか……」
 言いつつも、美那が本気ならそのくらい考えていないはずはないと思う。
 答えを待たずに、千里はさっさとローファーに足を突っ込んだ。
●同日、昼休み
 本校舎一階西端のピロティにある購買では、今日も腹を空かせた少年少女たちによって限りある食料の争奪戦が熱く繰り広げられている。
 その喧騒から少し離れたところにひとり立っていた美那は、校舎の通用口から出てきたさつきに発見されて、昨日の事件について話題を振られていた。
「清華は、誰でもよかったか、でなきゃあたしとちーちゃんまちがえたんじゃないかってゆーんだけど……そんなことあるかなぁ?」
「河野さんを、狙って……? それは……」
 言い出してから考えようとして、美那は言葉を途切れさせた。
 自分で思いつくさつきと千里の外見上の類似点は、正直なところ背丈くらいしかない。けれど、もし千里の言う『小人』が、想像している通りのものなら。
 そこへ、茶色い紙袋を手に戦場から抜け出してきた千里が近寄ってきた。
「あ」
 目に見えて身を固くする千里に、さつきは無防備な笑顔で声をかける。
「清華ならいっしょじゃないよ、取って食われたりしないよ?」
「べっ、べつにそーゆーわけじゃ……」
 まるで説得力のない言い訳は、それ以上続かない。会話が止まる。
「そこまでニガテだったっけ」
 悪いことしちゃった、と話を打ち切ったさつきは、自分も購買へ向かうため動き出し、千里と美那の真ん中あたりで振り向いた。
「あ、あといっこ、まだ次があるだろうって言ってたけど、美那ちゃんもそう思う?」
 美那は千里を見てから、はっきりと答えた。
「はい」
「そっか。じゃあ、伝えとくね」
●同日、放課後
 本校舎二階・生徒会室前。
 鞄を提げて正面階段を下りてきた清華は、ドアに貼られた在室状況を示す表の上の青いマグネットボタンを『不在』から『在室』に移すと、持っていた鍵を慣れた調子でノブに差し込み回し、ドアを押し開けて中に入った。
 部屋の中央を占める会議机の左側を通って、奥の会長席へと進む。
 その途中、前触れもなく、開け放しになっていた窓から清華を目がけて飛び込んできたものがある――清華はそれを反射的に、手にしていた鞄で引っ(ぱた)いた。
「っ!」
 インパクトの瞬間、派手に煙が上がる。
 そして、色とりどりのチョークの粉をまぶしにまぶした黒板消しが、会議机の上で二回バウンドしてから床に転がり落ちた。
 かすかに声を漏らしてしまった唇を不機嫌そうに結び、清華は粉まみれの鞄を会議机に載せた。蓋を開け、中から上の側で和綴じにされた細長い紙の束を取り出すと、そこから二枚抜き出して手に取る。いわゆる『お(ふだ)』のイメージ通り、その短冊状の紙の表面は、毛筆の崩し字が所狭しとうねっている。
 ドアの側へ下がり、机越しに窓を見据えて身構える。
 そのまま五秒、十秒……十五秒まで待ったとき、窓の外から突然、黒板消しより大きい塊が舞い降りてきた。
 鳥――ではない。持ち前の動体視力で、清華は翅の生えた『小人』の姿を捉える。これか、と思い当たる程度には余裕がある。
「てぇーいっ!」
 迫力に欠けた掛け声とともに、『小人』が杖を振り下ろす。
 輝く砂粒が清華へ降り注ぐ。しかし清華はすでに、左手に持った札を『小人』に向けて突き出していた。
 清華の眼前、会議机の上に見えない壁が突き立ったかのように不自然に砂粒が弾かれ、不規則に飛び散る。奇襲を難なく防がれた『小人』は、何が起きたのか理解できない、という顔で清華を見た。

          ★

 本校舎五階・音楽準備室。
『水曜日の練習は4時からです (の)』
 黒板には、例によって丁寧な字でそう記されている。末尾の『(の)』は、毎度これを書いている合唱部部長、二年e組・野村歩美のサインのようなものだ。
「あれ、いない?」
 無人の室内を見回したさつきは、ドアノブを握ったままひとりごちた。
「どっか行ったのかなぁ……どーしよ」

          ★

「あ!」
 教卓に畳んで置いたハンカチの上に鎮座する、ピンポン玉より少し小さい球体の内側にきらりと光が(とも)ったのを認めて、美那は早足で教卓へ歩み寄った。
 本校舎一階・書道室。
 さつきが音楽準備室で行動を決めかね、清華が生徒会室で『小人』と遭遇していたそのとき、美那と千里のふたりは、美那が言うところの『仕掛け』の最中だった。
「出た? どこ?」
「生徒会室……」
「たたかってんの?」
 千里はやや大きめのコインのような図柄が印刷された円いシールを一枚、ずらりと同じものが並んだ台紙からはがして、アルミ製の窓枠の下端にぺたりと貼り付ける。訊いてはいるが、そこに興味はさほど含まれていない。
「たぶん……」
 ペンに次ぐ魔術用具である携帯用の小型水晶球をのぞき込みながら、美那は心配そうにつぶやいた。

          ★

 生徒会室の天井すれすれを飛び回りながら、『小人』は清華に向けてちまちまと小さな光弾を放つ。そもそも命中率が低い上に、当たったところで左手の札で弾けてしまうほど威力は弱いが、鬱陶しい。流れ弾が机上に置いてあった書類を散らかしていくのも、気にさわる。
 そんな攻撃の合間をみて札を会議机に置いた清華は、スカートのポケットから先ほどのものよりだいぶ小さなサイズの紙束を取り出した。そこから何枚か一気に引きちぎって、右手でぎゅっと握りしめる。すぐに拳を開くと、手品のように、白い紙つぶてがいくつも出来上がっている。
 清華はそれらを天井へ向けて放り上げる。単調に旋回していた『小人』に迫った和紙の弾は、かんしゃく玉さながらにぱんぱんと音を立てて次々に弾けた。
「!」
 明らかな威嚇だが、当たったら痛いものだと肌で感じた『小人』は、身をひるがえして入ってきた窓から逃げ出そうとする。しかし、清華の手元から一枚の札が飛び、あっさり追い越していく。札が貼りついた窓は、冷酷にもぴしゃりと閉まった。
 力の差を見せつけられた『小人』は窓を背に、おびえた顔で服の内側をごそごそと探りだす。清華は何が出てきても反応できるよう、意識を研ぎ澄ませる。
 そして――ばさりと音を立て、白い四角が広がった。
 攻撃ではない、と清華は一瞬で判断した。頭を切り替え、見るほうへ集中する。
 それは、裏が透けて見えるほどの薄い紙だった。幅いっぱいに大きな円が描かれ、中に不可解な文字やら記号のようなものがごちゃごちゃと詰め込まれている。どこか見覚えがある気がしなくもない。
 紙が重力に囚われて落下する。『小人』は水面(みなも)へ飛び込むように円へと身を躍らせ――そこに吸い込まれ、消えた。
 姿を隠したのではない。本当に、ここにはいない。
 そう感覚が告げる。残された清華は、汚れていない左側から窓際へ歩いていくと、床に落ちた紙を拾い上げた。
(さて……)
 どうしようかと考え始めたところで、ドアが開いた。
「おつか〜……えー?」
 暢気な声とともに入ってきたのは、清華のよく知る大柄な少女だった。
「お疲れさま」
「うん、えっと……え〜……」
 生徒会会計担当こと二年d組・立花(たちばな)菜々(なな)は、目を丸くして室内の惨状を見つめ、しばし言葉を失っていたが、気を取り直すと中に入ってきた。
「どうしたのこれ?」
 会議机の右側を通ろうとして、床に落ちている黒板消しを発見して足を止める。
「……飛んできた」
「イタズラってこと? わざわざ、どっかから持ってきて?」
 菜々は一旦引き返し、左側へまわって清華に近寄りつつ、不思議そうに続けて訊いた。生徒会室の中には、ホワイトボードはあるが黒板はない。
「ん、ていうか、飛んで? って……窓から? 外から?」
「そう」
「え〜ほんとに?」
(……判らないか)
 拾った紙を折りたたみつつ、菜々の相手をしながら『小人』の存在を感じ取ろうとしていた清華は、最後のひとつを失敗で終わらせてから、真顔で慎重に切り出した。
「ナナさん、申し訳ないけど掃除お願いしていい?」
「ひとりで? 間宮さんは……」
 人の好さに甘えて厄介ごとを押しつけている自覚はある。断られて当然、非難されても仕方ないと思いつつだったが、菜々は緩い表情で続けた。
「おでかけ? とりもの?」
「え? ――ああ」
 日常ではそう耳にしない言葉だから反応が遅れた。『捕り物』だ。
 つまり、菜々の問いは「犯人捕まえにいくの?」に等しい。相手が人ならぬ者なのは、清華の態度から薄々察しているだろう。そう順調にいくはずもないが、方向性はおおむね正しいので、否定しない。
「現場かたづけちゃっていーの? 手がかり、なくなっちゃわない?」
「……大事そうなのは拾ったから、大丈夫」
 鞄を置いたところへ戻って手持ちの札を補充してから、清華はドアに手をかけた。
「行ってきます」
「いってらっしゃい☆」

          ★

「ん?」
 教卓の上の水晶球から、ふっと光が消えた。
「どーなってんの? 終わったの?」
「急にいなくなった……窓から逃げたんじゃないし、何が……あ!」
 すぐそばで肘をついて眺めていた千里に答えかけた美那は、唐突にそれを中断した。
 足下のトートバッグから、規則正しいリズムで震える携帯電話を取り出す。画面に目を通すと、千里に報告する。
「河野さんから、今どこ? って……河野さん、音楽準備室にいるって」
「ひとりで?」
「だと、思うけど……」
 話している間に光が甦った。反応して水晶球を見下ろした美那は、その瞬間、何ミリかずれた位置に光がもうひとつ灯るのを目の当たりにした。
「ふたりめ……!」
 すぐに結論を下す。驚きはするが、ありえない事態ではない。
「どこ?」
「五階と、二階……どっちも、西の端から、東に向かって……?」
 張り詰めた面持ちで、美那は光点の示す情報を読み取る。五階の東端にはさつきがいる音楽準備室、二階の東端には清華がいるはずの生徒会室がある。
「わたし、河野さんのところ行く!」
 千里の反応を待つことなく、美那は水晶球とトートバッグを引っつかむと書道室を飛び出していった。
「え、ちょっ、美那っ!」
 狼狽して呼ぶものの、今の話を聞いては、後を追うという判断ができない。
 結果として置き去りになった千里は、とたんに不安に包まれて、つい思いを声に出してしまっていた。
「あたしだけで、どーしろって……!」

          ★

 やむなく書道室を出た千里は、美那が選ばなかった生徒会室へ向かうべく、西階段から二階に上がった。きょろきょろ見回しながら、東へと歩く。何も見つけられないままに、東端に近づく。右手前方に吹き抜けの空間が見えてくる。
(あれ?)
 一階のホールを見下ろすと、その脇の廊下を清華が歩いているのが見えた。
 彼女が生徒会室にいないのなら、戦いはどうなり、再び現れた『小人』は何をしようとしているのだろう。
 千里は戸惑う。その最中(さなか)、偶然、何かがきらりと光ったのが見えた。
(あ!)
 そうだ、『小人』の翅だ、と直感する。目を凝らす。
 ホールの天井近くに浮かんでいたそれは、身体のサイズからするとずいぶん大きな丸い何かを抱えてふらふらと飛行し――清華の頭上に達したところで、それを手放した。
(な……!)
 心の昂りと同時に、身体が熱くなる。
 それは、自分の中の『力』が弾ける前兆だ。
 と自覚できているだけ、前よりはほんの少しましかもしれない。が、だからといって、止められはしない。
「だ、め――……っ!!」
 叫んだはずだが、声になっていたかは自分では判らない。

 大きな音がひとつ。爆発音ではないが、弾けるような音。
 静けさ。そして、人の声。

 ざわめきが集まってくる中、階下の清華は周りの様子を確認するためかくるりと回る。その挙動は、舞うかのように安定している。
 清華を中心に、熟したトマトの残骸が飛び散っていた。
 飛んだ先は、床の上だけではなかった。清華の身体にも――数百グラムの塊が直撃することこそ避けられたものの、清華の髪と制服はべたべたに汚れてしまっている。
 ふと二階を見上げた清華の目が、千里を正確に捉える。
 金縛りの呪術をかけられた、というわけではない。けれど、蛇に睨まれた蛙のように、千里は動くことができなかった。

          ★

 体育館、女子更衣室。
 さつきと美那、そして千里が待っているところへ、清華が奥のシャワールームから出てきた。
 清華は汚れてしまった制服ではなく、なぎなた部の道着と袴にひとまず着替えていた。乾ききっていない後ろ髪が、束ねられないまま背を流れている。違うのはそれだけのはずなのだが、なぜか普段よりもどことなく幼い感じがする。
「そっちは、何があったの?」
「んー、たぶん、きのうのちーちゃんといっしょ……」
 三人を明確にふたつに分けての問いかけに、音楽準備室組を代表して眠そうなさつきが答えた。隣の美那は、痛々しいほど恐縮している。
「美那ちゃんの仕掛け、突破されちゃって……って、あれ? わかんなかった?」
「そう、それで大体判った」
「へっ?」
 返答の意味が解らずにいるさつきをよそに、清華はさつきたちよりも距離をとっている千里をがっちりと見据えた。
「あなたには、ものに働きかける『力』があるのね」
 もはや口を挟む余地を見出せず、美那は黙って目を伏せた。
 それは、問いかけではない。
「……うん」
 千里は観念して、うなだれるようにうなずいた。
「えっ? えっ?」
 さつきだけが状況も事情も飲み込めていない。
「単純に言えば、手を触れずに動かしたりできるってこと、呪文も何もなしで。あたしが感じてたのは、『小人』の出現じゃなくてこっちだったの」
「それって、もしかして……その……」
「いわゆる『超能力』でしょう」
「……なの?」
 おそるおそるの確認に、千里は決まり悪そうな顔でうなずく。さつきは目をぱちぱちとしばたたかせてから、目だけでなく表情ごと輝かせて感想を述べた。
「へーすごいすごい! ある意味、清華よりすごいかも?」
 清華は冷静に応じた。
「――そうね。ずっと難しい。すごく危ない」
「ふえ……?」
 それはさつきに向けた発言だったが、目の前の当人を意識していないはずはなかった。沈んでいた千里だったが、聞き流せずに気色ばむ。声が出る。
「そんなこと……!」
「ないって言える? 昨日と今日、あなたが何を望んで、どういう結果になったかを振り返っても、難しくない、危なくないって言い切れるの?」
「……っ!」
 あまりに速い真正面からの一撃に、千里は言葉を返せなかった。
 昨日は自分の身を守ろうとして、落ちてきた箱を破壊した。今日は清華を守ろうとしてトマトを潰し、幸い怪我こそなかったものの見ての通りの有様だ。
 笑顔の多いさつきと対照的に無愛想に唇を結んでいることが多く、いつもご機嫌斜めに見える、と言われる清華だけれど、今の声に怒りの色はない。だから、巻き込んだことで機嫌を損ねたわけではない、とは思える。しかし、その一言は千里に重くのしかかって、簡単にはどいてくれそうになかった。
 美那もさつきも何も言えず、沈黙が時を区切る。
 もうこの話は終わった、とばかりに清華が動いた。
「そういえば、美那ちゃんに見てもらいたいものがあった」
「……えっ」
 シャワーを浴びる前に手荷物を突っ込んでいたロッカーを開けた清華は、中から小さく折りたたまれた紙――『小人』の遺留品を取り出すと、広げて美那に差し出した。
「これ、何だか判る?」

          ★

 正門を出て、小さな神社の脇のバス停に、美那と千里は並んで立つ。
 市北西部の住宅地から花間駅ゆきのバスで通学するふたりは、経路の途中に花間駅での乗り換えがある清華やさつきとは帰る方向が逆になる。他の生徒の姿もなく、今ここにはふたりしかいない。
「……ヘタクソは使うなって話、だよね」
 千里が前を向いたまま、ふて腐れ気味につぶやいた。
 足下に視線を落としていた美那は、心を決めて顔を上げた。
「あのね、千里……わたしも、いつか言わなきゃって、思ってた」
「……え」
「千里の力は、千里が思ってるよりずっと強くなってるの。……もう、ちゃんとした訓練しないで操れる限界、超えちゃったんじゃないかな」
 千里の横顔に力が入る。
 思い当たる節は前からあったのかもしれない、と美那は思った。
「わたしも――わたしたちは、すごく簡単に人を傷つけることができるの」
 自分にも言い聞かせるつもりで、美那は言い切った。
「正しくできなかったら、守りたかった大切なものまで壊してしまうかもしれない」
「……そんなこと言われたって、どーすればいーの?」
 全部黙って聞いた千里は、15センチ近く背の高い美那を見上げて訊いた。
 怒っても、やけになってもいない。純粋な本音で――美那には痛い。
「美那はママさんに教えてもらったんでしょ? あのひとだって……知らないけど、先生いたからできるようになったんじゃないの?」
「それは、そうだよ」
 溢れそうになる感情を必死に抑え込んで、美那は絞り出した。
 それこそが、今まで言い出せずにいた最大の理由だ。現実的な打開策を示せなければ、もう使うな、と言うのと同じになってしまう。
 ふと、停留所のスピーカーから接近案内の自動放送が流れる。ほどなく右手側、神社の角をバスが左折してくる。
 言葉は交わさず、しかし一緒に、ふたりはバスに乗り込んだ。
●同日、夜
 夕食をすませて自室に戻ってきた美那は、まず机へと向かってデスクトップパソコンをスリープ状態から復帰させ、鏡台の脇に置いてあった通学鞄とトートバッグを机の傍まで持ってきた。
 トートバッグに潜り込ませた右手を引き抜くと、黒い筐体の小さなビデオカメラが姿を現す。保護カバーを開け、メモリカードを引き抜いてパソコンのカードスロットに挿す。本来オフィス向けの大ぶりな椅子に腰かけて、美那は液晶ディスプレイを見つめた。
 リストにひとつだけ表示された動画ファイルを選択し、再生を始める。ウィンドウには放課後の音楽準備室が映し出される。棚の上から見下ろす構図なのは、カメラを例の箱があったスペースに設置したためだ。
 ずっと何も起きないので、事件発生の時間帯まで一気に進める。さつきが部屋に入ってきた場面を見つけて、再生速度を等速よりも落とす。
 暇そうに椅子に腰かけていたさつきを突然、巨大なシャボン玉のようなものが包んだ。美那が仕掛けておいた障壁の一種で、『小人』の光る砂に反応して自動的に発動したはずだ。千里を起こしたときの手応えから、これで十分防げる想定だった。
 ところが、フレームインした『小人』は、勢いをつけて上からシャボン玉に突撃した。表面を突き破って強引に内側へ入り込み、さつきに砂を振りかける。即座に眠りに落ちたわけではないようで、さつきは危なっかしくも無事ぺたんと床に座り、それからこてんと横になった。
 まったく間に合わないタイミングで自分が駆け込んできたところでウィンドウを閉じた美那は、今度は鞄を探って清華から受け取った紙を取り出し、机の上に広げた。
 ディスプレイの右横に立ててあった分厚い書物を開いて、しばしページを繰る。やがて手を止め、そこに記された図と紙を注意深く見比べ、小さくうなずく。
 書物を元の位置に戻し、机の上に置いてあった『杖』たるペンを手に取る。キャップは外さずに、紙の数センチ上を素早く走らせる。ペン先から流れ出る光跡が、白い紙の黒い筆跡の上で蒼く輝く。
 ペンを持ったまま変化を待つが、何も起こらない。そのまま輝きが消えるまで待って、美那はペンを置き、小さくため息をついた。
 椅子の背もたれに身体を預け、力を抜いてぼんやりして――
「……わたしが、考えなきゃ」
 姿勢を正し、美那はそう声に出して言った。
●木曜日、朝
 花間高校本校舎前。
 花間駅のバスターミナルで合流するはずのさつきがいつものバスに間に合わず、清華がひとりで昇降口までやってくると、美那が待ち構えていた様子で立っていた。
「おはようございます」
「おはよう」
 挨拶では終わらなかった。やはり行く手を阻むつもりらしく、力の入った目でまっすぐ見つめてくる。
 かなり緊張しているようだが、同時に早く話したくてうずうずしているふうでもある。清華はあえて、もうほとんど判っていることを訊ねる。
「あたしに用事?」
「はい。すごく、わがままなお願い、しに来ました」
 即答から間髪入れずに、美那は一直線に突撃してきた。
「わたしのしたいこと、手伝っていただけませんか?」
●同日、昼休み
 東館一階・図書館第二閲覧室。
 実質貸し切り状態の細長い部屋で、清華と美那がふたりだけで会っていた。
「これをたくさん貼れば貼るほど、微弱な変化を捉えられるし、場所を正確に特定できるわけね」
 美那が持ち込んだ、昨日美那と千里が校内のあちこちに貼り付けていたシールの台紙を手に取って、清華は興味深げに語る。
「印刷するだけで使えるの?」
「いえ、最後の一筆(ひとふで)だけは、自分で入れないといけないです」
「まあ当然か。だとしても、これは便利ね」
「弱いし、インクの劣化が早くてあまり長持ちしないし、すぐ数が必要なときくらいしか使えませんけど……」
 こういう話が円滑にできる相手などそういないから、つい饒舌になってしまう。脇道にそれすぎたのを自覚して、美那は恥ずかしそうに言葉を切った。
「……すみません、こっちの話しないとでした」
「判った?」
「はい、つまるところ、ご想像のとおり――なんですけど」
 机の上に広げて置いた『小人』の忘れ物をふたりで見下ろす。
「逃げ道、ですね。これは『向こう側』を経由して対になるもう一枚、つまり別の場所に出る、ショートカットのためのものです。一旦帰らせて召喚し直すよりコストもリスクも低いので、脱出用に持たせていたんだと思います」
「まだ使える?」
「いちおう試してみましたけど、駄目でした。追いかけられないように、すぐに破るなり燃やすなりしてしまったんだと思います」
 だと思います、が続いたが、表現ほど自信のない表情はしていなかった。清華より少し背の高い美那はすっと背筋を伸ばし、清華のほうを向いて続けた。
「次に現れたときに、わたしの目の前で同じように逃げるなら、追跡する手はあります。ただ、下手に追い込むとこんなもの使わないで帰ってしまうでしょうから、工夫が必要になります。……あ、ここから本題です……いいですか?」
「無理なことだったら、できないって言うわ」
 この場の本題とは朝の『用事』――美那が清華にしたいことを伝え、してほしいことを頼む、ということだ。ここまでの話の流れからすると、このあとは作戦会議と言っていい内容になりそうだと清華は思う。
 はたして美那は、物騒なことを言い出した。
「人目に触れず、ものを壊したりする心配のない、広めの場所が欲しいです。わたしが、戦うので」
 清華は美那の目をじっと見た。
「人払いの結界ありきでよければ、当てはまるところがあるわ。どうやって誘い込むかが問題だけど」
「囮になって、いただけますか?」
 美那はすぐにすらすらと、堂々と言ってのけた。
「間宮さんと河野さん、おふたりが狙われてるのは、もう確実ですから」
 らしからぬふてぶてしさが、彼女の本気を感じさせる。「わたしが戦う」のであって、決して清華に事件解決をお願いしているのではないのだと示している。
「考えがあるなら聞かせて。――ただ、相手も二体(ふたり)よね、それでいける?」
 清華の問いに、美那はもちろん考慮済みだという顔で返した。
「囮が、必要ですね」
●同日、放課後
 午後四時半過ぎ、本校舎四階・二年f組の教室。
 トレードマークの三つ編みを(ほど)いたさつきが、千里の髪を鼻歌交じりに梳り、手慣れた調子で三つ編みにしていく。
 そこからは少し離れた窓際で、美那と袴姿のまま部活を抜けてきた清華が向かい合って話している。もう、この教室には他の生徒はいない。
「はい、できあがり☆」
 さつきは自分の仕事を終えて、満足そうにうなずくと千里を解放する。
 拘束されていた椅子から立ち上がった千里は、首の両脇を伝ってぶら下がっている髪を指でつまむと、納得できていない顔つきで見下ろした。
「これやっぱムリない? どー見たって似てなくない?」
「相手のレベル考えたら、これでじゅーぶんだって」
 千里を清華と組ませて囮にし、『小人』を誘い出す。そして、背後にいるはずの指示を出している者への道を開かせ、問題を根から断ちにいく。
 ――というのが、美那が提示して、これから決行しようとしている作戦だった。千里は断片的な指示を受けただけだが、さつきはもっと詳しい説明を聞いたらしい。
 千里としては、さつきの身代わりとして危険を引き受ける役割に異存はない。とはいえ簡単に見破られてしまうようでは、そもそもやる意味がないと思う。
「あっちは顔の見分けついてないって、美那ちゃん自信あるみたいだよ。でもまぁどーせなら、もっといろいろ、いじ……工夫したいよね?」
「……美那信じる」
「えー?」
 おもちゃにされそうな気配を感じて、千里はそそくさとさつきから離れる。……そんなことをやっている間に、美那と清華の話は終わったようだった。
「準備が済んだなら、始めましょうか」
 清華は千里を一瞥したが、さつきの仕事への感想は言葉にも表情にも出さずに、必要なことだけ口にして窓際から教室の後ろ側へ足を運ぶ。
 その足元は、さすがに素足ではなかった。袴には合っていないが現実的に、普段使いの上履きで包まれている。
「場所のほうは、準備いーの?」
「あとは中に入れて閉めるだけよ」
 清華が左手に提げている巾着は、口を絞っている紐がぴんと張っていて、妙に重量感がある。千里はつい、見入ってしまっていた。
「千里」
「――ん?」
「それ、忘れないでね」
 美那に釘を刺されて、千里は机の上に寝かせて置いてある土産物の紙袋を手に取った。少し広げて、中身をちらりと見る。
 水色のレジャー用ビニールシートが一枚、きっちり畳んで詰め込んである。これが何のためのもので、いつどのように使うかは美那から聞いている。しかし、美那の言う局面は千里にはぴんときていない。
「ほんとに必要あんの? こんなの……」
 口にしながらも逆らわずに、清華のそばに向かう。
 二歩ほどの距離をおいて足を止める。と、さつきが腰に手を当てて、真面目ぶった顔で指摘をよこした。
「あたしと清華の距離としては、ちょーっと遠いかなぁ」
「えぇ……」
 清華のほうはどうでもよさそうだが、どうでもいいがゆえに何もしてくれそうにない。千里はしぶしぶこわごわ清華の隣、肩が触れそうな位置まで近寄る。
「……これくらい?」
「んー、まぁよしとしましょう。歩くとき、気をつけてね」
 さつきが言い終えると、行きましょ、と清華は動き出す。滑らかな身のこなしに対応が遅れて、千里は慌ててぱたぱたと追いかけた。


「さて、と」
 清華と千里が一応は揃って廊下を右手へ進んだのを見届けてから、さつきと美那は顔を見合わせ、短く言葉を交わした。
「じゃあ第二段階、スタートだねっ」
「はい、お願いします」

          ★

「これが気になる?」
 膝の上に載せた巾着を少し持ち上げて、清華は左隣から千里がちらちらと向ける視線を捕まえた。
 二年f組の教室を出て東側に向かったふたりは、正面階段を下って三階を東から西へ、西階段を下って二階を西から東へと歩き、その先の生徒会室には寄らずにさらに一階まで下りてしまいホールに出ると、まばらに並べられたスツールに腰かけて、一休みしているふりをしていた。
 千里はふりでなく本当に休んでいいのだが、清華とふたりきりでいる状況では緊張して気が休まらないうえに、今の恰好では人の目が気になって仕方がなかった。覚悟していた以上に、見られるのが恥ずかしい。
「おフダ、たくさん持ってるってきーた」
「救急箱みたいなものよ。色々な事態に備えておこうとすれば、多くなる」
「自分で書くんでしょ」
「ええ」
「ぶっちゃけ、めんどくない?」
 千里の不躾な物言いを、清華は平然と受け止めた。
「使う段の利便を考えれば書く手間と持ち歩く不便を甘受する価値はあるって、実体験に基づいた結論が出ているから。――それに今はもう、基本的に使った分を補充するだけで大して時間もかからないし」
「そーなる前は?」
「稽古から入って、習慣になった。……かしら」
「……あー」
 光明にはなりえない答えに、千里はうめくような声をあげる。少し姿勢を変えてそんな千里の表情をのぞき込んだ清華は、姿勢を戻してから問いかけた。
「昨日、あのあと美那ちゃんに、何か言われた?」
「……うん」
 読まれているのならと、千里は抱え込んでいるものを正直に吐き出した。
「思い出してみろって。集中できてるときは、『できあがりが見えてる』はずだって」
「――なるほどね」
「ダメなときはちゃんと見てない、イメージできてないってことだから、いつもちゃんとできるように訓練しないとあぶないって。……理屈は、わかってる、けど」
 言いながら思いに沈み始めた千里の肩を、清華はふと無言で、ぽん、と叩いた。
(……!)
 どきりとしてから、千里は思い出す。
 それは、獲物が針にかかったという合図だ。

          ★

 東西に伸びる花間高校本校舎は五階建てだが、校庭寄りの南側、特別教室や職員室を含んだ一部のエリアは二階までとなっている。
 北側三階の床と高さがほぼ同じである南側の屋上は、日中は開放されており、立ち入ることができる。屋上への出入り口は二階にあり、そこから雨ざらしの鉄製の階段を上っていくのが普通だが、三階の三年生の教室からベランダに出て、塀を乗り越えていくという手もなくはない。
 清華と千里は追跡者の存在を認識していない体で校内を適当にうろついたのちに、二階から屋上に出ていた。
「いま、下ついたって」
 携帯電話を手に千里が呼びかけると、清華は思いもよらないことを言い出した。
「なら、あたしの出番はこれで終わりね」
「へ? でも、今から……」
「それは美那ちゃんの仕事」
「……手、貸してくんないのっ?」
「今日のあたしは、美那ちゃんの駒なの。――自分がやるって、譲らなかった」
「え……?」
 意味深な言葉を残して、清華はさっさと階段を下りていく。入れ替わりにまずひとり、階段を上がってくる。
 それは、美那ではなく。小柄な、三つ編みの。
「え、なんで?」
 ぽかんとする千里に、元の髪型に戻っているさつきが屈託なく笑って手を振る。
 その頭上を、虹色のきらめきが追い抜いていく。間違いない、『小人』の翅だ。
 清華と千里を追ってきた『小人』は、すでに近くにいるはずだ。つまり、これは美那とさつきが釣ってきた、もう一体なのだ――という結論に、千里は至った。
(ハナシ違うじゃん!)
 と千里が衝撃を受けている間に、階段の下では清華と美那が顔を合わせていた。
「あとで、聞かせて」
「はい」
 会話はそれだけ。右手を触れ合わせ、すれ違う。
 単なる選手交代のタッチのようでいて、しかし美那はそこから肌の温もりだけではない温かいものを受け取った気がした。
 清華が去る。ドアが閉まった瞬間に、美那は空気の変化を感じ取る。
 廊下側からは、ただドア上部のガラスに一枚の張り紙がテープで留められているだけに見えるはずだ。A4サイズのコピー用紙に『十七時頃まで屋上を占有します 生徒会』とサインペンで記されたそれは清華の直筆で、権力と強い説得力を感じさせる。が、違う。それではない。
 ガラスを挟んだ裏側に、縦に細長い紙切れが隠れている。こちらが、あらかじめ清華が仕掛けておいた、『人払いの結界』の最後の一枚――これから美那が上る舞台を日常から切り離し、陽の光のもとに密室を造り上げるための鍵だ。
 改めて、気を引き締める。


 千里の背後から、今まで隠れていたらしいもう一体の『小人』が飛び出してきた。罠にかかったことにやっと気がついた『小人』たちは、千里の知らない言語で激しく言い合いながら、遅れて屋上に現れた美那を見下ろす。
 美那はそちらではなく、北側の校舎を見上げる。本当なら、ここは三階から五階までのベランダから丸見えなのだが、ざっと見渡した限り、こちらを向いている生徒たちの目に自分たちは入っていないようだ。清華の結界は、正しく機能している――疑っていたわけではないが、明確にそう判断して、美那はペンを手にした。
「こーのさん、こっち!」
 千里は困惑しつつ、もともと指示されていた通りに紙袋からビニールシートを取り出し広げてその上に立つと、来ると思っていなかったさつきを手招きして呼んだ。
「ここ乗ればいーの?」
「カラダ全体が線からはみ出ないようにって言ってたけど……」
「って、ふたりじゃけっこーキツいかもっ」
 寄り添うよりも近い距離で、千里とさつきはともに美那へ目を向けた。
 指揮棒のようにペンを少し高めに構えた美那が、『小人』たちより先に動いた。空中に描いた光る文字のひと綴りが、ぴんと伸び、矢のように上がっていく。
 外れたと思いきや、今度は上空から二本に分かれて降ってくる。『小人』たちがそれを辛うじて避けると、ふたつの光は屋上に突き立って、消えた。
「うわぁ……!」
 さつきが歓声をあげ、千里は息をのんだ。
 戦況は当然のごとく撃ち合いになる。長い髪をなびかせ、走り回って矢を放ち、攻撃を避けたり防いだりする美那の勇姿は、普段の穏やかで控え目な挙措とは別人のようだ。
「美那ちゃん、かっこいーねぇ」
「がんばりすぎ、あれじゃ体力もたないって……」
 感心するさつきに、心配でたまらない千里はまったく賛同できない。
「もしかして、美那ちゃんたたかってるの見るのはじめて?」
「ったりまえじゃん……!」
 目を離せないまま絞り出す。美那が魔術を行使するところなら何度も見ているけれど、当然ながらこんな場面ではない。
(あたし? あたしが、先生どーこー言ったから……?)
 美那がこんな無茶をしているのは、自分のせいなのではないか。あのとき先生がいないことを言い訳にしたから、彼女なりにやってみせてくれているのではないのか。
 と千里が罪悪感の靄に包まれていると、それを狙い目とみたのか、『小人』の片割れが千里とさつき目がけて突っ込んできた。
「あ!」
 美那の声が聞こえた。その一瞬で、もうフォローに入っても間に合わないという判断ができてしまったのだろう。
 心が震える。足元のビニールシートには、こんなこともあろうかと美那によって防御の魔術がかけられている。だが、もしこれが期待した効果を発揮してくれなかったら。発揮したとしても、防ぎきれなかったら。
(こーのさんが――!)
 千里は自分のことよりも先に、さつきのことを案じた。
 熱いものがこみ上げてくる。同時に、美那に言われたことが頭に浮かぶ。

  必要なのは、はっきりイメージすること。できる限り、短い時間で。
  見たことあるものの真似でいいの。アニメ、ゲーム……ポーズ、せりふ……
  恥ずかしくても、近道――。

(壁? じゃない、『盾』!)
 心が決まった刹那、掲げた右手の先に光り輝く半透明の球面が生まれ出て、千里自身とさつきを覆った。
「出た!」
「これちーちゃん? すごーい! バリアっぽいっ」
 自分で驚いている千里へ、さつきが無邪気に賞賛を贈る。
(……今っ!)
 美那はそれによって生み出された隙を逃さずにペンを振るう。ひゅん、と伸びた文字の列が『盾』に受け止められた『小人』へと縄のごとく巻きつくと、がんじがらめにされたその身体は飛ぶ力を失ってゆるやかに降下していった。
「やった……?」
 まだ実感のないまま、千里がつぶやく。
 役目を果たした『盾』が、空中に溶けて消える。取り残されたもう一体の『小人』は、捕まった仲間を助ける気はないとばかりに例の紙を広げた。
(――来た!)
 ずっと待っていた、絶対に逃せないチャンスの到来に、美那は広域に向けていた意識を一点集中に切り替えた。ほぼ無防備になってしまうが、もはや他に相手はいないのだから構わない。
 不安を振り切って、ペンに意志を注ぐ。踊るように大きく腕を動かして円を描き出し、続けて三角形をふたつ組み合わせる。さらに文字がその中に次々と吸い込まれ、あるべき場所に配置されたところで、美那は高らかに『呼んだ』。
「――来てっ、『西の大師(たいし)』ゲルデ!」
 美那の描いた円全体が、声に応じて強く発光する。
 その光の中から飛び出した何かが、勢いを保ったまま、まだ宙を舞っている紙の円へと飛び込んでいった。
「見えた?」
「よくわかんなかった……」
 千里に認識できたのは、『小人』よりも大きかったことくらいだった。
 ……手に汗握る沈黙が十秒と少し。その間に、紙が着地してぱさりと音を立てる。
 それから突如として、美那が描いたものよりも大きな円が、床面に垂直に広がった。
「っ!」
 驚く暇もなく、そこから大きな何かが飛び出してきた。あるいは、放り出された、突き飛ばされた、といったほうが適切かもしれない。
 何とか転ばずに踵の高いブーツでコンクリートを踏みしめた、人の大きさをした人型のそれは、乱れた茶色のロングヘアを邪魔そうに背に流して悪態をついた。
「人間を飛ばすなんて、どういう神経なの! ……あれは、おまえが呼んだのっ?」
「あぁ〜……」
 さつきはこんな姿勢でなければ頭を抱えたそうに、理解のこもった声をもらした。
 もはや『例の』と前置きしてもいい、真っ黒いミニタイトワンピースの――美那が操るものとは似て非なる魔術を行使する、あの人物だ。
 美那は動じずに、すぐ行動に移れそうな姿勢をとっている。どうやら、ここに至る前にこの展開を予想できていたようだ。おそらくは、清華もだろう。
「……なにアレ」
「んーとね、前から清華にちょっかい出してる……わるい魔女?」
「マジで?」
 千里とさつきがひそひそやっているうちに、眼前の光景に変化があった。
 新たに出現した円はみるみる小さくなり、ぱっと青白い光を発して消える。
 そして、円の中心があったあたりに30センチほどの立ち姿がひとつ、悠然と浮かんでいた。
「なにあれっ?」
「美那が呼んだやつ……じゃないの?」
 千里は自信のない憶測を述べて、さつきと一緒にそれに見入った。
 さらさらの長い金髪に、花を思わせる水色のドレス。『小人』たちよりも大きいのは、スケールが違うわけではなく、子供に対する大人なのだと考えてよさそうだ。
 陽光を浴びて虹色に輝く背中の翅は止まって見えている。羽ばたきによって飛んでいるわけではないのだろう。
「よくできてるねぇ、これならこの場のことが外に漏れる心配はないよ。――さて」
 小さな美女は流暢な、意外にくだけた語調で、黒衣の『魔女』に話しかけた。
「困るのよねぇ、ヨウセイを使い魔か何かみたいに扱われちゃぁ」
 あ、と口を開いたさつきが、小声で報告する。
「ふつーに『妖精』って言ったよね」
 千里はまるで気に留めていなかったが、美那が自分のことを『魔女』と称するように、これも訳語がしっかり決められているのかもしれない。
「まぁもちろん、ちゃんと判断できずにほいほい荷担する側にも問題はあるが」
「上から偉そうに……おまえは、何者なのっ!」
「あたしはゲルデ、『西』のゲルデ。何者かと問われたら、そうね、教師の親玉みたいなものかねぇ」
 切りつけるような『魔女』の誰何は、あっさり受け流される。
「……ところで、そのなりはあたしの知る魔女たちとはずいぶん違うけれど、何か趣向があるのかね? ――ああ、仮装をする祭りがあるんだったか? あれはもう少し先だったかな?」
「戯れ言を……どこぞの教師風情の指図など、わたくしが聞くと思って……!」
 恰好をつけてはいるものの、『魔女』が気圧されているのは素人目にも明らかだった。そもそもここへ引きずり出された時点で、力の差は歴然としている。びびりつつも虚勢を張る様子に、小さな美女――ゲルデは肩をすくめた。
「確かに、あたしに魔女を罰する権限はない。できるのは、しかるべき筋に苦情を伝えることくらいだね。ただ、このコらは――」
 美那の魔術によって拘束され転がっている『小人』を見下ろし、付け加える。
「うちの部族のコじゃないから叱るのはあたしじゃないが、相応の処分が下るだろうね。この(もん)は当分使えなくなるだろうから、そのつもりでいなさいな」
「結構。こんな役立たず、頼まれたとしても二度と使わないわ!」
 吐き捨てて、『魔女』は乱暴に杖を打ち振る。すると、上空に漆黒の巨大な鳥が忽然と現れ、舞い降りてきた。
 美那はただ黙って見据え、手を出そうとはしない。『魔女』は転がっていた『小人』を拾い上げると、鳥の背に乗って去っていった。
「……あれほんとにバレないの?」
「の、はずだけど……」
 空を仰いで言い交わす。さつきにとってはもう何度目かの光景だが、初めて見る千里の当然の疑問には、過去一度も校内で話題になったことがない、という一点からそう答えるしかなかった。
「やれやれ、勉学の場を荒らすとは、迷惑な魔女もいたもんだね」
 離れていく巨鳥を見上げ見送っていたゲルデは、しばらくして聞こえるように言うと、その場でゆったりと向きを変えた。
「戻ってくる心配はなさそうだ。そこのちびっこたち、安心しなさいな」
「ちびっこ……」
「まぁ、美那ちゃんとくらべたらだいぶちーさいよね」
 呼びかけられた千里とさつきは、ビニールシートから足を下ろして、滑るように空中を移動し始めたゲルデの向かった先――美那の立つところへ歩み寄っていった。
(ふえー、スタイルいー……ってゆーか、フィギュアっぽい……)
 失礼なことを考えながらまじまじ見つめるさつきのことは気に留めず、ゲルデは美那の顔のすぐ前までやってきて静止した。
「あたしを呼んだ事情はだいたい飲み込めたけれど、全てよしとは言えないね。あんまり無茶するんじゃないよ」
 目を合わせられずにいる美那の額を、握った拳でこつんと小突く。
「ごめんなさい……」
「反省会やるからね。準備しておくよう、アンネに伝えなさい」
 さすがにそこへずかずか踏み込んでいけるほど空気が読めなくはない。三歩ほど引いた位置にとどまって、さつきは千里に顔を近づけてささやく。
「あんね、って……?」
「美那のママさんのこと、たぶん」
「あぁ……」
 であれば、ゲルデにとって美那は友人の娘というところなのだろう。年齢は不詳だが、こちらをちびっこ扱いするのも理解できる。
 ただ、それにしては、美那が緊張しすぎている気はするけれど。
「いつ……?」
「アンネの都合もあるだろうから、話し合った上で連絡をちょうだい」
「……はい」
「よろしい」
 美那の返事を受け取ってうなずいたゲルデは、ふっとその場から消えた。
「終わった……っ!」
 瞬間、緊張の糸がぷつりと切れたらしい。美那は珍しく大きな声を吐き出して、まさに糸が切れたようにその場にへたり込んだ。
「美那!」
 千里が心配げに駆け寄り、屈み込む。
 その姿を見るなり、美那は安堵の――とは明らかに違う笑顔を見せた。
「えっなに?」
「千里、おさげ似合わないね……」
「あ、ひっど!」
 提案した本人のあんまりな感想に抗議の声をこぼした千里は、一気に頭に浮かんできたたくさんの言葉のうち、ひとつだけを選んで口にした。
「……美那さ、あたしのことダマしたよね」
 美那は悪びれずに笑って言い返した。
「うまくいったよ。わたしの――わたしたちの、勝ち」
●dialogue
「ちーちゃんが『めざめた』きっかけって、どんなだったの?」
「んー? 超ありがちだよ、小学生のときテレビ見てマネしてたらスプーン曲がるようになって、面白がっていろいろ試してるうちにーみたいな」
「へぇ〜、ありがち……ありがち……?」
●同日、夜
 本校舎二階・生徒会室。
 部活を終えて再び制服に着替えた清華が戻ってきたところへ、待ち構えていたさつきとこちらも部活を終えてからやってきた美那が、清華が立ち去ったあとの事件の顛末を報告した。千里も同席したものの、千里から話すことはない――はずだった。
 飾らない言葉で注意深く説明する美那と、高揚を隠さず鮮やかに飾り彩るさつきの間でただ所在なさげに縮こまっていた千里だったが、『盾』のことをさつきに言及され、否応なく話の中に引きずり込まれる。逃げ腰になりつつ、ぼそぼそと語る。
 三者三様のそのすべてを、清華は笑わずに聞いていた。


「あーっ、しまった!」
 一段落ついたあと、突然さつきが大声をあげた。
「何?」
「ゲルデさん! 写真とらせてもらえばよかった!」
「偉いひとなんでしょ、次があっても慎みなさい」
 美那によればゲルデは、「家との繋がりはあるけれどとても忙しい公人」で、「本当はわたし個人が好きに呼び出していい人ではない」らしい。
 はっきりと呆れ顔になってさつきをちくりと刺してから、清華は表情を改めてまっすぐ千里のほうを向き、ストレートに問いかけた。
「今日のこと、あなたにとって、得るものはあった?」
「えっ……」
 揺るがない視線になぜかどぎまぎしてしまう。いい内容がとっさに思いつかず、千里は見守る美那に目をやりながら何とか答えた。
「……とっかかりくらいは?」
「そう。よかったわね」
(あ!)
 トーンが違う、と思って見ると、花ほころぶような微笑がそこにあった。
(こーゆー顔、するんだ……)
「でも、あなたの『力』が危ないことには変わりないわ」
 清華は続ける。もう元に戻っている。
「……うん」
「導いてくれる人が見つからないのなら、あなたがどうにかするしかない。あたしたちにできるのはその手伝いだけだってこと、忘れないで」
「ほー、手伝ってあげるんだ? 感心感心♪」
「そういう意味じゃない……って、解ってて言ってるでしょ」
「手伝ってあげないの?」
「参考にならない話くらいしかできないわよ、あたしは」
 清華とさつきが言い合う中、美那は嬉しそうに頬を染める。
 千里は、こくん、と素直にうなずいた。
●dialogue
「ん、清華、まだなんか気がかり?」
「ナナさんにどう話したものかと思って」
「あ……」
●金曜日、昼休み
 本校舎南側屋上。
 昼食をすませたあと二階から階段を上った清華は、不機嫌そうな顔をした長身の少女がひとりベンチに座っているのを見つけた。
 いかにも気の強そうな吊り目に銀縁の眼鏡。波打つ豊かな髪と大人びたどころではない豪華なプロポーションからか、首から下は同じモノトーンの制服なのに雰囲気が清華とはまったく異なり、薫るほどに華やかだ。
 青いカバーの掛かった文庫本を手にしているが、開かれてはいない。読んでいた気配もない。
「珍しいわね。こんなところに、しかもひとりでいるなんて」
 清華が声をかけると、その少女――二年c組・甘木(あまき)香織(かおり)は、鋭い視線を眼鏡の内側から飛ばしてきた。
 いつも取り巻きを引き連れているという印象が、清華までも口にするほどに校内で定着しきっている人物だが、今日はそれらしき姿は見当たらない。
 当人たちの認識はともかくとして、周囲からは美貌と成績の両面でライバルと目されるふたりの接触とあって、屋上に出ていた他の生徒の興味が寄り集まってくる。それを意識したのか、香織は慎重さの感じられる口調で清華に応じた。
「そういう気分なの、どうぞお気遣いなく。……そっちこそ、何しに来たのよ」
「昨日置きっ放しにしたものの後片付け。すぐに終わるわ」
「昨日? 置いて?」
 返答を受けて、香織は辺りを見回す。しかしそれらしき物体を見つけることはできず、怪訝そうに清華の動きを目で追う。
 迷いのない足取りで校庭側の(へり)まで歩いていった清華は、胸までもない高さの壁面へと右手を伸ばし、右から左へすっと滑らせる。
 次の瞬間、その手の中には、一枚の大判の札が収まっていた。
「ちょっと! どういうこと? そこに、それがあったっていうの?」
「もう用を成さないものよ。危なくないから、気にしないで」
 壁沿いに東へ進み、もう一枚。東端に達して北へ。歩き回り、どこかに手を伸ばすたび札が増えていく。外れはない。
「気にならないわけないでしょう、何なの? 隠すようなものなの?」
 一周して戻ってきたところへ、険しい目つきで見続けていた香織が問う。
 清華は集めた札の束を両手で整えながら答えた。
「そんなふうに、関わりがなくても見えていると気になってしまうものよね」
「だから隠す? ……剥がされたら困るからじゃないの」
「それもあるわね。それじゃ、お邪魔さま」
 香織の追及を平然と受け流して、清華は屋上を後にした。
●Epilogue
「ふぇ……」
 若い母親に手を引かれた五歳くらいの小さな女の子が、今にも泣き出しそうな顔で目の前の街路樹を見上げる。
 そこでは、赤い風船がひとつ、枝先にひっかかって揺れていた。
 晴れた土曜日の昼下がり。花間市街の人出はそこそこ多く、風船に目を向ける人も多いけれど、大人の手も届かない高さではどうしようもない。気の毒そうな顔をしながら通り過ぎていく以外に、できることはない。
 諦めさせるしかないと、母親は幼い娘を説得し始める。
 そのとき、風船がふと不思議な動きを見せた。
「――え?」
 下から引っ張られたようにほんの少し沈み、また浮き上がる。
 気のせいかと思って見ていると、風船は不規則にひょこひょこと同じ動きを何度か繰り返したのちに、ついに大きく沈み込み、枝を離れた。
 ぽかんとしかけた母親はそこで気がつく。中学生だろうか、ふさふさのポニーテールをぶら下げた、ボーダーのTシャツにデニムのミニスカートの小柄な少女が木の下に立ち、いたって真剣な顔で、風船に向けてまっすぐ手を伸ばしている。
 息をのんで見守る中、少女に向かってゆっくり下りてきた風船を、ふと風が揺さぶる。しかしその直後、見えない手が受け止めたかのように風船の揺らぎが止まる。
 一度は泣き出しそうな顔になったポニーテールの少女は、改めて表情を引き締め、手を天へと掲げる。それに応えるように風船はそろそろと動き出し、少女は最後に少し背伸びして、風船の下で揺れる紐をつかみ取った。
「ほら」
「……すごーいっ!」
 持ち主の女の子は目を輝かせてぱたぱたと駆け寄り、風船を受け取って再びぱたぱたと戻っていく。母親はその風船の紐を自分のバッグの取っ手に括りつけると、起きたことにまだ戸惑い半分ながらもポニーテールの少女に頭を下げ、それから背を向けて、女の子と手をつないで歩き出した。
「ふぅ……」
 ……それで終わり。数分だけの非日常は幕を閉じる。ここには何も残らない。
 いや、まだ終わっていない。緊張で頬を強張らせ、全身がちがちにしながらも、勇気を出して振り返る。
 そこには、艶やかな黒髪を藍色のリボンで束ね、清潔感のある白のニットに絣の着物を思わせるマキシスカートを合わせた、立ち姿の美しいひとりの少女の姿があった。


「なんで……」
 ポニーテールの少女――県立花間高等学校一年i組・小湊千里は、見間違えようもない同校生徒会長こと二年f組・間宮清華を、そんなはずはないという顔で仰ぎ見た。
 風が吹いたとき『見えない手』を差し伸べてきたのは、この人に違いない。
 ――が、なぜ。
「……んで、ここ……」
「さっさと終わらせないと、目立つ一方だからね」
 千里の曖昧な問いにきっぱり答えると、清華は歩道の南側にそびえ立つ複合商業施設の外壁を見やりながら続けた。
「ここで会ったのは偶然じゃないでしょう。あたしはさつきに映画に誘われて来たけど、あなたはどう?」
「美那が……え、もしかして、いっしょ?」
 もう口にする必要はないとばかりに、清華は映画館のあるビルへと歩き出す。どうやら目的地は同じ、というより、互いの友人によって同じ場所へ別々に呼び出されたらしい。千里は小走りにその背を追う。
「……あたし、あぶなっかしかった?」
 自動ドアをくぐり、上りのエスカレーターに乗ってから、思い切って訊く。
 すぐに、穏やかな声が返ってきた。
「ええ、酷かった。まだまだ、全然駄目」