今日も日常的な日常 - Days of Wonder -
『床下の迷宮』
●水曜日、放課後
「……マジで……やるんすか?」
「何それココまで来て言う?」
 後込みしているらしい少年の声に、不機嫌そうな少女の声が淀みのない早口ですかさず問い返した。
 闇の中――懐中電灯の白い光を挟んで、ビデオカメラを手にした少年と、華奢だが気の強そうなつり目の少女が向かい合っていた。上下関係の存在が、口論の内容を聞くまでもなく両者の顔から見て取れる。
「やっぱり生徒会の姫サマにお伺い立てなきゃ、良心の呵責がーとか言い出す気?」
「や、そういうわけじゃ……」
 刺すような目で見つめられ、少年はそれしか言えずに口ごもる。
「へぇ、となると単純に怖くなった? ホンモノの怪談に手ぇ出すの」
「それは……」
 少女は続けて挑発する。少年の表情に、さすがに微かに反発が浮かぶ。
 そして、少女はそれを見逃さない。
「じゃあつきあってよ。こんなチャンス、二度とないって、ぜったい」
 少女は今度は甘えるように、上目遣いに少年を見つめた。
「ね?」

          ★

「ぃ……ったあぁ〜!」
「ほえ?」
 県立花間(はなま)高等学校・本校舎二階、生徒会室。
 会長席の人物が唐突に、頭の後ろに手をやりつつ悲鳴をあげる。書記である二年f組・河野(こうの)さつきはおさげにした髪を軽く揺らして首を傾げると、歳のわりにあどけない表情で不思議そうに訊ねた。
「どしたの? 清華(さやか)
「……緊急事態」
 顔をしかめてつぶやくと、ひとつ大きく息をして。
「開かずの扉、誰かが開けた」
 腰まで届く緑の黒髪をえんじ色のリボンで一つに束ねた、凛とした面立ちの美少女――生徒会長を務める二年f組・間宮(まみや)清華は、事件の始まりを短く、飾り気のない言葉で宣言した。
「え?」
 すっと立ち上がると、その動きにつられてよく解っていない顔で見上げるさつきの目を引き締まった表情で受け止める。
「行ってくる」
「あ、うん……」
 綺麗だけれど無愛想な、見慣れたはずの顔なのに、つい見とれてしまう。清華が眼前を横切り部屋を出て行くのを、さつきは何もかも忘れてただぼんやりと見送る。
「……え」
 我に返ったのは、ドアが閉まったあとだった。
「って、今すぐっ!?」

          ★

 一階西端のピロティに飛び出した清華は、壁沿いに左手へ走り、中途半端な位置にある片開きの鉄扉に取りつくと素早く、ドアノブの上にある鍵穴の溝の向きを確かめた。
 結果を口にはせずに、勢いよく振り返る。
「誰か――」
 薙ぎ払うような視線のビームを浴びせられて、ピロティにいた生徒たちの多くが立ったまま固まり、あるいは足を止めてしまう。そこへ、そんなことになっているとは知らないさつきが、とてとてと駆けてきた。
「いたー! あかずの、って、やっぱココでいーんだよね?」
 無邪気で暢気なさつきの声に、緊張していた周囲の空気がいくらか緩んだ。
「――誰か、何分か前にこの辺りで怪しい動きをしていたひと、見ていない?」
 改めて清華が問う。
 ざわめき始めたギャラリーの中には、顔を見合わせてひそひそと話す様子が一組ならず見受けられる。だが、この美人だけれど堅物の生徒会長が相手となるとどうしても遠慮が勝るのか、なかなか声は上がってこない。
「間宮せんぱい、あのう」
 そんな中でひとり、ショートカットの小柄な少女が控え目に手を挙げた。制服ではなく白い道着と黒い袴で身を包み、裸足に上履きをつっかけ、買い物帰りらしく右手にペットボトルの入ったコンビニ袋を提げている。
「あ、なぎなた部の子? よかったら、教えてもらえる?」
 清華に先んじてさつきが手招きすると、少女は恥ずかしそうに一歩前に出た。
「えっと、ついさっきなんですけど、報道部の、『げきレア』の……」
庄司(しょうじ)ちひろ?」
 清華の目がわずかに細められる。挙げられたのは校内放送の番組名で、担当者の名前とほぼ一対一で結びつけていいものだ。
「はい、ちょうどそこで男子とふたりでなんか立ち話してて、あれたぶん報道部の一年生だと思いますけど……」
「そう――わかった。ありがとう、与田(よだ)さん」
「そんな、もったいないですー」
 なぎなた部の看板でもある清華に名前入りで声をかけられて、少女は頬を赤らめ、心底嬉しそうな表情を見せた。
「じゃ、あたし戻りますっ」
 ぺこりと深く一礼して、体育館の方へと消えていく。その背中を笑顔で見送ってから、さつきは隣に並んだ清華に小声で述べた。
「庄司さんかぁ……よく無茶するよね、放送でも新聞でも……」
 聞いてか聞かずか、清華は動いた。いつの間にか手にしていた、七夕の短冊を思わせる縦長の紙を、『開かずの扉』の真ん中やや上あたりに叩きつけるように貼る。
 すると、その動きに今の今まで視線を注いでいた生徒たちが突然、事は納まり何もかも片付いたとばかりに、一斉にピロティを去り始めた。
「えっ、なに? な……」
 一種異様な光景にさつきは慌て、改めて清華と『開かずの扉』に目を向ける。
(あれ?)
 とたんに頭がぼんやりしてきた。ここにいる理由が思い浮かばず、生徒会室に戻ろうと歩き出したところで清華に手首をつかまれて、はっと我に返る。
「ごめんね、不意打ちで」
「……今のが、おフダのききめ?」
「関心を失わせる仕掛け。ここには注目すべき人も物もないっていうしるし」
「ふえ〜……」
 そんなことが可能なのか、というのは、さつきにとっては疑うところではない。清華の説明を素直に受け取って、そのつもりで訊く。
「じゃあこれで、とりあえずおーさわぎになる心配はない?」
「中から派手に登場されたりしなければね」
 あの人物ならやりかねない、と思っていそうな声が返ってくる。
「庄司さんたち、中にいるんだよね? ここで出てくるの待つ?」
「もうひとつ、扉があるの」
「え?」
「あたしが言ったのは、そっちの話」
「……入る?」
「入る」
 きっぱり答えて、清華はさつきの手を引きつつ、『開かずの扉』を体ひとつ通る幅だけ開けると中へと滑り込んだ。


「電気、スイッチどこ……?」
「ないわよ」
「えー、なんで?」
「こんなとき以外、誰も入ることのない場所だから」
 断言して、清華は無造作に近くの壁に手を伸ばし、(ふだ)を一枚貼りつけた。
 黄白色の光が広がって、室内がはっきり見えるようになる。
「わ」
 そこにあった予想外の光景に、さつきは思わず声をあげた。
 窓のない狭い部屋の真ん中、壁ではなく床に、観音開きの鉄扉が設置されていた。両方とも開かれた状態になっており、下に向かう階段が姿を見せている。
 その周りに、剥がされたばかりと思われる古びた札が散らばる。中には、破れたものや引きちぎられたものも混じっている。
「ごーいん……ほんと、緊急事態だね」
 眉をひそめながら見ていて、ふと思いつく。
「これ……痛がってたの、これのせいだったりする?」
「そんなとこ。――応急処置するから、ちょっと待ってて」
 清華は言うなり、左の手首にぶら下げていた巾着からあれこれ引っ張り出して、考えてやっているのか疑いたくなるくらいの速さでてきぱきと『処置』を始める。それが終わるまでは何もすることのないさつきは、おそるおそる目の前の穴をのぞき込んでみた。
「去年転校してきたころ、『旧校舎の地下一階が取り壊せなくて埋まってる』ってきーたけど……ほんとは、そっち系の話なの?」
「残ってるのは備品倉庫ひと部屋だけ。正確には。現実には」
「ん?」
 付け足された部分の不自然さに声をあげると、清華がさらに付け加えた。
「一階ぶん下ったすぐ突き当たりが入り口。この明るさなら、見えていいはずよ」
「見え……ないね」
 もう一度見下ろす。そこにある階段は、どう見ても闇の向こうまでずっと伸びている。どこまで続いているのか、見当もつかない。
「えーじゃあどうなってるの? 庄司さんたちどこに……」
「多分、『十三段目』の先まで入り込んでる」
「じゅーさん……それって、七不思議的な?」
「そう、ありがちな話よ。本来は十二段しかないけど、あると信じた者が目を閉じて足を踏み出せば十三段目があって、その先に行けば何やらかんやら」
「別世界みたいな? でも、これじゃ……」
 聞いたばかりなのに行けそうな状況に納得できないでいると、張り巡らせた細い組紐に紙垂(しで)を付けていた清華が、ぱんぱんと手を(はた)いてこちらを向いた。
「――終わった。行くわよ」
「だよね……」


 壁に貼ったのと同じような光る札を手渡され、清華の背中に隠れるようにしてさつきは地下への階段を踏みしめた。
 何歩も行かないうちに、背後が急に暗くなったのを感じて振り返る。と、すぐそこに、すりガラスの窓がはめ込まれた、古びた鉄扉が出現していた。
「えっ、清華、ねぇ清華っ!」
「大丈夫、閉じ込められたわけじゃない」
 振り向かず足も止めず、落ち着いた声だけであしらって、清華は階段を下りていく。
「屋上から中へ入ってきたことになったみたいね」
「わかるの? 旧校舎、入ったことあるの?」
「小さい頃に何度か――うん、やっぱり三階」
 廊下へ出る。天井の照明は点いておらず、窓の外で太陽が輝いているわけでもないが、なぜか黄昏時くらいの明るさはある。辺りを見渡した清華は、それからようやくさつきに目を向けた。
「でも、そっくりそのままでもないわね。再現しきれてないのか、違和感を与えるためにわざと変えてるのか」
「って、じゃあここ、だれかがつくったダンジョンってこと……?」
「ゲームじゃないんだから……でも、そう違わないか」
「え〜?」
 不安げなさつきの顔をしばらく観察していた清華は、ふと何か思いついた様子で小さな札を一束取り出して、ほら、と差し出した。
「分かれ道なり、気になったところに貼っておいて。本来は行く道を示すために使うものだけど、帰る役にも立つでしょ」
「へぇ〜……」
 安心と持ち前の好奇心が表情に現れたのを見て、清華は自ら記憶と違っていると評した薄暗い廊下をさっさと、しっかりした足取りで歩き出す。下りてきたばかりの階段の脇の壁に最初の一枚を貼りつけて、さつきはそれを追った。
「庄司さんたちこんなのないよね、大丈夫かなぁ……」
 きょろきょろ見回しつつ歩いていると、数歩先を行く清華が窓辺で立ち止まった。
「どうかした?」
「音。人気(ひとけ)はないのに」
 さつきも靴音をなくすため歩みを止めた。耳をすませてみると確かに、とりどりな人の声が、あまり距離感なく混ざって聞こえてくる。
「……外の音? ほんもの……?」
 さつきが何となしにもらしたつぶやきに、清華は意外なほど真剣な声を返した。
「そうか――そうね、きっと」

          ★

「見つけた」
「え」
 突然頭上から声が降ってきて、上り階段の二段目に腰かけていた少年はびくりと大きく体を震わせた。
 各階のつながりや向きがでたらめでなければ、ここは一階西端のはずだ。下るにつれて暗くなり、この辺りはもう完全に暗闇になっている。光を発するのは握りしめた携帯電話の、圏外を示すディスプレイだけ――。
 見上げる。靴音を響かせて下りてくる人型のシルエットが、ゆらめく光を背にぼんやり浮かび上がっている。そこでついに、我慢が限界を超えた。
「う、うわああぁぁ!!」
 悲鳴をあげ、逃げ出そうとする。が、腰が抜け尻餅をつく。その醜態を、不機嫌そうに唇をきゅっと引き結んだ大人びた少女と、柔らかそうなほっぺたの小柄な少女の二人組が見下ろした。
「そんなに怖い?」
「! ……あ」
 言葉を交わしたことこそないが、聞き覚えのあるクールな声。少年は茫然自失の態で、一人目の顔をしばし見つめる。
「生徒……会長……」
 ようやく現実だと認識して、少年は息をのみ縮み上がった。彼女らがここにいるということはつまり、無断で『開かずの扉』を開けて中へと侵入した自分たちを追ってきた、ということに他ならない。
(あー、怖がってる怖がってる)
 その様子に気がついたさつきは、とっさに清華の前に割って入ると、少年を安心させるようににっこり笑ってみせた。
「大丈夫だよっ」
 自分もそれほど余裕があるわけではないけれど、あえて言い切る。
「ひとりでどうしたの? 庄司さんは?」
「それが、下に、『行ってみる』って……」
「下?」
 言われて、さらに下へと向かう階段があるのに気がつく。灯りをかざしつつのぞき込むと、下りきった突き当たりに、両開きの引き戸があるのが見えた。
「あれ? ここって……」
 思い当たるものがあって清華に目を向けると、首肯が返ってきた。
「そう、入ってきたところ。備品倉庫への階段」
「ちゃんときーてなかったけど、十三段目行ったらどうなるの?」
「恋が実るとか、願いが叶うとか、話にはいくつか種類があったようだけど」
「結果は?」
「噂に成功者として名前が出てた人も、『憶えていない』『思い出せない』んだそうよ。旧校舎時代に報道部が調べたところだと」
「……そんな話なの?」
「大丈夫、なんですか……?」
 聞いているうちに取り返しのつかないことになりそうな予想に囚われて、少年も深刻な口調でさつきに続いて訊く。
「知る限りでは、帰ってこなかったって話はないわ。ただ、ときどき面倒な――」
 見下ろしながら答えていた清華の声が途切れる。上ってくる人影を遅れて認め、それが理由だとさつきは単純に思った。
「あ、庄司さん、無事で……」
 ほっとして声をかける。その先の展開が、さつきの気持ちを裏切った。
「下がって!」
 清華が鋭く叫んで飛び出した。下方から幾筋もの光が尾を引いて飛来し、いつの間にか宙を舞っていた札が、それらを受け止め叩き落とす。
「清華!?」
 さつきの声を背に迷わず駆け下りるが、距離が縮まらない。明らかに空中を浮遊しつつ後退していった『庄司さん』は、清華に向けてにやりと笑みを浮かべ、濃くなった背後の闇に溶けていった。
「え、ちょっ、ねえ、どゆことっ?」
 階段の上から、さつきが興奮醒めやらぬ声で問いかける。
 仏頂面で上ってきた清華は、そんなさつきと青ざめた顔の少年とを見やると、軽く嘆息して言った。
「――面倒なことに、なったみたいね」

          ★

「いい?」
「はいっ、し、失礼しますっ!」
 来た道を『屋上』まで戻って、少年を『開かずの扉』の外に追い出す。それから清華はさつきを連れて、改めて地下へと潜り直した。
「おどかしすぎじゃない?」
「怖がりすぎでしょ、当たり前のことしか言ってないのに」
「……まぁ、きっともともと後ろめたい気持ちあったんだろうね」
 気にはしているらしい清華の返答に頬を緩めながら、さつきは闇に向かい歩を進める。すぐに、一回目と同じように景色が変化する――しかし、同じではない。
「ひゃっ!?」
 閃光と雷鳴に首をすくめたさつきが目にしたのは、ぼろぼろに傷み汚れた、がたがたと窓が強い風に震える長い廊下だった。
「え、え、なんかちがうとこ来ちゃった?」
 窓の向こうでは黒雲が渦巻いて、おどろおどろしい雰囲気を醸し出している。
「違わないわよ」
「えっ?」
 清華が壁を指差す。そこには、周りの様子と比べて不似合いに新しい、そして見覚えのある一枚の札がしっかりと貼りついていた。
「って、じゃあこれ……演出?」
「……ゲームなノリよね、やっぱり」
 あまり乗り気ではなさそうにつぶやいて、清華は進まんとする方向を見やった。
「行きましょ。あの先で、ボスが手ぐすね引いて待ってるだろうから」

          ★

「来てみたはいいけど……」
 地下への階段の半分、踊り場までの十二段を下りたところで、ふたりは足を止め向かい合った。
「ここがもうふつーじゃないのに、このまた先ってあるの……?」
「わざわざ場所を用意してあるんだから、仕組みはともかくそういう仕掛けになってると思っていいはずよ」
「それほんとに答えになってる……?」
 手をつなぎ、横に並ぶ。さつきがぎゅっと目を瞑るのを待って、清華は『十三段目』を目指すためのカウントダウンを始めた。
「さん、に、いち……行くよ」
 自身も目を閉じて、ゼロを言う代わりに清華は静かに告げた。さつきは足を踏み外してしまわないかとどきどきしながら、虚空に向けて第一歩を踏み出した。
「いち、に、さん、し、ご、ろく、しち、はち、きゅう、じゅう」
 涼やかなアルトの声が、乱れのないリズムで数え上げる。
「じゅういち、じゅうに――」
 さつきの胸の高鳴りが最高潮に達する。本当なら、ここが一番下のはずだ。
 そして。
「――じゅうさんっ!」
 さつきも声を重ねる。
 もう一歩。それまでと同じように、足が沈む。


「目、開けていいわよ」
 その先の数は、清華が続けて口にしていたはずだが、頭に入っていない。
 清華の声とつないだ手が、余計に進もうとする体を引きとめる。信じて言う通りにしたさつきの目に入ってきたのは、白い、四角い、がらんとした空間だった。
 倉庫の中のようだが、どこにも何も置かれていない。代わりに、ほっそりした制服姿の少女がひとり、こちらに背を向けて立っている。それは探していた相手、二年a組・庄司ちひろに間違いない――と、さつきは思った。
「庄司さ……」
「駄目」
 近寄ろうとしたさつきを清華が制した。
「違う。今の彼女は庄司さんじゃない」
「ふぇっ?」
 きょとんとして、さつきは清華の顔を見る。
『ひさしぶり』
 振り向いたちひろは、懐かしそうな笑顔を浮かべていた。
『来るのがずいぶん早いと思ったら――あなた花高(ここ)の生徒になったのね。そう、あれからもうそれだけの月日が流れたってわけ……』
 正面に立つ清華をしげしげと眺め、ちひろは目を細めた。久方振りの再会を喜んでいるようにしか見えないが、もちろんそんなはずはない。
「どゆこと?」
 さつきに袖を引っ張られて、清華は面倒くさそうに答えた。
「取り憑かれてるのよ、ここの『(ぬし)』に」
「知り合い……?」
「初対面じゃないって意味ではね。でも、馴れ馴れしくされる筋合いはないわ」
 言い切って、ちひろへ尖った声を突きつける。
「遊びの時間は終わりよ。今すぐその体から離れなさい」
『ふふ……やーだっ! っははっ』
 それまでの温和な微笑から一転して、ちひろは大きく口を開けて笑い出した。
『何年ぶりだかのチャンス、そーカンタンに手放したりしませんよーだっ! まー、百歩ゆずってひきかえに外に出ていいってんだったら考えたげるけど?』
 口調もがらりと変わる。ふざけ半分の、子供っぽさを多分に含んだ調子で、ちひろではないちひろは清華の指示に言い返す。
 その目がふと、さつきに向けられた。
『ねぇ、そこの子どーして連れてきたの? 見た感じ、何ができるってわけでもなさそーだけど?』
(う……)
 びくついて、さつきは半歩後ずさった。何かできるどころか、最大の弱点が制服を着てぼんやり立っているようなものだ。
『この子がダメってんなら、そっちにのりかえよっかなー』
「やっ……」
 思わず声がもれたところで、すっと清華が前に出た。その右の手には、すでに札が一束握られている。
「そんなことはさせない」
『ほー、じゃあどーすんの?』
「――こう」
 清華の手から放たれた札が八方へ飛び散る。と、それらを頂点に青白く光り輝く直線が引かれ、続けて前後上下左右の六面に幕を張ったかのごとく内側が透けて見える光の壁が出現して、あっという間に清華とちひろのふたりを取り囲んだ。
(ふえー、大技……)
 さつきは目を見張った。眼前に作り出された舞台は、さながら檻のようで、プロレスやボクシングのリングのようでもある。
『へぇ、早い早い、早くなったもんだ……たしかにおっきな口たたけるていどにゃ、ウデ上がってるみたいだねぇ?』
 蚊帳の外に置かれたさつきが息をのみ見守る中、清華は何も言わずに動いた。無防備に立つちひろに、一気に肉迫する。
 ところが清華は、ちひろの手を取り力を込めようとして急にそれをやめ、手の届かない距離へと大きく飛びすさった。
(え、なに?)
『やってみなさいよ。あたしはいーのよ?』
 ちひろが意地の悪い笑顔を浮かべ、胸を張ってみせる。
 対する渋い顔を見て、さつきは気がついた。相手は支配下においたちひろの体を、盾として使っている。直接攻撃すれば、傷つくのはちひろということになる。
(これ、清華、すごい不利……!)
『んじゃ、こっちからいくよん☆』
 攻守が逆転する。愉しげに言い放ち、ちひろがまっすぐ清華へ突っ込んでいく。しかし手が届かんとしたところで、その体が前触れなく、くるりと空中で前転した。
(……あれ?)
 結果からすると、清華の投げ技が()まったのだとは思う。
『ふぎゃ!』
 なまじ勢いがあっただけに、ちひろの体は豪快に吹っ飛ぶ。そしてさつきの目の前まで飛んできて、光の幕に受け止められた。
(って、いいの……?)
「さつき!」
 間髪入れずに、清華が叫んだ。
「引っ張り出して!」
「ひ……えー!?」
「できるから!」
 突拍子もない要求に続けて、清華はただ短く強く言い切る。
「えぇ〜……」
 言いながら半信半疑で幕に右手を突っ込むと、抵抗なくすり抜けていく。さつきは心を決めて左手も差し入れ、背後から抱きつき、思い切り引き寄せた。
 と、ちひろの上体が幕をすり抜けて傾ぎ――ふたつに、分かれた。
「へっ?」
 引き出されてきたほうの体重がさつきにのしかかる。
 それとは別に、背中がもうひとつ元の位置に残っているのが見える。
(え、え、えー?)
 不可思議な現象を前にして、頭の中が真っ白になってしまう。
 結局、さつきはこちら側のちひろの体を支えきれずに、下敷きになるようにして倒れてしまった。
「った〜……」
「コレが狙いだったわけ……!」
 幕の内側に残ったほうが、ふらふらと立ち上がって振り返る。ちひろの下からもぞもぞ脱け出して何とか体を起こしたさつきは、その姿を特等席で見ることになった。
 半袖のセーラー服、痩せ型で髪はボブカット、つり上がった目に尖った顎……と、外見からくる印象には少し似たところもあるが、明らかにちひろとは違う。
 頭の上には、ぴんと立った三角の大きな耳。
 そして、かなり短いスカートからは、正面を向いていても見えるくらいふさふさとした茶色い尻尾が飛び出している。――それも、二本。
「だまされたっ! フツーそうに見せといて、ホントは切り札なんじゃんっ!」
「普通だからこそできることもあるの」
 待っている間に用意したらしい何枚かの札をきっちり重ねて整えながら、清華は抗議の金切り声に敢然と言い返した。
 次の瞬間、清華の手の中の札が、手品のごとく姿を変えた。棒状のそれを見てさつきはまず類型的に紙垂のついた祓え串を思い浮かべたが、すぐにそれを取り消す。
(じゃなくて……木の枝?)
 紙の色のまま真っ白なのを除けば、その形は、葉の繁った一本の枝に見える。
「もう、遠慮は要らないわね?」
「ふんっだ、こっちだってまだホンキだしてないしっ!」
 そこから勝敗が決するまでに、さほど時間はかからなかった。
 次々飛んでくる光球を最低限の動きで避けあるいは弾き、しびれを切らして引っかきにきた右の手を紙一重でかわして相手の懐に飛び込んだ清華が、その胸元めがけて枝を強く打ち振る。ばさりという音が響くと、獣耳の少女は真下へ落ちるかのように直線的に宙を舞い、幕を突き抜けて背後の壁に叩きつけられた。
 悲鳴をあげたその顔の前で一瞬、小さな炎の華が咲く――次の攻撃で、それを吐こうとしていたらしい。
「簡単には抜けられないと思うけど、やるならやるだけやってみて」
 光の幕が消え、清華がさつきと気を失ったままのちひろに歩み寄ってきた。
「このっ……なっ、(おも)っ……!」
 続ける気満々で顔を起こしはしたものの、体を押さえつける力に抗うことができない。足が地に着いておらず、言うなれば壁に(はりつけ)にされた姿で、少女は悔しそうに唸って清華を睨みつけた。
「名前は(かつら)。噂話から生まれた『化けるけもの』、妖狐(ようこ)よ」
 激しい動きで乱れた後ろ髪を前にまわして手で(くしけず)りながら、清華は呆然とするさつきにやっと具体的な説明を始めた。
「ようこ? ……きつね?」
 さつきは改めて少女を見つめた。耳と尻尾の色と形が、そう言われるとたしかにそんな感じに見えてくる。
「未だ人の姿になりきれないお子様なのに、呪力の強さは規格外なものだから、建て替え工事のときは散々苦労させられたわ」
「え?」
「なによっ、自分だって似たよーなもんでしょ!」
 もがきながら桂が唇を尖らせる。
「そうかもね。あの頃は」
「あのころ……」
 さらりと口にしているが、さつきの聞き知るところでは、現在の五階建て校舎への改築工事が行われたのは五年前のことである。
 つまり、清華は小学生の時分に旧校舎を訪れ、桂と戦ったことがある――そして先ほどからの話しぶりを見るに、苦戦しつつも勝っているようだ。
「でも、今は」
「……うー」
 今の清華に敵わないのは認めざるを得ないらしく、桂は不満げな顔をしつつ、それ以上言い返しはしない。もう戦意はないと読んで、清華は元通りまとまった髪を背へ戻すと、すっと姿勢を正した。
「扉は、また閉めさせてもらう。いいわね」
「わかったわかった! わかったから、これ何とかして!」
「どうぞ」
 その一言で束縛が解ける。桂は壁にもたれ、ずるずると力なく床にへたり込んだ。
「なんでこんなすぐ来ちゃうのさ、あーあ、つまんない、ツイてないっ!」
 一通りぼやいてから、清華をじっと見上げる。
「ねぇ、今のあんたなら、あたしのこと消しちゃえるんじゃない?」
(消す? ……って……!)
 その意味を正しく解釈してしまって思わず身震いするさつきに構わず、表情を変えずに桂の眼差しを受け止めた清華は、答えるかわりに問いを返した。
「そっちこそ、どこへでも行けるんじゃないの?」
 視線が正面衝突する。そのまま無言の時間がしばし続いたあと、やがて桂が大きく息を吐いた。
「ここがなくなる、なんて話は出てきてないでしょーね?」
「次の建て替えまで何十年かは、このままだと思うけど」
「なんかテキトーっぽいなぁ、ほんとにだいじょーぶ?」
「大丈夫じゃなくなったら、きっとまたあたしが来ることになるわ」
(……もしかして)
 桂にとっては、ここを離れることも消滅につながるのかも……そして力不足か気持ちの問題か、桂を消せなかった清華はそれも選べず、ゆえに『開かずの扉』が生まれた……ということなのだろうか。
「んー、まあ、いーか――ねぇねぇ、そこのおさげの彼女☆」
「ふえ!?」
 さつきが脇で勝手に想像していると、桂がいきなり声をかけてきた。
「ひとつお願いなんだけどさ」
「え……?」
「戻ったらあたしのこと、隠さないで言いふらして。あることないこと尾ひれもつけて、りっぱな怪談にしてくれるともっとイイなー」
「どうしてさつきに言うのよ」
「だってあんたにゃ向いてないでしょ?」
「え、えっと……」
 下手に返事したら呪われたりしないかと、さつきは警戒をあらわに口ごもる。
 それを見て桂は、悪戯っぽく笑ってぱたぱたと手を振る。
「じゃね、またいつか」
 次の瞬間、景色が暗転した。

          ★

 かちん、と音がして、すぐ脇で光が(とも)る。
 そこに清華の姿を見つけて、さつきはほっと胸をなで下ろした。音と光の源は、小さな懐中電灯――おそらく、ちひろが持ってきたものだろう。
「どうなったの……?」
 問うと清華は答える代わりに、懐中電灯をすっと上に向けた。
「……備品倉庫」
 照らし出された文字を、声に出して読んで。
 ――ため息ひとつ。
 さつきは自分たちが『戻ってきた』ことを知った。


「庄司さん、しょうじさん、しょーおーじーさんっ!」
「んん……?」
 揺すられて、目を覚ます。ほっとした顔のさつきのほかにもうひとつ、その後ろに立つ清華の視線を感じて、ちひろは努めて軽薄な笑顔を浮かべた。
「っはは、見つかっちゃったかー」
「ええ、見つけられてよかった」
 敵意はなさそうだが、清華のやや低い声には背筋にぞくりと来る静かな迫力があった。もしかしたら見つけられなかったかもしれない、というニュアンスがそこには間違いなく込められている。
(『十三段目』の先、何が、あった……?)
 記憶の不自然な欠落を自覚して、ちひろは眉根を寄せた。しかし、馬鹿正直に明かして訊きたくはない。
(まぁいいか、撮れてさえいれば後で……)
 そこまで考えて、手が空なのに気付く。
「カメラ! カメラはっ?」
「転がってたから拾っておいたけど」
 清華がつまらなさそうに告げる。
「しばらくこっちで預からせてもらうわ」
「なっ……」
「それと、この中で撮ったもの、そのまま持って帰れるとは思わないで」
 もちろん嫌だが、盾突けばもっときついペナルティが与えられるだろう。ちひろは不承不承ながら、生徒会長の通達を受け入れるしかなかった。
「……はぁい」


 懐中電灯を持った清華を先頭に、三人は黙って地上への階段を上る。
 残り一段のところでふと、ちひろはくすくすと笑う少女の声を耳にしたような気がして振り返り――注意がおろそかになって、足を滑らせた。
「わ!?」
 とっさに手が届くもの、つまり前にいたさつきにすがりつくが、結果は知れている。
「ひゃっ!」
 まとめて派手に前へ倒れ込む。
 応急処置で張った注連縄がわりの紐が弾け飛び、貼った札が剥がれ飛び散り宙を舞う。その全てを、巻き込まれなかった清華はただ見ていることしかできず――。

          ★

「……あ」
 白い道着に黒の袴。裸足に上履きをつっかけ、空のペットボトルを捨てにピロティまでやってきた一年b組・与田量子(りょうこ)は、『開かずの扉』から埃まみれの三人が出てくるのを、偶然にも真ん前でぽかんと口を開けて出迎えることになった。
「な――どうしたんですか、そのかっこ……?」
「あ、んと、その、えっとね?」
 さつきが慌てて言い訳しようとするが、何も思いつかない。
「てゆーか、そこ、中、入って……えーっ!」
 こうなってしまっては、行きがけに貼っておいた関心避けの札もまるで役に立たない。上ずった声がピロティに響き渡ると、人目が集まり、そして人が集まってくる。
(……準備、しないと)
 この場をどう乗り切るかよりも先に、清華は先のことを考え始めていた。
(早くて土曜日か……)
●土曜日、午後
「終わった……」
 ピロティの一角、注連縄つきのバリケードで囲まれた上で開け放たれていた『開かずの扉』から、いつもは涼しげなはずの面に玉のような汗を散らした清華が疲れ切った様子で姿を現した。
 その身を包むのは、制服でもなぎなた部の道着と黒袴でもなく、白衣に緋袴のいわゆる巫女装束――神社の娘であり、現実に巫女を務める清華にとっては着慣れた仕事着だが、神社(いえ)の外でこの恰好をしているのは相当に珍しい。
「おつかれさま☆」
「……ありがと」
 右手にスポーツタオル、左手に緑茶のペットボトルを持ったさつきが出迎える。いつもよりやけに機嫌のよさそうな笑顔を怪訝そうに見ながら、清華はまずタオルを受け取って額から吹き出る汗をぬぐった。
「え〜、終わり〜?」
 そこへ、グランド寄りに置かれた休憩用のベンチから不満げな声が飛んできた。
 制服の左袖に報道部の腕章を付け、ビデオカメラを手にした二年a組・庄司ちひろが、だらけた姿勢でベンチに腰かけ、唇を尖らせている。
「ぜんぜん盛り上がるとこないんだけど。決めポーズとか、なんかない?」
「ないわよ、人の仕事を何だと思ってるのよ」
「誰も間違えないでしょ? ねえ?」
「ねー、清華はやっぱこれだよね〜☆」
 能天気にちひろが振って、嬉しそうにさつきが応じる。そのやりとりは、意気投合しているようでいまいち噛み合っていないと清華は思う。
「絶対間違ってる……」
 脇を通りかかる生徒たちの目も、『開かずの扉』が開いていることより自分の巫女姿のほうに集中している。それは、神社で参拝者に向けられるものとは明らかに違う。ふだん生徒会長・間宮清華に向けられているものとも、同じではない。
(何を期待されてるやら……)
 冷えた緑茶で喉を潤してから、清華はちひろに改めて宣言した。
「……とにかく、今日は祝詞(のりと)を上げるわけでも舞うわけでもないから、これで終わりよ。後は片付けて閉めるだけ」
「閉める……ねぇ?」
「ふえ?」
 急に出てきた不敵な笑みと不穏そうな発言に、さつきが目をぱちくりさせる。
「コイツがなきゃ、閉めようったって閉めらんないでしょ?」
 ちひろは制服の胸ポケットから細長い物体を取り出すと、清華に向けて掲げてみせた。先日の侵入の際に彼女が使った、『開かずの扉』の鍵だ。
「あ、それ……」
「さー、渡してほしくば質問に――」
 望んだ通りの展開を確信して、ちひろは芝居がかった科白を続ける。しかし言い終わる前に、ため息に続けて清華が言い返した。
「そんな訳ないでしょ」
「――へ?」
「鍵はあるわよ、あたしの鍵が」
「え、持ってくるのが撮影許す交換条件って、そーゆーコトじゃ……えー?」
「ご期待に添えなくて申し訳ないけど。それはそれで渡してもらうわよ、約束通り」
「う……」
 すぐには受け入れられず、ちひろは鍵を持つ手を力なく引っ込めると、しばらく迷ってからもう一度、目の前までやってきた清華を見上げた。
「うー、じゃあ、せめてあとちょっとだけ教えてっ」
「何?」
「あの『封印』って、前のも間宮さんがつくったんでしょ」
「ええ」
「鍵、その時から持ってるってことだよね」
「そうよ」
「卒業した後も、ここでなんかあったら出動してくるわけ?」
「そうね。そうなるでしょうね」
 清華の返答には迷いがない。
「それって……そー、なんつーか……ごくろーさま、かな」
 反射的に言いかけて、止めて言葉を選び直す。ちひろは決まり悪そうに、左手で弄んでいた鍵をおずおずと差し出した。
 それを清華は無言で受け取る。会話が途切れ、静寂が訪れる。
 すぐに耐えられなくなって、ちひろは再び口を開いた。
「……どうやって手に入れたか、きかないでいーの?」
「どうして?」
「これで終わりじゃないかもって、思わない?」
 問われれば話すつもりで言ってみたけれど、清華は乗ってはこなかった。
「そういう手合いの相手をいちいちしなくていいように、今度のはこちら側にもいろいろ仕掛けてあるわ。心当たりがあるなら、伝えておいて」
 目が合う。目を通して心の奥底を覗き込まれているような気がして、ちひろはどきりとする。
「――そんなこと訊くなんて、心配してくれてるの?」
「なっ!?」
 清華がふと相好を崩す。瞬間、ちひろは頬を赤くした。
「しっ、心配なんてするわけないじゃんっ、なんであたしが……」
「おー庄司さんツンデレだー☆」
「何それ意味わか……んなくはないけど、違うっ!」
●同日、夕刻
 後片付けを終えて制服に着替えた清華がピロティに戻ってくると、さつきがちょこんとひとりベンチに座って、足をぶらぶらさせながら『開かずの扉』を眺めていた。ちひろはどうやら先に帰ったらしい。
「お待たせ」
 呼びかけた清華に、さつきはしんみりとした表情を向けた。
「どうかした?」
「……桂さん、制服着てたなぁって、今ごろ気になっちゃった」
「そうね。前もそうだった」
 清華は少し愉しそうに微笑んだ。
「地下に旧校舎つくってたのも、あそこで外の音がきこえたのも、きっとおんなじで……学校で、みんなに混じって過ごしたいのかな、って」
 否定せずに、穏やかな表情のまま、しかし清華は首を横に振った。
「あのままじゃ、(おもて)に出すわけにはいかない」
「どうなったらいいの?」
「遊びや悪戯で力を振るわないなら、人を傷つけないなら……こっちの都合だし、妖怪が持って生まれた性分は直す直るってものではないし、難しいわね」
「じゃあ、どうにもなんないの……?」
彼女(あれ)は噂の申し子だから、噂で育つ。噂で変わる。……はず、多分ね」
「うわさで、変わる……」
 清華の言葉を少し時間をかけて咀嚼して、さつきはその意を飲み込んだ。
「変えられるの? あたしが頼まれたのって、それ……なの?」
「まああっちはもっと自分に都合よく考えてるだろうけど――ん、あれ?」
 何かに気付いたようで、清華は話を中断して、本校舎の出入り口を見つめる。
 間もなく、校舎から女子生徒がひとり出てくる。座ったまま清華に倣ってそちらへ目を向けたさつきは、すぐにそれが知った顔だと気づいた。
依子(よりこ)さーん☆」
「あっいた、よかった、間に合った」
 まっすぐな黒髪に白いカチューシャのその人物は、さつきの呼びかけに品のよい笑顔を花開かせて歩み寄ってきた。三年i組・長岡依子――先代の生徒会長であり、また清華にとってはなぎなた部の先輩でもある。
「ぶじ済んだみたいね、お疲れさま……今日は、さすがに疲れてるわよね?」
「そうですね、久し振りの大仕事でしたから」
 清華が素直に答える。彼女はまた、清華のしていることを『正しく』知っている、そう多くない人間のひとりでもあった。
「間に合った、っていうのは?」
「これ、遅くなったけど差し入れ」
「あ、やたっ☆」
 依子の掲げた箱に記された洋菓子店のロゴを見て、さつきが目を輝かせた。
「そしたら依子さんもいっしょに、生徒会室でお茶しませんか?」
「取り分減るけどいい?」
「そゆのはあたしより……」
「そうか、食いしんぼさんはこっちね」
「……それは否定しませんけど、それで嫌がったりしません」
 清華の反応に、依子はくすくすと笑う。
「ありがとう。新作だから、正直言うと私も試したくて」
「えっ」
 清華の目の色が変わる。こうなるともはやただの年相応なお菓子(スイーツ)大好き少女にすぎず、さつきはそんな清華を可愛いと思う。
 ――事件は終わり、日常が戻ってくる。
 けれど元に戻ったのではない。知ったことがある。
(この声、聴いてるのかな……)
「さつき?」
「あ、ごめんっ」
 思いに沈みそうになったところへ呼びかけられ、我に返って立ち上がる。
(じゃあ、ね)
 最後にもう一度『開かずの扉』に目を向け、あっという間に出会い別れた床下の迷宮の住人のことを思ってから、さつきは先に歩き出した清華と依子の後を追って校舎へ入っていった。