今日も非日常的な日常 - Days of Wonder -
『通り雨、追いかけて』
●prologue
四月の初め、県立花間高等学校体育館。
入学式と始業式に次ぐイベントである対面式が間もなく始まろうとしている中、部活動紹介のために在校生の列から外れて出番を待っている一団の中のひとりが、入場してくる新入生たちの注目をその身に集めていた。
白い道着に黒い袴は、剣道部ではなくなぎなた部のもの。
腰まで届く黒髪をシンプルに後ろで束ね、きつめの顔立ちに凛々しさを湛えた、校内に限らずこの街では下手なアイドルよりよほど知られている『彼女』は、集中砲火をそよ風にも感じない様子で無愛想に佇んでいる。
「やー、目ぇひーてんねー間宮♪」
そんな『注目の的』に身を寄せ、その肩にがっしりと手を乗せて、同じくらいの背丈のショートカットの少女がなれなれしく話しかけた。
こちらは陸上部の、競技会用の赤いユニフォームで身を包んでいる。
「じゃないな、間宮センパイ? それとも『清華さま』?」
「奈津」
「んー?」
「……重い」
「そりゃもー鍛えてますから☆」
入り口のほうを向いたままの話し相手――二年f組・間宮清華に呼び捨てにされた市川奈津は、単純明快な文句に悪びれず言い返し、次の瞬間に清華を包む空気がふと変化したのを何となく感じ取って、その目が向く先を見やった。
「なになに、最強美少女注目の新人? ……って、なんだミナじゃん」
納得と拍子抜けをあらわに、奈津は話を続ける。
「まーあの見た目は目立つよねぇ、本人すごいひかえめなコだけどね」
そこにいたのは、周囲の同級生より背の高い、線の細い女子だった。
さらさらの髪に長い睫毛、はっきりした鼻梁と、エキゾチックな印象を生む要素が多い一方で、表情は確かにおとなしげに見える。透き通るように、という表現が似つかわしい肌の白さゆえに、普通にしていてもその頬はほんのり紅い。
「知ってるの?」
「うん、湯沢美那っつって中学の後輩。帰国子女でアタマよくって、だけどそんなの鼻にかけないで、礼儀正しくて素直でほんっといいコなんだわ」
清華が話に乗ってきたのに気をよくして、奈津は自慢げに胸を張って我がことのように言ってから、さらに付け加える。
「あーあとおかーさんがドイツの人なんだけど、昔っから町のコドモたちん中で『魔法を使う』ってウワサがあってさあ――」
話しつつ、奈津はやはり、清華の微かな変化を見逃さなかった。
「お、やっぱこーゆーハナシのほーが気になる?」
「それは、あたしに限らないと思うけど」
楽しげな奈津に相変わらず顔を向けず、清華は近づいてくる話題の少女――湯沢美那をじっと見つめる。
そのとき、ふと、ふたりの目が合った。
「……っ!」
美那の頬が瞬時に、鮮やかなくらいに紅さを増す。すぐに進行方向へ向き直るけれど、すっかり平静さを欠いて、その動きはどうにもぎこちない。
「かわいいっしょ?」
にやにやする奈津に、清華は何を考えながらか、わずかに目を細めて答えた。
「――そうね」
●水曜日、朝
七月、花間高校本校舎四階・二年f組の教室。
一年を通して過ごしやすい気候と言われる花間市でも、梅雨明け宣言からほんの数日にして、授業が始まる前のこの時間からすでに不快指数は高くなっている。
「っはよー、あっついねぇさや……ふえ?」
後ろ側のドアからとことこ入ってきた三つ編みおさげのちびっこ――見た目の幼さでは一年生にも勝る生徒会書記こと河野さつきは、ふたりの少女から同時に視線を向けられて目をぱちくりさせた。
「なっつんもおはよ、なに、なんかあった?」
生徒会長にして親友である間宮清華と、清華とは入学以前からの知己らしい陸上部員の市川奈津という組み合わせである。訊いてみると、先に奈津が愚痴っぽく、間髪入れずに清華が呆れ半分で答えた。
「きーてよ、間宮がヒトの話マジメにきーてくんなくてさぁ」
「昨日の夜、奈津が部活の最中に大雨に降られたんだそうよ」
「へー、たいへんだったねぇ」
反射的にそう返してしまってから、さつきは清華が口にした奈津の話の内容に違和感をおぼえて、ん? と首を傾げた。
「きのう? そんなのあった? 何時ごろ?」
「だいたい七時半くらい」
「なら、まだ生徒会室にいたけど……」
「あそこじゃ気ぃつかないかもねー、あっちの端っこのほうだし」
奈津は校庭に面した南の窓の外、その右手――つまり西側を指差す。
「時間なんて、ほんの一分あったかだし」
「へ〜……?」
清華とさつきの根城である生徒会室は、東西に長い本校舎の東の端にある。
「そんなピンポイントで降ることあるんだ?」
「それどころか、濡れたのは奈津ひとりだけだって言うの」
「……え〜?」
さつきの目に、それはいくらなんでも、と言いたげな疑いの色が浮かび始める。それを察した奈津は、不満そうに清華を見てから、さつきに訴えかけた。
「あたしだってヘンだと思うよ、だから間宮にそーだんしてんじゃんっ」
どうやら、さつきがやってくるまでに話がついていたわけではないらしい。
「だから、自然現象としては考えにくいって言ったでしょ」
(う〜ん……)
どう立ち回れば丸く収まるやら、と考えてはみるが、妙案は出てこない。
「あんたにそーゆーカガクテキな答え求めてると思う?」
「あたしを何だと思ってるのよ」
ふくれる奈津に呆れ八割で返した清華は、大袈裟に嘆息して、そして言い切る。
「怪現象ね。一度きりなら思い出にしなさい。二度目があったらまた言って」
「あーっ、わかったもーいー! いーもん、あとでミナんとこ行って話きーてもらって、ついでにいやされてきてやるっ」
「あ、ちょ……」
自分たちで巻き込んでおきながら、さつきをほったらかしにしてふたりの会話は進み、終わってしまう。奈津は子供っぽく声を荒げると勢いよく立ち上がって、すたすた大股で自分の席に戻っていった。
「……っと、清華っ」
引き止めるタイミングを逸したさつきは、眉をひそめて清華を見下ろした。
「いいの? 友情ほーかいの危機とーらいじゃない?」
「奈津が悪い」
清華は平然と断言する。
「心が休まるようにうまく騙してほしいっていう望みは解らなくもないけど、その役割をあたしに求められても応えられないわ。それなら他を当たるべき」
「まじめだねぇ」
取りつく島はない。頑固だなぁ、と心でルビを振った一言を吐き出して、さつきはもう一度ふたりをここに揃えるのは諦めることにした。
「『みな』って、だれだろ?」
「湯沢さんでしょ」
当たり前だろう、という調子で清華が出してきた名前は、さつきにとっては意外なものだった。
「美那ちゃん?」
合唱部の仲のいい後輩である湯沢美那は、清華とは自分を通してしか接していなかったはずだと思う。このクラスに他に繋がりのある人物がいるとは聞いたことがなく、だから考えたこともない。
「え、なっつんと美那ちゃん知り合いなの?」
「中学の後輩だって、前に言ってた」
「そうなんだ……ついてけないと思ってしないからなぁ、そういう話」
ローカルな過去話は知る努力をして合わせたりできるものではないから、転入してきて一年に満たない身ではどうしても避けがちになる。さつきはうらやましげに、少し拗ねるようにこぼした。
「清華となっつんも、昔からの知り合いなんだよね」
「小学生のとき、陸上の大会で何度か当たったくらいだけど」
「え、それだけ?」
「それだけよ。……あの頃からああだった」
「あー、なんか想像つく」
気を取り直しころころと笑ってから、さつきも自分の席に向かう。
ひとりになった清華は、黒板の上の時計を見上げてから、日差しの強い窓の外へと目をやった。
●同日、昼休み
「……それは、自然現象としては、ちょっと考えられないと思いますけど……」
本校舎五階・一年g組の教室。
疾風のように現れた奈津にものすごい勢いで昨夜の一部始終を聞かされたあと、長袖の制服を着たほっそり背の高い少女――湯沢美那は嫌な顔ひとつせず、しばらくの間真剣に考え込んでから、申し訳なさそうに自分の見解を口にした。
「うあー、やっぱミナでもそーゆー答えかー」
がっくり肩を落とす奈津の様子を、美那は心配げにうかがう。
「わたし、でも……?」
「うちのクラスの間宮、知ってるっしょ? アイツにもけさ話したんだけどさー、相手にされなかったってゆーかテキトーに流されたってゆーか……あーそれはいいや、ごめんね変なハナシつきあわせちゃって」
「いえ、こちらこそすいません、お役に立てなくて……」
「いーっていーって、じゃね!」
言うが早いか、あっという間に立ち直った奈津は身をひるがえして教室を出ていく。
そのままぽかんと見送った美那は、いま聞いた話を反芻してみて、途中で引っかかりをおぼえて眉を寄せた。
(雨……?)
考え込んでいるうちに、ボリュームのある髪をポニーテールにした小柄な少女が教室に入ってきた。すぐに美那を見つけて歩み寄り、声をかけてくる。
「今そこでなっつんセンパイ会ったけど、なんか用だって? ……美那?」
訝る声に、現実に引き戻される。美那はそこまで来た身長差のある友人を見下ろして、頭を切り替え笑ってみせた。
「あっ、ごめんね千里……大丈夫、もう、終わったから」
★
本校舎二階・生徒会室。
会長席の机に弁当箱の入った巾着を載せ、清華が愛用の湯呑みに緑茶を淹れていると、ドアが開いて購買の茶色い紙袋を抱えたさつきが入ってきた。
「ごめーん、おまたせー!」
「遅かったわね」
「陸上部の子たち見かけたから、ついでにちょっと情報収集みたいな?」
暢気な弁解に、む、と清華の唇に力が入る。
「……昨日のこと?」
「なっつんが話盛ってないのははっきりしたからね、もし疑ってたんだったら、ちゃんと本気なんなきゃダメだからね……っと!」
突然、携帯電話の震える音が話に割り込んでくる。紙袋を近くの机に置いたさつきは、立ったまま左手で携帯電話を取り出し操作すると、あ〜、と短く声をもらした。
「何?」
「メールなっつんから、美那ちゃんにも似たようなこと言われたー! だって」
「そうなるわよね。真摯に慎重に対応してくれたってことね」
清華は巾着から弁当箱を取り出した。二段重ねのそれは、『女子高生』のものとしてはかなり大きいが、すっかり見慣れているさつきは特に何も言わない。
「えーでも、メルヘンの国育ちだけあって、その手の知識すごいんだよ? なっつんも、そっち系の発想で癒してくれるの期待してたんじゃない?」
再び紙袋を手にしたさつきは、清華の右手側の席に腰かけて、戦利品のサンドイッチと野菜ジュースをがさがさと机に並べる。
「そう頼めば、頑張ってしてくれるでしょうけど」
清華は弁当箱のふたを外して脇に置くと、ご飯とおかずに分かれた二段を目の前に横に並べた。
「彼女の場合、自分からそれを前に出しはしない気がする」
●同日、放課後
「いたいた、美那ちゃん☆」
旧東館二階・図書館。
閲覧室の机にどっさり積まれた本の山の陰に、目ざす相手のトレードマークといえる、赤いリボンをあしらったバレッタが見え隠れしている。さつきは歩み寄っていき、明るく声をかけた。
「あ――こんにちは、おひとりですか?」
「うん、清華は鋭意おシゴト中」
ブロック塀よろしく周囲に積み上がっているのは、顔を傾けて背表紙を見るにすべて、日本各地の民話・伝承に関する本らしい。感心で声が出る。
「すごい量だねー」
「あ、これは、お昼に聞いた話がちょっと気になってしまって……あの、おふたりと同じクラスで、わたしと同じ中学だった……」
「なっつんだよね、あたしもけさ清華といっしょに話きーた」
隣の椅子に腰を下ろしたさつきに、美那はそれなら話は早いと説明を途中で打ち切って単刀直入に訊いてきた。
「市川せんぱい、相手にされなかったっておっしゃってましたけど、本当に……?」
「あれはねぇ、性格的に、てきとーに話あわせてお手軽に『きっと妖怪のしわざね』とか言っちゃえないみたいだから……」
口調を真似たりしつつ、さつきは説明不足な清華のフォローを試みる。まったく世話が焼ける、という気持ちがきっと顔に出ているだろうけれど、相手が美那なら別にいいかと割り切ることにする。
「まだスイッチ入るとこまでいってないかもだけど、気にはしてると思うよ。あと、美那ちゃんのことも……」
「わたしの……?」
「なっつんのこと心配して気休めになりそうな昔話探してたりしたら、ほどほどにしとくように言っといてって」
さつきは続けて、生徒会室を出てくるとき渡された言葉を伝える。美那が今ここでしているのはまさにそれだと判るから、正直言いづらい。
「だめでしょうか……」
案の定、美那の表情が曇った。
「ってゆーか、なっつんには次があったら言えって言ってたし、近いうちまた起きるって予想してるんじゃないかなぁ? だから……」
「……無駄になってしまうかもしれない、ってことですね」
さつきが言いよどんだことをあっさり言い当てて、美那はさらに沈む。
「わたしにできること、ないんでしょうか」
「あたしなんてもっとないよ、おしゃべりくらいしか……」
さつきはしゅんとする美那を何とか元気づけられないかと頭を回転させてみて、清華と昼休みに言い合ったことに思い至った。
「そだ、ねぇ美那ちゃん」
「はい」
「そーゆーこっちのだけじゃなくって、向こうの話でなんか似たようなの、こころあたりないかな?」
「――えっ」
その瞬間、美那が固まった。
(え?)
ぼんやりしているのではなく、そこにはうっすら逡巡が見える。返す言葉を選びかねているようだけれど、そこまで重い選択を自分は求めただろうか。
(あれ? あれ?)
自分の勝手なイメージが大外れだったのはともかく、清華の予想とも違う美那の反応にさつきは驚き戸惑う。しかしその中、困らせているのは確かだ、と思う。
「あ、ごめんね、ただちょっと、あたしがきーてみたいって思っただけだから……」
今のなし、と慌てて、両手をぱたぱたさせて謝る。
「あっ、いえ、そんな……」
我に返ったらしい美那も、恥ずかしそうに頬を染めて謝ろうとする。
ふたりしてうつむき、会話が途切れる。
(邪魔、しちゃったなぁ……)
退散しようと決めて、さつきは席を立った。
「えっと、じゃああたし一回戻るね。今日は音楽室顔出すから、またねっ」
「はい、またあとで……」
手を振るさつきに誠実に応えた美那は、さつきが行ってしまってから、壁の時計にふと目をやる。
合唱部の音楽室での練習が始まるまで、あと二十分ほどある。
美那は緊張感のある面持ちで、再び机に向かった。
●同日、夜
本校舎二階・生徒会室。
だしぬけに、机の上に無雑作に転がしてあったさつきの携帯電話が震え出した。震え方からメールではなく通話だと判断して、さつきはまっすぐ手を伸ばす。
「あれ、なっつん?」
発信者名の表示に意外そうな声をあげ、一度清華のほうを見てから出る。
「もしもしー? ……ふぇ? 今は生徒会室だけど……うん、いるよ……ん、わかった、すぐ行くね」
「あたしに用事?」
話が終わると同時にすかさず訊いた清華に、さつきはうなずいてみせた。
「雨が降ったって、ついさっき」
★
「こっちこっち、見てよこれ!」
一階西端のピロティに出てきた清華とさつきを、奈津がさかんに手招きして呼ぶ。
奈津ほか数人の陸上部員が取り囲んだ青いベンチにひとり、濡れて色の変わった練習用ユニフォームの肩に白いタオルを掛けた濡れ髪の少女が座っている。彼女が『降られた』当人なのは、一目瞭然だった。
「うちの一年で西谷ってゆーんだけど、きたよ、狙ったみたいにひとりだけこうどばーって! あたしのときとおんなじっ、じゃないもっとひどいっ」
他にも目撃者か野次馬か区別はつかないが、何人かの生徒が遠巻きに見守っている。
そこへ、もうひとり役者が加わった。
「市川せんぱい!」
「ほえ?」
校舎からではなく校庭の端に張られた防護用ネットと校舎の間の通路から、美那が頬を紅くして現れた。手には鞄と畳んだ日傘、足元はローファーなところを見るに、昇降口を一旦出てしまってからこちらに来たようだ。
「美那ちゃんもなっつんに呼ばれたの?」
「はい、バスに乗ろうとしたところでお電話いただいて」
「ちーちゃんは?」
「先に帰ってもらいました、長くなるかもと思って……」
などとさつきと美那が話している間に、奈津と清華はピロティの端まで出て、一足先に本題に移っていた。
「どーよ?」
訊かれる前から、清華は校庭を見つめていた。すぐ目の前、陸上競技のトラックとして見ると手前側ほぼ中央となる土の上には、大量の水が一点に注がれたのち蛇行しつつ移動した――そんな軌跡が、はっきり残っている。
「これを『雨』って呼ぶのは、ちょっと抵抗があるわね」
「……それはそーかもしんないけどさ、じゃあ、空から水が降ってくることなんて言えばいーわけ?」
「それはそうだけどね」
「ふえー……」
ふたりが言い合っている脇へ美那を伴ってやってきたさつきは、予想外な現場の図から頭に浮かんできた光景を自分でも信じられないという顔で奈津を見た。
「もしかして、これって、追っかけてきた……?」
「そーそー、ありえないっしょ?」
「え〜!」
予想に反して即座に肯定されてしまい、さつきは清華に助けを求めた。
「そんなことあるの?」
「自然現象としては、まずないでしょうね」
「……こーゆーことする妖怪とかって、いる?」
「水辺なら水をかけてきたり引き込んだりするものが棲んでいることもあるだろうけど、近頃のこの辺りでは聞かないわね」
「ってゆーか、このへんで水辺って……どこ? 美那ちゃん知ってる?」
「え……少し遠いですけど、早生湖とか、でしょうか……?」
「あーもー、はっきりしてよ、わかんの、わかんないの?」
煮え切らないやりとりに奈津は業を煮やしかけて、不満をあらわに問う。
「今ここで言えることはないわ。悪いけど」
問われた清華は、奈津の目をまっすぐ見据えて告げる。
「だから、今日は終わりにして。いつまでもそんな恰好させてたら、もうほとんど夏とはいえ身体に良くないでしょう」
「……わかった」
最後まで目をそらさなかった奈津は、それ以上突っかかりはしなかった。
「今日はこれでおしまい。ほらヒロ、シャワー行くぞー」
被害者である一年c組・西谷比呂の肩に手を置いて、奈津は先輩というより姉のように語りかけ、立つよう促す。そのふたりを先頭にして陸上部員たちが去ると、すぐに観衆も散っていく。
結局、そこには清華とさつき、そして美那の三人だけが残った。
「手がかりとか、ぜんぜんない?」
黙っていられず言ってみたさつきの顔を見下ろした清華は、続けて美那に目を向けた。美那の頬が瞬時に赤らむ。
「湯沢さん、ちょっと靴貸してもらえない?」
「あっ、はい、これでよければ……」
美那が答えるとすぐ、清華は迷わず上履きを脱いだ。遅れてピロティへ上がった美那に一言、ありがとうと声をかけると、丁寧に揃えて置かれたローファーを履いて夜の校庭へ下りていく。
その背中を見送る美那は、清華の上履きを使うのは気が引けるようで、ソックスのままコンクリートの床にさつきと並んで立った。
「……なにするのかな」
「さあ……」
まっすぐ『現場』に近寄っていった清華は、ぬかるみを避けつつ濡れた地面をしばらく検分してから、晴れた空を見上げて何かを探す風にあちこち見回す。
やがて、清華はすっと右手を掲げる。
そこから、白く光る何かが放たれた。
「あ!」
打ち上げ花火のように勢いよくまっすぐ昇っていったそれは、打ち上げ花火のように、しかし音は伴わずに突然に弾けた。
「あっ……!」
弾けたほうのタイミングで、美那が小さく、驚きの中にかすかに悲鳴のようなトーンが混じった声をもらした。
(ん?)
さつきは気になって見上げる。隣の美那はきわめて真剣な顔で、清華の所作を凝視している。今の声の理由は、そこからは見てとれない。
(まぶしかった……のかな?)
考えているうちに、清華がつまらなそうな顔で戻ってきた。
「おかえり、なんかわかった?」
「札が途中で止まったでしょ。あの辺りから『降って』きたのは間違いないわ。犯人は、離れた場所から水を操れる何者か……何も判ってないのと同じね」
「あ、あれおフダだったんだ」
「――あなたは、どう思う?」
弾けたあと落ちてきたものらしい、七夕の短冊を思わせる細長い紙――すなわち呪符、いわゆる『お札』の束を手に、清華は美那の目を真正面に捉えて訊ねた。
「わたしが知っているものとは、違うと……思います」
美那は答えはしたものの、注視から逃れるかのように目を伏せる。
「そう」
清華はそれ以上は訊かずに、借りていたローファーを脱いでピロティに上がると、再び上履きに足を入れた。
「……たぶん、またあるよね?」
さつきがおずおず言おうとしかけたことに、清華は先回りして答えた。
「誰が狙われるか判らない、というより決めていないだろうから、対策は難しいわ。外で練習してる運動部の人間全員に傘を持たせるわけにもいかないし」
「それは、ないね……」
サッカー部や野球部が傘を持って練習する光景を想像して、さつきは首を振る。
「合羽ってわけにも……おフダ使って、なんとかできない?」
我ながらひどい質問だと思いつつ見上げる。清華はそれ含みで受け取る。
「できなくはないけど。仕掛けるにせよ持たせるにせよ、校庭全部カバーするとなると、数と時間が問題」
「あ〜……」
清華が使っている呪符は、自身の手書きである。よく使うものはある程度ストックしてあるが、状況に合わせたものを新しく、しかも大量に作るのであれば、当然ながら相応に時間がかかってしまう。
「捕まえたかったら、何とかしてその場に居合わせるしかないかもね」
「なんとかって……じゃあ、あした、外で待ってみる?」
「そうね、予定狂うけど」
さつきの提案に、清華は仏頂面でうなずいた。
「困ったものね――まったく」
続けて誰に向けるというわけでもなくつぶやいて、ひとつため息をつく。その横顔を、美那は不安げに見つめていた。
●木曜日、朝
晴れわたる空の下。本校舎の足もと、ピロティの手前に、白いシンプルな日傘がひとつ咲いている。
整地によって『雨』の軌跡が消し去られた校庭で行われている陸上部の朝練の様子を、美那が昨夜とほぼ同じ場所に立って、眩しそうに目を細めつつ眺めていた。
その目がやや上、清華が放った札の光が弾けたあたりへと向けられる。今そこには何もないが、表情が少し固くなる。
それから、美那は校庭全体を左から右、東から西へ見渡す。
「ほんとうに……だとしたら……」
吐息に紛れ込むように、小さなつぶやきが唇からこぼれる。
美那は携帯電話を取り出すと、カメラを起動して顔の前に掲げた。
●同日、昼休み
「――何だ?」
本校舎二階・生徒会室。
携帯電話のディスプレイに表示させた写真とにらめっこするさつきに、生徒会副会長を務める二年c組・和辻由威は不思議そうに訊ねた。
「んーとね、この近所で『水辺』っていったらどこだろー、って話きのうからしててね、さっき相手の子からこれとどいたんだけど……」
「そんな話になる流れがさっぱりわからんが」
どうせ何か起きているんだろうとは思いつつ、由威はそれを追求はせずに、見せられた写真を眺める。
「自然じゃなくていいなら、そいつの通り、プールでいいんじゃね?」
「えー、たしかに最初のは花高のプールだけど、こっちは?」
「ベンチの辺りからこう撮ってるだろ? だから、フェンスの向こうに――」
「あ、市女?」
そこまで聞いてさつきは、目から鱗が落ちた、といった顔になる。花高に最も近い他校である『市女』こと花間市立女子高等学校は、校門の位置はだいぶ離れているが、敷地としてはほぼ隣と言ってもいい。
「――ああ、なるほどね」
会長席で札づくりに勤しんでいた清華が、機嫌良さそうに微笑んだ。
「すっきりした。ありがと、由威」
「って、間宮からお礼来るのか?」
「市女のプールの場所知ってるなんてさすがね、ほんと頼りになるわ」
「……おい」
●同日、宵の口
「来るかなぁ?」
きょろきょろ周りと上に目をやりながら、さつきがつぶやいた。
清華とさつきは安物のビニール傘を手に校庭に下り、運動部が練習している間を縫ってどこに向かうでもなく歩き回っていた。制服のままだが、土の上に踏み込むので、運動靴には履き替えている。
「さあ?」
もちろん、こんなことをしていれば目立ってしまう。清華はいつも通り平気そうだが、さつきとしては大変に恥ずかしい。もし長引くようだと耐えられないかも、と思う。
「これでなんにもなかったら、くたびれもーけだねぇ」
「結果として何も起こらないなら、それはそれで構わないわよ」
「……そーゆーことさらっと言っちゃえるあたり、清華やっぱ天然のせーぎのみかた属性持ちだよね〜」
「何よ、属性って」
と無駄話に花を咲かせていたふたりが校庭のちょうど真ん中に至ったところで、清華はふと、上から吹き付けてくる気配を肌に感じ取った。
「――来た!」
「ふぇ!?」
「どいてて!」
清華は鋭く言い放つ。突き飛ばす、というほどではないものの強く押されて数歩後ろに下がったさつきは、慌ててさらに距離をとる。
(雨……!?)
清華の周りの地面に水滴が落ち、ぼたぼたと重たい音を立てる。それはすぐ叩きつけるような量に変わり、清華の姿は瞬く間に水で覆われてしまった。
傘を開くところは見えた、と思うけれど、間に合ったかどうか……間に合っていても、これだけの量の水を、あんな傘一本で凌げるだろうか?
「清華……!」
さつきの呼びかけは、水音にも負けない、異様に大きい羽ばたきの音にかき消される。巨大な鳥が舞い降りてきて、強行着陸を敢行する。鳥の姿はたちまち霧散し、そして水の壁に包まれた清華と残されたさつきの前に姿を現したのは、見覚えのある黒ずくめの不審人物だった。
「どれだけ耐えられるかしら?」
「あーっ!」
「ごきげんよう。また会ったわね、おちびさん」
さつきを見下ろして、茶色いロングヘアを背に流した真っ黒いミニタイトワンピースの謎の女性は余裕の挨拶をよこした。踵の高いブーツを履いていることもあって、さつきと実に頭一つ違う。
「こないだ見られて逃げたのに、こんな人前出ちゃっていーのっ?」
清華の代わりに相手しなければならない。さつきはめいっぱい強がって言い返した。
先日の音楽室での初対決では、彼女は障壁で身を隠し声も変えていた。清華の術によりそれらを破られ、ふたりに素の――今の恰好を見られたのちに敗走している。
「あら、ご心配どうも。でも安心して頂戴ね、『魔女』の『結界』の内側で何があろうと外側の『力』なき者には見えないの。感じることさえできないわ」
「まじょ? けっかい?」
自慢げな言いっぷりに、うわぁ……と顔に出しつつ見回す。
いつからなのか、ビニールハウスの内側から外を見るように景色がぼやけ歪んでいる。校庭の一部が大きく切り取られた状態なのだから外側にも影響があるだろうに、誰も何も気付いていないらしい。さつきは不思議というより、不気味だと思った。
「……どうして、こんなことするの? これも、実験?」
「実験なら、昨日までで充分済んだわ。今日は――ん?」
右手に持ったトワリングバトンくらいの長さの棒――きっと、それが『魔法の杖』なのだろう――を玩びつつ答えていた『魔女』が、言葉を途切れさせる。
動いた視線を追いかけて、さつきは校舎の側からまっすぐ駆け寄ってくる制服の女子を見つける。この時期なのに長袖のその少女は、見覚えがあるどころか、さつきにとっては馴染みの深い人物だった。
「美那ちゃん? なんで?」
「……なに、あの娘……結界を、認識しているの?」
「え?」
怪訝そうなつぶやきを聞いて、さつきは耳を疑った。それが本当なら、美那にもまた、清華のように『力』があるということになる。
(そんな、どんな……?)
衝撃と興味で、目が離せなくなる。すぐに好奇心が勝って、そういう顔になる。
間もなくあっさり壁をすり抜けて『結界』の中にやってきた美那は、さつきに気付いて一瞬固まったものの、すぐに決意のこもった面を『魔女』に向けた。
「どこのどなたか知りませんけど、こんなこと、今すぐやめてください! ひとに迷惑をかけるために、『******』を使わないで!」
真剣な呼びかけにふと、耳慣れない響きが混じった。
「つぃで……つぁぉ……ばー?」
さつきは様子を見守りつつ、聞こえたままを口にしてみる。美那が言うのだからきっとドイツ語で『魔法』なりを指す言葉なのだろうが、はっきりはしない。
「……あのね、これはわたくしとあれの個人的な問題なの。部外者はすっこ……いいえ、口を挟まないでいただきたいわ」
(あれ、って、清華?)
杖を突きつけて、『魔女』が美那に凄んでみせる。
(このあいだのリベンジってこと、かな……)
「いやです! 挟みます!」
いつになく強く宣言した美那は、制服の胸ポケットから高級そうなペンを取り出すと、キャップは外さないまま顔の高さに掲げ構える。その様は、指揮者のように『決まって』見えて、さつきは思わず目を奪われた。
「あなたは……間違ってる!」
美那が空中で素早くペンを走らせると、その先から生まれた白い光の軌跡が文字らしきものを形作る。もちろんさつきには読めない。
最後にペンを突き出すようにしてピリオドを打つと、空中に書かれた輝くフレーズは、大きく拡がりながら舞い上がっていく。それが五階建ての本校舎よりもやや高いあたりで止まると、そこを中心に、もくもくと黒い雲が湧き出した。
「雲……ですって……?」
「見せてあげて! 『雨』は……」
そして――美那の声を追い抜いて、清華を襲ったのとそっくり同じように、『魔女』の頭上へと水の柱が落ちてきた。
「な……!」
「……こうなんだからっ!」
「え? ……えぇーっ!?」
さつきが度肝を抜かれている間にも、美那が呼んだ、としか思えない『雨』は激しさを増していく。水圧に耐えかねた『魔女』は、とうとう足を滑らせて無様に転んだ。
「くぅ……っ!」
倒れた拍子に杖を取り落とす。すると、清華に降り注いでいた『雨』が見る間に弱まり止んでしまう。
それを認めた美那は、右手のペンでさらに何事かを書きつづる。ふたたび昇っていった文字の帯が黒雲に吸い込まれると、『魔女』を打ちのめしていた『雨』もまた、ぴたりと降り止んだ。
雨音が途絶え、『魔女』と美那ふたりの荒い息が聞こえてきた。
「え……、と、清華!」
誰に声をかけるか一瞬迷ってから、さつきは被害者であるところの友人を選んだ。
「清華、だいじょうぶ!?」
つい先ほどまで水柱に飲み込まれていたはずの清華は、同じ場所で傘の柄を軽く右肩に乗せ、平気な顔をして立っていた。
足元を見ると、激しく打ちつけた水流に周囲の土がえぐられ、池の中の浮き島に立っているような状態だが、それでいて清華の履く運動靴やソックスには泥はねのひとつさえも見えない。
呼びかけに応えて、清華はさつきのほうを向く。そうすると、傘の裏側に書き込まれている、彼女がふだん紙の札に書いているのと同じような文字と文様が見て取れた。
「意外な展開ね」
「って、意外とかそーゆーレベルじゃなくない?」
悠々と傘をたたむ清華を、泥水まみれになった『魔女』が片膝を立てて見上げる。
「……なぜ、そんなものを……!」
「この学校で妙なことが起きたら、大抵はあたしの耳に届くもの。同じ話が二度出れば、打つ手のひとつくらい考えてくるわよ」
ワンパターンすぎる、手の内を明かすほうが悪い、と言われたに等しい。敗色の濃さを思い知りつつ立ち上がった『魔女』は、矛先を今度は美那に向けた。
「わたくしと同じ魔術を操るなんて……おまえは何者? どこでそれを身に付けた?」
「同じじゃありません!」
(あれ?)
きょとんとして、さつきは美那の紅潮した顔へ目を移す。
(同じだから、悪用されて怒ったんじゃ……)
そんなさつきに意識も向けず、美那はらしからぬ尖った言葉を突き返す。
「一緒にしないで! あなたこそ、どこでそんないびつな……!」
「――失礼な! 取り消しなさい!」
(って、なんか、フクザツな関係……?)
互いの発言が互いの逆鱗に触れたようで、『魔女』は杖を掲げ、美那はペンを構える。一触即発の状況にさつきがはらはらしていると、ぱんぱんと手を叩く音と、無遠慮な声がそこに割り込んだ。
「はいはい、どっちも、そこまでにしておきなさい」
「うるさいわね、あなたを相手にするのは後回しにしてさしあげるから、邪魔をしないでいただける?」
「嫌よ」
素っ気なく言い返した清華は、どこからともなく取り出した和綴じの帳面から、三枚の札を抜き出して宙に放つ。しかしそれらは眼前の『魔女』には向かわずに、あらぬ方角へ飛んでいってしまった。
「ふん、何をしたいのか知らないけれど――」
鼻で笑って杖を動かした『魔女』は、手応えに違和感をおぼえて顔をしかめた。
「鈍い? ……違う、これは……まさか……!」
「まさか? それはこっちが言いたい科白ね。――『雨』を降らせる術なのに、プールの水が汲めないと駄目なの?」
(あ!)
ここにきてようやく、さつきはあの『水辺』の写真に込められた意味に気付いた。
(どこから水もってこれるか、ってことだったんだ!)
校庭の西側、プールの方へ目をやる。四方を囲む金網よりも少し高いくらいのところでぼうっと光っているのが、どうやら清華の札らしい。
「この、この……っ!」
「湯沢さんがしたように、空気の中の水を集めて雲を生んで降らすのが、雨の術の本来のかたちなんでしょう。でも、あなたのはそうじゃなかった」
淡々と、言い聞かせるように、清華は『魔女』をじっと見つめて語る。
「いびつだって言ったのも、きっとそういうことよね。まあこれはこれで水まきとかには使えそうだし、案外実用的なのかもしれないけど」
「え、あ……わたし……あ、あの、すいませんっ」
いっときの激情が通り過ぎ、頭の冷えた美那は、今度は恥ずかしさで見る間に真っ赤に染まる。今にも逃げ出したそうだが、動きはしていない。
「くっ……覚えてなさい、次こそは必ず……!!」
清華の眼差しに気圧され、ついに敵わないと決断するに至った『魔女』は、右手の杖を正面に構え直し乱雑に打ち振る。それを合図に巨大な鳥が再び忽然と現れたかと思うと、彼女はすぐにその背に乗って飛び去っていった。
「ふえ〜……」
空を見上げてしばしぽかんと放心していたさつきは、まん丸くした目のまま美那を見ると、急にテンション高く声を張り上げた。
「美那ちゃん! ちょっと、おはなしっ!」
「え、えっ」
詰め寄られて、美那はほっそりした長身をびくっと大きく震わせる。
「あっ、あの、それより、もうすぐ……」
「戻るわね」
「ふえ?」
さつきが清華に顔を向けた瞬間、唐突に『結界』が消えた。
「あ!」
――その周囲にいた陸上部や野球部、サッカー部などの面々には、三人が突然、濡れた地面とともに現れたように見えたという。
一気に人目が集まる。ざわめきが沸き起こる。
「言い訳は、あたしがするけど――」
トラックの外から駆けてくる奈津の姿を認めつつ、清華がのんびり言う。
「悪い魔女のしわざだったって言って、納得してもらえると思う?」
あるはずもない逃げ場あるいは隠れられる場所を探して右往左往する残りのふたりに、清華はそう問いかけて、答えを待たずに破顔した。
★
本校舎二階・生徒会室。
「美那ちゃん」
紅茶を淹れたカップを運んできたさつきが、緊張でがちがちに固まっている美那の隣にすとんと腰を下ろした。
「美那ちゃんって……」
膝が当たるのも構わずに身を乗り出し、美那の手を取りぎゅっと力を込めて、さつきは興奮冷めやらぬ様子で声を弾ませた。
「魔法少女だったんだ! すっごいかっこよかった!」
「え、え? 魔法……しょうじょ? ですか?」
目をきらきらさせたさつきの突拍子もない発言を受け止めかねて、美那は途方に暮れた顔を会長席の清華に向ける。清華はやれやれとばかりにひとつ息を吐いてから、さつきをどうにかするのではなく、ただ普通に美那に話しかけた。
「出てこなければ、秘密のままにできたはずよ」
言葉としては甘くはない。とはいえ、その声は優しい。
美那は一度頬を緩め、緊張を新たにしてから返す。
「はい、おっしゃる通りです……でも、我慢、できませんでした」
主導権を清華に持っていかれたさつきはそれ自体には特に文句なく話を聞いていたが、今の会話が成り立ったという事実に、一拍遅れてはっとして声をあげた。
「清華、知ってたのっ?」
「知りはしないわ。何かできるようだから注目していたし、何ができるのか興味は持っていたけど」
「っていつの間にっ!」
「四月に初めて見たときから。多分、お互いによね」
「あ、はい……」
「なんで教えてくれなかったのっ」
「さつきが知らない――奈津でさえ、知らないことだもの」
口から出たのはそれだけだが、その意味をちゃんと考えてみなさいと清華の目が告げている。あ、と声をこぼすと、さつきは水を被って反省したような顔になった。
「……言っちゃわないように、気をつけるね」
「そんなに重く考えないでください、あっもちろん、そうしていただいたほうがわたしは都合がいいんですけど……」
あまりの落差に、今度は美那が心配そうにさつきの手を取っている。ふたりの肩の力と気持ちがほぐれていくのを見届けて、清華は紅茶のカップを口元へ運んだ。
「うーんと、そしたら、なんて呼んだらいーのかな? さっき言ってたの、ドイツ語なのかな、よくわかんなくて」
「あれは、固有名詞と、『魔術』をさす名詞がくっついていて……訳すなら『ツィーデル山の魔術』か『ツィーデル家の魔術』ですけど、長いですし、話す分には単に『魔術』でいいと思います」
さつきに問われ、美那はややゆっくりと丁寧に説明する。
「使い手を表す訳語は、伝統的に女性だけが使うものなので、『魔女』が使われることになっているみたいで……」
「え〜魔女? それじゃ、あの黒いひとと……あ」
あの場で清華が中断させたやり取りを思い出して、さつきはもうひとつ問う。
「そいえば、あのひとと同じとか、同じじゃないとかってゆーのは?」
あまり深く考えずに言ってしまってから、これもまたデリケートな話題だと気がついてさつきは助けを求める目を清華に向けた。清華は何も言わない。
美那が口を開くまでには、少し間があった。
「わたしの魔術は、母の先祖が興したもので――あのひとが使っていたのは、おおもとは同じでも別の道をたどってきた、いわゆる亜流……なんだと思います」
想定外にスケールの大きい話でさつきは驚く。が、まだ途中なのは明らかなので、口を挟まずきゅっと結んで黙って聞く。
「ただ、あれは、どこか途中で大切な理念を失ってしまっているみたいです……わたしに言わせれば、まがいものです」
美那の感情が徐々に昂っていくのが、さつきにすら見える。
どうしよう、ともう一度向けた視線を、清華は黙って受け止める。最後まで聞こう、ということなのだろうと読み取って、さつきは我慢する。
「……でも、そんなものでも、ああいう使い方されるの、わたしは、つらいです」
声を震わせながらもかろうじて言い切った美那の目には、涙が浮かんでいる。
潤んだ瞳が、怖じずに清華を見る。そこには、彼女がこれまで清華に向けてきた慎重な憧憬とは違う色がある。
清華は、それに応えて微笑んだ。
「ありがとう。助けに来てくれて」
「いえ……」
ハンカチで涙をぬぐった美那は、きっと表情を改め、姿勢を正した。
「――わたし、あんなこと、やめさせたいです。どうすればいいでしょうか?」
「それは、難しいんじゃない?」
清華の返答は早く、そしてやはり甘くなかった。
「あなただって、一度や二度負けたくらいで『もうやめよう』とは思わないでしょう」
美那は素直に聞き、真面目に想像して答えを出す。
「……そうですね」
「こーゆーこと、まだまだ続くってこと?」
「力を奪う、なんてことができない以上はね。こっちも負けてあげる気はないし」
うんざりした調子のさつきに真顔で言い返してから、清華は美那に正対した。
「湯沢さん」
「はい」
「もし良ければ――あたしが困ったとき、知恵と力を貸してもらえる?」
両の頬を紅く染めて、美那はうなずいた。
「――はい」
その面には、『魔女』としての誇りと決意がある。
●dialogue
「あの、わたし、謝らないといけないことがあります」
「ふえ?」
「先日お送りした音楽室の、『真田さん』の写真……本当は、わたしが撮りました」
「えーっ! ……って、清華もしかして気がついてたっ!?」
「そうだったのね。それなら納得だわ」
「うー、なんかしらじらしい……」
●金曜日、昼休み
昼食を終え図書館へ向かおうと本校舎正面階段を下っている途中、美那は偶然に、男女入り混じった一種異様な集団と遭遇した。
その中心にいるのは、恵まれたプロポーションと派手めの顔立ちを備え、平凡な制服で身を包んでもなお華やかさを放つ『お嬢様』として有名な人物であり……そして、彼女はもうひとつ、別の肩書きで呼ばれることがある。
(あ、『間宮さんのライバル』の……)
まるでそんな美那の思考を読み取ったかのように、その『お嬢様』――二年c組・甘木香織はすれ違いざまに足を止め、顔をしかめ美那を見下ろした。
「あなた……」
一年生の女子の中では背が高い美那だが、相手はさらに高く170センチを優に超えている。体格の違いもあって、傍からは数字以上の差があるように見える。
「あっ、はい、何でしょう……?」
銀縁の眼鏡越しの鋭い眼光に気後れしつつも、ストレートに訊ねてみる。
香織はしばし眉根を寄せて美那を顔以外も含めじろじろと見つめていたが、やがて軽く嘆息し、ぷいと目を逸らした。
「――いえ、何でもないわ。ごめんなさい」
美那の反応を待たずに、香織は動き出した。美那に不躾な視線を送りながら、取り巻きたちがそれにぞろぞろと付き従っていく。
(え……え?)
美那は今起きたことを飲み込めないまま、階段を上っていく一団を呆然と見送った。
●同日、放課後
「……っていうことが、あったんですけど」
本校舎二階・生徒会室前。
こわごわ訪ねてきた美那の報告を、清華は穏やかな顔で受け取る。さつきは生徒会室の中にいるが、もし見ていたら、「あたし相手のときと態度がちがう!」と唇を尖らせるに違いない。
「何を、なぜ『見られた』のか、判らないわけね」
「わたし、思い当たること、ぜんぜんなくて……こういうの、目をつけられたっていうんでしょうか……?」
「本当に、何もない?」
「はい――と、思いますけど……」
問いに答えかけて、美那は自信なさげに言葉を濁す。
清華はわずかに目を細め、抑え気味の声でつぶやいた。
「これから美那ちゃんも、警戒すべき相手として見られるのかもしれないわね」
今回の事件を通して得た、もっとも大きな変化――あのあと清華から『ちゃん』付けで呼ばれるようになったことにまだ慣れず、美那はこそばゆい表情で聞いていたが、なぜか話の焦点がぼやけているように感じて、きょとんとして首を傾げた。
「えっと……どういうことでしょう?」
「あたしの側につくのなら、彼女にとってはそうなるのかもって思ったの」
清華の語調は変わらない。そちらもぴんとこずに、美那は目をしばたたかせる。
――そのとき。
「美那ー! 終わった?」
唐突に生徒会室のドアが開き、そこから出てきたポニーテールの少女が空気を読まずに美那へと声をかけた。
続いて、中で一緒に話していたらしいさつきも現れる。
「あ、うん」
清華と一瞬目を合わせ、それからうなずいて、美那は清華に丁重に頭を下げた。
「それじゃ、これで、失礼します」
「じゃね、美那ちゃんちーちゃん☆」
さつきが無邪気に手を振る。
「またね」
清華がしとやかに笑いかける。
もう一度頭を下げてから、美那は仲良しらしいポニーテールの少女とふたり連れ立って正面階段を下りていった。
「ね、美那ちゃんの話ってなんだったの?」
戻ろうと動き出した清華に、さつきはあっけらかんと訊ねる。外での立ち話で済むことなんだから大丈夫だよね、と思っているのだろうけれど。
清華はわざと大きくため息をついて、無愛想に短く答えた。
「秘密」
「え〜?」