今日も日常的な日常 - Days of Wonder -
(かす)かな声と妙なる調べ』
●prologue
『だれ……?』
 問う声とともに、青白い光が浮かび上がる。
『何しに来たの……?』
 問う声とともに、青白い光は人の輪郭を描き、そして少女の姿を成す――。
●月曜日、朝
 渋滞気味の旧い国道を、駅からバスでおよそ十五分。
 県立花間(はなま)高等学校・正門前――表通りから一本引っこんだところにある、かつては軽便鉄道の駅があったという小ぢんまりした空間に、今朝もまた白と黒の制服の波が途切れることなく押し寄せてくる。
「おはようございます!」
「おはようございますっ」
「おはようございます、間宮センパイっ」
 突然、門の脇の一角から、黄色い声が次々と沸き上がった。
 それらは交わされているのではない。バスを降りて神社の脇の細道を抜けてくる新しい集団の中の、ただひとりの人物にだけ向けられている。
 黒襟・白二本線のセーラー服に、声の主たちとの違いはない。
 背は高くも低くもなく、体型(スタイル)にも特別目立ったところはない。
 化粧っ気のない細い面は美しく整っているけれど、飛ぶ声に笑みを返してはくれない。作らない表情はきつめで、親近感などとは縁遠い。
 ただ、代わりに『彼女』は、ちょっとやそっとで身につくようなものではない、外面の飾りつけで得られるものでもない、凛とした空気をまとっている。
「おはよう」
 他校の制服も混じる『入り待ち』の群れに一度だけ、落ち着いたアルトの声が応える。歓声の横を過ぎ颯爽と校舎へ向かっていく背中で、きっちりひとつに束ねられた後ろ髪がリズミカルに揺れる。
 腰までも届く長い尻尾の付け根で、ふんわりした藍色のリボンが存在を主張している。アンバランスなほど大きめのそれはしかし、意外と浮いては見えなかった。

          ★

 本校舎四階・二年f組の教室。
 左手の窓際から二列目、後ろから二番目の自分の席についた『彼女』が静かに文庫本のページを繰っていると、能天気なソプラノの鼻歌が斜め後ろから近づいてきて、すぐ脇で止まった。
「おっはよーさやかっ☆」
「おはよ」
 降ってきた声に、『彼女』はそれまでとは打って変わったぞんざいな調子で言い返す。そこでは、茶色っぽい髪を三つ編みおさげにした小柄な少女が、柔らかそうなほっぺたにえくぼを浮かべてにこにこ愛嬌を振りまいている。
「月曜日だね、あたらしーいっしゅーかんのはじまりだねっ!」
「さつき……」
 面倒臭そうにお調子者の友人を見上げて、『彼女』は訊ねる。
「……そんなに『あれ』が楽しみ?」
 するとすぐに、きらきらした笑顔が返ってきた。
「うん、楽しみ♪」
●monologue
 百年をこえる伝統をもつ県立花間高等学校。
 こんどの生徒会長は、才色備! なヤマトナデシコ。
 間宮(まみや)清華(さやか)・十七歳、おうちのシゴトで土日は巫女さん☆
 草木も眠る夜のはざまで、ちみもーりょーと華麗にたたか(むぎゅ★)
 ……じゃなくて今のはじょーだんで、ひとつなかったことにして、
 清く正しくかっこよく、ただいま絶賛活躍中!

 彼女にまつわるものがたり、彼女をとりまくヒトとコト。
 案内(ガイド)は書記兼友人代表、河野(こうの)さつきがつとめます♪
 てことでこれからよろしくです!
●月曜日、放課後
『関係者以外入室不可! 4時ごろまで?』
 ――花間高校本校舎二階・生徒会室前。
 ドアに貼られた小さなホワイトボードに丸っこい字でそう書いたあと、赤のマーカーでさらに『+男子禁制!』と付け加えたさつきは、満足げにうなずくとすぐにドアを開けてぱたぱたと中に入っていった。
 そんなさつきを、一番奥の窓を背に座っていた清華が憮然とした顔で迎える。
 一般教室の半分もない空間の中央を占める会議机の上には今、『意見箱』と正面に大書された古びたベニヤの箱が鎮座している。さつきはまっすぐそれに近づくと、傷だらけの南京錠を外して蓋を開いた。
「さー、おたよりコーナーはじめるよっ♪」
 箱を持ち上げひっくり返すと、収められていた『意見』が水のように机上へ流れ出る。それらの外見は、紙くずにしか見えないノートの切れ端から不必要に可愛らしいパステルカラーの封筒まで、多岐にわたっている。
 空にした箱を脇にどけたさつきは、清華の右手側の席にぽすんと腰かけて、嬉々として仕分けの作業に入る。眉根を寄せながら見ていた清華も、しぶしぶ後を追う。
 静かな時間が始まり――長くは続かなかった。
「はい、これ清華あてっ」
 一分もしないうちに、さつきは一枚の紙を清華の前に差し出した。一見ごく普通のB5サイズのルーズリーフだが、複雑怪奇な折り目が付いている。
「あ、これもだ」
 その上に、四つ折りになったピンクの便箋が重ねられた。
「はい、これも☆」
「……ありがと」
 これも、これも、とさつきの手と口は止まらない。積み上がっていく届け物を不満げな半眼で見つめ、清華は深く嘆息した。
「もう半月過ぎたっていうのに、全然落ち着かないわね」
「あたしはべつにいーけどなぁ、けっこー楽しいよ?」
「ひとごとだからでしょ」
 恨めしげにつぶやいて、清華はもう一度重いため息をこぼす。
 生徒会執行部の代替わりを境に、数十年物の『意見箱』はその在りようを変えていた。蓋を開けてみれば、あふれ出たのは新生徒会長への、というより就任以前からいくつかの意味で有名だった清華個人へのメッセージだった。声援、質問、悩み相談、そして個人的感情の吐露。
 ひとりでさばける量ではないが、誰でも見ていいものでもない。
 かくして、クールな、あるいは神秘的な美人――という印象で通っている清華の、実はわりとかわいい困り顔を眺めるのが、さつきの新しい楽しみになりつつある。
 ただ、今週の『意見』の傾向は、先週までとは違っていた。
「ん? ん……んんん?」
 何気なく取り上げたメモ用紙の走り書きに好奇心を刺激され、さつきは軽い気持ちで、手の届く位置にいるその道の専門家に意見を求めてみた。
「清華、さやか、音楽室に幽霊が出るってきーたことある?」
「――さつき」
 きりりとした顔をさつきへと向けた清華は、その問いには答えなかった。
「ほえ?」
「ひとごとじゃないの、来てた」
「へっ?」
 さつきがきょとんとしていると、清華は手元の封筒を掲げてみせた。
「その字……あゆちゃん? 野村(のむら)歩美(あゆみ)?」
「正解。見る?」
「プライベートなのじゃないんだよね? じゃあ……」
 話の先が読めないまま、さつきは手を伸ばした。

          ☆

『間宮清華さま

 こんにちは、2−eの野村です。
 ご迷惑かと思いますが、お便りさせてください。
 (河野さんに伝言お願いするのは、不公平になっちゃうと思うので・・・)

 じつは水曜日から、毎朝、音楽室の床が何か塗りつけたり飛び散ったりしたみたいに汚れてるんです。いつも私が掃除して、何もなかったようにしてるんですけど、こう何日も続くと、黙っているのが怖くなって・・・。
 これって、幽霊とか関係あるんでしょうか?
 もしおわかりなら、どういうことなのか、どうすればいいのか、教えていただけないでしょうか?

  合唱部部長  2−e 野村歩美』

          ☆

「あたし使っていーのに……ってゆーかなにこれ、ってゆーか、こっちとちがう?」
 合唱部員であり、差出人の野村歩美と仲良しでもあるさつきは、広げた便箋とその前に読んでいたメモを机に並べ、その上に困惑を重ねて置いた。
「音楽室に幽霊が出たっていうのは幾つかあったわね。でも、彼女だけ話が全く別なの。あたしが受け取るべきなのは、どっち?」
「わかんない、けど、あゆちゃんネタでデタラメ書ける子じゃないよっ?」
「そう――なら、放ってはおけないか」
(あ……!)
 どきりとして、清華の顔を見直して、さつきは言葉を忘れた。
 学校が、生徒が悪の脅威にさらされたとき、市北部の山中にある由緒正しき神社の娘としても知られる麗しくも無愛想な少女は、我が身が傷つくのもいとわない聖なる守護者に姿を変える。……などということはないが、こうなるのを目の当たりにすると、だいたいそんな感じの気分になる。
(巫女モード入ってる……)
 とは、たぶん怒られるから口には出さないけれど。
 息をのむ。日頃と異なる美しさが花開く(さま)に、目を奪われる。
 音を失くしたふたりきりの空間は、まるで、時間が止まったかのように――


「んしょ、っと、おまたせ〜」
 だしぬけに開いたドアから暢気な声が入ってきて、生徒会室の静寂は破られた。
「あ、ナナさんっ、おかえりっ」
 近所の和菓子屋の紙袋を手に提げて、生徒会会計担当こと二年d組・立花(たちばな)菜々(なな)がぬっと姿を現す。さつきは慌てて頭を切り替えた。
「どーだった? 間に合った?」
「買えたよー、列できててちょっとあせったけど」
 大柄で優しそうな見た目に似つかわしいのんびりした調子で答えつつ、菜々は食器棚と化している書類用スチール棚の一角へと直行した。電動ポットのお湯の量を確認すると、手馴れた様子で湯呑みや皿を取り出す。
「こっちは今日も清華さまファンクラブ事務所?」
「んー、でも今日は妖怪ポスト度急上昇ってゆーか……」
「へーなにどんなの?」
「んとね、なんか音楽室で怪現象が――」
 そこまで聞いて、やりとりを続けながらてきぱきとおやつの準備を進めていた菜々は、なぜか急に声を弾ませた。
「音楽室? じゃあ、ついに?」
「ふぇ?」
 予想外の反応に、さつきはどう返せばいいか思いつかない。
「そうは思えないわね」
 代わりに清華が、仕分け済みの『意見』のうちの一束をいじりながら引き継いだ。
「聞いたことない話よ。入り口に立って、通せんぼするとか何とか」
「ふ〜ん、それはたしかにちがうっぽいねぇ」
「え? え?」
「ん? あ、そっか、さつきちゃん花間(こっち)来て一年もたってないもんね。旧校舎時代のお話とか、あんまりきくきっかけないか」
 さつきが立往生している理由に一歩遅れて思い当たると、菜々は大振りな急須を軽々と持ち上げ、三つ並べた湯呑みに緑茶を()ぎながら、それが自分の役だと心得ていたようにすらすらと話し出した。
「あのね、むかし……」

          ☆

 ――それは、今から二十年以上前のこと。
 ある少女が、ある少年に恋をした。

 少女は合唱部の一年生。
 少年は容姿端麗にして成績優秀、誰からも好かれる吹奏楽部の部長。
 言うまでもなく、それは少女の片思い。
 そして、彼女は知らない。
 その澄んだ歌声と繊細にして優雅なピアノの音色が、それまで特定の個人に思い入れることのなかった少年の心を初めて動かそうとしていたことを――。

 ある日、少女は近く行われる合唱大会の伴奏者に抜擢された。
 内気な少女は考える。私の演奏を先輩に聴いてほしい……。
 その想いは一通の手紙に込められた。
 手紙を受け取った少年は、応えてあげようと密かに心に決めていた。

 だが……

          ☆

「大会の前の日、最後の練習が終わった帰りの道で、その子は交通事故で……」
「……亡くなった……の?」
 さつきが問うと、清華の左手側にさつきと向かい合うよう位置を合わせて座った菜々は小さくうなずいて続けた。
「それ以来、夜の音楽室でピアノが勝手に鳴ったり、小さな歌声が聞こえてきたり、ってことが起きるようになったんだって。この校舎建てるときに神社の人が学校じゅうお清めしたらしぃんだけど、それまではずっと、ぽつぽつあったみたい」
「そうなんだ……」
 怪談とは呼びたくない悲しい恋物語に触れてさつきは目をうるうるさせていたが、ふと最後に現れた一語に引っかかりをおぼえて、こわごわ菜々に訊ねかけた。
「おきよめ? って、まさか退治……されちゃった……?」
「んーそこははっきりしなくて、すなおに消えた説から大決戦説までいろいろあるねぇ。おススメは、清められた場所に近づけなくなっただけでいつか効き目切れたら戻ってくるかも説かな」
「へ〜……じゃあ、また来ること、ありえなくはないんだ?」
「……有り得る有り得ないで言うなら、有り得るわね」
 限定品の葛まんじゅうに舌鼓を打つのに忙しくてしばらく黙っていた清華が、ようやくそこで会話に戻ってくる。
 他で聞けない秘密が明かされるかと、菜々もさつきも注目する。しかし、清華の口から続いて出てきたのは先ほどと同じ、否定的な観測だった。
「でも、今度の話は彼女とは思えないわ。らしくなさすぎる」
「……そーゆーものなの?」
「そういうものなの」
●同日、夜
『だれ……?』
 問う声とともに、青白い光が浮かび上がる。
『何しに来たの……?』
 問う声とともに、青白い光は人の輪郭を描き、そして少女の姿を成した。
『帰って……わたしはひとりで練習するの……邪魔しないで』
 悲しげな目で懇願する。
 しかし、返る言葉はない。
 沈黙のあと、やがて少女は再び闇の中に溶けていく――。
●火曜日、朝
 花間高校本校舎五階・音楽室。
 ひとりぽつんと立っていた差出人――二年e組・野村歩美は、やってきた二人組を見て安堵の表情を浮かべ、それから思い出したように身を固くして、同じ学年の生徒に対する態度としては行き過ぎなほど深く頭を下げた。
「おはようございます、すいません、わざわざ」
「おはよう。――これが、毎朝?」
「初めは、もっとちょっとだったんですけど……」
「ふえ〜……なにこれ、机は汚れてないのに、床が汚れてる?」
 目を丸くして、さつきがとことこと『現場』に近寄っていく。もう乾いているが、床の広い範囲、整然と並ぶ机と椅子の下にまで、濁った緑色の液体を拭き残したような痕跡がはっきりと残されていた。
「幽霊ってゆーより、オカルト? それとも、ホラー系?」
「机をどけて何かして、終わった後で戻したってことでしょ」
「そっか、それなら……じゃあ幽霊ってゆーより、ん〜不審者? 侵入者?」
 気の赴くまま携帯電話のカメラであちこち撮影してまわりつつ、さつきはマイペースに想像を膨らませる。
「そーゆー目で見ると、筆洗バケツ(ふであらい)の水みたいな色……かなぁ」
「夜な夜なやってきては何かを描いている? それも、いまいち現実味に欠けるわね」
 清華は特に『らしい』行動をとることもなく、さつきにつきあって軽く仮説を転がしてみてから、緊張する歩美の顔をまっすぐじっと見た。
「鍵をかけている部屋で起きたことだから、不気味に思うのは解るわ。でも、幽霊よりもまず鍵の管理を疑うのが筋でしょう」
「すいません……」
「それとも何か、気にかかる?」
 目を合わせられず、歩美は視線を床に落としておそるおそる言い返す。
「それは、音楽室っていったら、『真田(さなだ)さん』の……」
「さなださん?」
「例の話の主役」
「あ、むかしの……」
「知っているなら尚更、そうとは思えないでしょう?」
「……ですよね、やっぱりそうですよね」
 内心では清華がそんな風に否定してくれるのを期待していたのか、歩美はあからさまにほっとした声をこぼす。やりにくい、と思いつつ清華がこれからどうすべきか考え始めていると、戻ってきたさつきが歩美に暢気に話しかけた。
「そいえばあゆちゃん、幽霊のウワサは知ってる? あ、最近のほうね」
「うん、あっでも、お手紙書いたときはまだ知らなくて」
 清華を意識しているゆえの固さが抜けないままに、歩美はあたふたと答える。
「きのう部活のとき一年の子たちが言ってて、でもみんなもともとの『真田さん』の話は知らないみたいで、だからわたし――」
「ん? ちょ、待っ、ストップ!」
 飲み込みかけたところで気がついて、さつきは手を挙げて歩美を遮った。
「えっ?」
「それっ、『真田さん』が出たことになってる?」
「そう聞いたよ、だからちょっとびっくりして……」
「って、『意見箱』のには名前なかったし……変わった? いつ? なんで?」
「かなり遅れてるみたいね、あたしたち」
 さつきに困惑に満ちた目を向けられた清華は、ふ、と小さく息を吐いて、それからすぐためらいのない太い視線を歩美に向けた。
「野村さん、この汚れのこと、他には?」
「え? いえ……」
「当分言わないでおいて。それと、今日戸締りする前に少し時間貰える?」
「あっ、はい……」
 歩美はよくわからないまま、都合だけ考えてみてうなずく。
「こっちとあっち、関係あるのかな?」
「これじゃまだ、答えは出せない」
 訊いたさつきに短く答えると、清華は室内に目を向けて言った。
「――今は、掃除を済ませましょう。手伝うわ」
「あっ、あたしもっ!」
●同日、昼休み
 本校舎二階・生徒会室。

  ・おかっぱの女の子
  ・音楽室のドアに近づくとでてくる!
  ・背はひくめ
  ・制服きてる(夏服)
  ・ぼーっと青っぽく光ってる
  ・練習中なのじゃますんな帰れーとかいわれる←泣きそうな顔で

「……何やってんだ、間宮(あいつ)ら」
 会議用の大型ホワイトボードの右端に丸っこい字で記された謎の箇条書きを発見して、生徒会副会長こと二年c組・和辻(わつじ)由威(よしたけ)は呆れ顔でつぶやいた。
「消しとくか……」

          ★

五階(うえ)ひとまわりしてきたよー」
 二年f組の教室。
「収穫はあった?」
 五階、つまり一年生の教室を巡り終えてとことこ戻ってきたさつきに、清華が言葉ほど興味も期待もなさそうな顔で訊いた。
「ん〜それなり? 見た子と、見に行ったって子たちから話聞けたし」
 見に行った、というところで、手にしていた文庫本をぱたんと閉じた清華の眉が動く。が、さつきは気がついても気にせずに続けた。
「まぁ新事実ってゆーと、写真とろうとしたけど写んなかったってくらいだけど」
「そう」
 清華は不機嫌さのこもった短い相槌を打つと、間髪入れずさらに問う。
「それで? 『それ』がいつ、いかにして『真田さん』になったのか明らかにするために聞き込みに行ったんじゃなかった?」
「んーそれがねぇ、目撃者さんたちそろいもそろって話じたい知らなかったってゆーし、ほかの子もみーんな、なんかあやふやなんだよねぇ……ネットで見たってメールまわってきた、みたいなのばっかりなの」
 さつきは腕組みして、難しい顔をしてみせる。その様子を胡散臭げに眺めつつ、清華は一息おいてから当座の結論を口にした。
「――つまるところ、誰も見て判断してはいないのね」
「えーそんなのムリでしょ? 見たことある人なんて、今の生徒にいるわけないし」
 さつきの文句に、清華はやはりご機嫌斜めな声音で言い返した。
「わざわざ見に行くほど興味があるなら、そのくらい調べられるでしょ」
「……られるの?」
●同日、放課後
 本校舎二階から東館の二階へと繋がる空中回廊の緩やかな下り坂が終わると、そのすぐ右手に図書館の入り口がある。
「はろー美那(みな)ちゃん☆」
「あ、河野さん、こんにちは」
 先に入ったさつきが、カウンターの内側へ親しげに呼びかける。すると当番の図書委員ふたりのうちほっそり背の高い女子生徒が、控えめな微笑みを返してきた。
「こんにちは」
「あ……」
 続いて姿を現した清華を目にして、その頬にぱっと紅色が差した。
 雪のように白い肌との鮮やかなコントラストが、緊張を傍目にも感じさせる。さつきはきょろきょろと双方の顔を見て、んん? と首をかしげた。
「あれ? 何回も会ってるよね?」
「挨拶くらいは交わしてたけど、面と向かってきちんと話したことはなかったわね」
「はい、あの、河野さんの合唱部の後輩で、一年g組の湯沢(ゆさわ)美那です……図書委員をしてます、よろしくお願いします」
 硬さの中に隠し切れない憧憬をのぞかせながら、形にしないよう丁寧というより慎重に言って、美那は大きく一礼した。
「今日は、生徒会のほうでご用ですか?」
「下で少し調べ物したいんだけど、立ち会いお願いできる?」
「えっと――はい、すぐ準備しますので少々お待ちください」
 もうひとりの図書委員と目で話した美那は即答すると、カウンターデスクの裏を探ってバインダーを一冊取り出し、大事そうに抱えて受付ブースから出てくる。その一挙一動を無言で見ていた清華は、程なく眼前に立った美那のやや青みがかった灰色の瞳を、じっと下からのぞき込んだ。
「あなたは、幽霊っていると思う?」
「え」
 抜き打ちの問いかけに、美那は一瞬固まったあと自信なさげに答えた。
「存在は、すると思います、見たことはないですけど……あの、もしかしてこのところの噂のことで、何かお気に……?」
 清華はわずかに頬を緩めた。
「ええ、気に入らない」


 館内の階段を下っていった先、閉架書庫の入り口へとつながる廊下に毛が生えたような細長い空間には一応、『第二閲覧室』という名前がついている。
 中央の机を取り囲むガラス戸付きの書棚には、旧制中学時代からの校内史料や郷土資料などが収められている。持ち出し厳禁のそれらは、教師もしくは図書委員の同席のもとでのみ、紐解くことが許される。
 表紙に手書きで『当校関連新聞記事』と記されたスクラップブックを十冊ほど引っぱり出して、無数の活字を追うことしばし――やがてさつきが、目的のものを掘り当てた。
「清華……」
「あった?」
「うん、事故の記事……」
 その重みを感受しているさつきに、左隣の清華は黙って肩を寄せた。
 高校入学後のものは手に入らなかったのか、下に『真田響子さん(15)』とある粗い白黒の写真は中学の制服らしいブレザー姿だった。いかにもおとなしそうな、悪く言えば気弱そうな、幼さの残る顔がこちらを見ている。
「美那ちゃん、これ写真とっていい?」
 少し離れて侍女のように静かに控えていた美那は、呼ばれてすぐに反応した。
「あっだめです、すみません……コピーでしたら、記録が残ってもよければ……」
「記録? なんか書けばいーの? すぐできる?」
「はい、そしたらこれ、記入お願いします」
「って早っ!」
 さつきは思わず声をあげた。複写申請用紙とボールペンがもうそこにある。
「じゃああたし、コピーとったらもっかいキキコミいってみるね。清華どーする?」
 訊かれた清華は手元のスクラップブックを閉じて、美那に目を向けた。
「そうね、もう少し――」


「これ……ですね」
 さつきを送り出し再び第二閲覧室に下りてきた美那は、清華の注文を受けて、電子式のナンバーロックで護られた書棚を開けると卒業アルバムの列から一冊を引き抜いた。
「ありがとう」
 受け取った清華は、その場でおもむろにページをめくる。美那はそこに記された当時の校内の光景を目にして、あ、と声をもらした。
「何か、気になった?」
「いえあの、ただわたし知らなくて、このころって今と違って……」
「何が――そうか、帰国子女って話だったわね。長い間、離れていたの?」
「はい、小五の夏まで、九年くらい」
「だったら知らなくても無理ないわ」
 恐縮する美那にさらりと言い切って、清華は再びアルバムのページを繰り始め、そして半分を過ぎたあたりで手を止めた。
「……あった」
 美那にも細かい文章が読めるよう、机の上に広げて置く。
「今すぐさつきを追いかける必要はなさそうね」
 くだんの事故さえなければ『真田さん』の日々も記されているはずだったそれには特別に、彼女を偲ぶための一章が設けられていた。モノクロ印刷の見開きは文章が主で、級友だけでなく本来の噂に登場する吹奏楽部の部長の名前もある一方、写真は学生証用らしきものと学校祭の準備風景から切り出したようなもの、小さな二枚しかない。
「あぁ……」
 素早く目を通して、美那はつぶやいた。気に入らない、が腑に落ちる。
「『真田さん』が音楽室に来るのは、練習のためじゃないんですね……」
「ええ。きっと、よく知らないのね」
(……!)
 落ち着いて揺るぎのない声が応える。交わった視線に無形の重さを感じて美那は思わず後ずさりしそうになったが、それはすぐふっと軽くなった。
「終わりにしましょう。湯沢さん、ご苦労さま」
「あ、はい、お疲れさまでした……あとは、わたしが片付けておきます」
「そう? じゃあ甘えさせてもらうわ」
 清華はアルバムを閉じ、両手で美那に手渡す。
「あなたがいてくれてよかった。また何かあったら、よろしくね」
 去りぎわに見せた微笑は、これまでの想像をはるかに超えて柔らかい。
 知らず頬を熱くした美那は、階段を上っていく清華が完全に見えなくなるまでその背を目で追い続けていた。
●同日、夜
『だれ……?』
 問う声とともに、青白い光が浮かび上がる。
『何しに来たの……?』
 問う声とともに、青白い光は人の輪郭を描き、そして少女の姿を成した。
『帰って……わたしはひとりで練習するの……邪魔しないで』
 悲しげな目で懇願する。
 しかし、返る言葉はない。
 微かに聞こえるつぶやきは、語りかける声ではなく。
 それが途切れると、今度は小さく短い電子音が響いた――。
●水曜日、朝
「ん?」
 清華と一緒に昇降口にやってきたさつきは、靴を履き替えるタイミングで清華の動きが止まったのに気がついて不思議そうな声をあげた。
 見ると、靴箱からこぼれ落ちたらしい一通の封筒が足元に転がっている。
「あーっ! なになに、らぶれたー?」
「そういうものに見える?」
 目を輝かせて迫るさつきに、清華は拾い上げたそれをあっさり手渡した。異様なまでに色褪せた横型の封筒で、表の側には何も書かれていない。
「そーゆーものじゃなかったら、誰がどーゆーもの入れる?」
 からかうように言いつつ裏返してみて、さつきの頬から笑みが消えた。
「え? な……、さ、これ……!」
「何よ」
「これ、ここっ!」
 差出人の名前を指し示す。
 ――そこには、『真田響子』とある。
「そんなの真に受ける理由がないでしょ」
「でも見たって子たちみんな、あの写真の子だったって……」
 清華は面倒臭そうに、さつきは不服そうに。ふたりが言い合い顔を見合わせていると、突然そこに振動音が割り込んできた。
「お?」

          ★

「……なんか、やなかんじ……」
 音楽室。
 モップを手に汚れと戦う合間に、さつきが気味悪そうに言い出した。床に残されている色は、昨日よりも暗く、重い。
 黒板には『夜間この部屋を利用されている方へ』と題された、押しの弱いメッセージが昨夕のまま残っている。末尾に歩美の名前が記されているが、これは清華の字だ。
「ねえこれ、血とかまざってたりしないよね……?」
 清華は掃除には加わらず、教室の中を歩き回っていた。立ち止まるたびに、カーテンの陰や机の裏側などから、七夕の短冊に似た長方形の和紙が現れる。毛筆の崩し字が表面で踊る、いわゆる『お(ふだ)』のイメージに(たが)わないそれらは、染みができていたり皺が寄っていたりと、少しずつ傷みがある。
「あたしに言われても、嗅ぎ分けなんてできないわよ」
「……うぅ〜」
 ひと回りし終えると清華は、集めた札を机の上に一枚一枚並べ始める。こういうものにこれまで縁がなかったらしい歩美は、黙々とモップを走らせながらも、清華の『しごと』ぶりについつい気がいってしまうようだった。
「ねーえー、なんかわかったー?」
 やる気が切れてきたさつきの声に、清華は教室の中央を指差して無愛想に答えた。
「その辺り中心に、呪術的なものの(あと)がある」
「えっ!?」
 近くにいた歩美が驚いて、びくっと大きく体を弾ませる。
「それってもしかして、汚れてるとこぴったり?」
「机の配置が変わってるから正確ではないけど。十時間くらい前ね」
「誰か来てるのは、決まり?」
「そうね」
「……じゃあ、あっちに出てくるのは?」
「中がこうなら――」
 こちらを見ていない清華の目つきが、一瞬険しくなった……と、さつきは思った。
「――野村さん、悪いけど今日も放課後時間もらえる?」
「え、あっ、はいっ」
●同日、昼休み
「ただいま〜」
「おかえり」
 購買の茶色い紙袋を手にさつきが生徒会室へ戻ってみると、清華はもう昼食を済ませてしまったようで、会議机の上は紙だらけになっていた。今朝回収した使用済みの札の束と書き上げたばかりらしい新しい札、まだ札になっていない白紙、そしてそれらに加えて、例の古い封筒が置かれている。
「なんて書いてあった?」
 訊きつつ、さつきは袋から緑茶の紙パックを取り出して掲げてみせる。清華は十秒ほど無視して作業を続けてから集中を解き、筆を置いて答えた。
「お話ししたいことがあります、今夜音楽室で待ってます――だって」
「じゃあ……」
「見立ててるだけよ、『真田さん』の告白に」
 受け取った紙パックの端を開き、続けて手渡されたストローを挿して、ほんの少し唇を湿す。その間にさつきは、作業の邪魔にならないよう少し離れた席につく。
「これは、こういうもの」
 清華は使用済みの札を一枚取って、ほら、と封筒の上にかざす。すると、札の表面に、見る間に縞模様が浮き出してきた。
「ふえ……音楽室のと、おんなじ?」
「古く見せるための小細工と、その他にもありそうね。あそこでこそこそやってた誰かが準備万端整って招待状を寄越したってところかしら」
「えー、準備ってなんの?」
「知らない。あたしに見せたいものでもあるんじゃない?」
「それ招待状ってゆーか、挑戦状とか、果たし状なんじゃ……」
 よくない想像を口にしたさつきは、待ってみても清華がそれを否定しないので、諦めて置きっ放しにしていた机上の携帯電話に目をやった。『新着メールあり』を示すランプの明滅に気づいて、手に取りぷちぷちと操作する。
「あー!」
「何?」
「見て見て、美那ちゃんから、こんなの手に入ったって!」
 さつきは清華の脇へ駆けていくと、携帯電話を突きつけた。画面には、青白く光る制服姿の少女のバストショットがはっきり映っている。
「撮れないって話じゃなかった?」
「絶対ムリでもないんでしょ? 清華そーゆー顔してるし」
「まあね」
「いじわるっ、で、これってやっぱりあの写真の……だよね?」
「その『真田さん』には、決定的な間違いがあるわ」
「まちがい? ……あ!」
 見直してみて、はっとして自分の胸元を見下ろして、さつきは驚きの声をあげる。それから向けられた視線を、清華はがっちりと捕まえた。
「――さつき」
「な、に?」
「せっかくのお呼ばれだし、今夜行ってみましょ」
「あ、うんっ……ん?」
 答えてしまってから、さつきは自分が同意したばかりの清華の提案にはきわめて重大な問題点が含まれていることに気がついた。
「……って、あたしも……?」
「見られるなら、見たいでしょ」
「う……」
●同日、夜
 ふたつの足音が不揃いに、控えめなボリュームでリズムを刻む。
 正面玄関上方、生徒会室の真上にある大時計の針は八時半をまわっている。校舎に残る灯りは少なく、人の気配もほとんどない。
 階段を上りきる。階段の正面は、一階は玄関と昇降口、二階は生徒会室、三階と四階は特別教室だが、最上階である五階はすぐ目の前が窓になっている。そのおかげで、廊下の照明は落ちているがあたりはさほど暗くはない。
 左を向くと、音楽室の入り口がすぐそこに見える。
 音楽室を使用する吹奏楽部および合唱部の今日の活動はとっくに終了しているはずで、入り口の引き戸は閉ざされている。はめ込みのガラスの向こう側にある備え付けの暗幕が引かれているために、中の様子をうかがうことはできない。
『だれ……?』
 待つほどの間もなく、青白い小さな光の球が生まれ出る。
『何しに来たの……?』
 それが弾けたとき、そこには少女の姿があった。


(いた……!)
 清華が前に出る。さつきはついていかずに、『音楽室の幽霊』に見入った。
 あの写真と同じ顔の、半袖の制服を着た小柄な少女だ。背丈はさつきとほぼ変わらず、150センチちょうどというところだろうか。
「こんばんは」
『帰って……わたしはひとりで練習するの、邪魔しないで……』
 いかにもな残響を引き連れて、見た目を裏切らない高めの声が懇願する。
「変ね、あなたがあたしを呼んだはずなんだけど」
『帰って、邪魔しないで……!』
「困ったわね。じゃあ、こうすれば判ってもらえる?」
 言いつつも困るそぶりなどかけらもない清華は、左手に提げていた巾着から例の封筒を取り出してみせる。すると、途端に少女のまとう光の色が黄色っぽく変わり、沈んでいた表情が一気に晴れ渡った。
『来てくれたんですね! うれしい……それじゃ、中に、入ってください!』
「……フラグ、立った?」
 こぼれ出たさつきのつぶやきを聞き流しながら、清華は封筒を巾着に戻す。結果、光は元の青白い色に戻り、少女の表情は再び悲しみに沈んでしまった。
 しかし、どうやら自分が口にしたことと、それで墓穴を掘ってしまったことは理解しているらしい。華奢な肩が震えている。合わすまいとする目に、涙が溜まる。
『かえ……わ……わた……』
「――もう、結構」
 後ろで聞いているだけのさつきでもぞくりとするほどに、声の温度が一気に低下する。矢に射抜かれたかのように立ち尽くす少女を見据えて、清華は鋭く言い放った。
「あなたは真田さんじゃない。つくりもののニセモノ」
『わ……』
「なぜその姿でここにいるのか説明しなさい。できないなら、今すぐ去りなさい」
『わたし、わた……わ……ぁ、た……っ!』
 話したいのに、そのための言葉は与えられていない。そう思わせる悲痛な声を残して、少女の姿は揺れて、溶けて、崩れて、小さな光の球に戻って、弾けて、消えた。
「……これで、おしまい?」
「違うわ、ここからが本番」
 訊いたさつきに、振り向いた清華は怖いくらい冷静に告げた。
「彼女は招待状を持ってきたあたしを中に入れようとしてた。だから、この向こうに今、本当にあたしを待ってる誰かがいるはずよ」

          ★

 鍵はかかっていなかった。臆することなく音楽室に踏み入った清華は、すぐそこにある照明のスイッチをすべて一気にオンにする。
「……っ!」
 見えた瞬間、さつきは胃の中のものを戻しそうになった。
「……これを隠すために、『真田さん』の話を利用したってこと?」
 清華は苦く厳しい表情で、しぼり出すように言葉を吐いた。
「こんなもののために……!」
 そこにあったのは、日常とはあまりにかけ離れた光景だった。
 すべての机が隅に寄せられた音楽室の床に、大きな円が描かれている。
 不可解な文字やら記号のようなものがごちゃごちゃと記された円の中心のあたりには、おびただしい鮮血が飛び散っている。――そして、その源となったであろうものが、元の形をかろうじてとどめながら横たわっている。
「や、だ……っ!」
「ごめんねさつき、ちゃんと考えれば考えられることだった」
 半泣きでしがみついてくるさつきをなだめながら、清華はいったん音楽室から出ようとゆっくり動き出す。
 そのとき、照明は点いたままのはずなのに、室内がふと暗くなった。
『ふふふ……』
 そこへ、先ほどの少女とは違うが、しかしやはり妙に残響の目立つ笑い声が響いた。
「ふえ……!?」
 続いて、床の円の縁をぐるりと紅い光が走った。内側の文様も光り出し、音楽室をぼんやりと下から照らす。
「……お出ましね」
 いつの間にか、円を挟んだ向こう側に何者かが立っていた。
 しかし、その姿は、間にすりガラスでも立ててあるかのようにひどくぼやけて見える。背が高そうなのは何となく判るが、顔の造作などはまったく掴めない。
『ようこそ、わたくしの実験室へ』
 音質を落としたうえに何重にも加工したような不自然さのある女性の声で、その人物は楽しげに清華に語りかけてきた。
『早かったわね。やっぱり、あんなものでは本職の人間は騙せないかしら?』
「それ以前の問題――違うわね、問題外」
 吐き捨ててから、清華はそう言い切る理由を(つまび)らかにしてみせた。
「目にさえすれば一目で判るわ。花高伝統のセーラーって言っても、今のこの形になったのは、九年前の新入生からだもの」
(……うん、あの子、こっちだった……)
 今や目撃者であるさつきは、その説明に嘘がないことを確信できている。相手の表情は読めないが、黙り込んでいるところをみると痛い指摘だったようだ。
「それであたしに何の用? 練習とやらの成果を披露してもらえるの?」
『……まあ、そんなところね。少し、実験につきあっていただこうと思って』
 一応立ち直ったようで、清華の刺々しい問いに答えが返ってきた。
『このところ魔獣の召喚に凝っているのだけれど、ただ出したり消したりでは物足りなくなってきたものだから』
「まじゅーの、しょーかん……?」
 ゲームなどでなら聞かないこともない語の組み合わせがどう現実に適用されるか考えてみて、さつきは望まない答えを導き出した。
「ってことは、これからそこから、なんか出て……」
「そうみたいね」
 大きく嘆息して、清華は円の中央に目をやった。
「……くだらない」
 そこでは今まさに、この世のものならぬ唸り声とともに、この世のものならざる何かが姿を現そうとしていた。
 沼の底から這い上がってくるかのように音楽室の床を波打たせて、それは右の前脚から現実の存在となっていく。生暖かい臭気をたっぷり浴びせられ、清華は不機嫌そうに顔をしかめる。
『さあ、出てくるわよ?』
 余裕の戻った声が告げる。
「清華……っ」
「下がってて」
 咆哮の近さにおびえるさつきを、清華は背後へと押しやる。暗幕に覆われた東の窓辺に立つことになったさつきは、ついでに巾着を押しつけられ、慌てて抱え込む。
「どういう筋の呪術(もの)かは知らないけど、どれもこれも悪趣味ね」
 あちらには届いていないかもしれないが、さつきには清華のつぶやきが聞き取れた。
(怒ってる……)
 ぱんっ、と手を打ち合わせる音が響きわたる。
 それに応えるように、鈴の()がちりりんと鳴った。
(上?)
 見上げて、さつきは日が暮れる前に分厚い札の束と脚立を持ち込んで何やらやっていた清華の姿を思い出す。
「そこから外へは、出させない」
 右手を掲げ、清華は人差し指で空中に円を描く。そうすると、眼前に現れた『もの』へと、頭上の闇の中から数条の白い光の帯が降り注いだ。
『なっ……!』
 始まろうとしていた戦いが、始まる前に終わってしまった――それが結果だった。
 強いて言えば熊のように見える異形の獣は、天井からの光に押さえつけられているかのように床に這いつくばっていた。必死で抗っているらしく荒々しい呼吸音が聞こえてくるが、四肢を動かすこともできていない。
『仕掛けてあった……? どういうこと、わかっていたとでもいうの……!』
「いいえ。だからその分、豪勢よ」
 愕然とした声に、清華は平然と言い返した。
「――呼ばれるほうも迷惑よね、こんな不確かな形しか与えられないなんて」
 雪像さながらに、早くも獣の姿が溶け出しつつある。恐れることなく近寄った清華は、いつの間にか手にしていた一枚の小さな札を獣の頭部にかざした。
「帰りなさい。在るべきところへ」
 言葉を引き金に、札が目も眩むほどの黄白色の光を放つ。
 そして、その光が去ったあと、そこに獣の姿はなかった。ただ、蛍が飛ぶかのように、たくさんの光の粒が部屋の中を舞っていた。
『……ばかな!』
「余りは、そっちにあげる」
 愕然と叫ぶ声に、清華の普段より低い声が追い討ちをかける。
 再び天井に向けた指が円のあちら側へと振り下ろされると、無数の閃光がその示す先へ突き刺さっていく。ガラスが割れるような音が繰り返されてから、がらがらと崩れ落ちる派手な響きが音楽室全体を震わせる。
 それが収まると、ほの暗かった部屋は元の明るさに戻る。そして同時に、円の向こうに立つ人物の姿が鮮明になっていた。
(え……えー?)
 さつきは自分の目を疑った。
 悔しそうに清華をにらみつけているのは、やけにゴージャスなプロポーションの長身を黒光りするボディコンシャスなワンピースで包んだ、年齢不詳の女性だった。
 ……いや、若いようには見えるのだけれど、服装といい前髪の豪快な立てっぷりといいメイクのくどさといい、流行遅れどころではない古さを醸し出すその恰好は、同じ時間を生きている人間のものとはとても思えない。こんなに堂々と立たれると、見ているほうが恥ずかしくなってしまう。
「無粋な……!」
 当然のように、もうひとつの加工も解けている。ややハスキーな声が毒づく。
 面白くなさそうな調子で、清華が訊ねる。
「あなたは、どうする?」
「く……!」
 短いうめき声をもらすと、謎の人物はあろうことか、開いていた西側の窓へと一直線に走り出した。
「覚えてなさい、次は必ず……!!」
 そんな類型的な捨て科白(ぜりふ)を吐いて、迷うことなく窓から外に飛び出す。
「ちょ、あぶな……っ!」
 目下敵対関係にある相手のすることとはいえ、さすがに血の気が引く。気味が悪いので円は大きく避けて、さつきは黒板の前を通って窓辺に駆けつける。
 と、ばさりばさりという異音が耳に届いた。
(ん?)
 階下をのぞき込もうとしたさつきが何の音だろうと考え始めるより早く、下から巨大な黒いかたまりが、ものすごい勢いで迫ってきた。
「わ!」
 たじろいださつきの目に映ったのは、鳥のように見える何かだった。
 鳥だとは思えなかった。仮に人を軽々と背に乗せその人の意に従う鳥などというものが存在するとしても、こんなところにいるなんてことは絶対ない、と思う。
「え……えー?」
 窓枠の向こう側の光景をさつきが受け入れられないでいる間に、謎の人物を乗せた鳥のようなものはさらに高く舞い上がり、遠くに消えていく。
「ずいぶん用意がいいのね」
 ぽかんと口を開けて見送るさつきの隣に並んで、清華が評した。
「あれも、実験とやらの成果なのかしら」


「――さて」
 音楽室の中へと振り返った清華は、世間話と同じ調子で厳然とした事実を述べた。
「あとは、これを何とかしないといけないわね」
「あ……」
 改めて目にする室内の惨状に、さつきは絶句した。
 謎の人物が放棄していった『実験室』は、そもそも何を使って描いたのか不明な円と、生贄に使われた小動物の亡骸と血、円から出てきた獣の残した液体などでぐちゃぐちゃになっている。どこからどう手をつけていいのか、頭が働かない。
「あたし……も……?」
 答えが判っていても、さつきは訊かずにはいられなかった。
●翌週月曜日、朝
「おはようございます、おねえさま♪」
 ――と、正門での恒例の儀式の間は清華から離れていたさつきが、昇降口で追いついて鈴を転がすような声で呼びかけた。乙女ちっくな身振りまで足したあからさまな演技に、清華いじり以外の意味はない。
「……電話、鳴ってる」
「ふぇ? ん、あれ?」
 呆れ顔の清華に指摘されて、さつきは肩に掛けたトートバッグの中を探る。ごそごそとかき回し、底に沈んでいた携帯電話を何とか引っぱり出す。
 そのとき、そわそわした様子の歩美が、こちらも携帯電話を手に階段を下りてきた。
「あっ、おはよう、ございますっ」
 ふたりに気づいた歩美の手元の動きに合わせて、さつきの手の中の振動が収まる。
「おはよー、これあゆちゃん? どしたの?」
「うん、えっと……」
 さつきに問われた歩美は、清華に目を向けた。
「……すいません、あの、音楽室に来ていただけませんか?」
「また?」
「いえ、それが、そうじゃないんですけど……」

          ★

「――いるわね」
 流れるようなピアノの旋律が、上から聞こえてくる。
 階段を上りきる前の踊り場で足を止めた清華は、(はた)から見ればその音の他には情報など何もない状況にもかかわらず、迷うことなく断定した。
「だれか先に来てるだけだ……よ……ね?」
「でも、鍵、まだ……」
 歩美の左手には、いつも通りに職員室で借りてきた鍵が握られている。
 それが所定の場所にあった以上、閉め忘れというのは考えにくい。となると、何者かが何らかの正当でない手段を用いて音楽室に侵入し――ピアノを弾いている、という判断をするしかない。
 では、そんなことをするのは何者なのか、というと。
「それ貸して」
「あ、はいっ」
 歩美が差し出した鍵を手にすると、清華は残りの階段を上り始めた。上りきってすぐに左手、音楽室のあるほうを向くと、スカートのポケットから取り出した短冊状の紙束から一枚引き抜いて宙に流す。ひらひらと舞ったそれが戸板にぴたりと貼りついたところで、すたすたと歩み寄っていく。そしておもむろに鍵穴に鍵を差し込み回す、が、そこでするはずの音はまったく聞こえない。
「……あれ、音……?」
「……うん、音……」
 歩美とさつきが後ろで顔を見合わせているうちに、清華はさっさと引き戸を開け放ち、短く鋭く一喝した。
「こらっ!」
『きゃ!』
 ピアノの音が、唐突に止まった。
「……いま、声……」
「……うん、声……」
 後ろでひそひそ言い合っているさつきと歩美のことは気にせずに、清華は音楽室の中へ踏み込んでいくと、顎を少し上げて視線を一箇所に定めた。
「そこのあなた、こっちへ来なさい」
『はっ、はいっ』
 眼光が射掛けられた先から、まず返事だけが聞こえる。
 そして、それに驚いている暇もなく、全身に青白い光をまとった人の姿が、突如として空中に出現した。
(ホンモノだ……!)
 直感して、さつきは目を見張った。図書館で見つけた写真と同じ顔をした、気弱そうな小柄な少女――その身体を包む半袖の制服はたしかに、こちら側の三人のものとは違っている。
「真田響子さんね」
『はい、あ、あの……ごめんなさい、おじゃましてますう』
 清華の鋭い目つきに気後れしながら、床に立つのとほぼ同じ高さに下りてきた少女は、申し訳なさそうに言って(こうべ)を垂れた。
「どうしてあなたがここにいるの」
『えと、久しぶりに、ピアノに触りたくなって……』
新校舎(こっち)の音楽室は、あなたにはゆかりのない場所でしょ」
『それは、でも、このピアノはわたしが使ってた……』
「――そうね、じゃあそこは譲るわ。でもそれはそれ、今何時だと思ってるの?」
『楽しくて、つい時間経つの忘れちゃって……』
「幽霊としての領分を(わきま)えられないなら、来ないでくれる? 迷惑だから」
『え、そんなぁ……』
「そこまで言わなくても……」
 気の毒になって、さつきはついひとりごちた。
 清華に強い口調でたたみかけられて、正真正銘の『音楽室の幽霊』はすっかり萎縮してしまっている。だんだん透け具合が強くなってきて、そのうち消えてしまいそうだ。
「ねえ、あゆちゃ――」
 同意を求めて、さつきは隣の歩美にささやきかける。しかし歩美はそれには気づかず、何やら意を決した様子で前に向かっていった。
「あのっ!」
「……あゆ、ちゃん?」
「あの、でも、ピアノ、すごくいいと思いますっ」
『え……ほんと、ですか?』
「あれ去年課題曲でやったんですけど、どうしてもcoda(コーダ)に入るところで引っかかってぎこちなくなるって伴奏の子すごい悩んで、でも今のなめらかで……」
『あっわかります! わたしも、あそこはかなり試行錯誤して――』
「ほえー……」
 あっという間に意気投合してしまった歩美と『真田さん』は、どちらも活き活きとした表情で話を弾ませる。取り残されて、さつきは気の抜けた声をもらす。
 そこへ、険は消えたものの何を考えているか判らない仏頂面になった清華が、ふたりのそばを離れて歩み寄ってきた。
「さつき」
「ん?」
「あとお願い」
「あと? え?」
 言うだけ言って、清華は音楽室を出て行ってしまった。
「って、え、どうすればいいの?」
 おたおたしていると、おずおずとした声が呼ぶ。
『あのお……』
「ほえ?」
 振り向くと、すぐそこで『真田さん』がもじもじしながらこちらを見ていた。
 危険はない――はずだけれど、身体が強張る。
「え、えっと、なに……かな?」
『わたし、もうここに来ちゃ、だめですか……?』
 胸の前で祈るように手を組み、不安げに少し声を震えさせ、身長に差はないはずなのに下から迫ってくる。何もしていないのに、なぜか罪悪感がこみ上げる。
(ダメなら、ダメってびしっと言ってくよね……)
 お願いされた時点で、清華の中では結論が出ていたはずだ。決めていかなかったということは、こちらでは決めない、好きにしなさいということのはずだ……が。
(あゆちゃん動いたの見て話やめたんだから、そうだよね? よね?)
 とは思いつつも、さつきは結局、硬い笑みといまいち自信の足りない声で言い返すことしかできなかった。
「……んと、べつに、いいんじゃないかなあ?」
●同日、放課後
「そっかぁ、じゃあ今度こそついにだねぇ」
 さつきから朝のできごとを聞いた菜々は、そう言うと嬉しそうに笑った。
 本校舎二階・生徒会室。
 今週も満杯だった『意見箱』からは色とりどりの紙があふれ、生徒会執行部女子三名は定例会議の次の仕事に取りかかっている。
 おのおのの目の前には、ゆるやかに湯気をあげるティーカップと、菜々が調達してきたあずき入りカステラを載せた小皿が並ぶ。それらを消費する行為まで含めて、この仕事は今日も一時間では終わりそうにない。
「なんかおしゃべりした?」
「もう来ちゃだめかってきかれたから、べつにいーんじゃって……よかったよね、あたしまちがえてないよね?」
「いいんじゃない、別に」
 順調に積み上がりつつある自分宛ての手紙をほとんど機械的に処理しながらそっけなく言い返した清華は、反応が来ないのに気がついて、顔を上げてさつきを見た。
「まだ、続きがあるの?」
「あゆちゃんたちすっかり盛り上がっちゃって、そのうち真田さん合唱部の練習のぞきに昼間に来ちゃうかも……どうしよう?」
「それは合唱部(そっち)の問題。自分たちで決めなさい」
 突き放すように清華は言う。しかしそれは裏を返せば、ちゃんと考えて決めたなら口を挟む気はないという宣言でもある。
「……そだね、あゆちゃんと、みんなと、話してみる」
「会えるようになったら、また花高(うち)のフシギが増えるねぇ」
 菜々はいたって楽観的に今後の展開を予想している。歩美といい、菜々といい、事態を受け入れるのが早すぎるとさつきは思う。
(土地柄……なのかなぁ?)
 さつきにとってこの街の代表的かつ象徴的な存在である清華は、おかわりが必要そうな勢いでカステラをつまみながら、相変わらず渋い顔で作業を続けている。
 さつきは軽くカップに口をつけ、ほぅっと息をつく。
 そして、解決していない問題があとひとつ残っていたのを、なんとなく思い出す。
(……あの怪しいひと、結局なんだったんだろ?)
「はい間宮さん、追加♪」
「ありがとう、ああもう、いつまでこんなこと続けなきゃいけないのよ……!」
 ――静かな時間は、長くは続かない。