今日も日常的な日常 - Days of Wonder -
『三本目の尻尾とふたりの帰り道』
●prologue
「はじめまして、河野(こうの)さつきですっ」
 ぺこりん、と大きくお辞儀して、おろしたての制服に三つ編みおさげの小柄な女の子があどけない笑顔を咲かせる。
 二学期最初の朝、県立花間高等学校本校舎五階・一年d組の教室。
 おっかなびっくりな自己紹介に不揃いな拍手が注がれて、いっときの主役はほっと息をつく。その隣で、年のころは二十代後半、タイトスカートの黒スーツに黒ぶち眼鏡の一見生真面目そうな担任が、しかしくだけた口調で呼びかけた。
「すぐ始業式だから、お決まりの質疑応答なんかは空いた時間にてきとーにやっといて。河野さんはわかんないことあったら遠慮なく訊く。訊かれたまわりの者は、全力つくして教えたげるよーに」
 そして、もう一言、どこか悪戯っぽく笑みを浮かべて付け加える。
「特にとなりの間宮(まみや)さん、いい?」
 その瞬間、遠慮がちなどよめきが起こった。


(――ほえ?)
「はい」
 きょとんとしていると、ひとりの生徒が立ち上がる。
 吸い寄せられたさつきの目は、そのまま釘づけになった。
(うわー、きれーい……)
 きりりと引き締まった、ややきつめの細い面。
 きっちり一つに束ねた、つややかな長い黒髪。
 同じ制服を着ていながらまるで自分とは別のものでできているかのような、ただ立っているだけで絵になる凛とした恰好良さに、思わず息をのむ。
「間宮清華(さやか)。よろしくね」
「……あ、はっはいっこちらこそっ!」
 さつきの返事は、まるまる二秒遅れた。
●monologue
 そんなこんなで始まった、こっちの町での新生活。
 となりの間宮清華さんは、知的でクールな和風美少女!
 (ついつい見とれちゃってるのは、ないしょにしといてもらえると……汗)

 ……ただ、どこかちょっと、
 ふしぎなフンイキするひと……なんだよね……。
●水曜日、放課後
「ふゃっ!?」
 突然、ふとももの付け根あたりを、ふわふわしたもので撫でられたような――。
 両足の力が抜ける。身体のバランスを崩したさつきはとっさに、右隣に立つ同じ制服の少女にひしとしがみついていた。
「……わ、や、ごめんなさいっ!」
 夕方というにはまだ早い時間の、花間駅ゆきのバスの中。
 そこそこ混んでいる車内は、路線上に点在する学校の生徒たちでほぼ占められている。声の届いた範囲から、無遠慮な視線が一斉に集まる。
 しかし、確かに感じたはずのそれらは、さつきが姿勢を立て直すころには痕跡も残さずばらばらに散っていた。
「あの、ほんとにごめ……」
「こっちは平気」
 おそるおそる見上げると、教室では左隣の席に座る同級生・間宮清華――転入間もないさつきの面倒をみてくれている『となりの間宮さん』は、大人より大人びた平素の表情を無造作に投げてよこした。
 驚くほどに、まったく動じていない。
「――どうかした?」
 続けて単刀直入な、ただボリュームはだいぶ落とした問いかけが下りてくる。口にしていいものかとしばし迷った末に、さつきは消え入りそうな声で証言した。
「いま、おしり……なんか……」
 消え入ったのと、次のひとことが降ってきたのとは、ほぼ同時だった。
「人は、いないわ」
「ぁ……」
 きっと、言いたかったことは正しく伝わっている。返答にはなっている。
 自分でも、振り返るまでもなく知っている。次の停留所まではまだまだ距離があるから人の動きはないし、近くに立っているのは同じ停留所から乗ってきた近所の女子高の生徒二人組くらいで、しかも手の届く距離ではない。
 目で見る限りでは、何も起きてはいない。
 触られた――ということは、ありえない。
「……うん」
 それきり会話が止まってしまう。
 今さら雑談もできず、さつきは大して興味なさそうに窓の外を見はじめた清華の端整な横顔を、黙ったまま不安げな目で見上げる。
(でも……ぜったい、気のせいじゃ……)
 思っても、口にできない。
 さつきは目を伏せうつむいた。

          ★

「納得できない?」
「ふぇ?」
 唐突に言われて、さつきは間の抜けた声をあげた。
 花間駅前バスターミナルに着いたふたりは、さつきが次に使う路線の乗り場へと並んで歩いていた。市の北部から私鉄電車で『出てきて』いる清華は、さつきを見送ったあと、少し離れたところにある始発駅に向かうのだという。
人間(ひと)の手が届かないくらいじゃ、感じたこと気のせいになんてできない?」
「あ……、……うん」
 言えずにいたことをそのまま言い当てられて、それしか言えない。
「考えてみましょうか」
「かんがえ……」
 意識していないと遅れがちになる。歩を速め並び直して、弱気に訊く。
「っと、どんな……?」
「夢で見たことと、何かのタイミングが重なったとか」
「ね、ねむくないよぅ……今日は」
「どこかで虫でもくっついたとか」
「それは、もっと早く気がつきそう……」
「実は、あたしがつい出来心でとか」
「え!? それはっ、してたらわかんないわけないしっ」
「――じゃあ、何か目に見えないもののしわざ」
 どうやら清華は、無理にでも理由をひねり出そうとしているようだ。
 彼女なりに気遣ってくれているのだろう、それは嬉しい。発想が何やら予想外な方向にユニークなのが、少し気になるけれど。
「みえないもの……って?」
「有り体に言えば、幽霊とか」
「とか……?」
「妖怪とか?」
(……えー?)
 ありえないよと笑っていいんだろうか、そんなのありえないとつっこむべきだろうか、それとも……?
 と、決めかねているうちに、清華が時間切れを告げた。
「あれよね、乗るの」
「あ……うん、そうっ、それじゃ――」
 目指していた先に停まっているバスの行先表示を確認して、さつきはうなずいた。
 慌てて、挨拶もそこそこに駆け出す。
「河野さん」
「えっ?」
 呼ばれて振り返ると、そんなつもりはなかったのに、ぴたりと目が合った。
「何かあったら、相談して」
「う、うん」
 清華は吊り気味の目を少しだけ細めて、右手を小さく挙げた。
「じゃあね、また明日」
「うん、じゃあ……」


 さつきを迎え入れるとすぐ、自動ドアが閉まり、バスが動き出した。
(……どきどきした〜)
 気が抜けて、大きく息を吐く。
(何かあったら……って、どんなこと考えて……)
 今度の車内は空いている。唐突感のあった清華の発言を反芻しながら、さつきは最後列まで歩いていき、右の端の席に腰を下ろす。
 と。
「っ!!」
 ――あの感触が、再びさつきを襲った。
 こぼしそうになった声を辛うじて飲み込み、慎重に、慎重に座り直す。
(って、ことは)
 気のせいではない。夢でも虫でも、触られたのでもない。
 もはや考えるまでもない。一直線に、認めたくない結論に行き当たる。
(おしりに、なんか、ついてる……っ!?)

          ★

 バスを降りてからの覚えたての帰り道が、何倍にも遠く思える。
 やっとのことで家へ、二階の自分の部屋へとたどり着いたさつきは、手荷物をベッドに放ると、制服のまま姿見の前に立った。
●木曜日、朝
「おはよう」
 花間駅前バスターミナル・1番ポール。
 複雑な人の流れにもみくちゃにされ、へろへろになりながら待ち合わせの場所にたどり着いたさつきを、人混みから離れて立っていた清華が涼しい顔で迎えた。
「お、はよう……」
「眠そうね」
「つい、夜ふかししちゃって……」
 笑ってみせてみたけれど、うまくできたかどうか。
 次のバスを待つ行列の最後尾に並んで、高さの違う肩を並べる。今のところ、さつきがスカートの下に隠している問題に、清華が気づいた様子はない。
(相談なんて、できるわけないよね……こんなの)
 間もなく、花間駅折り返しのバスが滑り込んでくる。
 列が縮んでいき、先にさつきが入ったところで、あとひとり乗れるか乗れないかという微妙なスペースが残される。清華は迷いなく、さつきの背中に寄り添うような形でそこへ体を差し入れた。
(うぅ……いきなり絶体絶命だよぅ)
 緊張が高まる。バスが走り出し、揺れを感じ――そして案の定、清華の足に『それ』が当たってしまった。
「ひゃ!」
 こらえきれずに声が出てしまう。
 これはもう、どうにも隠し立てできない。
(あああ……)
 今すぐ逃げ出したいが、この移動する密室に逃げ場はない。次の停留所に着いたら飛び出してしまおうか、ここで悲鳴をあげれば停まるだろうか、いっそ消えてしまいたい……などと、負の思考が頭の中をぐるぐる飛び回る。
「河野さん」
 バスのエンジン音にぎりぎりかき消されないささやきが、完全に退路を断った。
「あとで、見せて」
「……!!」

          ★

「生えてるわね」
 頬を紅くしてスカートのプリーツを整えるさつきの耳に、清華のつぶやきが届いた。
「しっぽ。――猫?」
 これが夢ではないことを、改めて実感する。ふたりで入るトイレの個室は狭く、それが原因ではないけれど、さつきには息苦しかった。
「心当たりは?」
「そんなのっ、あるわけな……っ」
「そう、じゃあ」
 荒げかけた声は、意外な言葉に遮られた。
「ちょっと待ってて」
「ふえ……?」
 何を、と言おうとして目を向けると、清華は白く四角い何かを手にしていた。手帳かと思ったが、よく見ると上の側で和綴じにされた短冊状の和紙の束のようだ。ミニサイズの大福帳みたい、と感想が頭に浮かぶ。
 清華はそれに、軸の長さが人差し指ほどしかない極細の筆で何事かすらすらと書き綴り始める。筆の先に墨らしき色は見当たらないが、なぜか筆跡は記されていく。
 のぞき込んでみても、何を書いているのかさっぱり理解できない。思いきり字を崩しているのだろうか、それともこれは、日本語ではないのだろうか?
(呪文、とか……?)
 そんなわけないよね、と一度浮かんだ想像を否定しつつ見ていると、清華はあっという間に書き終えた一枚を帳面からちぎり取って丁寧に小さく畳み込み、そしてそれを鞄から取り出した小さな布の袋に納めた。
「……おまもり?」
「急場しのぎの、おまじない」
 袋の口を絞っている細い紐の両端を手にした清華は、その両の手をおもむろにさつきの頬に近づけた。
 そのまま手を伸ばし、紐を首の後ろまでまわして、手探りで結ぶ。首筋に伝わる温かさと、それ以上に顔の近さが、さつきを緊張で固まらせる。
 そして仕上げに真正面、おでこがぶつかりそうな至近距離でささやく。
「邪魔だろうけど、しばらく付けていて」
 返事を待たず、清華はひとり先に出て行ってしまう。
 ドアの前で待っていたかのように、廊下のざわめきが聞こえてくる。さらに数秒おいてから、さつきは我に返った。
「……え、なっ、えー?」
 おたおたしていると、予鈴が急かしにくる。
「あ、やばっ」
 悩んでいる時間はもうない。お守り袋を制服の胸元に押し込み、疑問と不安をひとまず頭の隅に押しやると、さつきは駆け出した。
●同日、放課後
「おわった……」
 疲れ切った声をもらして、さつきはぱたりと机に伏せった。
 あのあと、清華とはまともに話せていない。――といっても、こちらが一方的に気後れしているだけで、向こうは朝の一件自体なかったかのようにいつもと何ら変わらないのだけれど。
(お守り、きいてる……のかな?)
 考えてみて、そもそも効き目を教えてもらっていないことに思い当たる。
(間宮さんって……)
「河野さん河野さんっ」
「ふぇ……? あっ」
 声をかけられて顔を上げると、隣の列のいちばん前に座る長谷川(はせがわ)まどかが目を輝かせ、人懐こい笑顔で立っていた。
 その左脇でもうひとり、こちらは同じ列の山内(やまうち)絵美(えみ)が、控えめに微笑んでいる。印象の違うふたりだが、仲はよいようだ。
「間宮さん、今日は部活だよね」
「もしよかったら、いっしょ帰ろ?」
「あ……うんっ、すぐ準備するねっ」
 断る理由はない。
 さつきは心配事をしまい込み、迷いを振り払って、大きくうなずいた。

          ★

「ぶっちゃけ最初はどーなるかと思ったけどさー」
「えっ?」
「河野さんと間宮さん。うまくいってるよね」
 バスの最後列に三人並んで座ると、すぐに座談会が始まった。
「間宮さん、住む世界ちがう系のガチお嬢様だし、みんなつい距離とっちゃってさぁ……実際のとこ河野さんあたしたちよりぜんぜんしゃべれてるよねぇ、行き帰りいっしょとかすごいってホント」
 右側のまどかが、真ん中のさつきに早口で話しかけてくる。さらりとものすごいことを言っている気がするが、納得できるところもなくはない。
「え、それは、声かけてくれるから……あたしは、いつもなんか緊張しちゃって、へんなこと言ってるかも……」
「わかる、あのぴしっとした姿勢でじーっと見られちゃうとどーしてもねー」
 さつきの反応に、まどかは安心と共感のこもった笑顔を浮かべた。
「間宮さんちって超由緒正しい神社だから、礼儀作法とかちーさいころから相当うるさくしつけられててあーなってるんだと思うけど」
「お茶とかお花とか、習いごといっぱいで大変そうだよね。部活毎日出ないのも、そっちあるからみたいだし」
 左側の絵美が付け加える。クラスメイトというより、ファンの目線で語っているようにさつきは感じた。
「そうなんだ……」
 ふたりの話をかき混ぜて、ふと思いつく。
「おはらいとかも、やったりするのかな……?」
「よくわかんないけど、たぶんできるんじゃない? 絵美助けてもらったのも、要するにそーゆーもんだよね?」
「なのかな……なのかも?」
「って、なにか、あったの?」
「一学期の合唱大会のときなんだけどね」
 さつきが食いつくと、まどかは嬉々として語り出した。
「絵美は伴奏やったんだけど、本番の前の日に体育館で練習したときなんか急に調子悪くなっちゃって。頭の中に何か入ってくるみたいで、気持ち悪くて全然集中できないって、最後もう何もできなくなって泣き出しちゃって」
「って、リアル怪談……?」
「ね、やっぱそー思うよねぇ? んでも、次の日の本番になってみたら絵美別人みたいに落ち着いてて、演奏もカンペキで、もー全部ウソみたいにうまくいって……で、終わってからきーてみたら『間宮さんがお守りくれた』って。いま持ってる?」
「うん、ちょっと待って……これ」
 応えて絵美が鞄の中から大事そうに取り出したのは、さつきが胸元に忍ばせているのとよく似たお守り袋だった。
「へぇ……」
 どきりとしたのが顔に出ていないか気にしつつ、さつきは話を続ける。
「結果はどうだったの?」
「え? ぁー、それは、みんな練習どおりの力は出せたかなってゆーか……」
 まどかの言葉の濁しぶりと絵美の顔からすると、芳しくはなかったらしい。その話題は切り上げることにして、さつきは一歩前へと立ち戻った。
「巫女さん……なんだ」
「去年のお祭りでテレビ映ってたけど、すごいきれいだったよ」
「そっちのカッコしてるとこはあたしも直接は見たことないけど、なぎなた部の練習着はむっちゃハマってるよー☆ アレ見たら、実は裏で妖怪退治してますとか言われても納得しちゃうね」
 もう思い浮かべられるようになった清華の全身像に巫女装束のイメージを重ねてみて、さつきは内心で確信した。
(似合う! ぜったい似合う!)
 本人は説明の必要を感じていないのか、あんなことまでしておきながら一言も語ってはくれなかったわけだが、そこを責めようという気は起こらない。さつきはパズルが解けたような満足感に浸りながら、夢を見る目でつぶやいた。
「そっかぁ……見てみたいなぁ」

          ★

「あそこっ!」
 バスターミナルに設置されている大きな観光地図に歩み寄っていったまどかが、ぴんと手を伸ばして、右上の端近くに描かれた鳥居と社のイラストを指し示す。
「けっこう遠いね……」
 案内文によると鉄道を乗り継いだだけではたどり着けないらしいその場所を、さつきはしばし見つめた。
●同日、夜
「さつき〜、お風呂沸いたわよ〜」
「……ふに?」
 夕食のあと居間でテレビを見ていたはずだったさつきは、母のその声で、自分がいつの間にか横になって眠っていたことに気がついた。
「聞いてる〜?」
「きーてるよぉ……もうちょっとしたら入るぅ」
 半分寝たまま答えて、ゆらりと上体を起こす。
 枕にしていたクッションを抱きしめて、テレビに映る地方CMをうつらうつらしながらぼんやり眺める。まだ馴染みのない地名や店名が、右から左へ抜けていく。
「ふあぁ……ぁ」
 両腕を思いきり伸ばして、大あくびをひとつ。
 それからようやく、さつきは違和感をおぼえて首筋に手をやり、どうして眠かったかをこれまでのあらすじ込みで思い出した。
「……あ」

          ★

「どうしよお……」
 脱衣所に入ってしまってからも、心が決まらない。
「紙だし、ふつーに考えたら、濡らしちゃマズいよね……」
 のろのろ髪をほどいていると、着替えと一緒に持ってきていた携帯電話が歌い出した。受信メール一通――そわそわしながら開く。
【間宮さんケータイ持ってない。連絡とかは家にかけてるよ↓】
 部屋を出る前に投げた質問へのまどかからの返信は、あの口数の多さに比べるとだいぶシンプルだった。その次の行に、電話番号が記されている。
【ただ、朝4時5時起きらしいから、もう寝ちゃってるかも?】
「え、早っ!」
 ディスプレイに映る現在時刻は二十二時を過ぎている。ひとまずまどかに無難なお礼を返してから、改めて考え込む。
「……ハードル高いよぅ」
 情報を得たことで、むしろ思いついたときよりも上がってしまったかもしれない。初めからあった抵抗感が膨らんで、訊いてみようという気を押しつぶす。
「ちょっとだけなら……だいじょうぶ、だよね……」
 迷いを残したまま、さつきはお守り袋の紐に手をかけた。
●金曜日、朝
「あ、間宮さん間宮さんっ」
 一年d組の教室にひとり入ってきた清華を認めて、自席に座っていたまどかがすかさず手招きしつつ呼びかけてきた。
「おはよう、何?」
「っとね、さっき河野さんからメール来て、間宮さんに見せてって。はいこれっ」
 待ち構えていたらしいまどかは、携帯電話の画面を清華に向けて差し出す。
【間宮さんへ
 体の調子よくないので、きょうはお休みします。約束守れなくてごめんなさい】
 清華は一画面に収まるそれを、表情を変えずに読み終えた。
「ありがとう。駅で会えなかったから、もしかしたらとは思ってたけど」
「ゆうべも連絡取りたいっぽいメールもらって、家のほうの電話番号教えといたんだけど……こなかった?」
「起きている間には――多分、その後も」
「じゃあ夜遅かったから遠慮したか、のど痛くてやめたかな? きのうからちょっと調子悪そうだったし」
「……そうね」
 その推察は健全で順当なものだが、当たってはいないだろう。
 清華はかすかに眉を寄せた。
●同日、放課後
依子(よりこ)さん!」
 ホームルームが終わった直後の二年h組の教室。
「間宮さん?」
 呼びかけられて、鞄に荷物を詰めていた長岡(ながおか)依子は辺りを見回した。後ろ側の引き戸のところでこちらをうかがっている清華を見つけて、中に呼ぶのではなく自分から席を立ち廊下に出る。
「どうしたの? わざわざ来なくても、すぐ部室で会うのに」
「いえ、あちらには行かないつもりなので」
「え?」
「今日のなぎなた部の練習、欠席します」
「え……?」
 珍しい、しかも一方的な宣言に、依子は目を丸くした。
「それなら(たえ)さんに……ううん、この際私でもいいけど、どうして?」
「急用ができてしまって」
「急用って……」
 それが何なのかを知りたいのに。と、もどかしさで眉をひそめてから、依子はひとつの可能性に思い至って、返す言葉をそこで止めた。
 清華が部長の榎本(えのもと)妙ではなく、自分のところへ来たこと。わざわざ言いに来ておいて、しかし口にはしないこと。そうする理由、そういう用、というのは――。
「――まさか」
「詳しいことはあとでお話ししますから、すいません、お願いします!」
 面を引き締めた依子の言葉をさえぎると、清華はあくまで先輩に欠席の理由を説明する後輩らしく、申し訳なさそうに手を合わせてみせる。
「もう……」
 仕方なく、仕方なさそうなため息をついて、依子はうなずいてみせた。
「妙さんには私から話しておきます。……じゃあ、来週ね」
「はい、本当に、すいません」
 大げさに頭を下げた清華は、後ろ髪を弾ませて去っていく。それを見送った依子はもうひとつ、今度は心配げなため息をこぼした。
(……何か、あったのね?)
●同日、河野家
 薄暗い部屋に、ぷるぷると単調な呼び出し音が鳴り響く。
 ベッドの上の毛布の下からのろのろと手が伸びる。ベッドの隅に転がっている携帯電話ではなく、サイドテーブルの上に突っ立って存在を主張している一般電話のコードレスの受話器をつかむと、その手は再び毛布の下に引っ込んだ。
「……なに〜」
『あ〜やっと出た〜、クラスの間宮さんってかたから電話よぅ☆ ぽち、っと』
「え! ちょ、待っ」
 もう遅い。受話器の向こうはすでに、母の暢気な声から外線に切り替わっている。
 思わぬ不意打ちに、心の準備が間に合わない。しかし、かといって待たせる道も切って逃げる道も選べず、なけなしの勇気を奮い起こしてさつきは口を開いた。
「……もしもし」
『こんにちは。よかった、声が聞けて』
 公衆電話からだと思われるその声は、まぎれもなく清華のものだった。
「まみやさん……」
『今も、進んでいる?』
「……わかんない、朝見てから見てないし……」
『寝てた?』
「横にはなってたけど、眠れないよお……」
『起きていたほうが、少しは進みが遅くなるはずだけど――』
 落ち着いた言葉の流れが、そこでふと途切れた。
『……ごめんなさい、あたしの言うことが正しいんだったら、こんなことにはなってないはずよね』
(あ……!)
 それはまるで、自分を嘲笑するかのような。
 明らかな異変に、さつきの胸が早鐘を打ち始める。
(お守り、きかなかったって思ってる……!)
 まどかに送ったメールの文面を思い出す。清華にだけ真意が伝わるように言葉を選んだつもりだったけれど、こうなってしまったということは、願った通り受け取ってもらえていないのはまず間違いない。
「ちがうよっ!」
『え?』
「ちがうの、そうじゃないのっ」
 今言わなければ絶対に後悔する。自分に言い聞かせ、さつきは勇気を振りしぼる。
「ごめんなさいは、あたし……!」
『……どうして、あなたが謝るの』
「だって、あたしが、自分で、だから……っ」
 気持ちばかり先に出て、うまく言葉にできない。
 それでも、受話器の向こうの清華は、伝えたいことのいちばん大事な部分だけは何とかかぎとってくれたようだった。
『――わかった』
「へ……?」
『わかった、河野さん。じゃあ、仕切り直し』
 清華の声が、安定を取り戻した――と、思う。
『これからそっち行くから、降りるバス停とそこからの道順、教えてもらえる?』
「そっち……?」
『あなたのところ。できること、させて』

          ★

『ちょっと〜、どうして言ってくれないの〜』
 一時間ほど経って、再び母が内線で呼びかけてきた。
 責めるような声の理由は訊くまでもないだろう。もっと早く着くと思っていたけれど、説明がまずくて迷わせてしまったのだろうか。
「すぐこっちあがってもらって」
『わかってたらお菓子とか用意して……え?』
 話しかけられたらしい。声が遠のき、しばらくして戻ってくる。
『あ、そうなの? ほんとにもうごめんなさいね、わざわざ気をつかっていただいて……さつき〜、ちゃんとお礼言うのよ〜?』
「……うー」
 母のマイペースぶりは決して嫌いではないが、今はとてもつきあっていられる気分ではない。さつきはついつい、語気を強めて言い返した。
「わかってるよぉ、いーからはやくあがってもらってってば!」
『わかったわよ〜、なにかりかりしてるのよ〜、も〜』


 こんこん。
 一応ノックしてみてから、返事を待たずにドアを開く。
「入るわよ……あ、涼し」
 明かりの点いていない部屋は重く静まっているけれど、エアコンだけはしっかり動いている。清華は左手に提げていた小さめの紙袋をローテーブルの上に、それ以外の手荷物を床に下ろすと、ベッドの上の塊に向かって声をかけた。
「おまたせ」
「……ごめんなさい」
 毛布の下から、背中を向けているらしいさつきの弱々しい声がした。
「ゆうべ、おフロ入るときはずしちゃって……」
「――約束って、そっちだったのね」
「うん……きいたほうがいいかなって、思ったことは思ったんだけど……」
「長谷川さんに連絡先訊いたっていうのはそのとき?」
 清華はトートバッグから紅茶のペットボトルを取り出しつつ続けた。
「お湯に長い間浸けたりしたらさすがに駄目になるけど、軽くシャワー浴びるくらいなら大丈夫よ。次があったら、気をつけて」
「つぎって、こんなのもぉやだ……」
「まあ、そうよね」
 同じものをもう一本取り出し、ローテーブルの上にぴったり並べて置く。
「それで、どうなってる?」
「……見せる勇気ないよお」
「恐がったりしないわ、絶対」
「ほんとに? ……ほんとに?」
「約束する」
「じゃあ……」
 ――ふたりきりの部屋。
 全てをあらわにしたさつきの姿を受け止めて、一度は開いた口をきつく結んだ清華は、数秒間の沈黙のあと、耐え切れなくなって吹き出した。


「しっぽだけじゃなくなったんだろうな、とは思ってたんだけど」
「ううう……」
 確かに恐がってはいない、けど……。
 ベッドの上にぺたんと座ったさつきは、恥ずかしさやら抗議やらの混じったうめき声をもらして、抱えた枕に顔をうずめた。
 明らかに昨日よりも長い尻尾が、パジャマの代わりにしたロングキャミソールの裾からはみ出している。そして、もうひとつ――誰の目にも明らかな変化が、さつきの頭の上に付け加えられていた。
「こんなことになってるなんて」
 髪に馴染んだ色合いの大きな『ねこみみ』を、清華は興味津々という表情でいろいろな角度からのぞき込む。それ以外の違いは、産毛が気持ち濃くなっているような気がしないでもない、くらいしかない。
「……変化(へんげ)っていうより、コスプレみたい?」
「ふぇっ!?」
「え?」
「う、や、なっなんでもないなんでもないっ!」
「そう?」
 突然のうろたえぶりを不思議がりつつも、清華はだいたい気が済んだようでベッドから離れる。さつきはそこへ、頬の火照りを感じながら、清華の来訪を待っている間に用意はしてあったが持ち出す機会を逸していた問いを投げかけた。
「あたし、これからどうなるの? ……もっと、猫になっちゃうの?」
 清華は短く答えた。
「このままにはしないわ」
「しない?」
 能動的な表現なのが気になって繰り返したとき、清華はローテーブルに載せた紙袋から箱を取り出していた。そこから漂ってきた甘い匂いに反応してか、さつきの『上の』耳がぴくんと動く。
 それを見てまた吹き出しかけた清華は、何とかこらえてから柔らかく言った。
「一休みしたら、始めましょう」


「――これで全部」
 そう言って、清華は『お守り』に入れたのと同じような短冊を、さつきの胸元の素肌に直接貼りつけた。
「え、ええと……」
 テーブルをどけた部屋の真ん中に正座させられているさつきを中心として、清華の手でそこかしこにやはり似たような短冊が貼られている。あの『お守り』はここに至るまでのつなぎだったのだと、今なら解る。
 解るから、この状況に対しては疑念はないけれど。
「できたら説明、してもらえると……」
「周りのはこの部屋を浄めるための『気別札(きわけのふだ)』、今つけたのはあなたの中の霊を引っぱり出して封じこめるための『封霊符(ふうりょうふ)』」
「『札』と『符』って、なにか違うの?」
「話すと長いから、こういうものにも流派がある、くらいで納得しといて」
(うーん……)
 納得はできないが、そこにこだわって長話する余裕はない。さつきは、時折勝手に動く尻尾を気にしつつ、話を進めることにする。
「けっきょく、これって、たたりとか、呪いとか、そーゆーの……?」
「率直に言うと――」
 背筋の伸びた美しい姿勢で正座している清華は、なんとなく猫背になってしまっているさつきの緊張した視線を受け止めながら、ついに核心へ踏み込んだ。
「いま、あなたの中に、猫の霊が入り込んでる」
「……うん」
「どうしてそうなったか判らないけど、その猫にはよほど強い未練があるんでしょうね。あなたの身体を奪ってでも、したいことがあるみたい」
「え、やだ……」
 さつきの口から声が漏れた。具体的になったことで、改めて嫌悪感と恐怖がこみ上げてくる。止められない。
「すぐ追い出して、あたしもとどおりにしてもらえる……んだよね?」
 しかし清華の返答は、さつきが望んだものとは違っていた。
「まずはその猫に、何が心残りなのか訊いてみる」
「そんなのきいてどうするの?」
「あたしたちで何とかできることなら、何とかしましょ」
「え?」
 困惑するさつきに、清華は微笑みかけた。
「どうしてもやりたいことが、良くないこととは限らないでしょう?」
「……!」
 さつきは目から涙が溢れ出るのを自覚した。
「……あ、あれ……?」
 自分では決して思いつくことのなかった清華のその言葉に大きな衝撃を受けているのは確かだ。罪悪感のようなものも胸の奥に浮かび上がってきている。
 しかし、涙が止まらないのは……何故だろう?
「届いたようね、あたしの声」
『はい……』
(なっ!?)
 さつきは驚いて、答えた自分の口を両手で押さえた。
(なに、なんで、あたししゃべってない!)
「上手くいってる。変な感じだろうけど、しばらく我慢して」
「……っ」
 すぐに言われて手を離す。声が出ないのでこくこくとうなずいてみせると、清華は軽くうなずき返して続けた。
「よろしい。じゃあ、話して――あなたは、何をしたいの?」
『子供たちが……待っているんです』
 さつきの口を借りたものは、さつきとは全く異なる口調でおずおずと話し出した。
『子供たちのところへ帰る途中に、大きなものにぶつかってしまって……気がつくと私は私を上から見下ろしていました』
「続けて」
『ここにいる私は動けることがわかったので子供たちのところへ戻ったのですが……子供たちは私に気づいてくれないし、私は子供たちに触れることもできないのです』
「それから?」
『困っていた私のそばをこのひとが通りかかったので、気づいてもらおうと何度も呼んだのですがなぜかだめで……それで飛びついたら、このひとの中に……』
「……河野さんのほうにも適性があったってことか」
(え〜!?)
 驚きを目で訴えたさつきに、清華は的確に訊く。
「そんなのいや?」
(いやに決まってるよぉ〜!)
 ぶんぶんと首を縦に振る。身体のほうは、ある程度さつきの自由になるようだ。
「まあそれはおいといて。河野さん、場所に心当たりある?」
 ぷるぷると首を横に振る。
「全然ないのね。と、なると、任せるしかないか……」
『行かせてくれるのですか!?』
「そのつもりよ。だけど、覚悟はしておいて」
『え……?』
「あなたが死んでから、どれだけ経っている?」
『……わかりません』
「あたしの知る限り、あなたは一昨日(おととい)の夕方にはそこにいた」
(あ〜っ、やっぱりあのとき気がついて……)
「もう、手遅れかもしれない」
(……!)
 冷静に考えれば当たり前ではあるが、そう簡単に受け入れられることでないのは想像に難くない。清華も黙り込んでしまった相手を急かしたりはしない。
 待っていると、やがて震える声が答えた。
『そのときは、あなたの手で私を……』
「わかった」
 清華は厳かにうなずいて、さつきの胸元に貼った札を静かにはがし取った。
 それを丸めてごみ箱に捨てると、さつきに向けて語りかける。
「決まったわ。――行きましょ」
「やだっ!」
 話せるようになったさつきの口から、すぐに強い拒否が飛び出した。
「どうして?」
 意外そうな清華に、さつきは頬を紅潮させて言い返した。
「って、だって、こんなかっこじゃ外歩けないよお!」
「……ああ」

          ★

「いってらっしゃい、ふたりとも〜☆」
 妙に嬉しそうな母に見送られながら、さつきは清華とふたり並んで河野家の玄関を後にした。
「第一関門突破ね」
「……あつい〜」
「仕方ないでしょ、我慢して」
 門を出るより前に早くも弱音を吐き始めたさつきに、清華は釘を刺した。
「へんじゃない? 浮いてない?」
 隠さなければいけないものがあるさつきは、クローゼットからあれこれ引っ張り出して慎重に検討した末に、春・秋ものの白いワンピースに長袖のボレロという『よそ行き』のいでたちで身を包んでいる。髪は編まずに背に流し、『ねこみみ』は大きめのベレー帽で隠し、足元はハイソックスにストラップシューズを合わせ――万全を期した結果として、気合が入り過ぎているようには見えるかもしれない。
「大丈夫だって」
 季節感をかなり先取りしてしまっている感は否めないものの、それがこんな理由によるものだとは誰も思わないだろう。……そう言い聞かせて何とかここまでさつきを引っぱり出した清華は、少し強めに太鼓判を押す。
「……だいたい、あたしと一緒なら、あたしのほうが人目引くに決まってるし」
(あ)
 美貌を自覚していなければ言えない科白。だが、一瞬ためらった、と思う。
(見られるの慣れてそうだったけど……ほんとは目立つのやなのかな?)
 そんなことを考えているのを知ってか知らずか、清華は前を向いたまま、さつきの中の母猫に号令を発した。
「――さあ、行きなさい」
「わ、っと!」
 それに従って、さつきの足が動き出した。
「うー、へんなかんじだよぅ……」
「それも我慢して」
●同日、夜
「……ねえ」
「なに〜」
「本当に、ここ?」
 ひたすら歩き続けて汗だくになったふたりは、花間高校の正門前に立っていた。
「あたしに言われてもわかんないよぉ……あ、ちょっ、ちょっと待って!」
 答えたさつきの足が、また動き始める。
「まったく……」
 清華は(ひたい)の汗をぬぐいながら毒づいた。
「遠回りばかりじゃない、結局」
 それは、自分に向けた言葉だった。

          ★

「……こんな所まで来てたの?」
 立ちつくすさつきに、清華は訊く。
「先生にあちこち案内してもらったとき、通りかかった……かも」
 本校舎の西側に体育館と並んで寝転がっている古びた建物――『旧体育館』の西の端、隣のクラブハウス棟との間にある暗がりに踏み込んでいったさつきの足は、そこでついに止まった。
 錆の浮いた非常階段の下を、さつきの目はじっと見つめている。
 見つめる先に、仔猫はいない。
「あなたが子供たちを残していったのは、ここなのね」
 気は進まないが、はっきりさせなければならない。さつきの隣まで足を運んで、清華はさつきの中の母猫に問いかけた。
「間宮さん……」
「……河野さん?」
「つらいの、伝わってくる……っ」
 しぼり出すように言って、さつきは膝を落とした。
 灰色のコンクリートに、大粒の涙がいくつもこぼれ落ちる。その様子を凝視しながら、耳に届く嗚咽を聴きながら、子を失った母の心を癒やす言葉など持たない少女でしかない清華は唇を結び、己の無力さを噛みしめる。
 ……。
 そのとき、清華の耳に微かに届く音があった。
「!」
 まさか。
 そうであってほしいと願うゆえの空耳かと疑って、源を探す。
「どうかした……?」
「……聞こえた」
「きこえた、って……?」
「声が、」
 言いかけたところにもう一度。
 さっきよりも、近い。
「な〜」
「ねこ? ……こねこ?」
 さつきが立ち上がる。
「じゃあ、誰かが見つけて……!」
 ふたりの顔に、同時に希望の()がともる。
 そこへ、仔猫を抱いた女子生徒が姿を現した。
「あら?」
「……依子さん」
 清華が名前を口にしたその人物には、さつきも見覚えがあった。
(生徒会長さん……だよね)
 ただ清華の呼び方からは、単に生徒会長と一般生徒、先輩と後輩、というだけではないつながりがありそうな雰囲気が感じられる。
「間宮さん、どうしてここにいるの? そちらは?」
「お時間いただければ、説明します……でも、依子さんこそ、どうして」
「この子が、すごく鳴くから――」
 言って、依子は穏やかな微笑を腕の中の小さな命に向ける。
「だからもしかして、お母さんが帰ってきたのかな? って」
 はっとして、清華とさつきは顔を見合わせた。
「な〜」

          ★

「ここですか?」
「うん、開けちゃって」
 なぎなた部の部室へとふたりを(いざな)った依子から鍵を受け取った清華が、指示されるままいちばん端の名札のないロッカーを開ける。――と、とたんに、そんな所から響いてくるはずのない音が飛び出した。
「みゃ〜」「み〜」
「……あー!」
 らしくない声をあげて、清華は中に収められていた段ボール箱を引っ張り出す。
 蓋が外側に折り曲げられた箱の底に、タオルが敷いてあるのが見える。そしてその上に寝転がっていた二匹の仔猫が、つぶらな瞳でこちらを見上げてきた。
「な〜」
 あっちに行きたいと言いたげな腕の中のもう一匹を依子が箱に入れてやると、もそもそ寄り添った三匹は、さつきに向かってさかんに鳴きだした。
「……河野さんのこと、お母さんみたいに見えてるのかしら?」
「そう……なの、かな?」
 依子のささやきに、さつきは答えになっていないつぶやきを返す。何もなしでここまで懐かれるとは思いがたいが、今は動かされている感はない。
 そっと手を近づけてみると、みーみーと無邪気にじゃれついてくる。くすぐったくて、たまらず笑い声がこぼれてしまう。
 仔猫たちの愛くるしさに、清華の表情もだいぶ緩んでいる。そうしていると、ちゃんと同い歳の女の子の顔だ……と、さつきは思った。
「――いつ、見つけたんですか?」
 落ち着いたところで、清華が依子に訊ねた。
「夏休み最後の日の、夜……七時ごろかな」
「河野さんが来たのも?」
「うん、午後イチくらいだけど」
「あたしも部活で来てたのに……」
 気付けなかったのか、という顔をした清華に、依子は優しい目を向けた。
「忘れ物したのに気がついて、取りに戻ってきたときだから。偶然鳴き声が耳に入って、放っておけなくて……それからここで、みんなには内緒で世話してたの」
「ないしょって、でもこんなに鳴いてたらすぐ……」
「……気がつかないわ。開けるまで、聞こえなかったでしょ」
「あ、そういえば」
「あそこ」
 清華は箱の入っていたロッカーを指差した。よく見ると、開け放したままになっている扉の裏側に、清華が使ったのと似た小さな札が一枚、斜めに貼ってある。
「あれは『音無札(おとなしのふだ)』――文字通り、音を遮ることができる仕掛け」
「ふえ〜……」
 そういうものがある、というのはもうありのまま受け入れるしかないとして、こういう使い方を思いつけるものなのか、とさつきはただただ感心した。
「依子さんも、おフダつくれるんですか?」
「ううん、あれは祖父にもらったの」
 さつきに期待含みの目を向けられた依子は、恥ずかしそうに首を振った。
「私も神社の子だけど、間宮さんみたいな『力』はないわ。ちょっと、視えるものが多いくらい」
(みえる、って……)
 それは十分あるほうに入るんじゃないだろうか。いや、そんなことより、彼女たちにはこの世界はどのように見えているのだろう?
「だから、何かあるたび間宮さんに頼ってしまって……」
「……そんなに、何か、あるんですか?」
「私が気にしすぎで本当は取るに足りないことも多いと思うけど、それを差し引きしても正直、少なくはない――珍しくはない、かな」
(あるんだ……)
 いっときの好奇心でそれ以上突っ込んで訊くのは、今のさつきには無理だった。
「依子さん」
 ぽかんとしているさつきと入れ替わりに、清華が呼びかけた。
「なぁに?」
「この子たち、これからどうしましょうか」
「あっ……」
 我に返る。すっかりゴールした気分になっていたが、確かに仔猫たちに会えただけではまだ問題は解決していない。
(もしどうにもなんなかったら、うちで……あーでも、ムリ、かな……?)
「うん」
 さつきが迷っているうちに、依子は心得ているとばかりにうなずいて答えた。
「実はね、もう家の伝手(つて)で引き取り手を探してて、何件か申し出も頂いてるの。ふたりのおかげでお母さんのこと判ったから、話、進めさせてもらうね」
「……!」
 自身の『力』のなさを卑下していた依子だが、仔猫たちを救けるために決断し行動する力に不足はない。当たり前のように言う顔が、頼もしく眩しい。
 ぶるっと全身が震えて、さつきは弾かれたように背筋を伸ばす。
 と、突然、かぶったままだった帽子がぽろりと落ちた。
(わ、やば……!)
 身体的な変化のことは、あえて依子に伝えていない。さつきは大焦りで、頭を隠そうと両手を振り上げる。
「河野さん? どうしたの?」
 依子が首を傾げる。
「あ……れ?」
 自分の頭をぺたぺた触りながら、さつきは目をぱちくりさせた。
 そこにあったはずの異物は、知らぬ間に跡形もない。

          ★

 依子と仔猫たちを乗せたミニバンが裏門から車道へ出て行くのを見送ってから、清華とさつきはどちらからともなく向かい合った。
「あたしたちも、帰りましょうか」
「……お母さん、もういない?」
「ええ。行ってしまった」
「そっか……」
 先に歩き出した清華は学校の敷地内を抜けて正門に向かうのではなく、目の前の裏門を出てフェンス沿いの歩道を行くルートを選んだ。さつきは事が終わったと思ったとたんにやってきた全身の疲れを引きずりつつ、その(あと)に続き、隣に並ぶ。
「さっき依子さん言ってたのって、ほんと?」
「珍しくない、って話? このあたり一帯は昔から多いとは聞くわね。それこそ、昔話の頃から」
「山内さんの話も、そーゆーの?」
「ああ、もう知ってるのね。……あの時は彼女、緊張のせいか『そういうもの』の気配にあてられて調子を崩したみたい」
「『七不思議』なんてペースじゃないね……」
「起きてしまうものだから、仕方ないわ」
(あ……)
 ちくり、と痛んだ気がして、さつきは胸を押さえた。
(もう、あきらめちゃってるの……?)
 かわいそう……と言ったら失礼だろうけれど、ただでさえ忙しい日々を送っているのに何か起きるたびにこんなことをしていたら、自分のしたいことなどろくにできないのではないか。真面目な人でも、大人でも、平気なわけがない。
(ダメだよ、べつに正義の味方じゃないのに……バイト代出るわけでも……)
 そこまで考えかけて、昨日の帰りに知った話が脳裏に閃く。
「……お礼、しなきゃいけないよね」
「え? ――どうしたの、急に」
「だって、あたしなんかのためにこんなに時間と手間かけてくれたんだもん……間宮さん本職のひとなんだし、タダ働きなんて……」
「やめて!」
 突然、清華が声を張り上げた。
 それは初めて聞く怒りのこもった声であり、そして悲鳴のようにも聞こえた。
「そんなこと考えないで! そんなの受け取ったりしたら、まるで全部仕事だからやったみたいじゃない! あたしは、河野さんのこと……!」
「!」
 清華は途中から足を止めていた。数歩前に出てしまったさつきは、清華の姿を求めて、勢いよく振り向いた。
「間宮さん……」
 脇を流れていく車のライトが、清華の、今の顔を照らし出す。
「失敗……ちょっと、今のは、あぶない告白に聞こえかねないわね……」
 相当恥ずかしいのか、清華は熱くなった頬に手を当て目をそらす。
 さつきは、胸の奥で温めていたことを、今ここで言おうと決めた。
「間宮さんっ」
 歩み寄っていって、まっすぐ見上げて。
「ありがとう、助けてくれて」
 ひまわりの花が咲くように、晴れやかに笑って。
「でね、それから――」
 ――さつきは、清華の手を取る。
「ひとつ、提案っ!」
●翌週月曜日、朝
「おっはよ〜、さ〜やかっ!」
 すっきりした顔で一年d組の教室に入ってきたさつきは、すでに席についている清華を見つけると、ぱたぱたと駆け寄りながら元気よくそう呼びかけた。
「……おはよ、さつき」
 少し間をおいて、固さの残る声で、清華がそれに応えた。


「呼び捨てになってる……?」
「しかも両方とも?」
「えっなに、何かあったの?」
 たちまち周囲が騒然となる。
「……だから、いきなりは()したほうがいいって」
 言い出された時点で予想できていた展開に、清華が小さく愚痴をこぼす。その一方で、さつきは自信満々に言い切った。
「これでいいのっ!」
「え?」
「だってもう、ともだちなんだから☆」
「あ、こらっ!」
 抗する間もなく――教室いっぱいのどよめきの中で。
 さつきは、とびきりの笑顔で、清華に抱きついていた。
●monologue
 となりの間宮清華さんは、改めましてとなりの清華!
 かくして一件落着あんど、いちばん大事な出会いを越えて、
 ふつう少女・河野さつきは、花間の街に根をおろす……のでした、つづく☆