レオナルド・ダ・ビンチ (1452−1519)
受胎告知 (1472−75)
幼児キリストに花を差し伸べる聖母 (1475−78)
岩窟の聖母 (1483−86)
白てんを抱く貴婦人 (1483−90)
授乳の聖母 (1490−91)
人体のプロポーション (1492)
最後の晩餐 (1495−97)
モナ・リザ (1503-06)
レダ
聖アンナと聖母子 (1510)
自画像 (1512)
洗礼者ヨハネ (1513-16)
レオナルド・ダ・ビンチ (1452−1519)
イタリア,ルネサンスの画家,彫刻家,建築家,科学者。
[少年期〜修業時代] フィレンツェの公証人セル・ピエロ・ダ・ビンチの私生児としてフィレンツェ近郊のビンチ
Vinci に生まれ,少年時代をアルノ川上流の自然の中に過ごす。自然界の現象への好奇心は生涯を通じてもっとも根本的なものであったが,それはこの時期に培われたものと思われる。また,S.
フロイトや E. ノイマンなどの心理学者は,生後直ちに生母から引き離され複雑な家庭状況に育てられたことが,母性コンプレクスの原因となり,成長後の芸術表現,とくに女性像に深い影響を与えたと考えた。いずれにしても,聖母がきわめて多く描かれ,母性なるものが彼の重要な主題であったことは確かである。
父親がレオナルドを,15歳のころフィレンツェのベロッキオの工房に入れたのは,すでに少年が動物や植物や人間などを鋭く観察し描きとどめる才能に秀でていたからであった。ベロッキオの工房は,絵画のみならず彫刻,建築,各種の工芸デザインや工学的技術を擁する多角的工房であったため,レオナルドはそこでそれらの基礎的知識をすべて習得し,1472年画家組合に加入したのちも76年まで同工房にとどまった。この間,最も早い日付のある作品,アルノ川の素描をはじめ,ベロッキオの《キリストの洗礼》(1472‐73ころ)の天使と風景の一部,《受胎告知》(1473ころ)などを描く。
76年に,ベロッキオの他の弟子をも含めて,レオナルドは同性愛の罪で市当局に密告されるという事件があった。これは実証されず無罪となったが,彼が生涯独身であり,恋愛をしたとされる女性もいないところから,また手稿中にみられる性への嫌悪とも呼ぶべき冷淡さから,さらにはサライという美しい弟子への偏愛から,しばしばレオナルドの特異な性的傾向が問題となってきた。しかし,現在のところは,彼の同性愛を実証するものは何もない。だが,彼が通常の異性観をもっていたわけではないことは,作品にあらわれた女性や男性の両義的な表現および手稿中の文章によって推察できる。この点は,レオナルドの人間観や芸術表現における基本的な問題点の一つである。
78年ころ独立して仕事を引き受け始めた記録があるが,現存するものはいずれも未完の《三博士の参拝》(1481),《聖ヒエロニムス》(1482)などである。この両作品においてすでに,レオナルドを古典期の巨匠たらしめた特色,すなわち幾何学的な形体を基本とした画面構成と,人間をも含めた対象の外的形質の鋭敏な把握・描写と,現象の根本にある内面(人間ならば心的状態,風景ならば水流や重力,光の反射や反映など)の原理への洞察とが現れている。またこのころ,生涯つづく科学的・芸術的省察と観察を書きとどめた手稿の執筆が始まっている。
[ミラノへ] 81年ミラノ公ルドビコ・スフォルツァの宮廷付画家,彫刻家,工学技術家としてミラノに移り,99年まで同地にあって,芸術制作のみならず,軍事,土木,治水,都市計画,宮廷のイベント企画等々にたずさわり,〈万能の天才〉としての力を縦横に発揮した。またこの時期に,解剖学,動物・植物学,数学,光学,機械工学,水力学に関するノートを書き,これに関する多数の素描を残した。ミラノ行きの主要な理由は先代の君主フランチェスコ・スフォルツァの記念騎馬像の建立であったが,これは多くの習作スケッチのみが残り,着工されずに終わった。
現存する絵画作品のうち代表的なものは,《岩窟の聖母》(1483‐86)と《最後の晩餐》(サンタ・マリア・デレ・グラーツィエ修道院の食堂壁画。1495‐97)である。これらはフィレンツェでの修業時代の探究の結実であり,遠近法,人体比例,シンメトリー,幾何学的構成などの古典主義の原理が完成されたばかりでなく,それらの形象によって表現される内容とその表現方法の結びつきの完璧さにおいて,イタリア・ルネサンスの最高の成果とされる。つまり,ここにおいて形象が完全に意味を担うことができたということができる。その表現は,15世紀に主流をなした外的現象を正確に叙述する絵画とは異なるもので,これ以後の画家に測り知れない影響を与えることとなった。
[フィレンツェ帰還] したがって,99年スフォルツァの没落によってフィレンツェにもどった直後,サンティッシマ・アヌンツィアータ教会の祭壇用の《聖母子と聖アンナ》のカルトン(下図)は,このようなミラノでのレオナルドの芸術をフィレンツェにはじめて知らせた事件として,バザーリが記録するものとなった。ミケランジェロ,ラファエロをはじめ,多くのトスカナの画家が,レオナルドの芸術のもつ新しい特質から霊感を受けた。1502年の10ヵ月間,チェーザレ・ボルジアの軍事上の技術者として教皇領の各地を回り,運河開削のプランニングや都市計画等を行った。また,軍事目的で作られた地図は近代地図学の始原となった。
03年フィレンツェにもどり,パラッツォ・ベッキオ(市庁舎)の大広間の壁面に《アンギアリの戦》を依頼され,対壁のミケランジェロとの競作となったが,これはいずれも未完で,レオナルドの壁画の主要場面はルーベンスの模写のみで知られる。またミケランジェロの《カッシナの戦》の素描も散逸し,A.
サンガロの版画によって知られるが,この幻の二大壁画は,この直後芸術界をにぎわせた〈パラゴーネ
paragone(絵画・彫刻優劣比較論争)〉の火付け役となった。すなわち,レオナルドが騎馬戦の阿鼻叫喚(あびきようかん)のアトモスフィアと激動のモメントを絵画的に把握したのに対し,ミケランジェロは水浴する兵士の休息という人体を主とした彫刻的表現の範をたてたからである。またこの両作はマニエリスムの発生に多大の刺激を与えた。
同じころ,《モナ・リザ》および失われた《レダ》を描いた(《モナ・リザ》には異説あり)。この《モナ・リザ》についてバザーリは,フィレンツェ市民の妻ジョコンダの肖像であると注解したが,今日に至るまでそのモデルは特定されていない。それは信ずべき記録が残らないためと,この人物像の表現するものが,単なる肖像画を超えた,なんらかの深遠な意味を伝えていると直観されるためであり,現在では具体的人物の肖像説と,なんらかの思想の象徴説との両者が論議中である。しかし,多くの学者はこの絵の背景が,レオナルドの中心関心事たる大地と水の地質学的情景を描いている点について一致しており,背景をなす宇宙(マクロコスモス)と中心たる人間(ミクロコスモス)の理念上のかかわりがここに意味されていると考えてよい。また《レダ》は明らかに母性と大地の豊饒についてのアレゴリーと考えられる。
[晩年] 06年から13年まで再度ミラノにあり,フランス王ルイ12世に招かれ,ミラノの統治者シャルル・ダンボアーズのために,彼の宮殿,サンタ・マリア・アラ・フォンターナの設計,トリブルツィオの記念騎馬像のためのプランニングなどを行った。またミラノとコモ湖を結ぶアッダ川の運河開削にたずさわり,これに関連して水力学の研究ノートと水の習作スケッチを数多く残した。さらに水の研究と並行して,人体解剖の研究も進展させている。これは,彼が大地の水を人体の血液と重ね合わせて考えていたことを示すノートからも知られるように,両者が相互に深く関連しあう関心事であったためである。この時期に《聖アンナと聖母子》を制作している。13年レオ10世の即位とともに,その甥ジュリオ・デ・メディチ枢機縁の保護を求めてローマに赴くが,15年同枢機縁が死に,ラファエロ,ミケランジェロの名声に押されてもっぱら孤独な科学的・工学的研究に集中。この時期の絵画作品は《洗礼者ヨハネ》である。
17年,フランソア1世の招きに応じてフランスへ移り,アンボアーズ近くのクルー城に居所を与えられ,王母の居城ロモランタンの設計をするほかは研究ノートの製作に没頭し,同地で没した。