フェルメール (1632−1675)

                          

                                        娼家にて (1656)








                           

                                        小路 (1657−58)








                         

                                     牛乳を注ぐ女中 (1658−60)








                   

                                      デルフト眺望 (1660−61)








                          

                                     ターバンの娘 (1665−66)








                             

                                    絵画芸術の寓意 (1666−73)








                          

                                      地理学者 (1668−69)








                           

                                       レースを編む女 








オランダの画家。現在はしばしばヤン・フェルメール Jan Vermeer と通称されているが,画家の自筆にはこの標記は見られない。粗野な農民の主題や陽気で喧噪な宴会の情景に代わって17世紀後半に台頭した静穏で落ち着いた雰囲気の室内風俗画の代表者。大胆な近接視点の設定と広角視野の導入によって狭いオランダ都市住宅の室内空間を臨場感豊かに再現し,遠近法の歴史にも新局面をひらいた。現存作品約35点という極端な寡作のためもあって死後まもなくまったく忘却されたが,1860年代フランスの批評家トレによって再発見されて以後は着実に評価が高まり,今日ではレンブラントと並ぶ17世紀オランダ絵画の最高峰とあまねく認められている。

 彼はデルフトに生まれ同地で没した。1672年にイタリア絵画鑑定のためハーグに赴いたのを除けば,デルフトを離れた記録はない。1653年画家組合に入会,翌年ハウダ出身の裕福なカトリック家庭の娘と結婚。画家自身もこの機に改宗したらしい。師匠は不明で,結婚に際してフェルメールの弁護をつとめたイタリア帰りの歴史画家ブラーメル L. Bramer が有力だが,両者の画風に共通点は見られない。一方ファブリティウスの絵画の明るい色彩や詩的な雰囲気から影響は広く認められており,これを示唆する同時代史料もあるが,2人が師弟関係にあった確証はない。居酒屋の主人で美術商も営んでいた父の死後(1652),フェルメールは美術商の仕事を引き継いだものと思われる。彼の極度の寡作や生前に自作を売った記録のまったくの欠如は,彼が生計を他の手段でたて,絵画はもっぱら自分自身や特定の親しいサークルのために制作したことを示唆している。

ユトレヒトのカラバッジョ派,とりわけテルブリュッヘンの影響を示す大きな色斑で構成された神話画・宗教画を手がけたのち,56年ほとんど唯一の確実な年記作品《娼家にて》で風俗画に転向。次いで50年代末から60年代前半に,風俗画史上初めて登場人物の挙動と同等もしくはそれ以上の関心を陽光に満たされた室内空間の自然で正確な描出に注いだ同輩のデ・ホーホと競合しつつ,日常の行為に没頭する単身もしくは少数の人物(とくに女性)をあらわした《牛乳を注ぐ女中》《手紙を読む女》《真珠のネックレス》等の一連の傑作によって,独自の絵画世界を確立した。

 彼らの周辺には一群の追随者(〈デルフト派〉と呼ぶこともある)が生まれたが,フェルメールの作品は,画面の幾何学的とすら呼べる緊密な平面的秩序と空間の三次元性との完璧な均衡,円柱や釣鐘にたとえられるような単純で堅牢な形態とモニュメンタリティを備えた人物像,きわめて自然でいてしかも現実を超えた夢想的世界を現出させる精妙な光の描写において,他の追随を許さない。コバルトブルーとレモンイエローのとりあわせに対する偏愛や,点綴法と呼ばれる光の反映の表現も彼独自のものである。これらの特質から彼の作品は19世紀後半以降〈主題〉を欠く純粋絵画の先駆と評されることが多かったが,実際には寓意的な暗示を秘めたものがけっして少なくない。60年代中期の作品《絵画芸術の寓意》は,精緻な現実観察に根ざしながら理想性を希求し続けた彼の至高の傑作であり,構想画から出発したフェルメールの理念はこの特異な現実的寓意画に結晶している。

人物画以外の2点の作品《デルフト眺望》《小路》(ともに1660ころ)も故郷の景観に大局小局の両極から迫った傑作で,名所絵的性格の強い都市景観図の中で異色の存在である。なお,これらの作品に限らず,写真のように精密な遠近法の適用や画面の枠による前景の事物の意外な切断から,彼の絵画の多くにカメラ・オブスキュラの利用を推測する研究者も少なくない。60年代後半以後の作品は事物の存在感の支えを失って表面的な洗練に走り,質の低下を示している。妻の証言によれば,晩年は絵をほとんど描かず,美術商の仕事も第3次英蘭戦争(1672‐74)の影響のため不振で11人の子ども(生まれたのは14人)を抱えて生活は困窮していたという。没後まもなくフェルメール家は破産を宣告され,多くの美術品を含む彼の財産は競売に付された。