ルーベンス (1577‐1640)

                             
                                     自画像ー最初の妻と (1610)








                              
                                   キリスト昇架 1610−11








                              
                                        キリスト降架 1611−14








                         
                                  レウキッポスの娘たちの略奪 1618








    
                                  
アンリ4世の神格化と摂政宣言 1622-25








                                  
                                  麦わら帽子(シュザンヌ・フールマンの肖像) 1622−25








           
                                          畑から家路につく農民 1632−34








                  
                                           パリスの審判 1635−38








                                
                                          三美神 1636−38








                                   

                              通称毛皮をまとったエレーヌ・フールマン(ルーベンスの再婚相手) 1638 









フランドルの画家。ドイツ,ウェストファーレン地方のジーゲン Siegen 生れ。父はアントウェルペン (アントワープ) 出身の法律家で,カルバン派を支持して同地に亡命中であった。父の没後,1589 年一家はアントウェルペンに戻る。 ルーベンスはラテン語学校に学び,貴族の小姓となるが,画家を志して 2 人の師匠 (その 1 人は後にヨルダーンスの師となるファン・ノールトAdam van Noort (1562‐1641) )を経た後,アントウェルペン屈指のロマニスト、 ファン・フェーンOtto Cornelisz.van Veen (1556‐1629) に師事, 98 年同地の画家組合に加入した。修業時代から 1600 年にイタリアに赴くまでの最初期の作品はわずかしか知られておらず,しかも冷たくアカデミックな様式は,師匠ら 16 世紀フランドルのイタリア志向派と区別しがたい。しかし,マントバ公に仕えながら各地で見聞を広め制作活動を行った 8 年間のイタリア滞在中に,その芸術的個性は急速な開花を遂げる。ローマで古代彫刻やミケランジェロ,ラファエロにならって,古典様式の理想的形態美,調和的構図,記念碑性を身につけ,同世代のカラバッジョの芸術との接触により,生得の自然主義的傾向を自覚した。ベネチア派の華麗な色彩や大胆な構図にも親しむ。こうして,独自の奔放な構想力を核として,古典的規範性,生気あふれる現実感覚,豊かな色彩性を統合した様式が形成される。祭壇画,神話画に加え,ジェノバでは土地の貴族の儀容性と生命感を兼備した全身肖像画を描き, ファン・デイクに継承される貴族的肖像画の新類型を創始した。

  08 年の帰郷後は,スペイン領ネーデルラント総督アルブレヒト大公夫妻の宮廷画家となり,また富裕な市民たちの注文で多くの祭壇画,神話画,寓意画を制作する。 10 年代前半は彫刻的な硬質の人体表現を特色とするが,後半は筆触は自由さを,色彩は華麗さを増し,激しい運動をも緊密で均衡ある構図のうちに表現する力を確立。これはルーベンス個人を超えたバロック絵画の円熟でもあった。 18‐21 年にはファン・デイクがルーベンスの助手を務めているが,そのファン・デイクら一門を動員してのアントウェルペンのイエズス会教会天井装飾 (1620‐21) 以降,大規模な注文が続き,活動の舞台も国際的となる。フランス王ルイ 13 世の母マリー・ド・メディシスの宮殿 (リュクサンブール宮殿) を飾る彼女の一代記 (1622‐25) やイサベラ大公妃のための〈聖体の秘跡の勝利〉タピスリー連作下絵 (1627) は,その規模の壮大さのみならず,君主・教会の称揚を装飾性と結びつけた着想においても,きわめてバロック的である。 20 年代後半には,画業のかたわら主君の外交使節としても活動,スペインとイギリスを和平に導いた功により,両国王フェリペ 4 世とチャールズ 1 世から騎士に叙せられた。

 この間最初の妻イサベラ・ブラント Isabella Brant と死別 (1626) したルーベンスは, 30 年に 16 歳のエレーヌ・フールマン Hlne Fourment と再婚。それ以後,イギリス王室のホワイトホール迎賓館の天井画 (1636 完成),ネーデルラント新総督歓迎のアントウェルペン市中装飾 (1634‐35),スペイン王の狩猟館装飾 (1636‐38) など大企画の注文が依然相次いだ。他方,妻子の肖像画,別荘周辺の田園に取材した風景画など私的な作品がふえ,神話画も親密な雰囲気を増し,フランス・ロココ絵画を予告するような典雅な風俗画も描かれた。スケッチ風の伸びやかな筆致,豊潤な色彩,高貴な官能性には,ベネチア派ことにティツィアーノの最大の後継者としての真価が発揮されている。

 ルーベンスには静物画を除く各画種の,大画面から小品に至る膨大な量の作品がある。油彩習作や素描も多数現存する。工房作も多く (工房の規模は不詳),とくに種々の大企画で有名無名の画家を協力者に起用し,静物画や風景画の専門家との共同制作も行った。自邸の設計,彫刻や書物挿絵の意匠も手がけ,専門家を用いた自作の構想の版画化にも熱心であった。その絶大な影響力は 17 世紀フランドルという一時代,一地方にとどまらない。また古典文学に通じ語学の才に恵まれた教養人でもあり,各国の学者,注文者と取り交わした多数の書簡が残されている。アントウェルペンで没。