ミケランジェロ (1475ー1564)

                       
                                       ピエタ (1498−99)








                             

                                    ダビデの像 (1501-04)








                             

                                     モーゼ (1515頃)










                                 システィーナ礼拝堂天井画 (1508−12)








        

                                        アダムの創造 (1510)








                          
                                          
                                         アダムとイヴ








                              

                                            大洪水








                            

                                      最後の審判 (1536-41)








イタリアの彫刻家,画家,建築家,詩人。青年時代には彫刻,絵画における盛期ルネサンス様式の完成者として,壮・晩年期には彫刻,絵画,建築におけるマニエリスム様式の形成者として,また生涯を通じて,新プラトン主義の影響を強く受けた宗教上の思索者,詩人として,質量ともに西洋美術史上第一級の制作活動を続け,それまで一般に職人的存在とみなされていた芸術家の地位の確立に貢献した。父親はカプレーゼ Caprese の行政長官で,フィレンツェの小貴族の末裔であった。ミケランジェロは己の血筋に対する誇りを生涯捨てなかったが,その一方では現実に経済力をもたぬ父親の執拗な金銭的要求に悩まされつづけた。こうした実人生上の苦悩や,後述するように,彼の制作意欲をつねに阻害し続けたパトロンたちの意志との衝突などのさまざまな損藤を,休むことのない制作と,宗教上の思索とによって昇華し,一個人としては悩みに満ちた,芸術家としては実り多い生涯を送った。

 1488年13歳のときに,当時フィレンツェ最大の工房の一つであったギルランダイオの工房の徒弟となるが,絵画を中心的活動としていたこの工房に飽き足らなかったためか,まもなくそこを出たらしい。このあと彼は,ロレンツォ・デ・メディチが若い芸術家の教育のために古代美術品を集めていた,サン・マルコ近くのメディチ家の庭園で,彫刻家ベルトルド・ディ・ジョバンニ Bertoldo diGiovanni の指導を受けたといわれるが,この庭園の教育的機能の実情は明らかではない。いずれにせよこのころ,ロレンツォの庇護を受けて大理石彫刻家としての第一歩を踏み出すとともに,ロレンツォの邸館でのフィチーノやポリツィアーノなどの人文主義者や文学者との交友を通じて,新プラトン主義の洗礼を受けたのであった。また当時,おそらくロレンツォのために,古代ローマの浮彫の様式に倣って激しい動感に満ちた高浮彫《ケンタウロスの戦》を制作している。

94年短期間ボローニャに滞在した後,96年にはローマに行き,《バッコス》および《ピエタ》の大作彫刻を仕上げる。前者は若いミケランジェロの完璧な技術と解剖学的知識を示しており,後者は盛期ルネサンスの古典主義彫刻の代表的作品である。1501年フィレンツェに帰還し,04年には共和国の理想を託した巨大な《ダビデ》を完成させ,また同年にはパラッツォ・ベッキオ(市庁舎)大広間にレオナルド・ダ・ビンチと競作で《カッシナの戦》壁画制作を依頼される。この壁画は,何点かの部分素描と実物大下絵(現存せず)のほかにはついに完成に至らなかったが,それらの下絵はラファエロなど次代の画家たちの裸体画の手本となった。一方,ミケランジェロの唯一のタブローである《聖家族》(別名《トンド・ドーニ》)もこの時代の作と思われる。

 05年,教皇ユリウス2世の招きでローマに赴き,40体以上の彫刻と建築的モティーフの複合体である教皇の墓妓の制作を命ぜられるが,翌年には早くも教皇との間に不和が生じ,仕事は中断する。教皇は08年システィナ礼拝堂天井画制作を彼に命じ,彫刻家をもって自認するミケランジェロは,不承不承ながらも,12年に《創世記》諸場面とその周辺の多数の画面をほとんど独力で描き上げる。この天井画の特質は,第1には無数の人体の彫塑的表現効果であり,第2にはその新プラトン主義的な聖書解釈であろう。13年にはユリウス2世が没し,教皇墓妓の計画案は教皇の相続者たちの意思によって,ミケランジェロの意図に反して何回も縮小され,45年に最終的に制作が停止されたとき,彼はこのモニュメントのために《モーセ》《レア》《ラケル》,そして2体の《奴隷》を仕上げていたにすぎなかった。だがこれらの像は,堂々たる肉体表現に深く激しい精神をこめた,ルネサンス彫刻の頂点を示す作品となっている。

20年,フィレンツェのサン・ロレンツォ教会内メディチ礼拝堂に同家の墓所建立の依頼を受け,24年から10年間,建築と彫刻の複合体である2基の墓碑の制作に携わる。新プラトン主義の世界観に形を与えたとされるこれらの墓碑は未完に終わったが,それを構成するロレンツォとジュリアーノ・デ・メディチの像,その下に横たわる〈朝〉〈夕〉〈昼〉〈夜〉の4寓意像および聖母子像が制作された。これらの像は,それぞれ端正な形態のうちに深く沈潜する気分を表しており,晩年の彫刻の,苦悩に満ちた様式を暗示している。

 34年,フィレンツェから最終的にローマに移り住み,残る30年の生涯を教皇庁関係の仕事に費やす。35年新教皇パウルス3世は彼にシスティナ礼拝堂祭壇側の壁に《最後の審判》の壁画制作を命じ,老齢にさしかかっていたにもかかわらず,41年彼は独力でこの大画面を完成した。この作品はそれまでの絵解き的な《最後の審判》図とは異なり,正義の精神が骨肉を備えたごときたくましいイエス・キリストが,雷を投げるゼウスを思わせる激しい身ぶりで審判を下し,そのまわりには人間的苦悩をたたえた悪人たちや威厳を備えた善人たちが,バロック美術を予告する激しく旋回する構図と強烈な明暗によって描き出されている。《最後の審判》制作中のミケランジェロは,熱心なキリスト教徒で詩もよくした貴婦人ビットリア・コロンナVittoria Colonna との知的交友によって寂寥を慰められ,この愛に触発された詩を残している。

ビットリアが47年に没して彼はますます孤独になったが,教皇庁の仕事はひきもきらず,老いた彼を休息させることはなかった。晩年の作品としては,バチカン宮殿パオリナ礼拝堂の《パウロの改宗》および《ペテロの磔刑》の壁画(1550)や,3体の未完の《ピエタ》(フィレンツェ大聖堂の《ピエタ》,パレストリーナの《ピエタ》,ロンダニーニの《ピエタ》)などがある。これらの像においては,長い制作活動と人生の闘争に疲れた老芸術家の苦悩と,そして彼がわずかに宗教に見いだしえた安らぎとが感じとれる。彫刻家,画家としてのミケランジェロは,一言で述べるならば,完璧な技巧と解剖学的正確さを備えた古典的な人体表現と,キリスト教的精神性との結合に成功し,その意味で初期ルネサンス時代からの芸術上の理想の達成者であったといえよう。

 建築の代表作としては,サン・ロレンツォ教会付属図書館入口の間の設計(1523‐25),ローマのカンピドリオの丘の広場の整備(1536設計),サン・ピエトロ大聖堂の円蓋その他の計画案(1546)などがある。建築において彼は,個々のモティーフを彫塑的に扱い,古典主義建築に自由な発展の可能性を与えることによってマニエリスム建築への道を開いた。