第2章 人生問題を解決する
 1.いかに生きるべきか?   2.真理とはどのようなものか?
 3.世界の未来   4.世界(宇宙)が存在する目的と意味
 5.世界は何故存在しているのか?   6.やりたいことを見出す方法
 7.やりたいことを実現する方法   8.生活資金をつくる
 9.金と幸福の関係を知る  10.今日一日をfullestに生きる
11. 不快感や悩みやストレスをコントロールする


 人は偶然この世に生を受けて、死ぬまでの一生の行程の中で、様々な問題に直面します。その問題にどのように対処するかによって、人生の充実度は変わってきます。この章の目的は、そのような人生問題の一部を取り上げて、その解決案を考えることです。


 1.いかに生きるべきか? 今、何をなすべきか?  

「いかに生きるべきか? 今、何をなすべきか?」という問題が重要であり、生き方の原理となる根本的な思想を持つ必要が何故あるのだろうか? その主な理由として、二つを挙げることができる。

 第一に「いかに生きるべきか?」というやや抽象的な表現を「今、何をなすべきか?」「生きている間に、何をしておくべきか?」という現実的で具体的な問いかけに言いなおしてみると、人は常にこの問いに直面し、考え、迷っているので、この問題が毎日の生活にいかに深くかかわっているかが分かる。人はこの問題に始終付きまとわれて、永久に開放されないのは何故だろうか?それは人が好むと好まざるとにかかわらず自由を持っているからである。ある行為や考え事をするとき、選択肢をいくつでも挙げる自由と、その中から最終的に一つを選び取る自由を誰でも持っている。自由に選択しても、外的、または、内的障害に阻まれて、自分の望みどおりにならないことはあるが、それは結果であって、初めの状態が自由であることに変わりはない。

 第二に、人間はこの世に生存できる時間が短く制限されていることによる。もし望みどおりの年月を生きることが許されているならば、行き当たりばったりに思いつくままに行動を決めていても、後で考え直して何度でもやり直すことが出来る。しかし実際に病気、老衰、事故などにより死が直前に迫ってきて、過去を振り返って自分が納得する意味や満足を見出せず、生き方が間違っていたと後悔した場合、今度こそ賢明な世界観や人生観に基づいて全てをやり直そうと思っても、もはや残された時間と体力はわずかなので無理な相談ということになる。

私たちが自分自身の生き方を考えるとき、以下に紹介する先人が深い省察の結果到達した考え方や生き方を傾聴すべきである。死の考察が多く出てくる理由は、人間は自分自身の死を念頭に置かなければ、「いかに生きるべきか? 今、何をなすべきか?」という問いに対して正しい答を出せないからである。


1.人生で最も重要な問題は何か?

"What matters most is how we ought to live."   Socrates

「人間にとっていかに生きるべきかの考察以上に重大な問題はなに一つない。」   (ソクラテス)

「この世界には知るべきことがたくさんある。しかし、本当に重要なことは、いかに生きるべきかということだけである。」   (トルストイ)

「大切なのは私にとって真理であるような真理を見出し(中略)、私がそれに基づいて生き、そして死ぬべき思想を見出すことである」                                                                         (キルケゴール)
 


2.自分の頭で考える

「もともとただ自分の抱く基本的思想にのみ真理と生命が宿る。我々が真の意味で十分に理解するのも自分の思想だけだからである。(中略) わたしたちの心の内にわきおこっている独自の思想と、本で読んだ他人の思想とをくらべるのは、あたかも、春の花咲きにおう植物と、化石に残る前世界の植物の印象とをくらべてみるようなものである」 (ショーペンハウエル)

「自ら思索する者は自説をまず立て、後に初めてそれを保証する他人の権威ある説を学び、自説の強化に役立てるにすぎない。ところが書籍哲学者は他人の権威ある説から出発し、他人の諸説を本の中から読み拾って一つの体系をつくる。 (中略) 自分で考えた結果獲得した真理は生きた手足のようなもので、それだけが真に我々のものなのである。」   (ショーペンハウエル)

「読書で生涯を過ごし、さまざまな本から知恵をくみとった人は、旅行案内書をいく冊も読んで、ある土地に精通した人のようである。(中略) これと対照的なのが生涯を思索に費やした人で、いわば自分でその土地に旅した人の立場にある。そういう人だけが問題の土地を真の意味で知り、その土地の事情についてもまとまった知識を持ち、実際、我が家にあるように精通しているのである。」 (ショーペンハウエル)


3.真理とはどのようなものか?

"Apart from mathematics, we know nothing for certain. But we still have to live: and to live is to act. All actions have to be based on assumptions about reality."     Hume

「数学を除けば、われわれは確実なことを何も知らない。しかし、それでもわれわれは生きなければならない。そして、生きるということは行為することである。したがって、あらゆる行為は実在に関する仮説に基づかざるを得ないのである。」   (ヒューム)                      
 
"I supposed that all the objects (presentations) that had ever entered into my mind when awake, had in them no more truth than the illusions of my dreams. But immediately upon this I observed that, whilst I thus wished to think that all was false, it was absolutely necessary that I, who thus thought, should be somewhat; and as I observed that this truth, I think, therefore I am (COGITO ERGO SUM), was so certain and of such evidence that no ground of doubt, however extravagant, could be alleged by the sceptics capable of shaking it, I concluded that I might, without scruple, accept it as the first principle of the philosophy of which I was in search."   Descartes

「当時私は、真理の探求に専念したいと望んでいたので、少しでも疑問をさしはさむ余地のあるものは全部、絶対的に虚偽のものとして、放棄しなければならぬ、と考えた。そうした後で、私の信念の中に、なんら疑う余地の無いなにかが残るかどうかをみとどけるためにであった。(中略) 私は、自分の精神の中に入り込んでいた全ての事柄を夢の中の幻想と同じように、真実でないと仮定しようと決心した。しかし、その後、ただちに私は次のことに気がついた。それはすなわち、このように一切のものを虚偽と考えようと欲していた間にも、かく考えている『私』は、どうしても何物かでなければならないということであった。そして『私は考える。それゆえに、私は存在する。』というこの真理は懐疑論者のどんなに途方もない仮定といえども、それを動揺させることが出来ないほど、堅固で確実であるのを見て、私はこれを自分が探求しつつあった哲学の第一原理として何の懸念も無く受け入れることが出来ると判断した。」   (デカルト)


4.世界(宇宙、自然、人間)とはどのようなものか?

「世界がいかにあるかが神秘ではなく、世界があるという事実が神秘である。」    (ヴィトゲンシュタイン)                      

「ああ、これでおれは哲学も法学も医学も、また要らんことに神学までも容易ならぬ苦労をしてどん底まで研究してみた。それなのに、このとおりだ。おれという阿呆が。昔よりちっとも利口になっていないじゃないか。マギステルだのドクトルとさえ名乗って、もうかれこれ十年ばかりの間、学生の鼻づらをひっ掴まえて上げたり下げたり斜めに横にひき回してはいるが、実は我々に何も知り得るものでないということが分かっている。それを思うとほとんどこの心臓が焼けてしまいそうだ。」   (ゲーテ 『ファウスト』)


5.生き方は一人一人の自由に任されている

「実存主義の考える人間が定義不可能であるのは、人間は最初は何物でもないからである。人間はあとになってはじめて、人間になるのであり、人間はみずからつくったものになるのである。このように人間の本性は存在しない。その本性を考える神が存在しないからである。人間はみずからがそう考えるところのものであるのみならず、みずから望むところのものであるにすぎない。人間は、みずからつくるところのもの以外の何ものでもない。以上が、実存主義の第一原理なのである。」 (サルトル)

「人間は自由の刑に処せられている。(中略)人間は何のよりどころもなく、何の助けもなく刻々に人間を作り出すという刑罰に処せられている」                                                                   (サルトル)

「『君は片方の手で何かを選び、もう一方の手でそれを価値として与える。すなわち、価値というものは、君が選ぶものである以上、結局は根拠薄弱だ』と。それに対して私は、事実そうであるのは遺憾千万だと答える。しかし父なる神を抹殺したとすれば、価値を創り出す何物かが必要になってくるのである。事はそのありのままを見なければならない。それにまた、われわれが価値をつくるということはただ、人生は先見的には意味を持たないということを意味しているに過ぎない。諸君が生きる以前において人生は無である。しかし人生に意味を与えるのは諸君の仕事であり、価値とは諸君の選ぶこの意味以外のものではない。」  (サルトル)


6.死の問題を解決する

「多数の人々が鎖につながれ、そのすべてが死刑を宣告されているさまを想像しよう。そのなかの幾人かが日ごとに他の人々の眼前で絞め殺され、残った者は、自分たちもその仲間と同じ運命をたどることを悟り、悲しみと絶望のなかでたがいに顔を見合わせながら、自分の番がくるのを待っている。これが人間の状態なのである。」                  (パスカル)

「今や私はたえず私を死の方へ引きずりながらかけていく日々夜々を見ずにはいられない。私はこれのみを見つめている。何故ならこれのみが唯一の真理で、その他のすべてはみな欺瞞だからである。」    (トルストイ)

「死がそのノミをもって彫ったのではないどんな思想も私のなかには存在しない。」   (ミケランジェロ)

「先ず臨終のことを習いて、後に他事を習うべし」  (日蓮)

「生命飢餓状態におかれた人間が、ワナワナしそうな膝頭を抑えて、一生懸命に頑張りながら観念的な生死観に求めるものは何であるか?何かこの直接的な激しい死の脅威の攻勢に対して抵抗するための力になるようなものがありはしないかということである。それに役立たないような観念の組み立てはすべて無用の長物である。」    (岸本 英夫)

「想うに、現代人にとっての死の問題の困難は、それに対する単一の解決のカギがないことである。一刀両断に問題をすべて解決させるというキリフダ的なものがない。 (中略) しからば、どうしたらよいのか。おそらく現代人にとっての死の問題の解決には複合的、多元的な方法しかないだろう。すなわち、いろいろな方法で部分的に死の問題を解決し、それらを総合した結果として安らかに死んでいくことが出来るようにするのが残された方法なのではないだろうか。
 最近の人格心理学は人間の自我の心理的構造が複合的なものであることを明らかにしてきた。自我が本来複合的なものであるとすれば、死という自我崩壊の危機において、それを解決する方法が複合的になるのもまた当然である。」   (岸本 英夫)


7.やりたいこと、やるべきことを実現する

「もっとも後悔されることは何か?それは遠慮ばかりしていたこと、おのれの本当の欲求に耳をかさなかったこと、おのれを取り違えること、おのれを卑しめること、おのれの本能を聞き分ける繊細な耳を失うことである。こうした自己に対する敬意の欠如は、あらゆる種類の損失によって報復を受け、健康、快感、誇り、快活さ、自由、不動心、勇気、友情が損なわれる。後になってもわれわれは、このような真のエゴイズムの欠如をけっして自分に許さない。」  (ニーチェ)

「まだ若くして癌や白血病にかかり、あと生きる時間があまりないという人でも、宗教的に、又、哲学的に死そのものを達観できる人もある。そういう人の一番の関心事は『残された時間を出来るだけ充実させてなすべきことをなし、味わうべきものを味わっておきたい』ということになってくる。」                     〈神谷 美恵子〉

「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。」             (兼好法師)

「何よりも、このまま生を終わってよいのかという疑問は変わりなく胸にあった。その疑問は時々強く私の胸に迫るのである。死はあまり遠くないところで私を待っているであろう。自分という生きた人間のしるしは何であったか。サラリーマンになり、会社の仕事をし、役員になった。家を買い妻子を養ってきた。それはそれで大事なことだったかもしれぬが、自分が本当に生き甲斐と思うことに、全力をあげて取り組んだことがあるか。これこそが生であると思うことにぶつかったことがあるか。答えは空しいのである。たとえ平凡な人間であっても、一度しかない人生をこのまま終わるのはあまりのも淋しいし、死にきれないといってもオーバーではない。」   〈中村 新〉

「手に届く花を摘め。人生は舟に乗って川を流れてゆくようなものだ。舟べりに寄って岸の花を摘むときは、手の届く花しか摘めない。上流には上流の花があり、下流には下流の花がある。しょせん自分の手の届く花しか摘めない。舟は流れる。手の届くときその花を摘まなければ、その花は永遠に去ってしまう。我々のなかには、手の届かない花をむりに取ろうとして取れず、眼前にある花をもいたずらに見逃しているものがないであろうか。」                                                        (門脇 一生)


8.世界と人類の存在は望ましいか?

「ある神がこの世界を創ったのなら、私はそんな神になりたいとは思わない。世界の惨状が私の胸をずたずたに引き裂くだろうから。」   
                                                                  
「人生とは存在してはならないもののことである。即ちそれは悪である。それ故に、生より無への転換が、人生の唯一の善なのである。」    
                                                                    (ショーペンハウエル)


"There is but one truly serious philosophical problem and that is suicide. Judging whether life is or is not worth living amounts to answering the fundamental question of philosophy."   Camus

「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する。これが哲学の根本問題に答えることなのである。それ以外のこと、つまりこの世界は三次元よりなるとか、精神には九つの範疇があるのか十二の範疇があるのかなどというのは、それ以後の問題だ。そんなものは遊戯であり、まずこの根本問題に答えなければならぬ。」    (カミュ)


9.ペシミズム、ニヒリズムと戦う

「第四の血路は弱気のそれである。この行き方は、人生の悪であり無意味であることを悟りながらも、せん術の無いことを予め知って、ぐづらぐづらとそれを引きのばして行くという方法である。この部類の人々は、死の生にまさることを知ってはいるが、理性に基づく行動に出て、ひと思いに虚偽を打破して自分の一命を絶つだけの元気が無く、まるで何ものかを待っているように、ぐづらぐづらと煮え切らないその日を送って行くのである。 (中略) この行き方は私にとって実にうとましく苦しかった。しかも私はこうした境地にとどまったのであった。が、今になってこれを見るに、この当時私が自分の一命を絶たなかったのは、私の考察が正しくないというおぼろげな自覚が、その原因となっていたのだった。私には今その事が分かるのである。私を生存の無意味であるという自覚に導いていった諸聖賢の思想や私の思想の道程は、実に疑う余地の無い確実なものに見えたけれども、しかも尚、私の内部には、私の判断の真実性に対する、おぼろげな懐疑が残っているのであった。」     (トルストイ)

「全人類をいままで支配してきたものは荒唐無稽なものである。すなわち無意味である。あなたがたの精神と徳を大地の意義に奉仕させなさい。わが兄弟たちよ!あなたがたが万物の価値を新しく定めるのだ!その為には、あなたがたは戦うものにならねばならない!その為には、あなたがたは創造者にならねばならない。」    (ニーチェ)


10.今日一日を十分に生き、今日一日を十分に味わう

「私たちが私たちの患者から学び得た最大の教訓は、多分次のことだったといえるでしょう。いよいよのときに振り返って、『神よ、私はなんと私の人生をムダに過ごしてきたことでしょうか』と嘆かなくともすもように、充分に生きるということ。(中略) この人たちはその苦しみと死にゆく過程のうちに、我々はただ現在のこの一瞬しか持っていないのだ、『だからこのいまの一瞬を存分に完全に持ちなさい、そして何があなたを動かし、生かしているかを発見しなさい、なぜなら誰もあなたにそれを見つけてくれられる人はいないのだから』ということを学んだのでした。」             (キューブラー・ロス)

「人生の進行というものは、なんと奇妙なものだろう!小さな子供は『もっと大きくなったら』と口にする。だが、どうしたことだ。大きくなった子供は、『大人になったら』と言うではないか。そして大人になると、『結婚したら』が口癖となる。けれども、結婚したらいったいどうなるか?考えがコロリと変わって、『隠退のあかつきには』とくる。やがて隠退が実現すると、自分の過ぎし日の光景を思い浮かべる。そこには木枯らしが吹きすさんでいるようだ。なぜか、すべてを取り逃がしたような思いがする。そして、もはや過ぎ去ろうとしている。遅ればせながら、我々は学ぶのだ。人生とは、毎日毎時間の連続の中に、身をおくことである。」     (スティーヴン・リーコック)

「『生のさなかにわれわれは死の中にいる』 誕生の瞬間から、つねに人間にはいつ死ぬかわからない可能性がある。そしてこの可能性は、必然的に遅かれ早かれ既成事実になる。理想的には、すべての人間が人生の一瞬一瞬を、次の瞬間が最後の瞬間となるかのように生きなければならない。常に、いつ死んでもいいつもりで、生きることができねばならない。しかも、そのために、ふさぎこむことなく、平静にである」            (トインビー)

されば道人は遠く日月(過去)を惜しむべからず、ただ今の一念(一瞬)むなしく過ぐることを惜しむべし。もし、人来たりて、我が命、明日は必ず失はるべしと告げ知らせたらんに、今日の暮るる間、何事かを頼み、何事かを営まん。我らが生ける今日の日、何ぞその時節に異ならん。」  (兼好法師) 

「定年からが本当の人生。生涯修行、臨終定年。」           (松原泰道) 

「私の永遠は、今、この瞬間なんだ。興味があるのはただ一つ、今自分がいる場所で、(自分が自分に課している)目的を遂げること。」 
                                                                    (アインシュタイン)

「過去と未来を鉄の扉で閉ざせ。今日一日の枠で生きよう。」        (ウイリアム・オスラー)




  2.真理とはどのようなものか?

私たちは「いかに生きるべきか」という問題の究明において、確実で真の判断と知識に基づく考えを求めている。不確実で偽りの判断が、考える過程に入り込んで、誤った結論に導かれないよう、極力注意しなければならない。そのためには、はじめに真理に関する諸問題について納得のゆく答を出しておかなくてはならない。その答として何を採用するかによって、ある事柄に対する我々の判断は相当異なったものになり得るからである。例えば、科学と宗教では、真理の基準が違うので、一方で真理として認められる命題も、他方では虚偽と見なされることがしばしば起こる。

 真理性を問われる命題には、一般に、存在に関するものと、価値に関するものとがある。両者は深い関係を持ってはいるが、その定義と真偽の基準は異なるので別々に扱う必要がある。


1 存在判断の真理性
 
(1) 存在判断の真理の定義と真偽の確認方法

存在判断の真理の定義 

 存在の真理に関する第一の問題は、真理という言葉の定義として何が適切なのかということである。一般的な定義によれば、判断が実在に一致している場合、その判断は真理であるといわれる。この定義はすでにアリストテレスが次にのように表現して以来目立った反論者はいないようである。「存在するものを存在しないと言い、あるいは、存在しないものを存在すると言うは偽であり、存在するものを存在すると言い、あるいは、存在しないものを存在しないと言うのは真である」。我々が求めているものも正にこの実在しているものについての知識であり、実在していないものについての知識ではないのだから、この定義は我々の目的に最も適っていて、他の定義を考える必要はないだろう。

存在判断の真偽の確認方法

 存在の真理に関する第二の問題は、ある判断が真理であるかどうかを、どうすれば確認できるのかということである。即ちその判断の内容が本当に実在することをどうすれば保証できるのかという問題である。これに関しては、科学において一般に採用されている以下の確認方法を、本書でも採用する。その理由は、この方法が基本的には科学や技術だけでなく哲学や日常生活においても有効であることが経験的に確かめられていて、これよりも優れて信頼できる確認方法は今のところ確立されていないからである

 ある命題(判断)Sが次の(A)、(B)、(C)の条件を3つとも有しているならば、その命題Sは真理である。

(A-1)命題Sが真理であると仮定すれば、存在しているさまざまなな現象や事実をSによ
   って論理的に説明できること。あるいは、命題Sから、既に事実や真理として承認された
   命題Tを演繹的に導き出せること。
(A-2)または、既に事実や真理として承認された命題Tから、命題Sが演繹的に導き出
   せること。
(B) 命題Sが他の真理や事実と矛盾しないこと。 
(C) 命題Sの実在を裏付ける証拠があること。実験によって命題Sを証明できること。

注意:
 − 数学上の命題の証明は、(A-2)だけで十分である。 
 − 「庭に宝物が埋められている」というような命題は、実際に庭の土を掘りかえすだけで真
    偽を確認できるので、(C) だけで十分である。

(例1 進化論)
(A-1) 生物は突然変異によって、環境に適した新しい形質を持つものが生まれ、長い時間をかけて、さまざまな種類の生物が生まれたという進化論(S)は、地球上には無数の種類の生物が存在している事実・現象(T)を論理的に説明できる。
(B) この進化論に矛盾する事実は、今までに知られていない。
(C) 例えば、年代別の地層から発見される化石は、進化の順になっている。

(例2 中間子理論)
(A-1) 原子核は陽子と中性子により形成されているが、それらがバラバラにならないで硬く結びついている現象を説明するために、湯川秀樹は1935年に中間子理論(S)を発表した。それによると陽子と中性子が接近すると周りに存在する中間子を交換して非常に強い力を及ぼし合い、この核力によって陽子と中性子が結合し原子核を形成する。
(B) この中間子理論に矛盾する事実は、今までに知られていない。
(C) 中間子理論は発表当時まだ仮設として扱われたが、1947年パウエルによって宇宙線の実験で原子核乾板上に中間子の存在が確認されたことによって真なるものとなった。

(例3 幾何の命題)
(A-2) 「三角形の内角の和は180度である。」(S)という命題は、「二つのの平行線が第三の直線に交わって出来る錯覚(または同位角)は等しい」(T)という、既に真理として証明された命題から演繹的に導き出せる。
 


〈2〉 存在の真理の獲得方法とその制約・限界

 存在の真理に関する第三の問題は、真理を獲得するためにはいかなる方法が最も優れているかということである。自然科学はある現象を解明するために、まず仮説を設定し、それを実験によって確認し、仮説と実験結果が整合しない場合は、仮説を変更するという作業を繰り返し積み重ねることによって確実性を増し、現在見られるように知識のあらゆる領域において驚くべき成果をあげてきた。そして、さらにその成果を生活の便利さと豊かさのために応用して、奇跡的としか言いようのない現代文明を築いたのである。仮説と実験を組み合わせて真理を探求する科学的方法の創始者はガリレオ・ガリレイ(1564−1642)とされているから、それ以降現代までの約400年間にこの方法から生まれた成果の偉大さと、それ以前の長い停滞時代を比較するとき、この科学的方法に対する信頼は高まりこそすれ低くなることはあり得ないだろう。

 しかしながら、この事実は科学的方法といわれるものが万能であって、この方法に基けば人間は完全な真理に到達できるという訳ではない。その第1の理由は、真理の条件として挙げた(A)、(B)、(C)が成立しても、真理であることが絶対に保証されたわけではない。それは、将来、現象をもっとよく説明できる理論が生まれて置き換わる可能性があるし(A)、理論と矛盾する事実が現れる可能性も否定できないし(B)、もっと精度の高い実験装置が開発されて新しい実験結果が出ることもあり得る(C)からである。これらのことは過去の科学の歴史が示しているとおりである。

 第2の理由は、たとえ、(A)、(B)、(C)が成立しても、論理上は、これらすべてのことが夢の中の出来事ではないと誰も断定できない。

 第3の理由は、真理の条件(A)、(B)、(C)は、観察や実験結果に根拠を求めるものだから、人間が経験や観察できる時空の範囲を超えた事柄については力が及ばないことである。例えば電波望遠鏡で観測できる空間は限られているし、電子顕微鏡や加速器で測定できる極微の世界も限界があるので、それを超えた無限大や無限小の事象については推測以上のことを言う力を与えられていない。だから我々が取るべき態度は(A),(B),(C)の方法を基に、ある現象を説明できる仮説を立て、観察や実験によって確認を行い、他の真理や現象との矛盾や限界の有無を調べ、問題があればそれを解消できるような仮説を作り直す努力を永久に続けることで、より確実な知識に接近していくことである。
                        


 (3)客観世界は実在しているか
  
 世界(宇宙、自然、人間)はどのようにして存在するようになったのか、その全体像の把握を、現代科学の成果に基き第二章で行うが、その前に論理上の前提として「客観世界は本当に実在しているのか?」という問題について、納得のいく解答を出しておかなければならない。客観世界の実在を誰も疑っていないだろう。しかし、客観世界の存在は、よく考えれば決して自明の理ではなく、論理上は絶対的確実さを保証されていない。だから、それに対する我々の態度を決めておかなければ、世界像の把握のために、安心して客観世界へ旅立つことはできない。

 客観世界とは我々の意識の外にこれとは独立して存在する世界のことである。そのような客観世界の実在はどのようにして保証されるのだろうか?これを具体例で説明すると、今、「私の意識上の現象の中で、机の上に一つのリンゴがあるように思える。」という判断をしたとする。これは私が嘘をつかない限り、意識現象を直接ありのままに記述したものなので、この判断は意識上の存在と一致していることが保証されていると考えてよいだろう。厳格な懐疑論者が全ての存在を疑ったとしても、この意識現象の存在だけは疑うことが出来ないだろう。

 デカルトは懐疑の末に、疑問を発している「我」の存在だけは疑うことができないという結論に到達し、「我思う。ゆえに我あり。」と説いて、我の実体としての霊魂の実在を主張し、彼の哲学の第一原理とした。しかし、「思う」という意識現象の存在は確かに誰でも直接に把握できるが、その主体としての「我」という実体そのものを直接に認識したり検証することはできない。これが彼の第一原理の難点である。それよりも、意識現象そのものの存在なら、誰もが肯定せざるを得ない自明のことで、検証不要である。したがって、意識現象の存在を、私の哲学の第一原理として採用したい。

 次に私が「私の意識現象とは独立して、外界の机の上に一つのリンゴが存在する。」という判断をしたとする。この場合はどうすれば判断と実在の一致を保証できるだろうか?はじめに、「意識とは別に客観的に独立した外界で、机の上に一つのリンゴが実在する」と仮定してみる。次に、この物体から放射される太陽光線の反射光が私の目の水晶体を通過して網膜に達すると仮定する。さらに、この網膜にある感光細胞に光があたると、そこに含まれているロドプシンという物質が光化学反応を起こして、この感光細胞に接続している視神経に興奮が生じ、それが大脳の視覚領域に伝わり、光や色の感覚が生じると仮定する。そして、この光や色の感覚が意識の中で一つのリンゴとして認知されることになると仮定する。

 この全体のプロセスは真理の3条件の(A-1)に該当し、「意識とは独立して、外界に客観的にリンゴが存在する」という仮定命題(S)から出発して、外界のリンゴから光が出て、それが意識中でリンゴの像として認知されるまでのプロセスを仮定することにより、「意識の中にリンゴが存在する」という既に認められている現象を論理的に説明できる。また、リンゴが外界に実在すると仮定しても、他のいかなるものとも矛盾しない(B)。そして、カメラによってこの机の上のリンゴを撮影すれば、その写真はリンゴが外界に実在していることの証明となる(C)。

 この例のように、我々が直接にその絶対的実在を認識し保証できるのは意識現象だけである。そしてこの意識現象が生じる原因として外界の実在が要請され仮定されたのである。客観世界の実在という仮説は、論理上はその絶対確実性を保証できないものである。たとえ写真という物的証拠があったとしても、夢の中の出来事かも知れない。あるいは、我々が直接確認できない或るもの仕業により、リンゴの像が写真に写っているのかも知れないというような可能性を論理的には否定できない。しかし、この客観世界の実在を仮定すると、絶対に実在する意識現象を最も完全に説明できるし、他の現象に対し何ら矛盾や限界や不都合が生じないので、我々はこれを真理として扱うことにしたのである。仮説と実験の試行錯誤の積み重ねによって獲得した知識や判断に対する我々の態度は、論理上は、それが真理や実在である確率が100%ではなく90%とか99%かもしれないという条件を付さざるを得ないのである。

 このように知識の全構造物から仮定や確率というような不確実性を排除しようとすれば、外界の実在性については判断を中止して、実在を直接に保証できる意識現象に真理探求の世界を限定せざるを得ない。しかし、真理に効率的に近づくための一般的な方法論としては、外界の実在を前提として、仮説作業と観察や実験による検証で大胆に研究を進める科学的方法が総合して優れている。


2 価値判断の真理性

(1)価値判断の真理の定義と真偽の確認方法


価値判断の真理の定義

 価値判断に関する第一の問題は、価値の真理について最も適切な定義は何かということであるが、ここでは次のように定義する。「Aは存在すべきである」、または、「Aが存在することは、Aが存在しないことよりも望ましい」場合、「Aは価値がある」、「Aはよい」、「Aは善である」と言うことにする。また、「Aが存在することは、Bが存在することよりも望ましい」場合、「AはBよりも価値がある」と言うことにする。逆に、「Aは存在すべきでない」、または、「Aが存在しないことは、Aが存在することよりも望ましい」場合、「Aは反価値である」、「Aはわるい」、「Aは悪である」と言うことにする。

価値判断の真偽の確認方法

 第二の問題は、ある価値判断の真偽をどうすれば確認できるかということである。価値判断には手段価値判断と目的価値判断の二種類がある。手段価値とは、物事の役に立つ性質、あるいは、何かある目的を達成するための手段として役に立つ有用性のことである。目的価値とは、他の目的や物事の手段としてではなく、それ自身が最終的な目的になっているものである。

 手段価値判断の場合、「Aは価値がある」という命題を「AはBの役に立つ」という形に言いなおしてみると、これは存在判断になるから、存在判断の真偽の確認方法をそのまま適用できる。すなわち、Aは本当にBの役に立つかどうかは、実際に試してみるか、科学的知識に照合することにより、事実かどうかを判定できる。例えば、「この薬は価値がある。」かどうかは、実際にその薬を自分で服用したり、製薬会社の試験結果を調べて、病気や症状がどれだけよくなるか分かるので、その真偽を確認できる。

 目的価値判断の場合も、実際にそれを体験したり実験したりして、その結果を見れば、その対象の存在が望ましいかどうかは自ずと明らかになる。例えば「この音楽は価値がある」という目的価値判断の場合は、実際にコンサートホールに行って、その音楽を聴いてみて、感動したり、気持よくなるかどうかの結果を見れば、確認できる。



〈2〉 選択の仕方

 私たちが日常生活でしばしば直面するのは行動の選択問題で、「AとBのどちらを選ぶべきか?」、「Aと非Aのどちらを選ぶべきか?(Aを取るべきか、取らざるべきか?)」というような場面である。これは本質的には価値の選択問題であるから、AやBや非Aを実際に体験や実験をして、結果を見て、それぞれの価値を吟味して、確認することによって選択するのが正しい解決方法である。しかし、現実に直面する状況では、そのような体験や実験をできない場合が多い。そのような場合、具体的にどのように対処すればよいのだろうか?

「AとBのどちらを選択すべきか?」という問題を解くプロセス

@ 左側に評価する項目を全部列挙して、重要度の高い順に並べる。
A 右側にAとBのカラムを設け、評価項目別にAとBの評価を記入し、評価点数も入れる。
B @、Aで作成された比較表を検討して、AとBの総合評価を行い、最善案を決める。

注意点: 
 − 「A と 非A のどちらを選択すべきか?」というケースは、前記のBの代わりに非Aを置き換えれば、全く同じである。
 − A、B、Cの三つの中から一つを選ぶ場合も、同じ方法でよい。
 − 評価項目の選び方や各評価項目のウェイト付けのしかたによって、結論は当然違ってくるし、同じ人間でも置かれた状況によって結論が異なるだろう。
 − 現在の視点からの評価だけでなく、将来10年後、20年後、30年後に過去を振り返ったときの評価はどうなるだろうかという視点からも行う必要がある。選択の誤りによる後悔を未然に防ぐためには、将来の時点に立ったとき、どちらだと後悔が生じるかを考えて、現在の選択問題に答えを出す。例えば、太平洋戦争という取り返しのつかない悲劇は、現在の視点だけからの得失計算によって引き起こされた。




  3.世界の未来

「世界(宇宙、自然、人間)とはどのようなものか?」という課題に答えるためには、「現在の世界が存在するようになった原因としての過去」(これは「おわり」の「世界の存在」に記述した)だけを調べるだけでは不十分で、「世界の未来はどうなるのか」も考慮する必要がある。例えば、キリスト教では、最後の審判という考え方が、人間の生き方に大きな影響を与えたように、世界の未来を知ることによって、現在の人間の生き方が影響を受けるかも知れないからである。

 世界の未来を次の三つの観点から考えてみたい。


(1)人類の生き方はどうなるのか?

 将来、科学技術が限界なく進歩して、生活の物質面はさらに便利になっていくだろう。しかし、人間が生まれて成長し、結婚して子供を育て、食べるために働き、いかに生きるべきかを考え、様々な欲望を満たすために行動し、そして死んでいくという生き方の基本は変わらないだろう。もしも、この生き方が根本的に変わるとすれば、それは、医学や遺伝子工学の進歩によって病気や老化が克服され、不老不死という人類の夢が実現した場合である。そのとき地球が養えるだけの人口制限が行われれば、人間は半永久的に生き続けることができることになる。そのような状況下では、何歳までに結婚して子供を育てるのがよいというようなライフサイクルを気にする必要は無くなる。また、人間は死ぬことが無くなり、何度でもやり直しが可能になるので、「生きている間に何をなすべきか?」という問題は重要ではなくなる。
 


(2)進化がさらに行われて、人類を超えた生物が登場した場合は?

 数百万年、数千万年先に、人類よりもっと高等な生物が地上に登場する可能性を誰も否定できない。現在に至るまで続いてきた生物の進化が、人類を頂点として永久に止まってしまうと考える方がむしろ不自然ではないだろうか。そして、そのような超高等生物が出現したとき、人類は彼等とうまく共存できるのかどうかが問題になる。


(3) 宇宙はどうなるのか?

 たとえ人間の不老不死が実現しても、人類が永久に生き続けることは難しい。それは、遠い未来には、地球は消滅する運命だからである。太陽は、その中心部で水素と水素が核融合反応を起こしてヘリウムに変換するとき、質量の一部がエネルギーに変換して、約50億年燃え続けてきたが、今から五十億年後にはこの燃料となる水素が使い果たされてなくなる。その次はヘリウム同士が融合して、炭素や酸素に変換してエネルギーを放出するが、このとき太陽の外側は地球の軌道を飲み込むほどに膨れていき、太陽表面の温度は下がって赤色巨星となる。この段階が約十億年続いた後、太陽はゆっくり冷えて小さな白色わい星となる。その結果、六十億年後の太陽系は、白色わい星となって輝きを失った太陽の周りを火星、木星、土星などの惑星が回り、水星、金星、地球はすでに蒸発して存在していない。このように、既に解明されている恒星の一生のサイクルに基づいて描かれる太陽系の未来の姿は、確実に起こるもので避けることはできない。したがって、太陽系以外の惑星で、地球と同じような環境を持つ天体が存在して、そこへ移住できるという奇跡的なことが起きない限り、人類も消滅する運命にある。また、五十億年という遠い未来より前に、地球規模の核戦争や隕石の衝突などによって人類が絶滅する危機が訪れるかもしれない。

 宇宙は誕生してから現在まで膨張を続けてきたが、今後も永久に膨張を続けるのだろうか?それとも、未来の或る時点で膨張を止めて、収縮を始めるのだろうか?この問いに対する答えがまだ出されていないのは、宇宙の平均密度がまだ正確に測定できないからである。もしも、宇宙の平均密度が臨界量(一立方キロメートル当り、100兆分の1グラム)より低ければ、宇宙は膨張を続け、臨界量より高ければ収縮に転じる。宇宙の膨張は、ビッグバンの爆発力によるが、他方、宇宙の物質相互間に働いている万有引力(重力)は、収縮作用を及ぼす。重力は宇宙の平均密度によって決まり、臨界量を超えると、宇宙は、いつかは収縮に転じる。分かりやすい例を挙げると、地上でボールを真上に投げたとき、初速度が秒速十一キロメートル未満の場合には、ボールは地球の重力に引きつけられて落下するが、それを超える初速度の場合には、地球の重力を振り切って、地上に戻ってこない。ボールに与えられた初速度は、ビッグバンのときの膨張の速度に当る。

 もしも、将来、宇宙が収縮に転じた場合(太陽が白色わい星になる時よりもずっと後)、高密度・高温になって全ての天体は溶けて、陽子と電子に分解し、最後に宇宙は一点に縮んでしまう。その後に何が起きるのか分からないが、また、ビッグバンが生じて、宇宙は膨張と収縮を永遠に繰り返すという説(振動説)もある。

 他方、もしも、収縮が起きないで、無限に膨張する場合は、全ての恒星は内部の核融合反応を終えた後は光を出さなくなり、星間ガスも使い尽くされて新しい星も生まれなくなるので、人類を含む生命は一切この宇宙から消滅して、宇宙は暗闇に包まれた墓場のようになる。






  4.世界(宇宙)が存在する目的と意味

 あるものを理解するためには、それが存在する原因と未来の姿だけでなく、その目的や意味、即ち、存在理由・意義を知る必要がある。あるものの存在に先立って、特定の目的が設定されていて、その目的を実現するために、あるものが存在するようになった場合、その目的のことをある存在の目的と呼ぶ。「宇宙と太陽と地球と人類が存在する意味・目的はあるのか?」という問いに対しては、「世界が存在する意味・目的がある」という答えと「世界が存在する意味・目的はない」という答えの二通りしかないのだから、その真偽の確認のために 存在判断の真理基準である(A),(B),(C)(第1章1節)で検証してみよう。まず「目的がある」という判断の真偽を調べてみる。

 (A)-1 目的があると仮定して、その目的が何であるかを指摘し、その目的から世界の現象
   を説明する。
 (B) その目的、又は、その目的を設定した者が他の真理や現象と矛盾しない。
 (C) その目的があることを示す物的証拠がある。

 神の王国を建設するという最終目的のために、この宇宙と人間を神が創造したとキリスト教は説いたが、この考え方は(A),(B),(C) の条件を満たしてはいない。
 また、現在は、人間原理という仮説を提出している科学者がいる。もしも、人間がこの世界に登場して真理を認識する活動をしなかったら、宇宙は永久に自分自身の姿を認識することができない。したがって、自分自身の姿を自分で知るために、人間を出現させるという目的のために宇宙は存在しているという考えが人間原理の考え方である。その根拠として、さまざまな物理法則の定数は、もしもそれがほんの少しでも違っていたら人間は出現しなかっということを挙げている。この仮説は大変に興味深いが、例えば、次のように大きな無理、矛盾があるので、真理として認めることはできない。

 もしも、人間が宇宙の姿を自覚して、自分の気に入らない部分を変えたいと思っても変えられないし、このような世界は存在すべきでないという結論に達したとしても、人間にはこの宇宙を消滅させる力もない。自分で自分を変えられないとしたら、自分を知っても何の意味もないのである。宇宙は、何のために自分自身を知ろうとするのか? また、宇宙が存在しないで、無の状態ならば、宇宙の姿を知る必要も無い。宇宙の姿を知るために、無の状態から宇宙を生じさせたというのは非論理的である。 人間原理はこれらの疑問に答えられない。

 他方「世界が存在する目的・意味はない」という判断は、「現存するこの世界は、何らかの目的・意味を実現するためではなく、因果法則の結果として、すなわち、自然に内在する法則の自己展開の結果として生じた」という仮説を立てれば、これは(A),(B),(C)全ての条件を満たすので、真理として成立することになる。これは、目的論的自然観は誤りで、機械論的自然観が正しいこと、そして、世界が存在する目的・意味は、世界の存在に先だって設定されていないことを証明している。ただし、世界の中で動物や人間が生まれ、それぞれが目的を定めて活動する行為は、これとは別の話である。



   5.世界は何故存在しているのか?

 「おわり」の「世界の存在」のところで、現在私たちが観察している世界がどのようにして存在するようになったのかを理解してきた。そこでは、ビッグバンが起こる前について、無からの創造という仮説が提出されている。しかし、"無からの創造"理論が正しいとしても、それで全ての謎が解けたわけではない。無からの創造を起こさせる原因としての物理法則は何故存在しているのかという謎が次に生まれるのである。つまり、それ以上さかのぼれない究極的な物理法則、エネルギー、物質が発見されたとしても、その究極的存在が何故存在しているのかという謎は最後まで残るのである。

 このように「この世界が無ではなく、存在しているのは何故か?」という世界存在の究極的原因については、科学がいくら発達しても答えることができないだろう。この謎についてヴィトゲンシュタインは「世界がいかにあるかが神秘ではなく、世界があるという事実が神秘である。」と表現している。パスカルは「人間は事物の始めをも終わりを知ることのできない永久の絶望のうちにあって、ただ事物の中間の様相を認めるほか、なにをなしえるであろうか?」と嘆いた。この謎と神秘に直面すると、私たちはファウストのように「実は我々に何も知り得るものでないということが分かっている。それを思うと、ほとんどこの心臓が焼けてしまいそうだ。」という思いに捕らえられる。

 この謎と神秘に対して、私たちはどうのような対応をすべきだろうか?第一の対応は、「存在の究極的な根拠はあるのかないのか分からない。究極的な根拠があるとしても、人間に与えられた有限な感覚や知性ではそれを認識できない。」と考え、この問題に関しては不可知論の立場をとることである。この立場の長所は、ありのままに正直なことであるが、短所としては、重大な問題についてこのような宙ぶらりんな状態に置かれることに人間は大きな困惑と苦痛を感じることである。

 第二の対応は、ハイデガーのように、「存在の究極的な根拠を人間が知ることができないのは、人間の感覚や知性が不完全なせいではなく、存在の究極的な根拠というようなものはそもそも無いからである。何故なら、存在の究極的な根拠は存在という事実そのことであり、それ以上さかのぼることはできないし、それ以外の根拠は何もないのである。」と考えることである。したがって、"無からの創造"という仮説に現れる自然法則の存在自体を世界の存在の究極的な根拠と考えることである。この考え方の長所は、存在判断が真理であるための条件(A),(B),(C)のうち、(A)それによっていろいろな現象を説明できる。(B)他の事実と矛盾しない。というを条件を備えていることである。一方、短所としては、(C)証拠がある。という条件を欠いていることと、「この世界が無ではなく、存在しているのは何故か?」という問いに対して、「存在しているから存在している」と答えているようなすっきりしない不満が残ることである。

 これら二つの対応のうち、私たちはどちらを取るべきだろうか?以下の理由によって第二の対応が第一の対応よりも適切である。数学を除けば私たちは100%確実な知識を持っていないのである。科学上の知識も、真実である確率が高いという理由で採用しているに過ぎないのであって、厳密に言えば、その本質は仮説である。これと同様に、世界の存在の究極的な根拠についても、今のところこれよりもうまく事態を説明できる考え方は見当たらないので、最も確率の高い仮説として第二の対応を取るということである。私たちは、生き方の原理を考える時、世界の存在の究極的な根拠について、知らないという答ではなく、一つの考えを必要としている。




  6.やりたいこと、やるべきことを見出す方法

前節の(1)「ある対象に対する欲求を繰り返し十分に満足させると、その対象に対する新鮮な感覚が薄れて、代わりに慣れや飽きる感覚が生じて、その対象に対する欲求の強さは減少していき、執着心は弱くなる。」という文に出てくる欲求の対象いう言葉の代わりに、日常使い慣れた、「やりたいこと、やるべきこと」という言葉をここでは使う。したがって、やりたいことややるべきことを十分に実現することは、人生への執着心が弱くなるのに大きな効果がある。

 自分が本当にやりたいこと、やるべきことは具体的に何であるかを、どうすれば見出せるであろうか?又、それらの優先順位を決めるにはどうすればよいのだろうか? 自分の心の中は自分が一番よく知っているはずなのに、意外とこれが分かりにくい。これを明らかにさせる最善の方法は、次のように万能の神の存在を仮定するやりかたである。

 今、自分が不治の病にかかり、間近な死を宣告されたと仮定して、死ぬ前に神様にただ一つだけ願い事を叶えてもらえるとしたら、何を願うだろうか? それが、やりたいこと、やるべきことの優先順位リスト上、第一位にくる。次に、この願い事が叶えられた後、さらにあと一つだけ願い事を叶えてもらえるとしたら何を願うか?それが優先順位第二位にくる。このプロセスを、願い事がなくなるまで何回でも繰り返すことにより、やりたいこと、やるべきことを重要なものから順に具体的に特定していくことができる。これによって日常は意識にほとんど登らないで、意識下に存在している欲求も表に引き出されてくる。

 神への願い事を考える際、次の事を十分考慮する必要がある。


(1)現在の本心の探求

 現在、自分の本当の欲求は何であるかを知るためには、心を丸裸にして、自分の欲求を全部解放してさらけ出さねばならない。自分は努力しないでも神様が叶えてくれると仮定することによって、自分の本心、本音はなんであるかを知ることが第1段階として大切である。それを知った後、実行の第二段階でその実現が難しい場合は、レベルを下げたり、多少変形して、その願いを100%ではなくても60%位を達成する方法を考える。

 本当の欲求の認知を妨げる要因として、次のようなことに注意する。

(イ) 自分の能力や自由時間や社会の常識、道徳、規範という条件や制約はいったん無無視して、全ては可能で、かつ、許されるという前提で、自分の欲求を列挙してみる。

(ロ) はじめは偶然や不本意で選んだ職業も、長年それに従事した結果、その職業独特の価値観がしみついて、それを自分本来の価値観であると感じる場合もある。だから、耳を澄まして自分の心の奥からどんなささやかな声でも聴いて、本心を探り当てる。

(ハ) 社会的評価の低いものには、おかしな見栄のために、本当は好きなのに取り組まな いことがある。見栄は、自分の人生を豊かな方向に作用することもあるが、逆に貧しくしてしまう場合もある。

(ニ) ありのままの自分の欲求を眺めて、目を背けたり否定したい程、醜悪で恥ずかしいと感じても、それを直視する必要がある。なぜなら、己の真実の姿を知らないで、己を充実させる方法を考えることは、意味がなく、努力が的外れに終わるからである。

(ホ) 理性で考えると大した価値を持っていないものが、感情の世界では、支配的な地位を占めたり、その反対に、理性上は重要でも、感情の上ではつまらない場合が往々にしてある。理性と感情とは密接な関係を持ちつつ、お互いに独立した存在であり、どちらの方が優越して重要だというものではない。だから、感情と理性の欲求の両方を満たさなければ人間は幸福になれないし、生命を真に充実させることはできない。理性を過大評価し、感情を軽視した生き方をしていると、死に直面したとき過去を振り返って必ず大きな不満と後悔に襲われるだろう。したがって、両者の欲求を平等に公平に扱うことが大切である。人間の心の中では、感情の方が理性よりもはるかに力強く、深く、また、継続的であるという事実を忘れてはならない。


 (2)過去の探究
 
 神様への願い事を決めるには、次の理由により、現在だけでなく、過去の心の状態や動きも調べる必要がある、

(イ) 現在の観念的な欲求よりも、過去に実証された体験の方が自分の本当の心を知る上で信頼できる場合がある。したがって、過去の経験全体を振り返って、どの経験や行為が実際に自分に対し大きな喜びや生き甲斐を与えてくれたか、それを喜びの大きさの順にリストに書き出して、確認してみる。

(ロ) 過去に抱いた欲求の方が、現在抱く欲求よりも自分にとって本質的で重要なのにさ
まざまな事情によって実現しなかったことなどにより、心の底に抑圧されて、現在は意識の表に現れてこないことがある。したがって、自分の物心がついた過去から現在までを振り返って、その時期その時期に、自分自身がやりたかったこと、やるべきだと思ったことなどを全部(実現したことも実現しなかったことも含めて)列挙したリストを作成してみる。そして、過去に抱いた欲求や価値観が、現時点で考えたとき、無視してよいのかどうかチェックする。


(3)世間一般の価値
  
 「死にたくない、生き続けたい」という最大の欲求は達成できないので、その代替案に取り組むしかない。その代替案の一つが、「永く生き続けた場合の人生と本質的には大差ない結果を、短い一生の中で得ること」である。そのように本質的な体験をするためには、自分の現在と過去の心や体験の分析だけでは不十分で、世間一般で認められている価値にも目を向ける必要がある。

 再び訪れることはないという思いで、初めてある外国を短期間で旅行する場合、ホテルから出て足の赴くままに毎日歩き回って、滞在日数を過ごすことはしないだろう。旅行を始める前に、信頼できるガイドブックを2、3冊読んで、最も価値がありそうなところをいくつか選んで、先ずそこへ行き、時間が余れば、次に自由行動をとる方が望ましい。人生も旅行と同じで、この世に滞在を許された短い期間を最も充実させるには、多くの人々が既に高く評価しているものを、先ず体験してみることが大切である。自分の狭い体験に基づく感情や欲求だけに目を向けて、それを満たすだけでは、人生の全ての重要な価値を味わえない。

 クラシック音楽に接する機会があまりなかった人が、切符を偶然もらって行ったコンサートで心の底から感動して、クラシック音楽を愛好するようになることはよくある。しかし、このような偶然の出会いに任せていたのでは、この世界の価値の一部を味わうだけで、未知の素晴らしいものを経験しないで、一生を終わることになる。音楽の場合は、一般に評価が定着している名曲を、コンサートかレコードで一通り聴いて、次に自分が好きなものを選んで、さらに深く味わうのがよい。このように、自分がまだ知らないことや経験していないことの中に、自分にとっても大きな価値が潜んでいる可能性がある。自分の欲求や価値観は自分固有の環境の産物であり、もし別の環境に置かれてきたら、別の欲求や価値観を持つようになっていたかもしれない。この危険を避けるために、世間一般に高い価値を認められているものを、全部それなりに体験してみるべきである。 




  7.やりたいこと、やるべきことを実現する方法

前節の方法で、自分が本当にやりたいことややるべきことを見出しても、金や時間や能力や環境などの制約によって、その実現が困難な場合は、どうしたらよいのだろうか? 

(1) 障害を除く

目標達成の障害を除くため人事を尽くすべきである。このときは、同じ目標を既に達成した人のやり方を参考にしたり、その目標を達成する定石的な方法を探して実行してみるべきである。

(2) 自分にできることを実現する

それでも可能にならないときは、自分の力で実現可能な次善物、代替物に目標を変更することである。例えば、ヨーロッパを1ケ月かけて旅行したいいう目標が、時間と経費の制約で実現できない場合は、2週間という期間に短縮して、訪問する場所を厳選して工夫すれば、1ケ月の場合と比べて本質的には大差ない成果を得られる。このように、やりたいこと、やるべきことを全て可能にする魔法のようなルールとは、「自分にできることを実現する」、「手の届く花を摘め」ということである。このルールを守るべき理由として、次の3つを挙げることができる。

(イ) 当初の目標を実現できないで、次善物や代替物を実現した場合でも、一般には、大差ない結果になる場合が多い。例えば、五百万円の外国製高級車を欲しがっている人が、その金がなくて、百万円の日本製小型車を購入した場合はどうだろうか? どちらも移動手段としての基本機能は同じように持っている。違いは、外観の見栄え、高速での振動、内部の広さ、座りごこち、エンジン音などの付属的機能にある。しかし、移動手段という本来の機能については、どちらの車でも目的地に同じ時間で着くので、乗り慣れてくると、付属的機能の差は、大きな問題ではなくなる。このように、あるものを欲する場合、第一にその基本的機能が大切であるが、それは次善物や代替物でも大差ないことが多い。

(ロ)どんな価値でもそれが実現されれば、レベルの高低にかかわらず、何も実現されない場合よりも、はるかに人生を充実させてくれる。また、第一の目標から得られる満足度を100としたとき、次善物から得られる満足度は始めのうちは30だとしても、その差は時間の経過と共に縮まっていく。なぜなら、実現されなかった第一目標からは、当然、何の価値も実際には入ってこないが、実現された次善物からは多くの価値を享受していくので、次善物に対する愛着が自然と生まれてくるからである。これは、進学、就職、結婚などのような選択についても同様である。

(ハ) 理想を追求することは大切である。しかし、船は上流から下流に向かって動いていて、二度と同じ地点に戻ってはくれない。だから、理想を捨てるのではなく、それを心に抱きつつも、目の前の価値をしかっりつかまなくてはいけない。なぜなら、船が大海(死)に出てしまうまでに、その目の前の花と同じ位きれいな花に二度と出会うことはないかも知れないからである。人は過去を振り返るとき、目の前に置かれた貴重なものを掴まえないで、徒に時が流れ、今となってはその過去に戻る術もなく、深い後悔に捕らえられることがある。







  8.生活資金をつくる 


1 職業に就く目的と問題点

(1)  職業に就く目的

(イ) 生活資金の確保
 自分がやりたいことややるべきことを実現するには、その前提条件として、先ず、自分の生命を維持しなければならない。そのためには、衣食住をはじめとする物資と医療などのサービスが不可欠である。これらは、現代のように分業が極度に進んだ社会では、自分ではなく他人が生産しているので、手に入れるためには貨幣が必要になる。

 貨幣を入手するには、扶養してくれる親がいるとか、莫大な資産を相続したとかいうことがない限りは、自らが何らかの職業に就かねばならない。すなわち、自分が他人や社会に対し何らかの価値を提供しなければ、他人や社会から何らかの価値を提供してもらうことはできない。個人と社会は、貨幣を媒介として、ギブ アンド テイクの関係にある。

 これに対して、文明の恩恵も欲せず、必要なもの全てを自分で作り、貨幣を一切使わない自給自足的な生き方もあり得る。しかし、同じ労働時間から入手できるものは、分業社会で職業に就く場合の数百分の一くらいの非能率的な結果になる。

 アダム・スミスは「国富論」の中で、分業の効率性について、ピンの製造を例にして説明している。ピンを製造する工程を全部で18に細分して、針金を引き伸ばし,それをまっすぐにし,それを切断し,それをとがらせ,頭部をつけるために先端をみがくというように多くの作業を分担して遂行すると,1日に10人で4万8000本,1人当たり4800本のピンをつくることができる。もしも10人がこのような分担をしないで、1人1人が別々にピンを作る全工程をすると,1人の人間は1日に20本のピンも作れない。このような分業の能率性を考えると、現代社会では一つの職業に就いて、一つの工程や一つの経済価値の生産に従事する方が、自給自足よりも望ましい。 
 
(ロ) 人生の最終目標の実現
 人生でやりたいことや、やるべきことなどの人生目標を実現するために、ある職業に就くことが直接、間接に役立つ場合がある。例えば、音楽の演奏が好きな人が楽団員になるとか、人助けに大きな意義を見出す人が福祉関係の仕事をするとか、機械いじりの好きな人が自動車の整備工やエンジニアになるなどである。

 リナックスというコンピューター言語を開発して、ウインドウズが支配するオペレ―テイングシステム(基本ソフト)の世界に風穴をあけたリーナス・トーバルズは、「あなたにとって、仕事とはどういう意味を持つのか?」という質問に対して、「やりたいこと、好きなことをやり、給与をもらえるハッピーな手段である。」と答えている。

 このように、自分がやりたいこと、やるべきことと職業が一致している人々は必ずしも珍しい存在ではないが、やはり少数派で、一致していない人々が多数派である。また、リーナス・トーバルズにとって、コンピューター言語の開発は面白いことではあっても、人生の最終目標のリスト上、優先順位が高いものかどうかは分からない。


(2)職業上の問題点

 ある目的を持って実際に職業に従事すると、さまざまな問題に直面する。今村仁司は、その著書『近代の労働観』(岩波新書)で、ベルギーの社会主義者ヘンドリク・ドマンが1920年代にドイツの労働者たちの労働経験を調査・分析した「労働の喜び」という本を紹介している。ドマンは、78人の労働者に対して、自分の労働について喜びを感じるかどうか、その理由は何かを質問し、回答者は自分の体験を率直に述べている。 

 そこには、労働者側から見た労働の問題の本質が、時代を超え、職種を越えて浮き彫りになっている。もしも、現在もっと広範囲な職種にわたり同じような調査をしても、本質的には、やはり同じような回答が返ってくるだろう。その一部を次に引用するが、喜びの存在は、(+)、不在は(−)で示されている。

(イ) 未熟練層の証言 

 鉄道労働者(男、23歳)(−)
理由:退屈な労働、低賃金、上司のしめつけ、出世競争の環境。しかし仲間とのつきあいがあるときだけ苦痛が軽減する。

 鉄道労働者(男、34歳)(−)
理由:低賃金、労働日の増加、休暇の減少、悪い衛生状態。しかし独力で仕事したり、仲間と助け合うときに苦痛が軽減する。

 肉体労働者(男、32歳)(−)
理由:工場の騒音と汚さ、昼食時間もろくにとれないほどの監獄的工場。しかし仲間と連帯するときだけ、苦痛が減少する。

 製本職人(男、20歳)(−)
理由:手仕事でありながら全くの機械的労働、出来高賃金、3年に1度の休暇、職場環境が劣悪。しかし仕事から離れてする活動(労働運動)だけに喜びを感じる。

 ボイラーマン(男、30歳)(−)
理由:知的満足を覚えない、厳しい上下関係。しかし政治活動に参加するときだけ喜びと自由を感じる。

 葉巻製造工(女、27歳)(+)
理由:単調だが葉巻作りにはある程度の自由があるから。しかし本当の喜びは職場の外部での政治活動にある。

 機械工(男、25歳)(+)
理由:単調であるが、機械を使う仕事は知的努力を要求するから満足がある。機械に責任を持ち、よい仕事をして責任を果たせるから。労働の喜びが生まれる要素は、よい仲間関係、各人の仕事への相互的な人間的関心があること、上司とのよい関係、唄ったりおしゃべりする自由があること、ものを考える自由があることだと思う。

(ロ) 半熟練層の証言

 鍛造工(男、36歳)(−)
理由:田舎で独立の職人であったときには喜びがあったが、大工場で働くようになってから苦痛を感じる。低賃金、長時間労働であり、仲間から白い目で見られる。騒音や煙でいっぱいの環境。ボイラーマンの仕事に戻ると、「蒸気を上手に作る」ことが「名誉」とされるから満足を感じる。名誉ある仕事をしたい。

 市役所の書記(男、41歳)(+)
孤児の保護を仕事にしている。上司と直接接触しないで独立して働くことができる。法律的知識を持つことが要求され、知的な仕事である。孤児たちが自分だけに任されていることに満足を覚える。こうした満足は一種の権威志向を伴うし、戦争で体験した仲間意識が仕事のモラルになるべきだ。

 鉄道員(男、24歳)(+、−)
仕事(管理事務)が自分に任されているときには自由を感じるが、上司の監視と官僚機構に反発する。事務労働は全く単調で嫌悪を感じるので、労働とは別の仕事、例えば組合の仕事に満足を求めようとする。

 市電の運転手(男、31歳)(+)
理由:この仕事はある程度まで自立していて、責任が要求されるし、監視なしに働ける。

 消防士(男、34歳)(−)
単調で型にはまった労働。軍隊的組織で命令がきつい。仲間の連帯は無く、誰もが上司に追従して、出世競争ばかりしている。個人の創意は認められない。

 タイピスト(女、25歳)(+、−)
理由:自分の創意が発揮できるときには「喜び」があり、他人の命令のままに機械的な労働になるときには苦痛を感じる。職場の仲間との連帯がないのが特に不満である。結局、職場の外部の労働運動に参加することの中に真実の喜びがある。

 フェルト製造工(男、24歳)(+)
理由:自立と自由があり、個人的創意が発揮できることこそ、職業的価値がある。工場の環境が良いし、とくに上司との関係は良好である。

(ハ) 熟練層の証言

 傷害保険局事務員(男、26歳)(+、−)
理由:傷害のある人々を助ける労働であるから、労働の喜びを感じる。しかし労働自体は単調であり、十年も続けていると「内面の崩壊」が生じる。何でも自分で処理できる部署に入るときに限って、内部からの情熱、威信、労働の喜びを観じ、自分の領域で主人であり、完全な人間であると実感する。

 商会の雇員(男、25歳)(+、−)
理由:職場の条件が機械の導入によって効率的で快適になったことが満足の理由である。しかし、組織内部の官僚制や仲間のエゴイズムのために苦痛と不快が生じる。

 商会の事務員(女、28歳)(+、−)
理由:労働自体は知的でも創意を要するものでもないが、困難を克服したり、早く仕事を完成したりすると、一種の喜びを感じる。けれども上司との人間関係が悪いので不満である。真実の喜びは信仰のなかにある。やっとそこで心地よい仕方で他人たちによって扱われると感じる。そこでは人間存在として尊敬され、愛を持って人を扱う真実の理解があり、率直さがある。真実の友愛がある。

 焼物工(男、32歳)(−)
理由:単調な労働で、仕事を始めると思っただけで嫌になる。

 庭師(男、35歳)(+)
自立して創意を発揮して労働することができる。自治体の庭園で労働するとき、万人に役立つ仕事をしているのだと感じて喜びを感じる。

 大工(男、31歳)(+)
独立した仕事に満足している。仕事は単調ではない。熟練工である誇りが人生の生きがいである。自分が熟練工であるという慢心から未熟練工を馬鹿にし、見下げる癖がなかなかぬけないことは反省している。

 指物工(男、23歳)(+)
理由:自立した労働。単純労働ではなく、複雑な労働だから満足できる。しかし、本当の充実は工場の外にある。工場の外に、工場で失った内的均衡を見出すべきであろう。

 印刷工(男、25歳)(+)
理由:創意の発揮、個人に責任が任せられる。仕事を上手に仕上げたり、複雑な機械類をこなして競争に勝つことに喜びを感じる。職場の外で、例えば政治活動をするときに、無限の喜びを感じる。

 印刷工(男、31歳)(+)
理由:創意を発揮できる、困難な仕事を征服することに喜びを感じる。

(ニ)  主な問題点
 以上、従業員自身が指摘した、労働に喜びと苦痛を感じる理由の中から、問題点を箇条書きに要約すると次のようになる。

@ 労働時間が長い。
A 収入が不十分である。
B 職場の物理的環境が悪い。
C 仕事の自由裁量度が小さい。
D 職場の人間関係が悪い。
E 仕事に生きがいを見出せない。

  


2 職業上の問題の原因と解決方法


(1)職業上の問題の原因

 @からEまでの問題点のうち、ここでは@、A、Bを省いて、C、D.Eを取り上げ、その主な原因を考える。その理由は、@、A、Bの問題は、自分が努力したり、職業や会社を変えることによって、大きな改善ができるものである。一方、C、D.Eの問題は、現代社会の職業の本質と密接な関係があるので、大部分の職業や会社という組織に付随しているものである。そのため、自分が努力したり、職業や会社を変えても、なかなか解消しにくい性質の問題である。

C 仕事の自由裁量度が小さい。

 企業は利益と効率を優先する論理と組織によって運営されているので、オーナー社長を除けば、トップから第一線の社員まで、個人の自由裁量度は関係者の合意の範囲内に制約される管理社会になっている。仕事の種類によっては、自由裁量度が全く認められないものもある。自由裁量度が高いように見える仕事も、実際には顧客の要求と企業の論理という狭い枠内の自由であって、普通の意味における自由とは程遠い。

D 職場の人間関係が悪い

 農家・職人・個人商店・個人企業などで働く人以外の人の大部分は、企業・官庁といった組織の中で働いて、サラリーという形で生活資金を得ている。資本主義社会では、企業は個々の従業員の幸福よりも、企業の存続・発展と利益を優先して運営されている。もしも、個々の従業員の幸福を最終目標に設定して経営していたら、激しい企業間競争に生き残れないだろう。

 企業で働く大部分の人は、企業と周囲が欲する行動をとらなくては生き残れないため、自分が理想とする人間像ではなく、企業や周囲が望む社員像に合わせて自分を作っていく。これを客観的に見ると、現代の経済システムは、人間のための組織ではなく、組織のための人間という方向に、逆に人間を作り変える。そして、一人の人間は、全人格ではなく、組織の一部品としての機能だけを問われるようになり、故障したり不都合が生じれば、直ちに他の部品に置きかえられる存在となった。

 このような環境の中で毎日を過ごしているうちに、自己の存在の重みが希薄になり、唯一無二の自己の実存とアイデンテイテイをどこかに置き忘れがちになる。そして、人々は自己の利益になるかどうかという打算に基づいて、他者との関係を処理するので、職場で疎外が生じ、人間関係が悪化する。

E 仕事に生きがいを見出せない

 自分が一生の間にやりたいことや、やるべきだと思っていることと仕事の内容が一致しない場合、生きがいを職業の中に見出しにくい。生きがいという言葉は、様々な意味で使われているが、ここでは、「ある目的のための手段ではなく、最終的目標としてやりたいことややるべきだと自分が考えていることを実際にやっている状態と、その結果得られる充実感が生きがい(幸福)である。」と定義する。自分がやりたいことや、やるべきことの中には、死を平安に受容できる生き方とペシミズムやニヒリズムを克服する生き方を含める。

 職業の中に生きがいを見出しにくい原因は、職業とは、自分ではなく他人の欲求を満たすことによって、その代償として貨幣を得る行為であるが、生きがいは自分が欲求する最終目標を達成する活動から生じるものだからである。そのため、一般に職業上の行為は自分本来の欲求とは一致せず、生きがいを与えない。自分の最終目標と職業が外観は一致するように見える場合でも、実際には次のような不一致が起こりやすい。

 その第一は、自分の最終目標は一つではなくて、たくさんあるので、それらの一部と職業が一致しているに過ぎないので、残りの目標は職業を通じて実現できない。特に、職業の細分化、専門化が深まったので、自分が担当する分野は極めて狭い範囲に限られてしまい、自分の目標の一部しかやれないことになる。

 第二は、最終目標としてのやるべきことややりたいことは、常に固定したものではなく、自分の成長や状況によって変化するので、ある時は職業と自分の目標の一部が一致していても、長い年月の後には不一致が起こり得る。

 第三は、自分が生産したものを買ってくれるお客さんの好みと自分の好みが一致しないことは頻繁に起きるが、そのような場合はお客さんの好みに合わせなければ収入は入ってこない。これは、ゴッホが困窮な生活を送った原因である。 


(2) 職業上の問題の解決方法
 
 @からEまでの職業上の問題点の中で、何が最大の問題であるかは、人により、また、
時と場合により違ってくる。全ての問題をここで取り上げることはできないので、職業人に最も共通し、また、解決が最も難しいものとして、仕事に生きがいを見出せないという問題の解決方法をここで取り上げる。 

 第一の解決方法は、自分がやりたいことや、やるべきことと一致する、または、それと密接な関係のある職業があるならば、そのような職業を最初から選択するか、途中で職業を変えることである。しかし、日本の大企業や官庁の採用は新卒中心で、年齢制限もあり、転職が不利になる場合が多く、アメリカのような労働市場の流動性はまだ実現されていない。

 第二の解決方法は、そのような職業が見当たらない場合や、就職や転職がなんらかの事情によりできない場合は、生きがいを自由時間に実現することである。平均すると、一年間に職業に従事する時間よりも自由時間のほうが長いという事実に注目する必要がある。仕事が忙しいので、自分のやりたいことができないというのは、必ずしも事実に基づいていない。

 この第二の解決方法は、前節に挙げた多くの従業員の共通体験に、すでに次のように示され、実行されている。「労働は一般に苦痛を伴う。しかし、もしも、苦痛が生じる様々な労働条件(面白さ、労働時間、環境、仕事の対する自由裁量度、創意の発揮、他者との関係など)が改善されれば、苦痛は軽減し、喜びに転化することもある。それにもかかわらず、生きがいは職場で見出しにくいので、職場以外でそれらを実現する必要がある」。

 職業に生きがいを感じることが無く、自由時間ももっぱら休息や気晴らしなどに使われれば、毎日が空しく過ぎて行くと感じるのは当然である。このような状態を打開するためには、自由時間に自分に出来る範囲で、自分の最終目標を実現する活動を、わずかでもよいからコツコツと継続して、生きがいを創出していくことである。

 職業と人生目標が一致しないという問題をどのように解決して、生きがいを創るかについて、次に実例の紹介と分析を行う。

(イ)職業を変える

 シュバイツアー(1875−1965)は、子供の時、年老いたビッコの馬が無理に屠殺場に引かれて行く姿を見て、何週間もそのまぼろしに追いまわされたことがあり、40歳の時に到達した「生命への畏敬」という思想は、すでにこの頃芽生えていたようだ。牧師の家庭で育ったことにも影響されて、24歳で教会の副牧師に、27歳で大学神学科の講師になる。

 しかし、「私は三十歳までは学問と芸術のために生きよう。それからは、直接人類に奉仕する道を進もう。」という21歳の時の決意に従って、30歳になると、医師としてアフリカに行き黒人のために生きる計画に着手する。36歳で外科医の試験に合格し、37歳で牧師と大学講師の職を辞めて、38歳でアフリカに渡り医療活動を始めた。

 一つの職業だけでは二つの人生目標を実現できないので、周囲の強い反対や非難や嘲笑を無視して、オルガニストと神学者としての名声を捨て、大変な努力をして職業を変えた。それ以降、第一次世界大戦によりドイツに戻った数年間を除き、90歳で亡くなるまでの約50年間を、アフリカの黒人を助ける活動に捧げた。

 日本でも、生きがいを求めて、大自然と一体化した生活をするために、安定したサラリーマンを辞め、農業に転職する人は少なくない。あるいは、大企業を数年で辞めて、自分の価値観に合った仕事を始める若者も増えている。

(ロ)毎日の勤務後の自由時間を有効に使う

 アインシュタイン(1879−1955)は、ドイツでユダヤ系の両親のもとに生まれ、子供の頃から宇宙の永遠の法則を読み取ろうという大望を抱いていた。チューリッヒの連邦工科大学の数学・自然科学教員コースを21歳で卒業後、3人の級友すべてが助手の地位を与えられたのに、アインシュタインだけは教授の妨害もあって、助手になれなかった。 
 夜学校教師、家庭教師などを転々としていたが、やっと23歳のとき、級友のお父さんの推薦でベルンのスイス特許局に就職し、安定した収入を得られるようになった。仕事はとくに人を興奮させるようなものではなく、一、二の例外を除けば、むしろ魂を破壊するようなものだったと、彼自身が告白している。

 しかし、彼が「靴屋の仕事」とよんでいた特許局の仕事を片付けてしまっても、自分自身が関心を持つ問題に向かうだけの十分な時間が残されていた。そして、帰宅後は自分が関心を持つ研究に専念し、26歳のとき、光量子仮説、特殊相対性理論、ブラウン運動の理論を発表した。

 この論文が認められて、30歳のとき特許局を辞職してチューリッヒ大学の員外教授になることを上司に伝えたところ、その上司から「うそを言うな、アインシュタイン君、そんなことは信じられないよ。ぶさいくな冗談はよしたまえ。」と言われている。37歳のとき完成した一般相対性理論が、3年後にイギリスの日食観測隊によっ検証されたため、その名は世界的になった。

 アインシュタインの場合は、たまたま世界的業績に直結して有名になった例だが、誰にも知られず無名のまま終わる例は無数ある。例えば、一年の半分は東京に出て日雇い労働に従事して資金を稼ぎ、残りの半年は長野のアトリエで絵の創作に専念する生き方をしている人が実際にいる。有名、無名に関係なく、両方とも本質的に同じ生き方をしており、自分がやりたいこと、やるべきことを目的とし、職業をそのための資金作りの手段とする生き方である。 

(ハ)退職後の自由時間を有効に使う

 ドイツに生まれたシュリーマン(1822−1890)は、少年のときに読んだホメロスの詩に感動し、それは作り話ではなく、事実を歌ったものであると信じ、その舞台となったトロイの遺跡の発掘を決意する。家が貧しかったため、14歳で商店の小僧になり、19歳のときアメリカで活路を開こうとして乗った帆船が難破して、オランダの砂州に打ち上げられ九死に一生を得る。24歳でアムステルダムの貿易商に就職するや、6週間の独学でロシア語を習得し、ペテルスブルクに行って、自分の商館を持ち、巨万の富を貯えた。

 41歳のとき、トロイ発掘という長年の夢を実現するために、すべての経済活動を打ち切る。その後、パリで考古学を勉強して、46歳で博士号を取得する。48歳のとき、トロイ発掘を自費で始め、さらに、ミケナイ、テイリンスなどの発掘も進め、ギリシャの先史文明を初めて明らかにした。シュリーマンにとって、貿易商という職業は、少年時代から持ち続けた夢を実現するために必要な資金を稼ぎ出す手段であった。

 一般に、退職後の望ましい生き方を一言で表せば、「退職後の自由時間は、自分のトロイを発掘するために使え」ということになる。自分のトロイとは、「いかに生きるべきか?」という問いに対して、自分が出した答としての人生目標のことである。自分が設定した目標の全てが、退職する時点までに達成されていない場合、その未達成分を実現するために、退職後の時間とエネルギーを注ぐ生き方である。時間がないために、やりたいことができないというそれまでの言い訳は、退職後は通用しない。

 退職後このような生き方を可能にする十分な自由時間とそこそこの資金を確保するには、職業に従事している間に準備しておかねばならない。現代の日本のサラリーマンを例に取ると、退職後の生活資金の主な源泉は、遺産相続のようなものを除けば、公的年金(厚生年金など)と退職金と貯金の3本柱である。したがって、何歳まで職業に従事すべきか、どれだけの貯金をしておくべきかは、退職してから死ぬまでの生き方とそれに必要な経費の予測に基づいて判断しなければならない。平均寿命は80歳を越したが、、個人個人の寿命には大きなバラツキがあるため、人生目標を達成できないまま一生を終わることが無いよう、退職年齢を考える必要がある。






  9.金と幸福の関係を知る 

幸福については、いろいろな人がさまざまな定義をしていて、統一されていない。しかし、それらの幸福観を分析して見ると、ある目的のための手段ではなく、最終目標としてのやりたいことややるべきことを実際にやっている状態と、その結果得られる充実感が幸福を生む大きな共通要因になっている。

 これは生きがいの意味とも一致している。「幸福を求めて生きる」ことも、「生きがいを求めて生きる」ことも、本質的には同じである。これを幸福の主要な基準として採用すれば、ある状態が幸福かどうかの判定をしやすく、普遍性も高い。

 自分が本当にやりたいことややるべきことを実現するためには、多くの金が必要である場合と、そうでない場合がある。例えば、シュリーマンはトロイ遺跡の発掘という少年時代からの夢を実現するためには莫大な金を必要とした。

 アインシュタインは、真理や音楽美の追求を最終目標としていたので、そのためには多くの金を必要とぜず、「ふつうの人間の努力目標である財産、外面的成功、ぜいたくといったものは、わたしにはずっと若い頃からくだらないものに思われた」と述べている。実際に、彼が情熱を注いだ物理学と音楽のためには紙とエンピツとバイオリンがあれば十分であった。 

 1906年に勤務していた特許局で、3級技術士から2級技術士に昇進して、年俸が3500スイスフランから4500スイスフランへの昇給を告げられたとき、アインシュタインがおこなった質問は「ですが、それだけのお金をもらってどう使ったらよいでしょうか?」というものであった。

 このように、金をたくさん持っているかどうかは、幸福かどうかに直接、関係はない。これが事実であることは、次の方法によって誰でも容易に検証できる。先ず自分の過去を振り返って、最も幸せだったと思う状態を順番に三つ列挙してみる。次にその幸せの状態をもたらした要因を分析し、その中で金が本質的な位置を占めていたかどうかを調べてみれば、決してそうではないことを確認できるはずである。

 また、最終的目標のために金が必要な場合も、その金額は何段階もあって、目標の達成度は、それに使う金額に必ずしも比例せず、本質的な部分の実現には、ほどほどの金で足りる場合が多い。

 そのため、金があっても不幸な人や、金が無くても幸福な人は大勢いる。それにもかかわらず、多くの人が他の価値を犠牲にしても、金の獲得を優先するのは何故だろうか?それは、やりたいことに従事していないために幸福感が欠如し、金で買えるものによってその穴埋めをすることが多いからである。しかし、その結果は、確かに快感を得ることはできるかもしれないが、決して幸福にはなれない。

 また、金や金で買えるものに欠けているとき、生が充実しないのは何故だろうか?それは、やりたいことに従事していないときは空しさがあるため、その上さらに金が無ければ、慰めるものがないからである。

 金と幸福の関係について以上の分析をしておかないと、人生が金によって支配され、その過ちに気づかないまま空しく生きることになる。






   10.今日一日を fullest に生きる

 「いかに生きるべきか ー 今、何をなすべきか」という問題に対する答を得たとしても、それを実行しない限り意味はない。そして、その実行の機会は、現在のこの瞬間をおいてほかにないのである。時間は、過去、現在、未来と続くが、過去の時間も、未来の時間も我々は使うことが出来ない。我々がある目的のために利用できる時間は現在のみであり、現在とは、現れてはすぐ消えていくこの一瞬のことである。だが、現在のこの瞬間は、厳密に言えば過去と未来の境界線とも言うべきもので捉えがたいし、一つのまとまった行為を達成するには全く不十分なので、これを今日という一日に置き換えたほうが実際的である。したがって、今日という一日にどのように臨み、いかに行為すべきかが最も重要になってくる。

 ところがこの今日という一日を我々は何とムダに過ごしているだろうか!一日24時間の大部分は睡眠や食事や収入を得るための労働などに使われて、残りの自由時間も疲れを癒す休息や気晴らしに使われることが多い。そのため本来なすべきことややりたいことは延期される。そして、「今日一日の使い方が一生を決める」という真実を認識しないで、「今日一日をどのように過ごそうと、長い人生に大した影響はない」、「いずれ、そのうちに」と考えて毎日を過ごしてしまう結果、最後に「自分は一生をムダに過ごしてしまった!」という嘆きが生まれる。だから「人生をいかに生きるべきか」という問題は、最終的には、「今日という一日をいかに生きるべきか、何をなすべきか?」という問題に収束することになる。

 新聞記者からフリーランサーになった千葉敦子は1981年に41歳のとき乳がんの手術を受け、再発の可能性が低い初期であることを医者から知らされて安心していたが、その後、1983年、1984年、1986年と3度の再発を経て、1987年に46歳で亡くなった。その闘病の6年間に彼女は10冊の本を書いたが、「よく死ぬことは、よく生きることだ」という著書の中の「死への準備」という章で、「いまは一日一日を、いとおしんで生きています。明日という日がなくなっても後悔しないように、その日一日をフルにフレスト(fullest)に生きることを、毎日自分に誓っています。」と述べている。

 Fullという英語は、「…に満ちて」という元の意味から派生して、「精一杯」、「充実した」という意味も持つが、彼女が敢えてそのような日本語を使わないで、fullという英語を使ったのは何故だろうか?多分、元の意味の「…に満ちて」の…の所に、いろいろなものを入れたかったのではないだろうか? 多分、怖れや不安や無為や怠惰ではなく、「やる気に満ちて」、「喜びに満ちて」、「情熱に満ちて」、「価値に満ちて」、「意欲に満ちて」今日一日を生きようと決意したのではないだろうか。1回目の再発後、実際に彼女は前から住みたいと思っていたニューヨークに転居して、死ぬまでの間、「いまいちばんしたいこと」を最優先する充実の日々を送っている。

 このような日々の生き方は、彼女のようなガン患者だけに当てはまるものではないだろう。普通の健康な人間と末期ガンの人間の違いは、死期が高い確率で予測されているかいないかの違いだけであって、本質的には遅かれ早かれ同じように死すべき存在である。したがって、「今日一日をfullestに生きる 」、「いまいちばんしたいこと」を最優先する生き方は、全ての人に妥当する生き方である。

             一日賢者の詩                             (中部経典)

           過ぎ去れるを追うことなかれ。
           いまだ来らざるを念(ねが)うことなかれ。
           過去、そはすでに捨てられたり。
           未来、そはいまだ到らざるなり。
           されば、ただ現在するところのものを、
           そのところにおいてよく観察すべし。
           揺らぐことなく、動ずることなく、
           そを見きわめ、そを実践すべし。
           ただ今日まさに作(な)すべきことを熱心になせ。
           たれか明日死のあることを知らんや。
           まことに、かの死の大軍と、
           遇わずというは、あることなし。
           よくかくのごとく見きわめたるものは、
           心をこめ、昼夜おこたることなく実践せん。
           かくのごときを、一日賢者といい、
           また、心しずまれる者というなり。



この詩は釈迦が講話のために当時の他の宗派のテキストから引用した詩といわれている。
注:原題は一夜賢者だが、一夜は一日を意味するので書き換えた。
  「よく観察すべし」は「よく考え、評価し、味わう」の意。


   11.不快感や悩みやストレスをコントロールする

  人生に悩みや不快感やストレスはつきものであるが、それらが大きいと、目標に集中したり、目の前にある価値を享受する妨げになるだけでなく、さまざまな病気を引き起こすので、これを解消するか軽減する必要がある。次に、その効果が多くの人によって実証されている方法を紹介する。


(イ) 問題解決の一般的プロセスを適用する

悩みも問題の一種なので、一般的な問題解決プロセスを適用する。
@ 問題を正確に記述する。(何を悩んだり、不快に感じるかをはっきりさせる。)                  
A 問題が生じる真の原因を究明する。(悩み、不快の原因は何かを突きとめる。)
B 問題の原因を除却、又は、軽減する方法を全て考え、その中で最適な方法を選ぶ。
C 最適な解決方法を実行する(悩み、不快の原因を除くか、軽減する。)
このプロセスを実行しても問題が解決せず、悩みが消えない場合の対処法を以下に挙げる。 


(ロ) 自分にできるベストレベルに目標を調整して実現する。 

 目標を実現できないことが悩みの原因である場合、満足度は要求水準(あるべき状態)と比べたときの達成度なので、要求水準を自分にできる最善のレベルに変更して実現すれば、悩み(欲求不満)は解消するか軽減する。自分にできない要求水準を、そのまま放置して成果がゼロよりも、自分にできる範囲内に要求水準を調整して実行し、それなりの成果を得るほうが満足感は大きくなる。
 自分にできる水準を実現しないで、達成度がゼロという状態は、悩みがそのまま存続するので望ましくない。


(ハ) 不快、悩み、ストレスの原因から離れて、他のことに取り組む

不快や悩みの原因となる対象から自分が物理的、心理的に離れることである。その対象は外界のものだけでなく、心の中の考えや観念などでも同様である。対象から離れるためには、他の行為に移ることが最も効果的である。実際に、忙しい時には悩んでいる暇はなくなる。やりたいことややるべきことをすることに忙しくなれば、多くの悩みは退散する。映画のようなものでも容易に気分転換できる。これは、人間は二つのことを同時にすることはできないという心理法則による。

 また、過去に自分が自由に選んだ行為から、望ましくない結果が生じ、時間がどれほど経過しても、それを思い出した時、苦しい感情が生じて、後悔することがある。人間は不完全な存在だから、ときどき判断を誤ることは避けられないが、普通は、失敗だったという反省で終わる。ところが、何年経っても、苦しみが消えないケースがある。このような後悔の場合も、それを心から閉め出して、他の行為に取り組むことが有効である。
  


(ニ) ABC理論(論理療法)と楽観主義

アルバート・エリスのABC理論(論理療法)によれば、出来事や事実(Activating event)そのものが感情や悩み(Consequence 結果)を生むのではなく、その受けとり方や解釈の仕方(Belief 確信)が感情や悩みの原因である。したがって、感情や悩みを変える方法は二つある。出来事や事実を変えるか、受けとり方や解釈の仕方を変えるかである。出来事や事実を変えられなければ、受けとり方や解釈の仕方を変えることである。 

 例えば、病気になって長期安静が必要になった時に、「外出できず、ベッドにずっと寝ているのは大変」と考えれば、悩ましい気分に陥るが、「今まで読めなかった本を読めるよい機会だ」、「望んでいた静養ができるよい機会だ」、「病気の体験をとおして、より深く人生を考えるよい機会だ」というように考えれば、もっと前向きで楽な気分になる。

 このように、ある出来事や事実や対象のプラス面(価値)はあまり見ないで、マイナス面(反価値)だけを引き出すと、不快感や悩みが生じる。一方、マイナス面は見ないで、プラス面をたくさん引き出すようにすれば、快感や楽しい気分が生まれる。

 この心理法則を特別な悩み事だけでなく、日常生活のどのような場面に対しても適用すれば、不快な毎日を楽しい毎日に変えることができる。そして、人生全体に対してもこのような態度で臨む生き方を楽観主義と呼ぶことにすれば、私たちは楽観主義者になるべきである。その反対の生き方、すなわち、主にプラス面よりもマイナス面を見るような生き方を悲観主義と呼ぶならば、私たちは悲観主義者になるべきではない。


(ホ) キャリアの公式

 大きな悩みに捕らえられて、混乱したり、パニック状態に陥った場合は、デ―ル・カーネギーがすすめる次のキャリアの公式に従えば、冷静に自分のエネルギーと時間を状況の改善に集中できる。
@「起こり得る最悪な事態とは何か」と自問する。
A やむをえない場合には、最悪の事態を受け入れる覚悟をする。
B それから落ち着いて最悪状態を好転させるよう努力する。


(ヘ) 「過去と未来を鉄の扉で閉ざせ。今日一日の枠のなかで生きよう。」

 これは、ジョン・ホプキンス医科大学を創立したウイリアム・オスラーがエール大学の学生に与えた言葉である。悩みや不快感やストレスは過去を後悔したり未来を心配することによって生じる場合が多い。過去を反省してそこから教訓を得ることや、未来の危険を予防する準備をすることは大切であるが、それが限度を超えて悩みやストレスになって現在の生活の障害になることは絶対に避けねばならない。このような事態に陥らないためには、過去と未来のことを心から完全に閉め出して、今日一日を充実させることだけを考え行動する必要がある。




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