

| 第1部 人間と人間の間の平和を実現する 一人の人間の命は地球より重い |
| 第1章 戦争の惨劇 |
| 1.広島 | 2.アウシュビッツ | 3.イラク戦争 | 4.戦死者数 |
| 第2章 戦争の原因 | 第3章 戦争の防止方法 |
| 第4章 参考文献 |
第5章 参考映画 |
一人の人間の命は地球よりも重いという言葉は決して誇張ではありません。一人一人の心の中では、この命題は真実なのです。宇宙に存在している無数の天体と同様に、地球自体は、そこに住む生物を除けば、単なる物体で、自己保存本能も、苦痛感覚も、意識も持っていません。一つの天体が消滅しても、いかなる苦痛も生じませんが、一人の人間の命が失われれば、大きな肉体的、精神的苦しみが必ず伴います。この単純な事実だけに着目しても、一人の人間の命は一つの天体よりも大切であるという価値判断の正しさを証明できます。
しかしながら、人類がこの地上に登場してから現在に至るまで、一人の人間の命の尊さが全く無視されることが、頻繁に起き、また、今も世界のいたるところで起きています。人間による人間の殺害行為の中には、金銭、怨恨などによる個人的なものもありますが、最大規模のものは戦争です。第1章では、その実例として、広島とアウシュビッツの惨劇を見て、第2章では、その原因を探り、第3章では、戦争を防止するために、われわれは具体的に何をなすべきかを考えます。
| 第1章 戦争の惨劇 |
| 1.広島 |
20年以上前に、広島を訪れたことがある。原爆記念館から広場に出て、1945年8月6日に原子爆弾を落とされた直後、この世に出現した炎熱の地獄の中で苦悶している無数の老若男女の姿を頭の中に再現しようとした。6000度という温度で直射された爆心直下の様子は、本当に想像を絶した世界であった。
峠 三吉著 『原爆詩集』より
八月六日
あの閃光が忘れえようか
瞬時に街頭の三万は消え
圧しつぶされた暗闇の底で
五万の悲鳴は絶え
渦巻くきいろい煙がうすれると
ビルデイングは裂け、橋は崩れ
満員電車はそのまま焦げ
涯しない瓦礫と燃えさしの堆積であった広島
やがてボロ切れのような皮膚を垂れた
両手を胸に
くずれた脳漿を踏み
焼け焦げた布を腰にまとって
泣きながら群れ歩いた裸体の行列
石地蔵のように散乱した練兵場の屍体
つながれた筏へ這いより折り重なった河岸の群も
灼けつく日ざしの下でしだいに屍体とかわり
夕空をつく火光の中に
下敷きのまま生きていた母や弟の町のあたりも
焼けうつり
兵器廠の床の糞尿のうえに
のがれ横たわった女学生らの
太鼓腹の、片目つぶれの、半身あかむけの、丸坊主の
誰がたれとも分からぬ一群の上に朝日がさせば
すでに動くものもなく
異臭のよどんだなかで
金ダライに飛ぶ蝿の羽音だけ
三十万の全市をしめた
あの静寂が忘れえようか
そのしずけさの中で
帰らなかった妻や子のしろい眼窩が
俺たちの心魂をたち割って
こめた願いを
忘れえようか!
原子爆弾の開発
1905年にアインシュタインが発表した特殊相対性理論から導かれるエネルギー質量保存の法則(E=mc2)が原子力解放の理論的原理になっている。1938年12月ドイツでハーンとシュトラスマンはウランに中性子を照射すると、ウランの原子核がバリウムなどの原子核に分裂する現象を発見した。その後の研究で、この核分裂の際、質量が減少して大きなエネルギーが生まれること、また、中性子が放出されて、隣のウランの原子核に当って、それがまた分裂するという連鎖反応が持続することが確認された。ウラン1kgが全て核分裂したときに発生するエネルギーは、良質な石炭3000トンが燃焼したときに放出するエネルギーに等しい。
ユダヤ人であるため1933年にドイツを追われてアメリカに亡命していたアインシュタインは、核分裂から生まれる莫大なエネルギーの応用兵器がドイツで先に開発されることを恐れて、1939年8月ルーズベルト大統領に原子爆弾の緊急な開発を求める手紙を書いた。この結果、1939年10月ウラニウム諮問委員会が設置され、原子爆弾の製造を目標とするマンハッタン計画がスタートする。これは、1939年9月ドイツがポーランドに侵攻し、第2次大戦が始まった一ヶ月後のことであり、1941年12月に日本が真珠湾を奇襲する2年2ヶ月前のことであった。
妻がユダヤ人で1938年にイタリアからアメリカに亡命したフェルミの指導により、1942年12月シカゴ大学につくられた最初の原子炉で,核分裂の連鎖反応が初めて成功し,原子から莫大なエネルギーを産み出す実用化の扉が開かれた。1943年3月、ニューメキシコ州に設立されたロス・アラモス研究所で所長のオッペンハイマーの指揮の下、原子爆弾の本格的な研究開発が始められた。そして、遂に1945年7月16日午前5時30分,ニューメキシコ州アラモゴードの砂漠に設けられた高さ30mの鉄塔上で、世界で初めて行われた原子爆弾の実験は成功した。
原爆を日本で使用した理由
ドイツがアメリカよりも先に原子爆弾を製造して、アメリカなどに投下するという事態を防ぐことが、アメリカの原爆開発の当初の目的であった。ドイツが原爆を完成しても、アメリカが原爆をすでに持っていれば、ドイツは報復を恐れてそれを使用できないからである。ドイツは,アメリカより早くカイザー・ウィルヘルム研究所で核研究を進めていたが、連合軍との戦いに苦戦して、組織だった研究は行われていなかった。マンハッタン計画の途中でこの情報を知ったアメリカの科学者は原爆製造の中止を訴えたが、アメリカ政府はこれを無視し、原爆開発の目的を戦争の早期終結のために使用することに切り替えた。そして、ドイツや日本が降伏する前に原爆を投下して、原爆の威力を世界にも示すことが目的になった。そのため、ドイツが降伏する前に、ドイツと日本に原爆投下をするための2つの飛行班が編成されたが、1945年5月にドイツが降伏したので、原爆はドイツでは使用されなかった。
次の3点が、アメリカが日本に原爆を投下した主な理由である。
1.1945年4月1日に沖縄本島に上陸し、6月に戦闘を終了した米軍の次の作戦は本土上陸で、11月1日に九州侵攻という命令が、5月25日、マッカーサーとミニッツに出されている。一方、7月26日、アメリカ、イギリス、中国は日本に対しポツダム宣言を発表し、無条件降伏を求めたが、7月28日、鈴木首相は軍部の圧力に屈して、この宣言を黙殺すると言明した。このままの状態が続けば、日本の本土で戦闘が行われ、米軍に膨大な数の死傷者が出ることが予想された。この事態を避けるために原爆を使用したというのが、現在でも米国が原爆投下を正当化している理由である。
2.現在、核兵器が実際には使用されない最大の理由は、相手の核兵器による報復攻撃を恐れているからである。しかし、大戦中の日本はドイツと違い、原爆を開発する科学技術はないので、報復される心配はないとアメリカは考えた。日本でも,1941年から1943年にかけて、陸軍と海軍が理化学研究所の仁科芳雄と原子爆弾製造の検討をしたが、戦争に使えるほど早くは開発できないだろうという結論であった。
3. 大戦後の国際政治でソ連に対して優位に立つために、原爆の威力を誇示することは大変に効果があると、トルーマン大統領は考えていた。7月16日の原爆実験の翌日の17日に、ポツダム会談を開催したのは、トルーマンのこのような計算に基づいている。
原爆使用の目標都市の選定基準として、重要な軍需工場があること、まだ空襲をうけていないこと、たくさんの住宅が密集していること、地形的にも有効な地点であること、その威力によって国民が戦意を喪失するような地点であることが挙げられ、広島、小倉、新潟、京都の4つに絞られた。このうち京都は前に訪れたことがある陸軍長官の反対などで保留となったが、その後、京都にかわって長崎が加わり、最終的には新潟が除かれて、広島、小倉、長崎の3都市が選ばれた。
8月6日
原子爆弾の実験が行われたのと同じ7月16日、リトル・ボーイと命名された原爆を積んだ戦艦インディアナポリス号はサンフランシスコを出航し、7月26日、太平洋上のテニアン島でリトル・ボーイを陸揚げし、その後フィリピンに向けて航海中、7月30日、日本の潜水艦に撃沈され900人の乗組員が死亡した。
8月2日、第一目標を広島、第二は小倉、第三は長崎とする爆撃命令が、テニアン基地の米軍に下った。8月6日午前0時37分(日本時間)、先ず、目標の広島、小倉、長崎の天候を別々に調査するため、3機の気象観測機がテニアン基地から出発した。午前1時45分、リトル・ボーイを搭載したB29型爆撃機エノラ・ゲイ号(機長テイべッツの母親の名前を冠した)は、爆発観測と記録撮影を任務とする2機の随伴機と共に、テニアン基地を離陸した。
先に広島上空に着いた気象観測機のイーザリー少佐から、7時25分、広島の天候が良好なので原爆を投下せよという指令を受けたテイべッツは、この時点で行き先を広島に確定した。そして、広島市上空高度9632mに侵入したエノラ・ゲイの爆撃手フイヤビーは、8時14分30秒、投下目標の相生橋を確認し、30秒後の8時15分、照準器のガラス上の十字線の交点と相生橋が重なった瞬間に自動装置のスイッチを入れた。 8時15分17秒、原子爆弾は機体を離れて落下を始め、43秒後の8時16分(広島市は8時15分を採用)、目標地点の相生橋から280メートル外れた島病院の真上の上空580mで炸裂した。
この日の朝、広島市では午前7時25分に警戒警報が発令されたが、7時31分には解除されたので、人々はいつもと同じような1日(月曜日)の行動を始めていた。8時12分、広島市の東30kmの西条で一人の監視兵がエノラ・ゲイと2機の随伴機を見つけて、広島城の通信司令室に電話で報告した。そこから直ちに広島放送局の当番のアナウンサーに電話がかけられ、8時14分、アナウンサーは近くのスタジオへ入り、空襲警報のサイレンを鳴らすボタンを押し、マイクに向かって「午前8時13分、中国軍管区発令、敵大型機3機、西条上空を……」と放送したところで、"ピカッ"という強い閃光が走り、一大爆発音が起きた。
爆発の瞬間、爆心は摂氏数百万度の超高温となり、0.1秒後には表面温度が30万度、半径15mの紫がかった赤い火の玉になり、熱線と放射線を放出しながら急速に膨張して、最大時には直径500mに成長し、約10秒間輝き続けた。その後しだいに冷却し、上昇して空気の抵抗を受けて、球形からドーナツ形に変化し,さらにきのこ雲に姿を変えていった。
核爆発から生じた全エネルギーの35%は熱線、50%は爆風、15%は放射線になって、それらが同時に人と物に作用して、爆心から2km以内の全ての建物は鉄筋コンクリートを除き、全壊・全焼し、3.6km以内の窓ガラスは全部割れた。また、爆発の瞬間の熱線と爆風により、半径500m以内の人々はほぼ即死し、1.2km以内の人々の半数は即死か、それに近い死に方をした。即死を免れても、爆発後の大火災と大量の放射能により10日以内に死亡した無数の人々がいた。この結果、1950年の広島市役所発表によると死者は24万7000人で、残された原爆症患者をはじめ被害者の数はこれを大きく上回った。
さらに、8月9日には長崎に原爆が投下され、7万4000人が死亡し、7万5000人が重軽傷を負った。
次は、爆心より550メートル離れた旧下中町(現在の袋町)にあった中央電話局二階で、当時15歳だった中前妙子さんが動員女学生として働いていたときに被爆した記録である。
原爆体験記(広島市原爆体験記刊行会編)より
師とともに泳ぐ
時は1945年8月6日。
窓外は実によく晴れ渡り、紺碧の深い空と遠近に見える緑樹とが相合して、快い真夏の朝の一時であった。ここ中央電話局の交換休憩室では、後数分して天変地異が起ころうと、誰が思ったであろうか。僅かな休憩を利用して、溌剌たる乙女の動員学徒の一団が相寄り、楽しい夏のプランを立てていた。
「ねえ。猛烈に暑いけえ、こんどのお休みにどこかへ泳ぎに行こうやあ」
「ええ考えね。皆行こうや、行こうや」
「どこへ行く?」
「といってもあまり遠くじやあね」
「どこか近いところでええ所ないかいね……」
「もう交代の時間じゃあけ、また後から集まってきめようよ」
「じゃあそうしようね、さようなら」
後で会えるのを楽しみに、各自廊下に出ていつものとうり『ブレスト』を胸につけてから、窓外の気持ちよい空を眺めた瞬間、
「あっあれを!」
隣にいたIさんに叫んだ。青空から百触光よりもはるかに明るい電球のようなものが、輝きながらずんずん目前に落下して来るではないか。
「あれえっ」
と叫んだとたん、「ピカッ」と光った。と思うまにあたりは真暗闇と化し、つづいて「ドン」と、不気味な物凄い音がしたかと思うと、異様なガスくさい匂いが漂ってきた。息もつまるばかりに苦しくなってくる。発声しようも、舌先から咽喉に何か詰まり、ざらざらしたような変な感じがし、「お母さん!」と呼べども声が出ない。気分がじりじりする。夢を見ていたのではないかしらと、わが身をねじって見ると痛い。いったいどうしたことかと不思議でならない。起きようともがくけれど起きられない。背の上に何か覆いかぶさっている。遠近から「ガラガラ」「ザアッザアッ!」と、建物の倒壊する音、それにまじって母を呼ぶ声、泣き叫ぶ声、悲壮な救いを求める声、天地を怨む声、さながらこの世での阿鼻地獄であった。
私も母の名を呼んでみると、声が出たのでうれしくなり、Iさんを呼んでみると
「Nさん痛いっ、助けてー、何か上にあるので起きられんの」
「私もよ、痛い、誰か除けてくれんかしら」
「死にそうよ、痛い、お母さん!」
と泣き叫ぶIさん、何といって慰めてよいやら、自分も悲しくなってきたが、いつまでもこうしていては駄目だと、死物狂いで動きつづけてやっと抜け出られるようになった。身体にさわってみると、何がついたのかユニフォームがビショビショ、顔をなでて見るとヌルヌルする。
真暗闇なのでさっぱり分からない。突然向こうの方で、「みんな、勝つまでがんばるのよ!」
ああ、あの声は、主任の脇田先生の声、この叫びが、どんなに私たちを奮い立たせたことであろう。
「倒れちゃあ駄目よ、がんばってがんばるのよ」
腹を絞るような叫び、それにこたえて人々は力づき屋外へ逃れ出した。
その途上、行き着く先で倒れた人や物につまずいた。それを躊躇していたら、わが身はおろか、後に続く人命の危険は免れ得ないのであった。
ああ、今思えば、あのときの残虐行為が目にちらつき胸がいたむ。苦しかったであろう、鬼だと怨まれたり、罵りもせられたであろう。あの人たち、友達の上を踏みにじって……。その人たちは私たちの尊い犠牲者となって、はかなくもそこで永遠の眠りにつかれたのであった。
ようやくの思いで、窓から屋外へ飛び出して仰天した。私たちのところだけ被害を蒙ったのだと思いこんでいた矢先なので、あまりにも周囲の変わり果てた姿には唖然とした。一瞬にしてあの好天気が、どんより曇った薄暗い夕暮れに褐色を混ぜ合わせたような、かってなかった景色と変わり、青い樹木は皆枯れ果てて黒焦げとなり、突っ立っている。電柱、電線ありとあらゆるものが地に横たわり、あたかも夕闇迫る枯木立に立ち入った感であった。四方に目をやると、いずれにも焔が燃え上がり、恐ろしい火の手が遠近に燃え広がっている。めらめらと燃える火、逃げまどう人々。
自分もこうしては危ないと悟り、生命の続く限り逃げようと、気を取り直し、ただ一筋比治山へ、比治山へと向かった。途中倒れた家の傍らに五,六歳の女児が座り、その傍らに十歳ばかりの兄が女児の肩に手をかけて、
「これM子、死んじゃいけん、死ぬんじゃないぞ、M子、死んだんか…M子」
と泣きながら励ましていた。早く逃げないと、すぐ火が襲ってくるのに、そこを動こうともしないで、亡くなった妹を呼び返している。そのあたりにも多くの人が横たわっていた。自分一人が逃げのびるのに精一杯なので、その子供を救ける人もない。
後を振り向くと物凄い火がどんどん襲って来る。やっとのことで鶴見橋のたもとまで辿り着くと、遠近から避難してくる人で一杯だ。そのいずれの人々も全裸や半裸となり、衣服をまとった人といえばぼろぼろとなった物だけ。どす黒い、汚れた傷を受けた顔、顔、後からくる人もみな同様だ。誰も彼も上ずった声で名を呼び合ったり、泣いたりしていた。
一段と高くなっている川べりの土手から市中を眺めると、一面は火の海と化し、物凄い勢いで燃え上がる火と、重苦しい物音は人々の心臓を掴み、火を見ている人々は泣くにも泣かれず、恐怖におびえてポカンとしているのが多かった。それにもかかわらず、一方ではどんどん逃げてくる人の数が増し、人々のざわめきは静まるどころではなかった。
局のM部長さんが私を探し回って来られ、
「あなたの傷が一番ひどいね。早く何とかしなければ……」
といって、人から分けてもらって来たといわれる煙草を血止めに付けてくだっさった。そこで私は初めて傷のひどいことを知った。それまで途中、友達が
「Nさん傷がひどいから無理をしては」
と、声をかけられるたびに「まあ自分こそ」と思っていたのだ。誰も彼も血まみれになっていたから……。顔へ手をやると、ヌルッと血塊がつき、太陽に照らされた血のために、顔が痛いほどつっ張る。
ここまで逃げられたと安心したせいか節々が痛んで来る。……とうとう火も身近に迫ってきた。ここも危険ということになり、対岸の比治山へみんな避難しだした。が、たった一つの頼みである鶴見橋が燃え出した。そのうえ川は満潮である。みんなの顔が動揺し始めた。ぐずぐずしてはいられない。みな我こそと川へ飛び込んで逃げ出した。傷がひどいから川へ入ったらいけないと周囲の人が止められるけれど、今はもう躊躇できない。脇田先生に手を持っていただいて泳ぐことになった。以前あれほど、水には恐れなかった私が、途中まで行くと、息が切れ手足は硬直し、苦しくなる一方である。こんなに苦しい目に会うのだったら、いっそう死んだ方がと、うつらうつらしていると、先生がそのたびに励ましてくださった。お蔭で川中まで行くことができ、そこで船の人に助けてもらい、比治山の救護所へ連れて行ってもらった。
「すぐ、ここへお友達を連れてくるから、ここでしばらくの間待っていて頂戴ね」
といわれたあのやさしかった先生の言葉が最後になろうとは……比治山へ着いた頃から、何故か目がはっきりしなくなってきた。さすがの広い比治山の大道路を埋めつくしている人々の姿はおぼろげながら見えた。
「早ようしてくれー、死ぬるじゃないか」
「何をぼやぼやしとるんだ、兵隊はおらんのか」
「おいお前や、後から来やがって、先にしてもらうという法があるかい」
「兵隊さん早よう治してえー、水を頂戴―」
悲壮な様子、どこもかしこもこの世の地獄さながらであった。日はカンカンと照り、身は焼けつきそうであった。
それから幾時経ったであろうか、私は気が遠くなって眠っていたのであった。
顔の方が引き締まる覚えを感じ、さわってみると顔面全体に包帯の巻いてあることを知った。そして、いる所も異なっていることに気付いた。
静かにあたりを探るとうんうんと唸る声、それに交えて
「水を飲ませてー、死にそうなのよ」
「家へ連れて帰ってえ―」
「バカ、今どき連れて帰れるか!」
「うわんうわん、お母さん、お母さん」
またも悲しい哀れな地獄の様である。包帯がしてあるため私は皆目何が何やら知ることができない。ぼんやりと横たわっていると誰かが突く。
「ちょっと、うち目がみえんの、水を飲ませてえ」
「まあ可哀そうにね、私も見えんの」
私の言葉を聞いて絶望したか、低い声で泣き出してしまった。
「ねえ、どこで怪我をしたん?」
「うち女子商の一年で鶴見橋の所でね。建物疎開の作業をしとったところを、こんな怪我をしたん。ああ苦しい。誰か水を頂戴」といったかと思うと、また泣きじゃくる。
「お母ちゃん、水を頂戴よ!お母ちゃんのバカ!」
とののしる。私も誘われて悲しくなって、そのままわからなくなってしまった。
ふと太い男の人の声で気がついた。何かに乗せられていることを知った。車に揺れるたびに傷に響いて痛む。
「バカ、痛いじゃないか、この傷がわからんのか」
下の方で声がする。
「済みません」
「済みませんで済むかー、気を付けえ」
また別の声。
「痛いよー痛いよ― お母さんー」
「やかましい、痛いなあ、みんなおんなじじゃ我慢せい」
人情も同情心もあったものではない、みんな恐ろしさのために小さく縮んでいる。傷のために気分が焦燥にかられてこんなに殺人的になるのであろう。その上、太陽がきつく反射するのでますますきずがひどくなるからでもあろう。
こんこんと眠り、目が覚めて辺りを探って見ると、どこか落ち着いたところに寝かされていることに気付いた。厚い藁布団に寝かされている。
「ああ気がついたね、よく眠っていたね、もう安心して治療してもらって早くよくなるんだね。ここは金輪島、君の傷は浅いんだから、早くよくなってお父さん、お母さんのところへ帰るんだね」
と優しく慰めてくだっさった。兵隊さんだ。
「自分はね、暁部隊の兵隊だ。今まで広島に行って救護に行って帰ってきたところ、ひどいことをしたもんだねえー、あっそうそ、お腹が空いてひもじいだろうね。好きなものでもいってごらん、あったら持って来たげるからいいなさいね」
と、それから一週間の滞在中何から何まで私のわがままを聞いて下さったり、至れり尽せりのことをして下さった。ときには、
「これ兵隊たちの配給だけど、自分はよいから、さあ、お上がり」
と、大好きな青葡萄や水密桃を傷ついた私に全部食べさせてくださった。あの味は終生忘れることができない。ひまさえあれば、兵隊さんの故郷の静岡のことや、またときどき聖書を読んで聞かせて下さった。
待てど暮らせど家からはいっこうに迎に来てくれそうにない。その上まだ空襲は続けられ、毎日毎日恐怖の日々を送った。あれから六日、ついに待望の日は訪れた。回りの人も次々に亡くなられ、静かになった部屋で一人思いに耽っているときに最愛の父がとうとう現れたのだ。
「妙ちゃん、お父さんじゃあ、分かる?」
「お父ちゃん……」
「随分待ったろう。お父ちゃんも毎日あちこちを探してようやく昨日分かって急いで来たんじゃ」
「お父ちゃん……有難う、恵美ちゃんは」
「ああ恵美ちゃんか、あれは全身火傷をして己斐の学校で七日に……とうとう……死んだ……」
「ああ恵美ちゃんが?……可哀そうに……」
再会の喜びもつかの間、妹の恵美ちゃんが亡くなったとは……、暫くの間、父も私も泣いた。
恵美ちゃんは生きていると信じていたのに、三晩続けて見た夢、それはうそだったのか。
無傷で家に帰った恵美ちゃんが、何をぼやぼやしとるの、早よう姉ちゃん、帰っておいで、といった夢はどうしたのか。
恵美ちゃんは土橋の勤労作業で全身火傷して、己斐の学校に収容されて七日の夕方、父や母のそして私を呼びつつ、はかなくも十四歳の花をしぼめたのであった。
姉思いだった恵美ちゃん、幼い頃から憧れていた一県女に入学して喜んだのも束の間、戦争のために授業はおろか作業に、空襲に、好きな勉強をすることが出来なかったのが残念だったろう。恵美ちゃんも私もみんな戦争のために女学生時代の夢を味わうこともなく一生めちゃめちゃに壊されてしまった。けれどこの尊い多くの犠牲によって平和が築かれて行くのだったら、この上なくうれしくてならないのだけれど……
★ 筆者は顔面裂傷、左眼失明せるも県下に健在(1965年現在)
広島と長崎の被爆による死者のことを考えるとき、心からの同情だけでは済まされない。彼らは私たちの身代わりになって死んでいったという厳粛な事実に気付かねばならない。広島や長崎が選ばれなければ、他の都市が選ばれていたからである。あるいは、原爆が落されなかったら、戦争はもっと長引いて膨大な数の日本人とアメリカ人が死に、その中に祖父母や親や私たちが含まれていて、現在、私たちは存在していないかもしれないからである。あるいは、第2次大戦後、現在までに第3次世界大戦が勃発し、数百万、数千万人が死んだかもしれないからである。このことを考えると、私たちが、今、生きていられるのは、彼らの悲惨な犠牲のお蔭であることが理解できるのである。
Hiroshima Peace Site
広島原爆写真館
丸木美術館
| 2.アウシュビッツ |
1996年に私はアウシュビッツを訪れて、第2次大戦中ここで起きた形容を絶する惨劇が事実であったことを証明する多くの施設や遺品を見た。イタリアのフローレンスからポーランドの首都ワルシャワまで飛行機で行き、ワルシャワから古都クラクフまで列車に乗り、そこからアウシュビッツへはタクシーを使った。列車の窓から見える景色のほとんどは、地平線まで続く草原と所々に点在する農家だけであった。強制収容所へ送られた人々は、貨車の隙間からどのような気持ちでこの同じ景色を眺めていたのだろうかと思ったが、到底分かるはずはなかった。
フランクルは「夜と霧」の中で、収容所の恐怖に満ちた生活を次のように語っている。ある夜、隣で寝ていた男が怖い夢を見ていたらしく、ひどくうなされていたので、彼は起こしてあげようと一瞬思ったが、すぐに考え直して起こすのを止めた。なぜなら、どれほど怖い夢よりも、収容所の現実の方が恐ろしいので、目を醒まして現実に戻るよりも悪夢の方がましであることに気付いたからである。
強制収容所の目的と規模
1932年ドイツの総選挙で第1党になり、1933年に政権を取ったナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)は全権委任法案(4年間政府に独裁権を与える法律)を国会で可決させ、1党独裁体制を樹立した。そして、ドイツ国内と占領国で1000を超える強制収容所を建設して、ナチスの反対者、ユダヤ人、ソ連軍捕虜、ジプシーなどを送りこみ、そこで約1千万人を死亡させた。ドイツ植民者に土地を与えるという目的のために、ある地帯の住人を他の定住地へ移住させるとだまして、強制収容所に送ることもしばしばあった。
これらの強制収容所の中で最大のものが、1940年にポーランドに建設されたアウシュビッツ強制収容所で、全ての支所を入れると常時約26万人が収容されていた。ここで死亡した人間の数は、ニュールンベルグ国際軍事裁判、ソ連のナチ犯罪特別調査委員会、ポーランド最高裁判所でも400万人とされていたが、最近は見直しが行われて、160万人と修正され、そのうち90%以上がユダヤ人と推定されている(1990年「アウシュビッツの将来に関するユダヤ知識人のヤーントン宣言」)。
死亡人数を確定することが難しいのは、ここに送り込まれた人々全体の70%以上は、囚人として登録されないで、直ちにガス室で殺されたので、その人数について正確な記録が残されていないからである。
1931年の満州事変の勃発から1945年の敗戦に至る15年戦争で、軍人、一般人を合わせて死亡した日本人は三二〇万人であるから、その半数に相当する人々が、一つの収容所だけで亡くなったことになる。
輸送と選別
逮捕者をアウシュヴィッツへ輸送するのには、秘密保持や暴動の防止のため、家畜運搬用の鉄道貨車が使われた。普通なら馬八頭を入れる貨車に80人から100人の老若男女がスシ詰めにされて、外から鍵をかけられ、食物も水も与えられず、用便のために外部に出ることも許されない状態のまま、遠い場合は数日間かけて運ばれたので、アウシュヴィッツへ着いて、はじめてかんぬきを開けられたときには、すでに多くの死者が出ていた。
貨車から降ろされた人々は休むことなく、1人1人医者の前を歩かされて、選別を受けた。使役に耐え得ると判断された者は右の列に、老人、妊婦、子供など使役には適さない者は左の列に並ばされた。「夜と霧」を書いたフランクルは、はじめ左に回されたが、その方向には知り合いがいなかったことと、右の方には何人かの若い同僚がいることに気が付いたので、医者の背後を回って見つからずに右側の列に並び替えて、九死に一生を得た。この選別で、輸送全体の約三分の一が労働に耐えうるとされたが、この数字は相当変動し、ギリシャから来たユダヤ人の場合は、15%に過ぎなかった。
ガス室と焼却
選別で左の列に並ばされた人々は、しらみを駆除するためにシャワーを浴びるのだと言われ、そのままガス室へ連れて行かれた。その後に起きたことについて、収容所長のヘスは次のように証言している。
「脱衣後、ユダヤ人たちはガス室に導かれる。が、そこは換気口や水道栓が配され、完全に浴室らしく見せかけてあった。先ず、子供を連れた女たちが、次に男たちが入った。(中略)
つづいて、ドアが手早くネジ締めされ、待ち構えている消毒員が、すぐガス室の天井に空けた投入口から、床までとどく空気穴のなかに、ガス(青酸ガス・チクロンB)を投入する。これが即座にガスを発生させる働きをする。ドアの覗き穴から観察していると、投入口のすぐそばに立っているものがたちまち死んで倒れるのが見える。
三分の一は即死するといっていいだろう。残る者は、よろめき、叫び、空気を求めてあがき始める。しかし、叫びはほどなく喉の鳴る音にかわり、数分のうちに全員が倒れる。おそくとも二〇分後には、もう一人として身動きする者もない。(中略)
ガス投入三〇分後、ドアが開かれ、換気装置が作動する。すぐ死体の引き出しが始められる。(中略)死体はすぐ特殊部隊の手で金歯を抜かれ、女は頭髪を切られる。次に死体は昇降機にのせられ、その間に熱してある上の階の炉に運びこまれる。死体は、その状態の応じて、炉の各室に三人まで入れられた。焼却時間は平均二〇分である」。(ルドルフ・ヘス著「アウシュビッツ収容所」より)
アウシュヴィッツ第1収容所から3キロメートル離れたビルケナウにあるアウシュヴィッツ第2収容所では、一日に4つのガス室で6千人を殺すことができ、4千人以上の死体を焼却することができた。焼却炉だけで間に合わない場合は、広場に薪を積んで、その上に死体を積み上げて焼いたり、地面に大きな穴を開けて、死体を投げ込んで焼いた。焼却後残された骨は、証拠隠滅のため砕かれて粉々にされ、近くの池や河に捨てられた。
収容所を生き延びて、イスラエルで理髪店を営んでいるアブラハム・ボンバは、「ショア」というドキュメンタリー映画の中で自分の体験を話している。彼がトレブリンカ収容所で特別労務班に選ばれて4週間後、床屋ばかり集められ、殺される直前の女性の髪をガス室内で切る仕事をさせられた。
彼がその仕事をしていたある時、友人の床屋の前に、何と、その友人の妻と娘が現われ、友人が彼女たちの髪を切るという運命の場を目撃した。その話をしていた時、ボンバはこの悲惨な出来事の思い出に耐えきれなくなって、何度も言葉が詰まって出てこなかった。
強制労働
選別の際、右側に並ばされた人々は、直後の死を免れたものの、もっと過酷な運命が待ち受けていた。登録手続きに入り、個人の履歴が書きとめられ、身分証明の番号が左の前腕に入れ墨された。
登録後、囚人たちは労働に就く前に、6〜8週間、隔離されて、精神的肉体的抵抗を減退させ、奴隷のように従順にさせるための特別訓練を受けた。そこで恐怖心を植え付けて、反抗心を萎えさせるため、割れたレンガやガラスの上を裸足で歩かされたり、常に殴られ蹴られたりする虐待を受けた結果、大勢の囚人が死亡した。
この隔離期間を生き延びることができた囚人たちは、次に、労働力として何十とある作業班に送られた。収容所の拡張建設、土地の排水工事、農作業、鋳造所、炭鉱、軍需工場、合成石油と合成ゴムの生産工場などで、囚人たちは、短い昼食時間も含め1日12時間、心身がすりきれるまで酷使された。
元囚人だったベルトールド博士は次のように語っている。
「私たちは、収容所から工場まで、片道4〜6キロの道程を通わねばならなかった。そのうえ、私たちは、朝夕の一時間から二時間の点呼に、立ったままでいなければならなかった。このような状況下では、3〜4ヶ月生きていることは不可能だった。この時期から人々は、疲労と過労で死んだ。…」
刑罰
飢えを凌ぐために家畜用のえさを食べたり、生のキャベツを盗んで食べたりすると、刑罰を受けた。その他ささいな規則違反でも、見つかれば厳しい処罰を受けた。鞭打ちの刑では、25回から75回鞭で打たれると全身が傷だらけになって、治るまでに数ヶ月の治療が必要だった。脱走に失敗した者は、夕方の点呼中に他の囚人の前で絞首刑にされた。
1人でも脱走者が出ると、何も関係ない囚人が10人から20人が見せしめに選ばれて飢餓室に閉じ込められ餓死させられた。長崎で6年間布教したこともあるコペル神父は、ある時、自分はこの餓死室行きのグループに入っていなかったが、選ばれた一人が家族に会いたいと泣いたとき、その身代わりを申し出て、水や食べ物が全く与えられない14日間を過ごした後、1941年8月14日に亡くなった。
人体実験
「人間の命、他人の命を自分の意のままにできたナチス時代に医者はそれはもう大喜びでした…」という証言があるほど、多くのエリート医師がさまざまな人体実験を囚人に行った。
早期の子宮ガンの診断法を見つけるために、健康な女性から子宮頚部を取り出して、発生直後のガンの有無を調べる実験を繰り返し、手術後の女性は用済みとしてガス室に送った。
カール・クラウベルグ教授が行った生体実験の目的は、スラブ人を生物学的に絶滅する最も迅速な手段を開発することで、ヒムラ―への書簡(1943年6月7日付)で次のように説明している。
「もし私自身が行っている研究が予定通りに続くならば、その障害は将来ともないと思いますが、近い将来、適切な設備のある手術室で働く一名の資格のある医師と十人の補助者がいれば、1日に数百人、否、千人でも、不妊手術をすることが可能になると思います。…」
また、ユダヤ人の子孫を絶やすための不妊方法の研究として、男女の生殖器官に大量のX線を照射する実験を行い、多くの囚人は放射線障害に苦しみ、死亡者が続出したが、生き残ったものは、生殖器官を切開されて効果を調べられた。
Paintings & Drawings by Jan Komski
人類負の遺産「アウシュビッツ」
アウシュビッツ
| 3.イラク戦争 |
歴史に興味を持っていた私は、昔、イラクを旅行した時、バグダッド郊外にある古代バビロニア帝国時代の空中庭園の遺跡を訪れたことがある。その人類最古の文明が生まれた土地を、人類最新の文明が生まれた土地の人々が攻撃している。この文章を書いている2003年3月27日現在、イラクとアメリカの双方に死者がかなり出始めている。アメリカは精密誘導兵器の使用により軍事施設だけを破壊すると言っているが、誤爆や市街戦によって、実際には、戦争が終わるまでにおびただしい数の人間が死傷するだろう。人類は過去に悲惨で愚かな戦争をたくさん体験しているのに、それに懲りないで、何故また同じ過ちを繰り返すのだろうか!
このイラク戦争に賛成すべきか反対すべきかという問題を考える時、一番必要なことは、「もしも自分が戦争で殺害される兵士や民衆の一人として生まれていたら、または、その家族だったら、賛成するだろうか?反対するだろうか?」と自分に問うことである。何故なら自分は直接に被害を受けない傍観者の立場で考える限り、最も大切な真実は見えてこないからである。
イラク市民の被害
戦争の原因
アメリカがイラクを攻撃する主な理由としてブッシュ大統領が公式に表明しているのは、次の二点である。
(1)湾岸戦争(1990-1991)の停戦条件として国連が禁止した大量破壊兵器(核兵器、化学兵器、生物兵器など)をイラクが保有している。
(2)その大量破壊兵器がテロリストの手に渡ってアメリカが攻撃される可能性が高く、また、イスラエルを含む中東全域が脅威にさらされいる。イラクに攻撃されてからでは遅いので、その前に予防的・自衛的戦争によりフセイン政権を倒して、大量破壊兵器を廃棄させる必要がある。
この予防的戦争を国連決議とすることをアメリカは安保理に求めたが、イラクの大量破壊兵器の保有が事実かどうかを確かめるために国連による査察を継続すべきだとフランスは主張して、戦争に強く反対した。これに対して、アメリカは自国を防衛するのに国連の決議は必須条件ではないと考えて、戦争に突入した。
アメリカが国連の査察継続を拒否して戦争を起こした理由として、上記の公式な理由のほかに、9/11テロに対する報復ということがあるのは間違いないだろう。もしも、9/11テロが起きていなければ、今回のイラク戦争も起きなかったはずである。アメリカとイラクは既に12年前から対立し、湾岸戦争の敗北とその後現在まで続く経済制裁をもたらしたアメリカを憎むフセインが、9/11テロを支援したとアメリカは判断している。しかし、9/11事件を起こしたテロ組織とフセイン政権の関係を客観的に証明するものが無いので、この理由を表向きに挙げることはできない。
戦争回避への努力
国際世論もフランスと同様にこの戦争に反対しているが、ブッシュ大統領の決意を変えることはできない。2001年9月11日のテロ攻撃を実際に受けたアメリカと、受けていないフランスや他の諸国の間には恐怖や不安や怒りや緊迫感に大きな隔たりが見られる。確かに、9/11テロは悪夢のように酷く、死者も約2800人という大規模なものであり、将来、化学・生物兵器や核兵器がテロに使われれば、その被害の規模はテロの通念を超えたものになるだろうから、アメリカ人が抱く怖れや怒りとイラク攻撃の目的は理解できる。
しかし、テロによる被害の規模と戦争による被害の規模を比べれば、そこには比較を絶する違いがあり、第三者から見た時、テロに対する報復としての戦争、あるいは、テロを未然に防ぐための戦争は正当化できないだろう。喧嘩で一度殴られた人間が、その仕返しと再び殴られないために、相手を10回殴り返すことは許されないだろう。ちょうど、広島、長崎に対する原爆投下のように、これはやり過ぎであるし、ヨーロッパの国に対してなら決してやらないことだろう。
本来なら、国際連合がこの国際紛争を解決しなければならないが、結局、第2次大戦を止められなかった国際連盟と同じように、その無力ぶりを露呈することになった。国連のアナン事務総長がバグダッドに直接行ってフセインを説得する行為が結果として徒労に終わったとしても、何故、それをしなかったのであろうか? 問題を解決するために戦争以外の代替案が何も残されていないとは、どうしても考えられない。戦争回避のために国連が人事を尽くしたとは言えないだろう。
アメリカは開戦に先立って、フセインとその息子たちが亡命すれば、攻撃しないという最後通告を提示したが、フセインは戦いの道を選んだ。1979年にイラク大統領に就任したフセインは好戦的で、イランを侵略してイラン・イラク戦争(1980-1988)を起こし、クエートを侵略して湾岸戦争(1990-1991)を起こした。また、国内でも独裁者として君臨して、反対派の人々を逮捕して拷問や処刑を行い、政権を維持してきた。
日本の選択
日本政府はイラクに対するアメリカの戦争を支持する道を選んだ。これが間接的な憲法違反であることは明らかである。何故なら、憲法第9条で「日本国民は,正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し,国権の発動たる戦争と,武力による威嚇又は武力の行使は,国際紛争を解決する手段としては,永久にこれを放棄する」。と宣言しているからである。また、一人の民衆の命を国家利益よりも大事にし、無条件に戦争絶対反対を毎日唱えている創価学会を母体とする公明党も政府の対応に賛成している。さらに、そのような選択をした内閣の国民による支持率はあまり下がらずに4割台を維持している。しかし、このような支離滅裂の状況をおかしいと感じる人は、意外と少ない。
戦後への期待と希望
戦争が起きてしまった今、私たちが願うことは戦争の早期終結とイラクの復興と報復の連鎖反応としてのテロが起きないことである。この段階で日本の貢献を期待する理由の一つは、今回のイラク戦争と半世紀前の太平洋戦争の間に多くの類似点があることである。両国とも戦争前は軍国主義の下で自由主義と民主主義は存在しなかった。第二次大戦で日本が中国に侵略した時、アメリカが強く反対して、石油の禁輸などの経済制裁を行ったので、日本は真珠湾を奇襲した。一方、湾岸戦争でイラクがクエートを侵略した時、アメリカが介入して、敗北させ経済制裁によりイラクを困らせたので、イラクは9/11テロを支援したと推測されている。
無数の尊い命の犠牲を払った日本の戦後は、アメリカの占領期間があり、軍国主義が一掃されて、国民は自由と民主主義を享受して、復興を遂げ、戦前よりもはるかに豊かで住みやすい国に変わった。イラク国民も戦後に同じようなプロセスを経て、自由と民主主義の国家に生まれ変わり、国民の生活が戦争前より豊かで平和になれば、それが周囲のアラブ諸国の民主化を促し、中東と世界の平和と繁栄にも貢献するだろう。これが今回の戦争に対して私が抱く最大の期待と希望である。
恒久平和への道
以上のような状況を考えたとき、戦争という蛮行を地上から永久に無くすためには、私たちは何をすればよいのだろうか?第1に国連の機能強化が望ましいが、今回のイラク戦争はそこに限界があることを示した。第2は世界連邦の建設であるが、現在はまだEUのような地域連合を建設している段階である。第3は世界の民主化である。20世紀には数え切れないほど多くの戦争が起きたが、民主主義国家相互の間で起きた戦争はほとんど無いそうである。戦争が起これば人民が犠牲になるので、人民が運営する民主主義国家は戦争を避けて、他の解決案を考えるからであろう。
現在の世界を見ると、中近東の大部分、アフリカの一部、アジアの中国、北朝鮮などがまだ民主化されていない。共産主義国家の現実は共産党の一党独裁なので、民主主義国家とは言えない。自由と民主主義という人類の歴史の流れを止めることは、誰にもできないだろう。しかし、将来、これらの非民主主義国家が、旧ソ連のように自ら民主化への道を歩むのか、それとも、アフガニスタンやイラクのように外国の武力によって民主化されるのかは分からない。
犠牲者と報復テロの増大
以上の文章はイラク戦争が始まった直後(2003年3月)に書かれた。それから現在(2004年5月)に至るまでに、1万人を超えると言われる民間人の犠牲、イラク人捕虜の虐待などさまざまな残虐行為が起きたが、最も衝撃的だったのは米国の民間人が生きたまま首を切断される事件であった。インターネットで全ての映像を見、被害者の悲鳴を聞いた世界中の人々は、戦争に残虐行為は付き物だと承知していても、計り知れないショックを受けた。
この事件についてコメントを求められた米国の中年女性は、「アメリカはひどいことをしたので、復讐されたのだろう。」と述べ、被害者の父親は「ブッシュ大統領とラムズフェルド国防長官の罪によって、息子は殺された。」と語り、悲劇の原因は自国にあることを認めていた点は印象深い。確かに、アメリカがイラクにしてきたこと全てに対するイラク人の怒りの大きさを、この事件は象徴している。運悪く、被害者はアメリカを代表して、罰を受けてしまった。
かってベトナム戦争の時、一人のベトコンの青年が処刑される瞬間の映像がアメリカ人の反戦気分を大いに高めたように、今回の映像はイラク戦争の支持者にも反省を求め、ブッシュ大統領の再選を不可能にするだろう。(この「犠牲者と報復テロの増大」の文章はは2004年6月に書いたもので、大統領選挙はまだ行われていなかった。ブッシュ大統領が再選されたということは、一部のアメリカ人しかこの映像を見ていないことを示している。)
戦争を始めた最大の目的である大量破壊兵器の破棄とテロの根絶は結局達成されなかった。大量破壊兵器は存在しなかったようだし、報復テロを増大させている。6月に政権がアメリカからイラクに戻された後も、アメリカ軍の駐留は続くので、テロが終わることはないだろう。最終的にイラクに平和が訪れるまでに、さらにどれほど多くの犠牲者と報復テロが生じるのだろうか?
フセインの裁判
2004年6月末にアメリカからイラクの暫定政権に対して、政権が委譲された。それと同時にフセイン元大統領の裁判が暫定政権の下で開始された。罪状はイラク国民に対する残虐行為やクエートに対する侵略などである。独裁者が逮捕されて、国民がそれを裁くことは当然のことである。
しかし、ここで不思議なことがある。それは、イラク戦争を起こし、一万人以上の民間人を殺害したアメリカのブッシュ大統領は何の罪も問われなくてよいのだろうかという疑問である。イラク戦争の大義であった大量破壊兵器が発見されず、アルカイダとの関係も証明されず、戦争自体の正当性が世界の大多数の国によって認めらていないのに、ブッシュが裁かれない理由は、勝てば官軍ということ以外の何物でもないだろう。
もしも、アメリカが超大国でなければ、諸国が協力してアメリカに対して経済制裁などの措置をとって罰を与えるのだろうが、それは自国の利益を損なうので、敢えてやらない。結局、来るアメリカ大統領選挙でアメリカ国民が下す審判を待つしかない。アメリカ国民が9.11テロの衝撃から立ち直って、冷静さを取り戻し、イラク戦争を反省することが一番に求められている。
その時、イラク戦争を支持した日本政府とその政権を支持した日本国民も同じ審判を免れることはできないだろう。
戦争と個人の責任
2004年8月某日、「戦争を記憶する集い」に参加して、日中戦争のとき2人の中国青年を刀で斬首した体験を持つ今年82歳になる元憲兵の話を聞いた。彼が所属していた憲兵隊は毎年拘置していた20人から30人の中国人を年末になると斬首して処刑していたそうである。斬首という命令は断ろうと思えば断ることができたが、彼がそうしなかったのは、若気の至りであったと告白し、戦争の責任が一人一人の個人にもあることを認めていた。日中戦争自体も軍部の暴走によって起きたとよく言われるが、背景に国民の支持があったことを忘れてはいけない。第二次世界大戦を始めたヒトラーも総選挙によって国民が選んだことを思い出すべきである。
イラクの刑務所における虐待の責任はアメリカ軍の兵士一人一人にあった。イラク戦争自体もアメリカ国民の支持がなければ始まらなかっただろう。また、ドイツ、フランス、ロシアなどの他に日本を含む諸外国が全て反対すれば、ブッシュの決断は鈍っただろう。一人一人の日本人はイラク戦争に賛成した日本の首相を支持したことにより、個人としてイラク戦争に責任がある。
歴史の流れを決める要因は複雑であるが、個人が果たす役割が大きいことを見落としてはならない。さらに、その個人の判断に重要な影響を及ぼすマスメデイアの責任は非常に大きい。「華氏911」という映画を製作した目的の一つは、イラク戦争を支持したアメリカのマスメデイアに対する批判であると監督が話している。日本の大新聞の一つもイラク戦争を支持していたので、その影響を受けて同調した国民も多数いるだろう。個人として誤った判断を持たないようにするためには、一つではなく幅広く情報を集め、自分の頭で考える必要がある。
ロンドンの自爆テロ
2005年7月7日、ロンドンの地下鉄の3ヵ所とバスの1ヵ所で自爆テロが起きて、多数の死傷者が出た。自爆した4人(18歳、19歳、22歳、30歳の若者)の容疑者のうち、3人は定職を持たないパキスタン系英国人で、1人はジャマイカ系英国人であるが、イラク戦争に加わったイギリスに対して報復を図るアルカイダ勢力の作戦を担わされと推定されている。
昨年、スペインで列車爆破のテロが起きた時、何故、イギリスでなく、スペインなのかという疑問を持っていたので、今回の事件に接した時、遂に来たかという印象が強かった。「目には目を、歯には歯を」というように、ある罪に対する罰として、同等の苦痛を相手に与える復讐を認めるハンムラピ法典は、イラクの地で、バビロニア帝国時代の紀元前1700年代に成立したものである。ロンドンのテロによって、この法典を思い出したイギリス人も多かったに違いない。
事件の背景として、パキスタンなどからの移民はイギリス社会で差別を受けて、就職も容易でなく、貧困に置かれるという厳しい現実も考えられる。定職を持ち、経済的に安定している人間が、それを捨てて、自爆テロに走るということは、なかなか想像し難い。「衣食住足りて、礼節を知る」という言葉は、地球上どこでも真実である。
聖戦で命を失った者は、死後、天国で幸福になるというイスラム教に対する強い信仰が、自爆する勇気の源泉であるとされている。しかし、私は、自爆テロの報道に接すると、太平洋戦争末期の特攻隊員のことを考える。彼等の自殺的行為の勇気の源泉は、天皇のために命を捧げることは素晴らしいことであるという教育にあった。実際には、イラクでも日本でも、若者に犠牲的行動を促すために、為政者はこのような心理的操作を生み出したというのが事実であろう。若者を利用しようとする人間に騙されないように用心して、若者は自分で自分を守るしかない。怒りを処理する方法として、自爆が最善であるかどうか、他に方法はないかどうか、もっと冷静に考えれば、代替案がきっとあるはずだ。
自爆テロは本当に悲劇だ。何故なら、テロの被害を受ける人間も、自爆する人間も、戦争という悪を引き起こした者たちとは、全く関係ないからだ。
自爆するイスラムの若者は後を絶たないが、彼等に、「君、死にたまふことなかれ」という詩を贈りたい。これは、日露戦争に出征した弟に向けて書かれた与謝野晶子の作品で、全部で五節あるが、ここでは第一節のみ紹介する。
ああ、弟よ、君を泣く、
君死にたまうことなかれ、
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃をにぎらせて
人を殺せと教えしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。
ブッシュ氏、イラク大量破壊兵器の情報間違いと認める
以下は2005.12.15付けのワシントン(CNN)ニュースからの引用である。
「イラクの国民議会選挙を目前にした14日、ブッシュ米大統領はワシントン市内の演説で、対イラク開戦の大義名分だった大量破壊兵器についての情報が間違っており、間違った情報をもとに開戦を決めた責任は大統領としての自分にあると認めた。
ワシントンのシンクタンク、ウッドロー・ウィルソン国際センターで演説したブッシュ大統領は『結果的に、(大量破壊兵器についての)情報のほとんどが間違っていた。大統領として、対イラク開戦の責任は私にある。そして、情報収集能力を改善して、問題箇所を直す責任も、私にある。私たちは今まさに、そのことに取り組んでいる』と述べ、開戦の根拠が誤っていたことを認めた。
その一方で大統領は、『サダム・フセインを取り除くという決断は正しいものだった。サダムは脅威だった。彼が権力の座を追われたことで、米国民と世界が置かれている状況は改善した』とイラク戦争の正当性を改めて強調した。」
ブッシュ自身がイラク戦争の大義名分や根拠が過ちであったことを正式に認めるのは、これが初めてである。開戦の主な理由は、大量破壊兵器の存在以上に、9.11テロの裏にフセインがいたという判断であったとされている。フセイン裁判によって、こちらの方も事実ではなかったことがいずれ明白になるだろう。戦争で無数の人々(イラクの民間人の死者は約三万人という推定を、最近、アメリカ政府が発表した)が命を失った原因が、このように単純な勘違いであるならば、何という悲劇だろうか。
シェイクスピアの四大悲劇の一つである「オセロ」では、妻が不倫を犯したと、オセロが勘違いする。怒ったオセロは妻を殺し、その後、自分の過ちに気付いて、その罪を償うために、自殺する。 自分の過ちに気付いたブッシュが、オセロを見習って、大統領の職務を自ら辞職すれば、無数の死者の無念が、僅かではあっても、癒されるかもしれない。オセロが勘違いしたのは、イアーゴーという男が己の利益のために策略をめぐらせたせいだが、ブッシュの場合は、石油の利権をめぐる策略が裏で行われ、誤った情報が故意に流されたということが本当になかったのだろうか?
「大量破壊兵器がまだ見つからないということは、大量破壊兵器が存在していないことにはならない」と、つい最近まで豪語し、イラク戦争を支持してきた小泉さんも、オセロは無理でも、せめてブッシュを見習って、自分がブッシュの言葉を盲信、あるいは、盲従した過ちを素直に認めて、謝罪すべきだろう。
| 4.戦死者数 |
| 第1次世界大戦の戦死者 | 第2次世界大戦の戦死者 | 期間 | 20世紀の戦死者 | |||
| 1 ドイツ | 177万3700 | 1 ソ連 | 1360万0000 | 1 第2次世界大戦 | 1939−45 | 1584万3000 |
| 2 ロシア | 170万0000 | 2 ドイツ | 330万0000 | 2 第1次世界大戦 | 1914−18 | 854万5800 |
| 3 フランス | 135万7800 | 3 中国 | 132万4516 | 3 朝鮮戦争 | 1950−53 | 189万3100 |
| 4 オーストリア・ハンガリー帝国 | 120万0000 | 4 日本 | 114万0429 | 4 日中戦争 | 1937−41 | 100万0000 |
| 5 大英帝国 | 90万8371 | 5 大英帝国 | 35万7116 | 4 ナイジェリア内戦 | 1967−70 | 100万0000 |
| (その内のイギリス) | (26万4000) | 6 スペイン内戦 | 1936−39 | 61万1000 | ||
| 6 イタリア | 65万0000 | 6 ルーマニア | 35万0000 | 7 ベトナム戦争 | 1961−75 | 54万6000 |
| 7 ルーマニア | 33万5706 | 7 ポーランド | 32万0000 | 8 インド・パキスタン戦争 | 1947 | 20万0000 |
| 8 トルコ | 32万5000 | 8 ユーゴスラビア | 30万5000 | 8 ソ連のアフガニスタン侵攻 | 1979−89 | 20万0000 |
| 9 アメリカ | 11万6516 | 9 アメリカ | 29万2131 | 8 イラン・イラク戦争 | 1980−88 | 20万0000 |
| 10 ブルガリア | 8万7500 | 10 イタリア | 27万9800 |
三省堂発行「世界なんでも TOP 10」(1996年版)より。 民間人の死者は含まれていない。
「第2次世界大戦の戦死者数は、この50年間激しい議論の的になってきた。とくにソ連の戦死者数はわかりにくい。このデータは中でも最も少ないものをとったが、武器を持った3000万人のソ連兵のうち、850万人が戦闘で死に、さらに傷病兵の中から最大250万人が死亡したとみられている。約580万人が捕虜になり、そのうちの330万人が収容所で死んだという見方もある。しかも、これらの数は軍人の死傷者であり、民間人の死亡者を数百万加えるべきである。
太平洋戦争関係のリンク集
| 第2章 戦争の原因 |
人類の歴史は戦争の歴史と言われるほど、人類が地上に登場してから現在に至るまで、戦争は絶えることなく繰り返されてきた。どの戦争も人間同志が殺し合うという点では共通しているが、戦争の原因・主体・軍事技・規模・死者数などの内容は、時代と共に大きく変化してきた。
戦争という言葉は、武力による国家間の闘争の意味で普通使われるが、国家内部の武力紛争(内戦)も含める方が現実的だ。オーストリア継承戦争(1740年)からソ連のアフガニスタン侵攻(1979年)までの240年間に起きた主要な武力紛争377件のうち、国家間の戦争は159件(42%)で、国家内部の戦争は218件(58%)という調査結果がある。第2次世界大戦以降では、81件の武力紛争のうち、64件(80%)が内戦である。
また、戦争による死者の中に民間人が占める比率は、第1次大戦では5%、第2次大戦では48%、朝鮮戦争では85%、ベトナム戦争では95%に増加している。
戦争の原因はそれぞれの戦争によって異なる。戦争が起きるさまざまな要因を1.で概観し、次に歴史上最大の犠牲者を生んだ第二次世界大戦の原因を2.で具体的に調べる。
1.戦争の誘発要因と抑止要因
戦争や紛争を誘発する要因は、国家間の戦争の場合は、領土の拡大、植民地支配、特別な利権の獲得、資源・市場の確保、宗教的対立、報復、自衛などである。内戦の場合は、複数勢力間の政権獲得の争い、階級対立、民族対立、イデオロギーの対立などだ。一方、戦争や紛争を抑止する要因は、国内の批判・反対勢力、為政者や国民の倫理観、敵から蒙る人的物的損失、国際的な非難や制裁措置などである。戦争を抑止する力が、誘発する力よりも弱くなったときに、戦争は起きる。
2.第2次世界大戦の原因
第二次世界大戦は枢軸国と連合国との戦いで、1939 年 9 月 1 日ドイツのポーランド侵攻に始まり、1945 年 9 月 2 日の日本の降伏文書調印で終わると言われている。確かに枢軸国側には共通点や関係もあるが、実際には、日本、ドイツ、イタリアがほとんど別々に行った戦争で、その原因も別々に見る必要があり、ここでは日本とドイツを調べる。
日本
日本の場合、第二次世界大戦というと、平洋戦争を連想するが、太平洋戦争は十五年戦争の最終段階として扱わないと理解できない。十五年戦争とは、1931年に勃発した満州事変とその後の日中間の衝突と、1937年から1945年までの日中戦争と、1941年から1945年までの太平洋戦争の総称である。十五年戦争も決して突発的なものではなく、朝鮮半島や大陸への進出を目指した日清戦争や日露戦争の延長線上に起きたものだ。
十五年戦争による死者は、日本では軍人、民間人を合わせて、320万人とされている。中国では東京裁判に中国が提出した資料によると、軍人の死者は3百数十万人とされたが、1990年代に江沢民国家主席は軍人、民間人を合わせた死傷者は3千5百万人と発表している。さらに、東南アジア、アメリカ、イギリス、オランダの死傷者も含めると、犠牲者は膨大になる。
日本はすでに朝鮮の支配権をめぐる日清戦争(1894−95)に勝って、台湾などを獲得した。さらに、満州や朝鮮の支配権をめぐる日露戦争(1904−05)に勝って、日本は韓国の指導権や南満州の利権などを獲得し、1910年には朝鮮を併合した。一言で言うと、満州事変と日中戦争は、領土・資源・市場・権益などの獲得を目的とした、中国に対する日本の侵略戦争であり、その侵略を制止しようとしたアメリカとの衝突が太平洋戦争である。
第一次世界大戦(1914-18)の後、中国では反帝国主義運動が高まり、満州でも日中間に紛争が頻発した。日本の軍部は、満州の鉄、石炭などの資源を獲得するために、満州の占領を計画していた。また、アメリカでバブル化した株価の大暴落(1929)から始まった恐慌は、日本にも波及して、不況による社会不安が増大した。これらの諸問題を解決しようとして、軍部は1931年に満州事変を起こし、1932年に日本が事実上支配する満州国を建設した。この満州国を足場にして中国全体の支配を目指した軍部は、1937年に日中戦争を起こし、中国全土の侵略を進めた。もしも、日本が満州国の建国だけで終わって、日中戦争を起こさなければ、後年の太平洋戦争は避けられた公算が高い。
一方、中国では1912年に孫文が指導する辛亥革命によって清朝が滅亡し、中華民国が成立したが、その後は軍閥が割拠し、孫文の国民党は弾圧され、分裂と混乱の状態が続いた。国民党を率いる蒋介石は1928年、軍閥を破って中国を統一したが、中国共産党との対立が深刻になり、内戦状態になる。しかし、満州事変を契機に民間の抗日運動は激化し、国民党と共産党が休戦して、強力な抗日民族戦線を作って徹底抗戦に出た。そのため、中国の力を過小評価し、戦争の早期終結を予測していた日本軍は、泥沼化した長期戦に引き込まれた。
1940年に日独伊三国同盟が成立すると、イギリスとアメリカは中国を積極的に援助し、日米関係は破局に直面した。1941年4月、日本はアメリカと和平交渉を始めたが、アメリカは日本の中国撤兵を求め、軍部はこれに反対した。7月に軍部が南部仏印に進駐すると、アメリカは日本に対する経済的封鎖を強化して、石油の輸出を禁止した。
その後も日米交渉は続けられたが、アメリカは中国からの全面的な撤兵を求め続けた。これに対して、日本は御前会議(1941年11月5日)で、「百万の大兵を出し、十数万の戦死者、遺家族、負傷者、(日華事変からの)四年間の忍苦、数百億の国幣を費やしたり。この結果は、どうしてもこれを結実せざるべからず」と、それまでの労苦や犠牲を徒労に帰するわけにはいかないと考えて、撤兵要求を拒絶した。そして、12月1日の御前会議で「対米交渉は遂に成立するに至らず。帝国は対米英蘭に対し開戦す」という最終決定がなされ、12月8日に真珠湾攻撃が行われた。こうして日本が最後まで中国侵略に固執したことが、日米戦争を引き起こし、1945年8月に広島・長崎の原爆投下をもたらし、敗戦という結果を招いた。
十五年戦争全体を見たとき、大きな疑問が三つ生まれる。第一は、軍部に引きずられたという側面があったにせよ、日本は何故、中国を占領しようとしたのか?という疑問である。徳川幕府が倒されて、明治政府ができ、富国強兵に励んだ目的の一つは、日本が西欧列強の植民地になることを防ぐことだった。しかし、その目的を果たした後は、西欧列強の植民地政策を見習って、日本が他国を植民地化することが、新しい目標になった。その潮流の延長線上に起きたできごととして、十五年戦争をとらえることができる。台湾、朝鮮、満州を占領した後に残されたのが、中国だったのである。
第二は、満州事変も日中戦争も太平洋戦争も、軍部が始めた戦争だが、それに反対する国内勢力が戦争を抑止できなかったのは何故か?という疑問である。時の政府が軍部の独断的軍事行動をコントロールできなかった最大の要因は、非民主的な大日本帝国憲法にあった。この憲法の下では、天皇は立法、行政、司法の三権を掌握する最高の統治権を持ち、その下に議会や内閣や裁判所があり、「陸海軍は天皇が統帥する」というように、軍隊は独立して、直接天皇に属して、内閣から統制を受けなかった。そして、天皇自身も実際には軍隊をコントロールできなかったので、軍部は主体的に行動することができた。また、言論の自由が保障されていなかったので、新聞社、放送局、雑誌社などのマスコミが事実を徹底的に調査したり、軍部や政府を自由に批判して、それを国民に伝えることができなかった。要するに、戦前の日本は民主主義と自由が欠如した社会体制だったことが、戦争を抑止する力の欠如を生んだ。
第三は、アメリカの戦力や国力が日本よりも圧倒的なのに、何故、アメリカと戦争を始めたのか? アメリカに勝つという目標を達成するために、日本軍上層部はどのような具体的戦略を持っていたのだろうか?という疑問である。この点について、1941年11月15日の大本営政府連絡会議で決まった「対米英蘭戦争終結促進ニ関スル腹案」には、次のように書かれていた。
「蒋介石政府を屈服させる。その上でドイツ、イタリアと提携して、イギリスを屈服させ、アメリカの継戦意思を喪失せしめる」。
これは、「イギリスはドイツに負けるだろう。そうすれば、アメリカは孤立して戦意を喪失し、日本に有利な講和を結ぶだろう。その時まで、日本はがんばればよい」ということを意味している。つまり、開戦の初めから、自力で勝つための具体的戦略は持っておらず、イギリスの敗北とアメリカ人の戦意喪失による短期終結を前提・期待して、開戦したことになる。何故、アメリカと無謀な戦争を始めたのかについての真相は、軍の上層部がこのように熟慮を欠いた判断をしたことにあった。日中戦争は短期決戦の予測が外れて長期戦になったのに、それを反省しないで、同じ過ちを日米戦争でも繰り返したことになる。
アメリカ戦略爆撃調査団の「太平洋戦争報告書」には、日本の敗因の最終結論として、次のことが書かれている。これは「対米英蘭戦争終結促進ニ関スル腹案」が、日本の根本的敗因であることを指摘している。
「日本の根本的な敗因は、日本の戦争計画の失敗である。日本は短期戦に賭けたが、予想ははずれ、その貧弱な経済をもって、はるかに優勢な一〇倍以上の経済力を持つ強大な国家、アメリカと長期にわたる対抗を余儀なくされたことにある」
ドイツ
ドイツでは1918年に帝政が倒れた後に成立した共和国政府が、連合国と休戦して、第一次世界大戦(1914−18)が終結した。しかし、パリ講和会議(1919)で締結されたベルサイユ条約によって、ドイツは全ての植民地を失い、莫大な賠償金を課せられたので、不安定な経済状態が続いた。やがて、アメリカの援助により経済は復興したが、その復興が堅固なものになる前に、1929年に大恐慌がアメリカで起きた。当時、世界の金融市場を支配していたアメリカの銀行が次々と倒産して、外国の短期融資を引き上げたので、アメリカ資本によって支えられていたドイツ経済は崩壊し、1932年に失業率は40%になった(イギリスとアメリカは25%、日本は9%)。
1919年に制定された民主的なワイマール憲法の下で、ドイツの政治は議会制民主主義によって運営されていたが、既存の政党は効果的な不況打開策を出せなかった。そこにヒトラーが率いるナチスが登場して、政治経済の混迷と苦境の主因は、資本主義と共産主義の悪を担うユダヤ人と屈辱的なベルサイユ条約であると断定し、ユダヤ人の排斥・ベルサイユ条約の破棄・植民地の再分配を訴えて、大衆の支持を得た。そして、1932年の選挙でナチスは37%の得票を得て第一党になった。1933年に首相となったヒトラーは「全権委任法」を通過させて、一党独裁体制を確立した。
ヨーロッパ大陸の制覇という野望をい抱いていたヒトラーが、1938年のオーストリア併合、1939年のチェコスロバキア占領を経て、1939年9月にポーランドへ侵攻した段階で、イギリスとフランスがドイツに宣戦して、第二次世界大戦が始まった。その後、ドイツは、1940年のデンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、フランスの占領を経て、1941年にソ連の石油資源を確保するために、独ソ戦を開始した。そして、1941年12月に太平洋戦争が勃発すると、日独伊三国同盟に基づいて、ドイツはアメリカに宣戦した。このアメリカの参戦とソ連の反攻によって、ドイツの劣勢は決まり、1945年5月に降伏した。
| 第3章 戦争の防止方法 |
戦争を抑止する力が、戦争を誘発する力よりも弱くなったときに、戦争は起こる。戦争を防止するためには、戦争の抑止要因を強め、誘発要因を弱めることが必要だ。
(1) 戦争の抑止要因を強める
民主主義と自由主義の普及
民主主義国家の相互間で、戦争は過去にほとんど起きていないといわれている。第二次世界大戦は全体主義と独裁政治の下にあった日本・ドイツ・イタリアによって始められた。もしも、これらの三国で民主主義と自由主義が守られていたら、大戦は起きなかっただろう。戦争が起これば、その犠牲者になる民衆が、自ら戦争を望むことはない。
第二次大戦後、アメリカとソ連の間で冷戦が続いた。しかし、ソ連が経済の行きづまりを打開するために、共産党の独裁政治と決別し、民主主義と自由主義と資本主義に路線変更して、やっと緊張が解け、平和が訪れた。
最近は、イラク戦争は間違っていたことを、大半のアメリカ人も認めるようになった。他方、イラクを独裁国家から民主国家に変えて、そこから中近東全体に民主主義と自由主義を波及させようとしたアメリカの計画には価値がある。したがって、もしもこの長期的な計画が達成されれば、膨大な犠牲の上に、平和の礎が築かれることになる。
マスメディアの監視
アメリカの政治は、政府とマスメディアとNPO・NGOによって動かされていると言われている。日本のNPO・NGOはそこまで育っていないが、マスメディアが国民の意思形成に与える影響は絶大である。
新聞社・放送局・出版社のようなマスメディアは、戦争の抑止要因になることもあれば、誘発要因になることもある。十五年戦争の時代は、言論の統制があったとはいえ、日本のマスメディアは戦争をあおり、戦意を高揚させる働きをした。1931年に満州事変が勃発した頃は、まだ言論統制が厳しくなかったので、もしも、マスメディアが共同で戦争抑止の運動をしていたら、軍部の暴走を止めて、その後の日中戦争や太平洋戦争を未然に防げたのではないかと言われている。
言論の自由がある限り、マスメディアは自国・他国を問わず、政府や社会や世論を監視しなければならない。野党には政府をチェックする責任があるが、マスメディアには政府だけでなく、社会や世論もチェックする責任がある。政府や社会や世論に、決して迎合してはいけない。イラク戦争の時は、アメリカだけでなく、日本のマスコミにも、戦争に賛成する動きがあった。
新聞社・放送局・出版社は企業であるから、広告主の利益を損なうような報道はあえてしない。そのため、マスメディアは公正無私という点で、すでに大きな問題を抱えている。しかし、戦争については、誰にも気兼ねしないで、その抑止を推進する義務がある。政府や読者に遠慮したり、気に入られようとして、チェック機能を十分に発揮しなければ、マスメディアは存在意義を失うだろう。
平和教育と自己啓発
教育によって人間は驚くほど変化する。マスメディアと同様に、教育も戦争を抑止する場合と、誘発する場合がある。例えば、戦前の軍国主義教育や愛国心教育などは、国民が積極的に戦争に協力するように、意図されたものだ。教育を抑止要因として機能させるためには、四つのことが大切である。
@ 過去の失敗や過ちから教訓を学び、それを繰り返さないための歴史教育。
A 戦争を始めるのも終わらせるのも人間の心なので、命や人権や平和の尊さを教える倫理教育。
B 必ずしも正しくはないマスメディアや社会や権威や周囲に同調した生き方に陥らないために、幅広く情報を集めて、何事も自分の頭で論理的に考える力を養う教育。問題に直面したら、全てを白紙の状態にした上で、自分が納得する考えを自分で組み立てる。そのためには、他者から与えられる受動的な教育だけでなく、自ら積極的に考える自己啓発が不可欠だ。十五年戦争の責任は、日本の指導者やマスメディアや教育者だけにあったのではない。自分で批判的に考えることを放棄し、国家の方針に盲目的な従順性を示した国民にも、責任があった。
C ジャン・タルジュ―の次の問いかけに共鳴するような感性を育てる情操教育。
死んだ人々は、還ってこない以上、
生き残った人々は、何が判ればいい?
死んだ人々には、嘆く術もない以上、
生き残った人々は、誰のこと、何を、嘆いたらいい?
死んだ人々は、もはや黙ってはいられぬ以上、
生き残った人々は沈黙を守るべきなのか?
核の抑止力
第二次大戦後今日まで、朝鮮戦争・ヴエトナム戦争・イラク戦争、あるいは、カンボジャ・コソボ・ルワンダなどにおけるホロコーストなどが絶えなかった。しかし、大規模な世界戦争が起きなかったのは、原爆や水爆という核兵器の戦争抑止力に負うところが大きい。核戦争では得るものより失うものの方が圧倒的に大きいからである。敵国を壊滅しても、同時に自国も壊滅すれば、戦争する意味がない。したがって、核兵器は使用されない限りは、戦争の抑止と平和の維持に貢献している。
しかし、この核抑止力に伴う問題として、核兵器の拡散がある。核兵器の製造技術がもはや先進国だけの独占物ではなくなった今、核兵器を所有する国が増えつつあり、それが独裁国家やテロ集団によって使用される危険が増している。
被爆国の日本は「核は保有しない、核は製造もしない、核を持ち込まない」という非核三原則を掲げているので、核で攻撃されても、核によって自衛できない。この欠陥を補うために、アメリカと安全保障条約を結んで、アメリカの核の傘の下に入った。アメリカの核兵器の抑止力によって、日本が核攻撃を受けることを予防し、万一核攻撃を受けたときは、守ってもらう道を選んだ。しかし、これは非核三原則と本質的に矛盾しているのに、その矛盾をあえて無視する政策である。
非核三原則と平和憲法を堅持しつつ、アメリカの核にも依存しないで、核兵器の攻撃から自衛する方法はある。それは、敵の核ミサイルが日本の上空に飛んで来る前に、それを探知して、100%の確率で撃ち落せる迎撃ミサイルを完成することだ。この方面の研究開発が完成すれば、核兵器を所有する意味が無くなるので、核兵器廃絶という理想への道が開けるだろう。
平和憲法の擁護
全ての国が次の日本国憲法第九条を採択して遵守すれば、戦争は世界から永久に無くなるはずだ。
第九条【戦争の放棄,軍備及び交戦権の否認】 「日本国民は,正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し,国権の発動たる戦争と,武力による威嚇又は武力の行使は,国際紛争を解決する手段としては,永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため,陸海空軍その他の戦力は,これを保持しない。国の交戦権は,これを認めない」
しかし、日本政府は、アメリカが起こしたイラク戦争を支持し、自衛隊をイラクへ派遣し、戦争に協力することによって、憲法九条に違反した。世界情勢の重大な局面において、憲法九条は無力であることを露呈したのである。
第一次世界大戦後の1928年に締結された不戦条約の第1条と第2条は、日本の憲法第九条と基本的に同じであるが、やはり第2次世界大戦を防止できなかった。
第1条「締結国は国際紛争解決の為、戦争に訴うることを非とし、且つ相互の関係に於いて国家の政策の手段として、戦争を放棄することを、其の各自の人民の名に於いて厳粛に宣告す」
第2条「締結国は、相互間の起ることあるべき一切の紛争又は紛議は、其の性質又は起因の如何を問わず、平和手段に依るの外、之が処理又は解決を求めざることを約す」
以上のように、戦争放棄を宣言するだけでは、戦争を止める力がないことは明らかだ。だからといって、 戦争放棄の宣言は意味が無いわけではない。先ず理想を高く掲げて、それを実現する努力を不断にするしかない。
国連の改革
戦争のような国家の犯罪は、国際連合が中心になって、経済的制裁措置や、国連軍の武力行使によって阻止せねばならない。戦争から得るものより、失うものの方が大きいことを、言葉ではなく行動で示さねばならない。
しかし、1945年に成立した国連は、今まで、朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争など多くの戦争や紛争を阻止できなかった。戦争防止という最大の使命を、国連が果たせなかったのは何故だろうか?
最大の原因は、国連の安全保障理事会の決議の仕組みにある。安全保障理事会の決議は、5つの常任理事国を含む理事国15カ国の過半数の投票によって有効となる。しかし、5つの常任理事国(アメリカ合衆国・イギリス・フランス・ロシア・中国)のうち1カ国が拒否権を発動すると、その決議は無効になる。つまり、これら5カ国のうちの1カ国の利害が、平和よりも優先される仕組みになっている。
常任理事国の拒否権発動回数は次の通りである(2006年7月現在)
ロシア 122回(ソ連としては120回、ロシアとしては2回)、アメリカ 81回、イギリス 32回、フランス 18回、中国 5回(中華民国が常任理事国だった時代も含む)。
ある国の非難や経済制裁が安全保障理事会で決議されても、その国は常任理事国の一つに頼んで、拒否権を行使してもらえば、決議を無効にできる。アメリカが過去に発動した81回の拒否権のうち36回は、対イスラエルの非難決議に対してであるが、その背景にはアメリカ国内のユダヤ人勢力の影響もある。
仮に、決議を無効にするのに、1カ国ではなく、2カ国の拒否権発動が必要になるよう、ルールを改正しても、結果はあまり変わらないだろう。アメリカとイギリス、あるいは、ロシアと中国のようにお互いに親密な国は連携しやすいからだ。
このような仕組みの下では、国連を無視した一国の単独行動を制止する力を、国連は十分に発揮できない。イラク戦争の場合、安全保障理事会の決議なしに、アメリカは開戦したが、国連はそれを制止できなかった。
このように、国連が正常に機能していない以上、国連の抜本的改革が必要である。しかし、今までそれができなかった現実を見ると、今後も多くを期待できないだろう。これが、国連に代わるものとして、世界連邦の樹立が求められる理由である。
世界連邦の建設
国際連合の力が弱くて、戦争を防止できないなら、残された道は世界連邦の建設しかないだろう。世界連邦の下では国家は存続するが、軍隊を持つことは禁じられ、世界連邦警察だけが兵器の所有を認められて、世界全域の平和維持に任じる。戦争だけでなく、極端な貧困、飢餓、環境破壊のように緊迫した問題も、国際連合は解決できないので、世界連邦の建設を急がなければならない。
しかし、世界連邦を一挙に樹立することは難しいので、第一段階として、EU(ヨーロッパ連合)のような経済の地域連合をアジアやアメリカやアフリカでも作り、各地域内では関税を撤廃し、共通貨幣を使い、労働力の移動を自由にする。このような地域連合を作るだけでも、地域内の戦争抑止力は強まる。
ヨーロッパの政治的統合については、ドイツは欧州憲法制定や大統領制などに基づく欧州連邦を、イギリスは国家主権の維持を、フランスは国家主権と強固な国家連邦の共存を提案している。いずれにせよ、ヨーロッパの統合のステップは、他の地域連合だけでなく、世界連邦建設のモデルとしても注目される。EUの成立・発展は、夢物語に過ぎなかった世界連邦の建設を、現実的な課題に変えた。
アジアでもこのような動きは既に始まっていて、2002年に日本とシンガポールの間で自由貿易協定(地域経済統合のゆるやかな形態)が締結され、両国間の貿易量の98%について関税が撤廃された。日本、中国、ASEANを中心とする東アジア経済統合圏も2010年ごろまでに誕生させようという動きがある。外国から日本への労働力の移動について、規制が緩和されれば、少子高齢化による労働力不足問題の一つの解決にもなる。
アメリカではキューバを除く南北アメリカの34カ国が、2005年までに自由貿易協定を成立させる合意を2001年に行っているが、一部の国の反対があって、まだ実現していない。
アフリカでは既に1963年に設立されたアフリカ統一機構(OAU)が発展して、アフリカ大陸の53カ国が2002年にアフリカ連合(AU)を誕生させた。そして、貧困、飢餓、内戦などの共通問題を解決するために、EUを見習って、国家の枠を超えたアフリカ議会、裁判所、共同市場、共同通貨の構想を打ち出している。
以上のように地域連合が成立した後、それらを結合して世界連邦を樹立する段階に進むことになる。したがって、初めの段階では、世界の200近い国々が直接、世界連邦政府に付くのではなく、ヨーロッパ、アジア、アメリカ、アフリカなどの地域連合の集合体が世界連邦になるだろう。ヨーロッパの統合も昔は夢物語だったが、それが実現しつつある今、次の目標を世界連邦の建設に置くことは、必然的な要請である。
この世界連邦の建設という構想に対して、日本政府はどのような態度を取っているのだろうか? 2005年8月2日に衆議院本会議で「国連創設及びわが国の終戦・被爆六十周年に当たり更なる国際平和の構築への貢献を誓約する決議」が採択された。その中で、次のように「世界連邦実現への道の探究」という目標を明示している。
「政府は、日本国憲法の掲げる恒久平和の理念のもと、唯一の被爆国として、世界のすべての人々と手を携え、核兵器等の廃絶、あらゆる戦争の回避、世界連邦実現への道の探究など、持続可能な人類共生の未来を切り開くための最大限の努力をすべきである」
そして、外務省総合外交政策局・政策企画室が「世界連邦実現への道の探究」という業務を担当することになった。この窓口を活かして、世界連邦運動協会は日本政府に対して、「国連改革」、「東アジア共同体」、「国際刑事裁判所への早期加入」を柱とした「世界連邦実現への道」と繋がる政策提言を行おうとしている。
(2) 戦争の誘発要因を弱める
戦争や紛争を誘発するほど深刻な政治的、経済的、民族的、宗教的問題や対立が生じるのを、事前に予防する必要がある。例えば、第二次大戦の要因の一つとなったベルサイユ条約のように、ある国を窮地に追い込むのではなく、窮地からの脱出を助けることが大切だ。現在、韓国が北朝鮮に対して制裁的ではなく、援助的な太陽政策を採っているのは、そのような考え方に基づいている。
もしも、戦争を誘発するような問題が生じても、戦争以外の解決方法を考えねばならない。第二次大戦の場合も、日本やドイツにとって、他国の侵略以外に、恐慌に対処する方法はいろいろとあったはずだ。例えば、ケインズ理論を採用して、公共事業と税金の増減を柱とする財政政策、中央銀行による公定歩合操作、支払準備率操作、公開市場操作を柱とする金融政策など、政府が市場に対して積極的に介入すれば、経済は回復に向かっただろう。そして、恐慌が終わるまでの間、所得の再分配を最大限行い、国民全員が生活水準を下げて耐えれば、戦争しなても済んだはずだ。国民相互の協力・譲歩・忍耐に伴う損失は、戦争による損失よりもはるかに小さい。
| 第4章 参考文献 |
戦争に関する書物の数は膨大であるが、簡潔、平明な叙述と真実を露呈する写真でコンパクトにまとめられたものは意外に少なく、下記の本はそれに該当する。
● 「母と子でみる広島・長崎」 朝日新聞企画部編 草土文化社 (貴重な写真が解説以上に事実を伝える。そこに載っている写真が、
他人ではなく、自分か家族であったらと考えながら見るべきである。)
● 「母と子でみるアウシュビッツ」 早乙女勝元編 草土文化社 ( 同上 )
● 「夜と霧」 フランクル著 みすず書房 (アウシュビッツから生還した精神医学者による強制収容所の
体験分析)
| 第5章 参考映画 |
真実を伝える手段として、一般に映画は写真よりも効果的である。これは、動く映像を見ることによって、あたかも事実を目撃しているかのような感覚が脳の中に生じているのかもしれない。
● ”シンドラーのリスト” スピルバーグ監督 「今でも地球のどこかで同じようなことが繰り返されている。どうして人間は歴史から教訓を読み取れないのだろう」と スピルバーグは言う。
● ”ショア” ランズマン監督 強制収容所で奇跡的に生き延びたユダヤ人、加害者である元ナチスのメンバー、目撃者たる収容所周辺の村人たちによる証言だけで構成された9時間30分にわたるドキュメンタリー映画。
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