デューラー  1471‐1528


                         

                                    22歳の自画像 (1493)








                          

                                     27歳の自画像  (1498)








                           

                                    29歳のの自画像 (1500)








                           

                                         父の肖像 (1497)








                            

                                  四人の騎士<ヨハネの黙示録> (1498)








                             

                                   大天使ミカエルと竜の戦い (1498)








                            

                                      騎士と死と悪魔 (1513)








                            

                                      メランコリアT  (1514)








                            

                                     書斎のヒエロニムス (1514)








            

                                        パウムパートナー祭壇画  (1498-1504)








                              

                                            アダムとエヴァ (1507)








                                

                                           四人の使徒  (1526)








                 

                                                 風景 (1489)








                            

                                              うさぎ 1502








                              

                                            大きな芝生 (1503)









デューラー  1471‐1528

ドイツの画家,版画家,美術理論家。ニュルンベルクに生まれ,同地で没。いわゆる〈中世の秋〉のドイツに生をうけ,早くにイタリア・ルネサンスの新風に触れ,その美術の奥に潜む理論を故国に伝えるとともに,まだ揺籃期にあった版画を一躍芸術的完成の域にまで引き上げ,その作品を通じて北方諸国はもちろんイタリア美術にも多くの影響を与えた。

  15 歳でニュルンベルクの画家ウォルゲムート M.Wolgemut の工房に入門。 1490‐94 年遍歴の旅に出,その後半はバーゼル,シュトラスブルクなどライン上流地方の都市で版下師として活動。 94 年の春いったん帰郷して結婚。その秋から翌年の春にかけてベネチアに滞在 (第 1 次) し,同地の出版事情,ことに活字本の木版画挿絵について見聞を得たと思われる。 1498 年ころ一枚刷りの大版木版画集《受難伝》および《ヨハネの黙示録》を刊行し,精密な斜線を刻むことにより従来の輪郭線を主とした木版画の常識をはるかに超える卓抜な表現に成功し,版画家デューラーの名声は一挙に不抜のものとなった。

そのころより銅版画をも手がけ,イタリアの銅版画を範として裸体習作を盛んに試み,その成果がウィトルウィウスの人体比例を応用した《アダムとイブ》 (1504) として結実する。他方画家としてはザクセン選帝侯フリードリヒの庇護を得て祭壇画等を制作, 《 1498 年の自画像》 (マドリード) は意気軒昂たる彼の心境を吐露して余すところがない。また《 1500 年の自画像》 (ミュンヘン) は,トマス・ア・ケンピスの思想に倣い,みずからをキリストに似せて描いた特異な作品である。 1505‐07 年再訪したベネチアではドイツ最大の画家として好遇され,ドイツ人商館のために祭壇画《ローゼンクランツフェスト》を描き,またおそらく再建中の上記商館の外壁画制作に関し,当地のジョルジョーネらと争ったものと思われる。帰国して《アダムとイブ》 (1507),《 1 万人のキリスト者の虐殺》 (1508), 《ヘラー祭壇画》 (1509,焼失) 等の板絵大作の制作に当たり, 12 年からはドイツ皇帝マクシミリアン 1 世の殊遇を受けてその美術顧問ともいうべき位置にあり, 192 枚の木版画をはり合わせた《皇帝マクシミリアンの凱旋門》 (1517) や祈書周縁装飾素描等を作った。

そのころ彼の版画制作は,技術,内容の両面において絶頂に達し,有名な三大銅版画,すなわち《騎士と死神と悪魔》 (1513), 《メレンコリア (1514),《書斎のヒエロニムス》 (1514),そのほか木版および銅版による 2 種の小型版受難伝等が次々に制作され,版画はそこに表現される精神性において優に絵画をしのぐ域に達した。 19 年マクシミリアンが没し,20‐21 年皇帝カール 5 世の戴冠式を機に約 1 ヵ年ネーデルラントへ旅行してアントワープに滞在,数種の写生帳のほか旅日記を残す。また 1500 年ころより始まった均衡論や遠近法等の美術理論の研究は,晩年に近づくに及んでしだいに大きな関心事となり, 《測定法》 (1525),《築城論》 (1527), 《人体均衡論》 (1528) 等として刊行されたが,他面健康の衰えと重なって美術作品の減少を招いた。 24‐25 年ニュルンベルクを襲った宗教改革の狂瀾はデューラーをも渦中に巻き込み,その苦衷の中から最後の力をふり絞って描いた大作《四人の使徒》 (1526) は,下端の銘文が示すように,市庁舎の会議室を飾る〈正義図〉の伝統を借りた信仰告白であったと見ることができよう。

 作品は絵画約 70 点,銅版画約 100 点,木版画約 200 点,そして 1000 点に近い素描が現存する。彼はまた文筆にも長じ,自伝《家譜》, 《覚書》,書簡,日記,それに上記 3 種の著書と膨大な量の草稿などを残した。それらは美術文献の域を超えて文学的価値をも有する。また彼の美術論は,アルベルティ,レオナルド・ダ・ビンチなどイタリアの先覚者の業績をそしゃくしたうえで,類型の数を飛躍的に増大して個別への強い関心を示すなど,彼独自の見解を加えたものであるが,彼がどうしてレオナルドの手稿の内容を知りえたかは,なお今後の解明にまつべき点が多い。