講座寄り道編[その1]
俗ぽい喩え話になるのですが、絵描きのたわごと程度に読んで頂きたい。
一見水彩画とも直接関係のない事柄の様でも、
これが以外にそうでもなくて、読者も頷いて頂けるのではないかとも。。。。
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■十八番という名の落とし穴■
展覧会に出掛けると、アレこの人は去年も同じ様な作品を出展してた?と思う様ことがある。
シリーズで描いていると言えば聞こえはよいのだが、なにかそこに消極的な不安感を見てとれる。
前回と違うものを出したら初出品と勘違いされて落選する・・・とか?一般ならいざしらず
無審査の偉い会員先生のなかにも、十八番の得意な画題で毎年並んでいるのは如何なものか。
観ている人が小声で・・・この先生は去年も同じようなものを描いてた。凄いなあー・・・と聞こえてきたりすると
そら恐ろしいと思うのは私だけだろうか。
人ごとでは毛頭ない訳で私とて描きたいテーマはある。だがそれに安住してしまえば惰性が始まる。
だから常に少しでも新たなものを求め続けたいと思う。
傍目を気にして、無難なものを描き、それを独自の画風(テーマ)と摩り替えてしまう落とし穴が
静かに口を開けて待ち構えている、そんな気がする美術界に見えてしかたがない。
幸いなことに私は無所属で誰に気兼ねも遠慮もいらないが、それでも「慣れ」を厳しく律していたい。
■器用貧乏のチャンコ鍋■
それでも食べたら美味しければいい(笑)趣向の範疇で他人がとやかく言う筋合いでもないが・・・
だが私は寿司屋では寿司が食べたいし、ラーメンはラーメン店で食べたいと思う。
拘りかもしれないが絵も同じで、透明水彩は透明水彩でありたい。
表現は何をやっても自由とは言え、純然たる本来のあるべき良さを大切にしたいと思う。
道幅の限られた道であっても、その先きを極めたいと非才ながら願っている。
遊び心で、今日はたまに違ったものを食べてみるというのは有ってもよい。結構気分転換にもなるものだ。
しかし・・・
よく油絵も描けば水彩も描くと何でも器用にこなす人を見かけたりするが、私にはとても真似が出来ない。
それぞれのジャンルの良さをそれなりに器用に扱う技・・・それが本物なら鬼に金棒かと思いきや、そうじゃない。
試行錯誤の段階であれも、コレモと研究してみるのは理解が出来るが「これぞ我が本命」と言えるものを
確立出来なければ、それは単なる器用貧乏になりかねないと思ってしまうのである。
マルチ社会で守備範囲を広く持つ事はそれはそれで良いのかもしれないが、何となく迫力に欠けはしないかと
勝手な心配をするのである。
それより不器用でもいいから、とことん拘ってひとつの事を極める方が人間臭くていいのでは。
過去幾多の先人達が残した足跡をみれば明白なように思えるのである。
能力に乏しい絵描きの独り言(笑)
■美人の嫁さんは三日で飽きる・・・■
別に女性軽視の発言ではない、あくまでも絵の話である(笑)。
絵を描く方はすでに経験されているとは思うが、このことはよく問題になる。
アートである以上は当然美しくなければならないと私は思っている。
例え描き手がどのような表現手法を取ろうともまた、何を主題に描いても美しさが感じられなければならない。
〔但しその感じ方は人それぞれで美意識の違いがある〕
では単に綺麗なだけで良いのかと言えばやっぱりそうではないようだ。そこには作者の何等かのメツセージが
作品を通して観る者に伝わってこなければならない。
黙って座って笑っているだけの美人・・・それはそれで素晴らしいこと(人)なのだが、敢えて言うなら
味のある顔いや!少しは個性のある方が、何時まで見ても飽きないで楽しく、絵も同じではないかと。
綺麗過ぎて何故悪い?・・・別に悪くはないのである。
だが出来ことなら・・・美人でもなお人をひき付ける魅力を会わせ持つと
それこそが一流の絵師が描く作品ではないだろうかと言いたいだけでなのである。
良い作品とは何回観ても鑑賞に堪え、その都度受ける印象さえも違うと言う。だから飽きない。
私など他人はおろか、自分で描き上がらないうちから飽きてしまう(笑)
なんとも情けない話である。
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自問自答しながらこのコーナーを書き綴っていて私は"ハタと"気が付いた。
厳しい現実を踏まえながら、尚も理想を追い求める事は
他ならぬ自分自身との戦いなのかも知れないと・・・
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