■ある孤高の画家の手紙■
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「いま私の全神経は、絵に向いています。さわられても、叩かれたように驚きます。実に楽しく絵をかいています。
絵が楽しくなると正反対に、私の言動は狂人に近くなります。オランダのゴッホも、フランスのセザンヌも、執筆中
の夏目漱石も、画室に於ける横山大観先生も、狂人同様であったことを想起して下さい。
 いま私が、この南の島に来ているのは、歓呼の声に送られてきているのでもなければ、人生修行や絵の勉強にきて
いるのでもありません。私の絵かきとしての、生涯の最後を飾る絵をかくためにきていることが、はっきりしました。
.......

 皆様は、私が一人ならば、何とか絵を売って、この南の島で生活して行くだろうと、簡単に考えていらっしゃる様
ですが、未知の風景、植物、動物を調査し、写生し、絵に構成し、それを名画の水準まで高めた上にさらに自分で売
る程の精力の余裕が、私にあると思し召されて居るのでしょうか。私には猿回しや旅芸人のような生活力はありません。
 きょうは、山からヨモギを取ってきて、スイトンに入れ、黒砂糖をかけて食べました。千葉寺で米を買う金がなく、
スイトンのゆで汁から丼(どんぶり)を洗った水まで、姉と一緒に飲んで勉強したことを思い出し、泣きました。」
(昭和三十四年三月、中島義貞氏あての手紙)


「先生の御書信、拝見致しました。私の手紙と先生のとすれ違いとなったらしいですね。前便にて申し述べ足らぬと
ころを申し上げ、私の今の立場と気持ちを御諒察願いたいと存じます。
 紬工場で、五年働きました。紬絹染色工は極めて低賃金です。工場一の働き者といわれる程働いて、六十万円貯金
しました。そして、去年、今年、来年と三年間に70パーセントを注ぎこんで、私の絵かきの一生の最後の絵を描き
つつある次第です。何の念い残すところもないまでに描くつもりです。
 画壇のすう勢も、見て下さる人々の鑑識の程度なども一切顧慮せず、只自分の良心の納得行くまで描いて居ます。
一枚に二カ月位かかり、三カ年で二十枚はとても出来ません。
 私の絵の最終決定版の絵が、ヒューマニティであろうが、悪魔的であろうが、画の正道であるとも邪道であるとも、
何と批評されても私は満足なのです。それは見せる為に描いたのではなく、私の良心を納得させる為にやったのです
から...。千葉時代を思い出します。常に飢えに駆り立てられて、心にもない絵をパンの為に描き、稀に良心的に
描いたものは却って非難さた。
 私の今度の絵を最も見せたい第一の人は、私のためにその生涯を私に捧げてくれた私の姉、それから五十五年の絵
の友であった川村様。それも又詮方なし。個展は岡田先生と尊下と柳沢様と外数人の千葉の友に見て頂ければ十分な
のでございます。私の千葉に分かれの挨拶なのでございますから...。そして、その絵は全部、又奄美に持ち帰る
つもりであるのです。私は、この南の島で職工として朽ちることで満足なのです。
 私は紬絹染色工として生活します。もし七十の齢を保って健康であったら、その時は又絵をかきましょうと思います。
 当奄美の私の生活は、耕作して野菜は自給しておりますので、一、二月の農閑期以外は家を離れることができません。
一軒家の一人暮らしですから、上葉の時は、所帯は全部荷造りして家主に預けて出かけるのですから引越しも同様で、
簡単には出かけられないのです。昭和四十五年と四十六年と又工場で働いて三十万円程個展の費用の準備して上葉す
る計画なのです。
個展は、昭和四十七年二月の予定。作品は運搬に便利な様に、全部捲ける状態にしてありますから、わざわざ千葉ま
で御出で下さらずとも、私が全作品を捧げて、たとえ大雪の日であろうとも、岐阜の尊宅へお伺いして御覧に入れます
から、どうかのんびりと養生されて御待ち下さい。」(スケッチブックに残された手紙の下書きより)
「東京で地位を獲得している画家は、皆資産家の師弟か、優れた外交手段の所有者です。絵の実力だけでは、
決して世間の地位は得られません。学閥と金と外交手腕です。私にはその何れもありません、絵の実力だけです。」
(三十四年三月、中島義貞氏あての手紙)

 
「御手紙有難うございました。拝見致しました。私の健康状態は、先生の想像なさるような元気な姿ではありません。
折角の御申越ながら私は出かけることは出来ません。御送りくだされた弐万円は、同封して御返し申し上げます。
御査収め下さい。
 三年前から私の健康状態は下り坂でありましたが、五月に船旅をするなど以ての外と医師から固く止められました。
以上が私の健康白書です。
 児玉先生、近頃の乗物料金の値上がりには驚きますね。岐阜まで船と汽車でも、タクシーと飛行機と電車でも往復
六万円は必要です。船のタラップで、駅の階段で、どうして倒れないと保証出来ましょうか。力があって泳ぎの出来る
護衛を一人雇って御伺いすれば約二十万円消える覚悟をしなければならぬ、バカバカしいことではありませんか。
 一枚のハガキに数行の文字で七〇パーセントのお世辞も入って居る、かりそめの約束を数年後になってからでも、
なお万難を排しても履行するを要求される義理人情の掟は本当に迷惑なことですね。
 岡田先生、柳沢先生、川村も見舞いに来られた。お前も五月にはどうしても出て来いとの仰せではございますが、
私はいやです。岡田先生、柳沢先生のような立派な御歴々の仲間に入れて頂かなくてもよろしいです。
私は気の狂った一匹狼で満足です。
 先生、私は絵と対座して居る時は、勇気はコンコンと泉の様に沸き、生気が体内に漲るのを覚えます。絵を離れるや、
深い溜息と身ぶるいと、何者かに胸部を抱きすくめられた様な胸苦しさに、甚しい不整脈となり不安妄想のとりことな
ります。
 先生、私はフッと死神が傍らに待機して居る様な気がしてなりません。先生より私の方が先に死ぬかもしれない。
いや、私の方がたしかに先に死ぬ。そしたら三途の川のほとりで先生をお待ちします。先生がなかなか来られなかったら、
私の方からお迎えに出ます。
 その時は、もう脚力のないことも、船賃の高いことも考えることないですね。次元の違う世界の割目からスーッと
先生のお部屋に現れる。先生はスヤスヤと安らかに眠っておられる。死神と化した私は、氷のような手で先生の腕を
むづと掴む。先生は恐怖で声も出ない。先生はやがて私と気づかれる。その時に、よく来たな、逢いたかったと仰せ
られますか。歓迎して下さるでしょうね。拒否なされないでしょうね。
 医師の評言では、私は長い間の過労と欲求不満が積み重なって、その為精神神経共に変調を来して居る故、静かに
静かに十分の休養を取ることが必要である。絵をかくことは大変によろしいとのことです。私は医師の言葉に従います。
昭和五十年になっても、私の健康が十年前の状態に回復しなかったら、千葉へも行きません。生きている間に先生に
お目にかかることはとても出きないでしょうな−。児玉先生おからだを御大切に さよなら。

 田中 孝

狂った狼 死神先生

これは近頃の私のアダ名です



【引用「奄美に残る田中一村遺作覧」奄美博物館より】
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■田中一村

明治41年栃木県で生れる。
彫刻家の父を持ち子供の頃から画才に恵まれ東京芸大に入るものの家庭と本人の健康がもとで3ヶ月で中退。
千葉で農業をしながら絵を独学するものの行き詰まり、1958年(昭和33年)12月、50才の時千葉の家を売り払い、
奄美大島に単身移住。以来紬染色工として働き、金が貯まると、画業に専念という生活をおくる。
中央画壇とは無縁のまま生涯を終える。没後NHKの『日曜美術館』で紹介されて「日本のゴーギャン」や「孤高の画家」
として反響を呼ぶ。
日本画の独自の画風で奄美大島の自然を描き続け1977年(昭和52年)没。享年69歳。

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