前の項目で予期せず、「虚実」という言葉を使ったので、ちょっと私の考えを。
次の三つの俳句を比べていただきたい。
1)糸切れて 雲となりぬる 凧(いかのぼり)
2)糸切れて 空より落つる 凧(いかのぼり)
3)糸切れて 雲ともならぬ 凧(いかのぼり)
1)は「嘘」である。凧が、雲になったり、雲と同化する筈がない。
2)は「真実」である。糸が切れた凧は地面に落ちる。だが、当たり前だろう。それがどうした?君は何を言いたい??
3)は「虚実」である。糸が切れて飛んでいった凧はどこへ行ったんだろう?雲のところまで行ったのだろうか?行ったかもしれない。行かなかったかもしれない。
おお、いとしい私の凧よ、どこへ行った?そしてその運命は?限りない想像をかきたてる。
3)が俳句としてどのくらいのレベルに評価されるか、私にはわからない。しかし、1)2)よりは確実に優れている。
芸術のレベルを定量化することはおそらく不可能だが、虚実レベルを意識して、俳句、短歌、絵画などを鑑賞すると思わぬ発見がある。
「閑さ(しづかさ)や 岩にしみいる 蝉の声」
有名な芭蕉の俳句。これは、とても含蓄のある俳句ですぞよ。静かな情景を詠んでいると思ったら大間違い。
まず、「蝉の声」はめっちゃうるさいですよ。夏のお寺の境内に行ってごらん。わんわんと耳をつんざくほどです。
「蝉の声があまりにもうるさく、他の音が聞こえずかえって静かに感じられるほどだ」という解釈が一般的なようで、これでも「虚実」ではありますね。
でも、実際は「しずけさ」という言葉はではなく「しずかさ」という言葉を使っていますので、この解釈は多分間違っています。
「しずかさ」という程度を表す言葉に感嘆の「や」をつけているだけで、実は「うるさい」とも「静かだ」とも言っていません。これが本当の虚実。
「蝉の声」が「岩にしみいる」か?音量が極めて大きければ岩の内部でも振動は検出される可能性はあるので、これはわかりやすい虚実。したがってこの俳句は虚実度50%の名作といえる。
現代文学においても、真実度ほぼ100%のドキュメンタリーと、真実度0%のSF小説の中間的な真実度の純文学が、一番芸術性が高い。
おまけ:
最近話題の「ホームレス中学生」が「でっちあげだ」と何かの週刊誌で言っている人がいたようですが、「でっちあげ」つまりフィクションであの話が書けたら、それはもうかなりのレベルの小説家といえるでしょう。 人は誰でも一生の間に一つだけ小説が書ける、と言われていますが、まさにそれなのかな、と思います。