船場吉兆はなぜつぶれたか? …ちょっと古い話ですが

先日たまたまテレビを見ていたら足立洋子さんという料理研究家が出てきた。「スーパー主婦」とのことで、家庭料理のエキスパートともいえる。

一つの食材を加工して保存し、時と場合に応じて臨機応変に形を変えて出す。まるで手品みたいだ。この合理性とセンスの良さに感服した。

この時、その数日前にやはりテレビで見た建築家の阿部勤氏のホームパーティーの様子も思い出した。彼は後輩や同業者を自宅に招き、全員で料理を作る。皆料理好きのグルメだ。

皆の見事な手さばきで次々とさまざまなメニューが食卓を彩り、とても楽しそうに会話と食事をする。グルメのある種の究極の姿かもしれない。

これらを見ているうちに数年前の船場吉兆の偽装事件を思い出した。当時の社長が、前の客の残したものを再度出させたり、天ぷらを揚げ直したりして出させていたという。

この時の記者会見の様子が噴飯もので、当時の社長の母親が小声で『頭の中が真っ白になって・・・』などと、答えるべき言葉を横で指示しているのがすべてマイクに拾われて、「腹話術」などと揶揄された。

潰れたのはこれが直接の要因になったようだが、倒産の本質は母親の、調理現場における「腹話術」ではないかと私は見ている。

料亭の料理と家庭料理の最大の違いはなんであろうか?

料亭やあるいは高級フランス料理の本質は一品一品がすべて客との「勝負」にあるのではないだろうか。

味の好みや味覚の敏感さに大差のある多くの客に、すべての品を「旨い」と感じさせる必要がある。

この「勝負」は並大抵ではあるまい。

先に述べた「スーパー主婦」や「グルメのパーテイー料理」はもちろん素晴らしいが、料亭の料理とは本質的に異なる。

色々な料理を用意して色々な人がそれぞれ好みの料理を食べて結果として満足する。そこには一品一品に勝負は必要ない。むしろ多彩さの中に満足がある。

「私はこれが好き!」「どれどれ?」「うん。これも美味しいね」など会話も弾む。

また、家庭料理には、食材を無駄にしない、色々な形に加工して飽きさせないなどの、ある種の「合理性」が重要である。

料亭の料理ではこれらは一切通用しない。

まず食材の仕入れからが勝負。食事の提供が終われば、残ったものはすべて廃棄し、調理場はすべてリセットされ翌日に備える。

フランス料理においては、コンソメスープの濁りを除去するためだけに大量の卵白を使用し吸着させる。

もし、この現場に「家庭料理の合理性」を持ち込んだらどうなるだろう?

結果は自明の理。「勝負」にならない。

家庭料理の名人であっても一流料亭の板前にはなれない。スタンスが違うから。

また、一流料亭の板前は自宅で家族に料理をふるまうか?これは、よくわからないが、あまりなさそうな気がする。

おそらく、あの社長の母親は「経営者」あるいは「家庭料理的な発想」から食材を無駄にしないような指示を現場に与えていたのではないか?

それでは、一流の板前は居つかないだろう。当然「勝負」にはならず、衰退する。

それが滑稽なまでに形に表れたのが、あの記者会見だったのではないだろうか。