芸術における虚実 〜美術編〜 そして再び大相撲について

レンブラントはそれまでの伝統を打ち破って写実主義に徹した絵画を制作した、とされている。この写実主義とは「写真のように正確」という意味であろうか?

明暗法を取り入れたレンブラントは、光に照らされたものと影の対比でリアルさを強調したが、実際、影の部分ではその詳細は描かれていない。

つまりリアルさの強調の手法の中に一種のデフォルメがあるのだ。

レンブラントに比べると同時代のブリューゲルは、木の襞や葉などが驚くほど詳細に描いているが、人物の描き方が寓意的で、物語的なデフォルメが存在する。

後の印象派では、風景の中に存在する木々は点で描かれている。ある程度写実的に見える距離から近づくと、形が認識できない不思議な眺めに変わる。

いずれも「真実」の描写の中に巧みに「虚」を取り入れている。

もし風景画を、より真実に近いものほど良しとするならば、写真があれば事足りるということになる。

芸術とはいえないかもしれないが、「似顔絵」は上手い人が描くと、「写真」より本人に似て見える。

写真を正確になぞった絵と、特徴を捉えてデフォルメした絵では、デフォルメが勝るのである。(以下「おまけ」に追加コメント)

つまり、一見「正確」「写実」の方が優れていると思われる視覚的創作物も、一定割合で虚が含まれているほうが心地よいのである。

 

 再び、本題の相撲の話に戻るが、大相撲の世界の、土俵、呼び出しの声、行司の装束、力士の肉体、化粧回し、土俵入り、ちょんまげ、あれらはすべて伝統文化によって形成された総合芸術と思われる。

芸術に「議論」は馴染まない。議論ばかりしている「同人誌」の連中から一流の作家が生まれないように。だから相撲の親方は何も語らないのだ。

追い詰められて裁判を起こさざるを得なかったのは、気の毒としか言いようがない。

この八百長問題に関して、そっとしておいて欲しいと思うのは私だけだろうか。


おまけ

 これは人間の脳には顔を認識する特別な神経回路が組み込まれていることと関係している。「心霊写真」などで、あるはずのない人の顔が見えるのはこの神経回路のなせる業である。私は子どもの頃、朝目覚めると、周りで寝ている家族の布団のしわが人の顔に見えてものすごい恐怖を毎日のように感じていた(その「霊感」も今はなくなったが)。これらのしわ等をじっくり見て人の顔に見立てられる場所がないか探すと必ず見つかります。

時代が進むと絵画は抽象化していく。人間は色々な経験をつむと「学習」するので、鑑賞者は色々な手法の絵を見ているうちに種々のデフォルメが認識できるようになり、この抽象画を受け入れるようになる。抽象画の中に具象を「発見」できるよう訓練されてきているのだ。視覚芸術では、これは割りと容易である。

言語(文学)における抽象はタモリの「ハナモゲラ語」に代表される。ただし、ショートセンテンスのみである。筒井康隆は小説「関節話法」の中で一部試みている。だが、この分野の発展はほぼ不可能であろう。

音楽における抽象はシェーンベルクが試みて大失敗している。既存の音階」や和音の概念を覆し、12音を均等に扱うというものだが、聞いているだけで吐き気のするような、到底常人には受け入れられない音楽である。この流れは1970年代には完全に破棄された。あたら惜しい才能を浪費したものである。本当にお悔やみ申し上げる。
 シェーンベルクというと「共産主義は人類の壮大な実験であった」というのと私の中でダブります。「現代音楽は音楽界の壮大な実験であった。そして失敗した」とね。あのような、すべての音を聞き分けることを要求される音楽は、よほど耳が訓練された音楽家には聞き取り可能であるが、「楽しめる」ものではない。
プロの間では、あまりに音感の鋭すぎる作曲家は普通の人が楽しめるような音楽は作れない、ともいわれている。