皮膚科5年の歴史
皮膚科部長 丸山友裕
開院とともに開設された皮膚科の初代医長として迎えられたのは池田和人であった。当初はなかなか患者が集まらず、あまりの退屈さに外来を午後まで延長したが、それでも退屈な午後は続いたという。
翌年、池田から引き継いだ藤崎景子のころになりぽつぽつ患者は集まり始めた。約2年の赴任期間のうちに外来患者はかなり増えたが、藤崎はこれを全く苦にせずに持ち前の気力と早口で切り抜けたのであった。藤崎はこの間にゴルフを覚えた。長身から降り下ろすウッドがしなるとき、うまく当たればの話であるが、その飛距離には目を見張るものがありそうである。なでしこ会ではいまだに常連で、馬券では大穴的存在である。
三代目として登場したのが丸山友裕、すなわち筆者である。6年間の富山医科薬科大学での生活に終止符を打ち、新潟に戻るとともに赴任したのである。これを機に二人体制となった。初代研修医は小林夏子である。二人体制となってから入院患者数、手術件数とも飛躍的に増加した。二人の、ぴったり息のあった仕事振りはやや人目を引くところもあったが、実は小林の研修医独特の自信のなさと、丸山の、指導をするようでいて実はヨイショしてもらいたいという深層心理が見事に一致した結果なのであった。
丸山の許での二代目研修医は山田聡である。この交代により丸山の態度が変わるのではないかとの憶測が一部にあったが、これまた見事に息のあった仕事振りであった。山田は巨漢ながらそのヌーボーとした風貌から患者のみならず、看護婦からも絶大な人気があった。特にネクタイの趣味の良さは並々ならぬものがあり、これに刺激された丸山と、一方が雪だるまのネクタイをすればもう一方がパンダのネクタイ、象のネクタイを締めれば、豚が踊っているネクタイ、といった具合に次々とネクタイ関係ならぬネクタイ競争が繰り広げられた。
この時期での特記事項は平成6年11月1日のレーザーの導入であろう。県内の病院としては2台目であり、色素性疾患、血管腫の治療に絶大な威力を発揮している。また、翌1月31日には山田の司会進行、丸山率いる合奏団による院内コンサートが催され、テレビ局も2局取材に訪れた。このころには仕事の量もさらに増え、病院内を走り廻るような状態となった。
平成7年4月からは河井伸江が医長として山田と交代した。河井はキャリア10年のベテランで、さすがに研修医と格の違いを見せつけた。これに安心したわけではあるまいが、この時期丸山は病を得て1ヵ月の入院生活を送ることになる。河井は大学からの応援医師とともに順調に仕事をこなした。強力な助っ人ではあったが、丸山の病状回復と相前後して四か月で病院を去った。
次の研修医は田村正和である。彼はやや自分の名前を苦にするところがあったが、仕事振りは真面目で、自分のペースを崩さなかった。
この時期の特記事項は、多汗症治療器の導入であろう。手足の多汗に悩む患者は比較的多いが、良い治療法がなかった。この装置は微弱な電流を患部に通すことにより、汗腺のクロライドチャンネルをブロックしてしまうもので、画期的な効果がある。皮膚科医でもこの原理を知らないものがおり、県内でこの治療を行っているのは当院だけとのことである。国産の治療器はいまだになく、機器の購入にかなり苦労した。
平成8年4月からは4代目研修医として林園子がやってきた。明るい性格でキャハハハと良く笑い、物おじしない将来有望な女性医師である。 今後の展望としては、数年後、研修指定病院になった暁には常勤医2名、研修医2名位のスタッフで、もう少しシステマテイックに仕事がしたい。そうなれば、じっくり腰を据えて緻密なレベルの高いことができそうである。また、なんといってもこの仕事は人が好きでなければやっていけないのであるから、少年のような柔らかな感性を持ち続けたい。また、病気をせずコンスタントに仕事を続けられれば、と思っている。