診察室にて
患者「先生、このほくろ、大丈夫ですか?」
まる「はいはい。全然大丈夫ですよ!」
どうですか?この会話。
「このような間違った日本語を使う医者は信用できない!!」
と、立ち去った患者さんは今のところ一人もいません。あ〜〜良かった。
でも心の中では、「なんだ、こいつ。アホか!」と思っている人もいるかも・・・。
ある日ちょっと心配になった私は、研修に来ている医師に聞いてみました。
研修医は県下一の高校で10番以内だったという優秀な人。インテリです。
まる「先生は私の診察を見ていてどうですか?何か感じることは?」
研「・・・・・・」
まる「いや、あのその、僕がよく『全然大丈夫で〜〜〜〜っす』って力一杯言うでしょ。あれ、どう思う?」
研「ああ。あれですか。あれはちょっと違和感が・・・・・」
まる「そうか。先生ほどの人でもそう思う?」
研「え??」
と、目が点状態。
研「わかりました。『全然問題ありません。大丈夫です』を省略して言っているんですね」
まる「いえいえ。あれは、わざと言っているんだよ」
研「え!!??」
と、ますます手が面、じゃなくて目が点に。
以下、武田鉄矢よろしく日本語の講義が。(皮膚科の研修に来ているのに迷惑な話ですね。ごめんなさい)
中学校などで「全然」は「全然〜〜ない」や、否定的な内容に使う、と習いました。
例えば、
「先生!全然できません」
「君!!それじゃあ全然駄目じゃないか」
等と使います。
だから、「全然大丈夫」は「間違い」というわけ。それなら、否定的な内容ならすべて使えるかというと、そうでもない。
例えば「全然悪い」とか「全然まずい」とは言いません。ふ〜〜、難しいですね。
ところが、明治から昭和中期までの文学作品などを調べてみると、肯定的な文章にも使っているし、ずいぶんと多用され、その「感覚」の違いに驚かされます。
まず、太宰治(1909年生)、「桜桃」より。
「父は家事は、全然無能である」・・・・ふむふむ。いいですね。しかし、それに続いて
「配給だの、登録だの、そんなことは何もできない。全然、宿屋住まいでもしているような形」・・・・ん?何だこの「全然」は?
どんどん行きます。夏目漱石(1867年生)、「坊ちゃん」より。
1「一体生徒が全然悪いです」・・・・おお、「全然悪い」が出た!
2「諸君の説には全然不同意であります」・・・・現代でも使うか?使わないか?微妙ですね。
3「うらなり君のことは全然忘れて」・・・・この「全然」には「すっかり」とルビが振ってあります。むむむむ・・・・すごい!
さらに行きます。芥川龍之介(1892年生)、「首が落ちた話」より。
「●●(人名)は全然正気を失ったであろうか?」に続いて「完全」には気を失っていなかった証拠を列挙。続いて
「では、●●は全然正気を失わずにいたであろうか?」と、多少は気を失っていた証拠を列挙。
以上眺めると、肯定・否定に関わらず、等しく「完全に」「全く」の意味で使用され、特に否定的な内容に多く使われる傾向はないようです。
ところが、同時代の科学者・寺田寅彦(1878年生)の随筆集を見ると、私が調べた限りでは肯定的な内容には使わず、否定的な内容のみに使用している!
「ニュアンスは全然失われてしまう」
「全然あらゆる能力検定をやめる」など。
しかし、現代の用法とはちょっと違う感じがしますね。
寺田寅彦の文章は、当時の文学者に比べて、より現代語に近く、古い感じがしません。
寺田は、よく言えば文章においても革新的、悪く言えば軽い感じだったと思われます。
現代の高名な人でも、若者言葉を使ったり意図的に軽い文章を書いて、頭の固い人たちからは内容まで軽く見られる傾向の人がいるけど、そんな感じだったのかもしれません。
「全然」は昭和30年代位からだんだん否定的な内容や「〜〜ない」に限定されて使用されるようになり、さらに用法が限定されてきました。
否定に限定するようになった歴史は浅く、肯定文での使用を「乱れ」とか「誤り」と断言できる人はむしろ歴史を知るべきでしょう。
最近は私のように、「完全に」の意味で肯定・否定両方に使ったり、「強調」として使う傾向がまた出てきました。
ちなみに、広辞苑では肯定的な使用を「誤用」とは書いておらず、「俗な用法」として記載しています。「誤り派」と「歴史派」に配慮した玉虫色の記載ですね。
まる「そういう訳で、僕は敢えて『全然大丈夫で〜〜〜す』って言ってる訳。どう?わかった?」
研「zzzzzzzzzzzzzzzz」
まる「ちょっと!聞いてんの?あれ、寝てたの?」
研「zzzzzzz・・・・・・・・んんんん?????」ヨダレたら〜〜り。
まる「ほらほら、寝てないで。午後の仕事始まるよ!!大丈夫?」
研「は〜〜〜〜い。全然大丈夫で〜〜〜〜す!!」