お待たせしました。「すっごい楽しいね」の続きですよ〜ん。
この「すごい」の使い方は、現代の若者に特有のものかと思いきや、
まずは文豪・夏目漱石の「虞美人草」より、冒頭の比叡山に登る場面。「四角い男」と「細長い男」の会話。
四角い男 「恐ろしい頑固な山だなあ」
ん?なんだこりゃ?この「恐ろしい」は「頑固」にかかっているのか、「山」にかかっているのか?疑問を持ちつつ読み進むと、
細長い男「君はあの山を頑固だと言ったね」
ん?「恐ろしい山」とは言っていないようで、つまり「恐ろしい」は「頑固」にかかっているのでした。これは「すごい楽しい」と同じ用法です。
そう思ってさらに調べると、八割方読み進んだところで、宗近君が甲野さんの書斎で驚くべき発言をしている。
宗近君 「何だこりゃ。恐ろしいたくさん書いたね」
ん?ん?ん?それこそ何だこりゃ?また出てきたぞ。
しかも今度の使い方は本来の「恐ろしい」の意味を離れているぞ!現在の「すごい」と全く同じじゃないか!
ひょっとしてこの時代は、「恐ろしい」に限らず、形容詞の連用形を避ける傾向があるのかと思い、再チェック。
すると、「高い、暗い、日のあたらぬ所から」という表現があるのですね。
お!お!お!やっぱり避けているのか?
これは現代の感覚からすると、「高く暗く日のあたらぬ所から」または「高く暗い、日のあたらぬ所」にしたくなりますよね。
続いて志賀直哉の例。「佐々木の場合」という小説より。夏目より16歳年下の志賀は「亡き夏目先生に捧ぐ」という副題をつけている。ま、これは余談ですね。主人公の「僕」が子守の「富(とみ)」と関係するまでの場面。
「そんな事でもしなければ弱い、そして正直な富の心は」とある。これは現代の感覚なら「弱く正直な富の心は」となる。「そして」を入れたりして巧妙に形容詞の連用形を避けているようにも見える。
しかし、もっとよく調べると、「さあ早く行こう」とか「白く光る道を」「肩より高く伸(の)して」等と、結構頻繁に出てきて、別に避けているわけではなさそう。
じゃあなんで「高い」「弱い」を使っているんだろう?と、ここまで考えると、とさっき述べた現代感覚の「高く」「弱く」の使い方の方が変じゃないかと気づく。
なぜなら、「高く」だと「日のあたらぬ所」ではなく「暗い」を修飾してしまうのですね。「弱い」も同様で「弱く」だと「富の心」ではなく「正直な」を修飾してしまうわけ。これでは意図する文意と異なってしまいますね。従って現在の、形容詞が続いたりした場合の、先行する形容詞を「く」で終わらせる習慣は誤りであり、われわれは延々と間違いを繰り返しているといえます。
まとめ1
明治時代においては形容詞を続けたり、形容詞と形容動詞を続ける場合、きちんと正しい活用をして「、」でつなげるか「そして」などを入れて、何を修飾しているのか、正確を期している感がある。しかし「蒼白く面高に削りなせる彼の顔」(虞美人草より)のような不正確な用法も、実は、散見される。
現代ではおそらく語調を優先して「清く正しく美しい人」などといっているがこれは誤りで「清い、正しい、美しい人」と言うべきである。
まとめ2
それにもかかわらず、おそらく会話文においては、「恐ろしいたくさん書いたね」などのように現代の若者言葉の「すごい楽しい」と同様の用法が存在した。この用法は夏目漱石、森鴎外、志賀直哉などを調べた限りでは、「恐ろしい」だけのようである。また、この時代に「すごい」をこの用法で用いた例はなさそうである。
もし「恐ろしい」の他にもこの用法あったら是非教えてください。