すっごい楽しいね・続編 の前置き

前回「すっごい楽しいね」について検証したんだけど、この続きを出すかな。

これを出すにあたって、少し種明かしをいたしましょう。どうも私は短気なようです。本当は、このことは直接は書かずに、読者に判断していただくつもりだったのですがね。

 最近よく「言葉が乱れている」と言われますが、本当でしょうか?中年から高年齢の人がよく言います。いわゆるオヤジ連中です。彼らの言うことをよく聞いていると、一つのことに気がつきます。(なんだか間接的に「自分はオヤジじゃない」と言っていますね)

それは、「自分が子供の頃〜学生時代までに習った、または使用した用法と違う」と言っているということです。
だから「間違い」だと言っているのですが、それは「絶対的」なものでしょうか?

それでは、「書籍」「輸入」 をこのオヤジどもに読んでもらいましょう。

なに?「しょせき」「ゆにゅう」だって?

へっ!笑わせるんじゃねえ。このオヤジ!あ、失礼。口が滑りました。

これは「しょじゃく」「しゅにゅう」と読みます。

明治から大正時代、昭和の初期までは確実にこう読んでおりましたですよ。オヤジの皆さんはこれをご存知でしたか?

明治五年当時の文部省が設立した日本で最初の公立の図書館(国会図書館の前身)は「書籍館(しょじゃくかん)」でした。また、「ゆにゅう」と広辞苑でひくと『{輸入}(「しゅにゅう」の慣用読み)』と書いてあります。

だとしたら、この言葉を「乱した」のは誰でしょう?ひょっとしたら、今盛んに「言葉が乱れている」と嘆いているオヤジどもかもしれませんよ。(実際はもう少し上の世代か)

このような変化を「乱れ」というのなら日本語は歴史上「乱れに乱れて」もう「ぐちゃぐちゃ」といっても良い位に変化していますね。

 私たちが認識しうる最初の日本語の乱れは「漢語」の輸入でしょうか。外来語である漢字・漢語を輸入してなんとそれをぐちゃぐちゃに崩したり、ばらばらにして「ひらがな」や「カタカナ」作っちゃたんですよ。これってすごくな〜〜い?すご〜いよね。しかもあろうことか漢詩に「レ点」とか「一」とか「二」とか付けて、そのまんま日本語読みを考えちゃったんだから、この「乱れ」は半端じゃないですよ。現在の日本語は60%は漢語です。挙句の果てが「動」に「にんべん」付けて「働く」なんていう漢字を発明したら、本家本元の中国が喜んじゃってこれを逆輸入してるんだな。これがまた凄いことに中国ではこの略字を発明して「ィヵ」って書くんですよね。最近日本はこれをまた輸入して使っています。中国では漢字を大衆にたくさん覚えさせるためになりふりかまわず「略字」を作っていますね。この「働」みたいな「国字」はこの他「榊」とか「辻」とかありますね。
 最近は英語などからの輸入語が幅を利かせ始めました。これも広い意味での乱れかもしれませんね。明治〜大正時代はそれぞれの語ついて一生懸命「訳語」を考えたのです。「文化」とか「哲学」とかね。 私の好きな英国民謡の「グリーンスリーブス」 は、あの坪内逍遥が「青袖節(あおそでぶし)」と訳したんですね。なんか興ざめだよねぇ。でも「野球」は名訳でしたね。base ball の直訳の「塁球」や、ましてや「棒球鬼ごっこ」でなくてよかった!
ちなみに、その英語は70%がフランス語からの外来語ですね。

 また、こういう見方もあります。
  誰だか忘れたけど、「枕草子」を全部分析した人がいるんです。その人の解析によると、全部で延べ41万語出てくるんだけど、そのうちの延べ32万語は、わずか1320種類の「基礎語」であり、この次のランクの「基本語」5000種類とあわせてほとんどを占めるとの事。それ以外の約20000語はわずか1〜2回しか使われていないんですね。それでこの「基礎語」と「基本語」の構造が現代語と比較して全く変わっていないので、日本語の構造はしっかり保たれており、最近の「若者言葉」はごく端っこに位置する派生的なもので、日本語の構造を論じる場合にたいして問題にならないというようなことを言ってましたね。(もし違っていたらごめんなさい)

 このような歴史的観点に立つと、最近の「言葉の乱れ」というのは

「乱れている、と騒ぐ」という現象そのものに特徴がある

と思いますね。さっきも言ったように中国では識字率を高めるために国が率先して略字を作って普及させようとしています。現代日本の感覚からすれば、このような乱れを国が率先してやるなど許せないでしょう。

 私が思うに「乱れ」が問題になるのは、国語教育が十分に普及したからなんじゃないでしょうか。それ以前はそれどころじゃない。「読み書きができる事」これで御の字だった。ちなみに日本人の識字率は99%を越えて世界一です。だから、乱れが問題になることは、進歩の証ではあると思うのですが、私が気になるのは、その議論があまりに近視眼的過ぎる、ということですね。

 現代のオヤジどもが「正しい」と思っている日本語は一体いつから「正し」かったのか。それも含めて検証しないといけません。そう思ってあちこち調べてみたんだけど、そのような観点で日本語の変化を系統的に述べている人はいませんでした。

 そこで、「すごく」(形容詞の連用形)の使い方を明治時代にさかのぼって調べてみたら驚くべき発見をしてしまったんですね。皆さんの常識は常識ではない!

それを今回出そうと思ったんだけど、あまりに前置きが長くなったんで、今回はこれでおしまい。またね。